ミュシャ展@国立新美術館に行ってきた。
■ミュシャといえば、アール・ヌーヴォーのおしゃれな感じの女性のイラストである。きれいだなと思う反面、個人的にはさほど気にはならない。そういう作家であった。
四つの花、「カーネーション」、「ユリ」、「バラ」、「アイリス」
四芸術、「詩」、「ダンス」、「絵画」、「音楽」
■しかし、ミュシャ、いやチェコ読みをした名前で呼ぶムハが、その後半生をかけた20点の大作<スラヴ叙事詩>については良く知らず、今回はそれに圧倒されたわけである。
何しろ一辺が5メートルとか6メートルとかいう迫力。
そこからしてかなり強い主張を放ってくる。
決して、ピカソとかムンクのような、絵画としての強烈な情念を放ってくるわけではないのだけれども、品が良く、理性的な枠のなかで、最大限の訴えかけをしてくるのだ。
狂気とか、無意識だとか、ムハは理性の枠組みを超越した領域に踏み込まないからサイズを抜きに考えれば、少し物足りない感じは否めない。
だがそれは「スラヴ民族の誇り」というものをテーマにしたときに必要な姿勢であり、自らの民族意識を起点とした平和への祈りといったものを伝えるのは、まさに理性の仕業なのだ。
それを考慮にいれた上で、ムハがこの巨大なカンバスに最大限の観察と技巧と色彩感覚を濃密にぶち込んだ魂の20作品を見ていきたい。
■1.現故郷のスラヴ民族
トゥーラニア族の鞭とゴート族の剣の間に
1912年 610cm×810cm
農耕民族のスラヴの民が遊牧民たちに追い立てられて生きてきた原風景である。
画像では伝えられないが夜空の吸い込まれるような青と満点の星がきわめて美しい。
青年は少女を抱えてこちらを見据えている。
スラヴ叙事詩では何枚かの作品で、こうした「こちらを見据える人」が登場するが、それぞれにそれぞれの「問いかけ」がある。
それは言葉にすることが出来ない問いかけであり、我々が返すであろう「答え」もまた言葉にすることが出来ないものである。
それは、それぞれの作品に対峙したときにのみ存在する「問いかけ」であり、「答え」である。
図版やテレビやネットでいくら作品を見たところで、この関係性は築けない。
本物と対峙するしかないのだ。
それをスラヴの多神教の神が静かに見下ろしている。
■2.ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭
神々が戦いにあるとき、救済は諸芸術の中にある
1912年 610cm×810cm
楽しい祭りも気が付けば陽が傾き、何か不吉な風が吹いてきている。
ノルマン民族の神、オーディーンがオオカミの群れを引き連れて東からバルトの豊かな日々に死をもたらそうとしているのだ。
太陽神スヴァントヴィートもなす術はなく、ただ瀕死のスラヴ戦士を見守るだけだ。
けれど画面中央の赤子を抱いた女性の力強さを見るがいい。
ここに我々は民族というものの「強さ」を見る。
■3.スラヴ式典礼の導入
汝の母国語で主をたたえよ
1912年 610cm×810cm
9世紀、ゲルマン民族の大移動によって東欧にスラヴ人によるモラヴィア王国が成立。
これはスラヴ語を表記したグラゴール文字による聖書の記載を許すという式典であり、キリスト教という文明を自らの血肉として受け取ったという記念すべき日の記録である。
実に民族の誇りに満ち溢れている。
母語で語るというのはそれほどまでに重要なことで、それはローマ教会からの精神の独立を意味する。
しかし、またしてもドイツ系カトリックの死の影が東からさしてきている。
栄光はいつまでも続かない。
■4.ブルガリア皇帝シメオン1世
スラヴ文学の明けの明星
1923年 405cm×480cm
ドイツ司祭にとってかわられたモラヴィア王国は10世紀初頭に荒廃していく。
多くのスラヴ人はブルガリアに移住し、そこでブルガリア皇帝シメオン1世の庇護のもとスラヴ語による文化が花開いた。
民族というものは「言葉」によって維持されるということをムハは強く感じていたに違いない。
ムハは、若い時に故郷を離れ、苦労のすえパリで奇跡的な成功をおさめた。しかし、その華やいだ生活のなかで50歳を前にして何かに気づく。
母国語を離れたその栄華には本質的に欠けたものがある。
1900年パリ万博。
ボスニア・ヘルツェゴビナ館の壁画を作成するなかで、ムハは「わたしは何と無駄な人生を歩んできたのだろう」と、このスラヴ叙事詩への道のりに一歩を踏み出すのだ。
パリ万博、ボスニア・ヘルツェゴビナ館壁画の下絵
なお、おこの記事では’Mucha’をフランス語読みで日本では一般的な「ミュシャ」ではなく、チェコ語の発音である「ムハ」に統一している。その意味は極めて重要だと思っている。
■5.ボヘミア王ブシェミスル・オタカル2世
スラブ王族の統一
1929年 405cm×480cm
13世紀。寛容と経済力でチェコに強大な力をもたらしたオタカル2世は「鉄の王」とも「黄金の王」とも呼ばれた人物である。
この場面はスラヴ民族の王族を集め、その結束を求める場面であるが、実際に神聖ローマ皇帝に選ばれたのは実力のあるオタカル2世ではなく、貧乏伯爵と呼ばれたハプスブルグ家のルドルフであった。
この後、チェコはドイツ系貴族のハプスブルグ・オーストリアの支配下で生きていくことになる。
■6.東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン
スラブ法典
1923年 405cm×480cm
14世紀。
セルビアの王族ステファン・ドゥシャンはブルガリアを打ち破り、その版図を拡げ、東ローマ帝国の皇帝に上り詰める。その戴冠式の場面である。
この時代、まさにスラヴの春であり、画面中央の少女の表情が晴れ晴れしい。
その栄光は長くは続かなかったが、それだけにかえってその春の喜びは民族の記憶に深くとどまるのだろう。
■7.グルンヴァルトの戦いの後
北スラブ民族の連帯
1924年 405cm×610cm
1410年、北スラヴ連合軍が不敗と言われたドイツ騎士団を打ち破ったグルンヴァルトの戦いの後の場面。
中央でその無残な姿を前に立ちすくむのは、ポーランド王ヴラディスファフ・ヤゲウォ2世。
そこには異端排除という十字軍の流れをくむドイツ騎士団を撃退した歓喜はなく、ただ戦争のもたらす「死」の喪失感が流れている。
この作品を作成した時点で第一次世界大戦は終結しており、ムハのなかでその戦争がどのように消化されたのか、その思想がはっきりと浮かびあがっている。
■8.クロムニェジューシャのヤン・ミリチ
「言葉の魔力」 ―娼館を修道院に改築する
1916年 620cm×405cm
1372年チェコの首都プラハ。
カレル4世の治世、副大臣ヤン・ミリチは腐敗する教会に対抗すべく、私財を投げ打ちキリスト教のために献身した。
この絵は娼婦たちを悔い改めさせ、新しい生活の場とするために娼館を避難所に建て替えている場面である。
足場の上に立つヤン・ミリチと、その下で「悔い改める」娼婦たち。
この縦長の上下の構図にムハの意図的なものはあったのだろうか。
左下の娼婦のひとりに光が当たっている。
そこから受ける感情は複雑で読み取りにくい。
しかし、このヤン・ミリチの活動が後のヤン・フスの宗教改革と戦争につながっていく訳で、民族のひとりとしてのこの娼婦はその暗澹たる未来に対する不安を表しているようにも見える。
この時の人々が到底知りえない未来を、この娼婦は知っている。
「歴史」とはそういうものであり、この作品もまた、「未来」からは逃れられないのだ。
■9.ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師
「言葉の魔力」 ―真理は打ち勝つ
1916年 610cm×810cm
「真実は勝つ Pravda vítězí」はフスの言葉でチェコスロバキアの国の標語となった言葉。
「真実を探求せよ、真実を聞け、真実を学べ、真実を愛せ、真実を語れ、真実を抱け、真実を守れ、死ぬときまで」
というのがもとの言葉であったらしい。
日本語の「真実」という感覚がそこに当たるのかはよく分からないが、この文脈で見る限り、神の真理の絶対性ということなのかもしれない。
その神の真理をわが欲望の糧とする教会の腐敗が、フスには許せなかったのだろう。
このフスの活動が百年後のルターの宗教改革につながり、それが中世の「闇」を振り払う近代の光となった。
現代のわれわれの西洋文明のはじめの光は、15世紀初頭のヤン・フスのこの説教によって生まれたとも言えるだろう。
まさにスラヴの誇りなのである。
■10.クジーシュキでの集会
「言葉の魔力」 ―ウトラキスト派
1916年 620cm×405cm
真実を求め、宗教改革を主張したヤン・フスは1415年に処刑され、教皇と皇帝による支配が強まっていく。
フス派の人間が処刑されていくなかで民の不満は高まりをみせるが、そのばらばらの動きをまとめて軍事的行動を組織したのがこの作品、クジューシュキの集会でのコランダ神父の呼びかけである。
ここにフス派戦争が始まるのだ。
その先に広がるのは暗澹たる暗闇だが、旗は高く掲げられ力強くたなびく。
まさに「言葉の魔力」。民族が「真実」として生きていくためには「言葉」が最強の武器となるということだ。
■11.ヴィートコフ山の戦いの後
北スラブ民族の連帯
1923年 405cm×480cm
ヴィトコフ、現在のジュシコフはプラハ東部の丘である。
1420年、この要衝で天才軍師ヤン・ジシュカに率いられたフス派の民兵8000人は、ジシュカの編み出したマスケット銃や現代の戦車の原型となるような新兵器により、教皇、皇帝の送り込んだ異端撲滅十字軍10万の兵を退けた。(織田信長の100年前!!)
その勝利を神に感謝する、そういう場面だ。
だが、ここにも歓喜はない。
結局のところ、フス派は殲滅されるのだから。
神への感謝で身を投げ出す信者たちの傍らで、左下に座り込む女の悟りきったようなけだるさが印象的だ。
■12.ヴォドニャヌイ近郊のぺトル・ヘルチツキー
悪に悪で報いるな
1918年 405cm×610cm
さて、問題の一枚である。
ここはヴォドニャニィ市とヘルチツ村を結ぶ道沿いの池のほとり。反フス派の攻撃を受けたヴォドニャニィの人々が戦乱を逃れて逃げてきた姿である。
中央に立つぺドル・ヘルチツキーが怒りに拳を上げる青年を「悪をもって悪に報いるべきではない。それではさらに悪は増大して終わることがない」と諭している。
ヘルチツキーは非暴力・自由・平等という思想を、忍耐と労働という実践をもって行った指導者で、トルストイを通じて現代のわれわれの自由主義思想の原型となった人物である。
あくまでも主題はヘルチツキー。
だが、われわれの目はどうしても中央に座り込み、赤子をかかえた女性に吸い寄せられてしまう。
しっかりと見開かれた眼。
瞳孔はなく、くすんでいる。
一体、彼女は何を見たのか。
言葉にすることが出来ない、感情、よりさらに深い体の奥底で沸き起こる身体感覚がそこにある。
われわれに伝わるのはその体の震えだ。
非暴力を説く高潔な指導者の傍らに呆然と座り込み、震える女。
ここに戦争の真実がある。
ムハはもちろん平和主義者でヘルチツキーを心の底から尊敬しているだろう。
けれども、伝えたいのはそういった「思想」ではなく、第一次世界大戦を経験した上で語ることの出来る「真実」なのだ。
ムハは「言葉は力」だと信じている。けれど、その一方で「言葉の無力さ」も判っている。
そんなムハは、持てる高等技術のすべてを駆使して、この「体の感覚」でしか伝えることの出来ない「真実」をこの絵に刻み込んだのだ。
派手な作品ではないが、スラヴ叙事詩の作品群のなかではムハの思想を表す最重要の作品、わたしはそう思う。
■13.フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー
権威を求める争い ―民主制の国王イジーと神政のローマ
1923年 405cm×480cm
「フス派信徒の信仰を護るために自分の命と王位をかけて戦う」
1462年、フス派内の対立を収束させボヘミアに平和をもたらし、永久平和を目的とした国家間の連携を目指したイジー王。だがローマ法王はカトリックとの和解の約束を反故にし、法王の特使がイジー王の前でフス派信仰を認めるプラハ条約の破棄をせまってきた、その場面だ。
その瞬間、王が怒りで立ち上がった拍子に椅子が倒れる劇的な場面。
しかしライトは王を照らさず法王の特使にあてられている。
この後、イジー王は破門。
イジー王亡き後、400年に渡り、1918年のチェコスロバキアの独立までチェコは外国の支配下に置かれることになる。
その未来を暗示する光である。
右下の少年がバタリと閉じた本のタイトルはローマ。
ここでローマは死んだのだ。
■14.二コラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛
キリスト教世界の盾
1914年 610cm×810cm
1566年、ウイーンを目指してヨーロッパ征服をもくろむオスマン・トルコの軍勢10万が要衝シゲットに襲い掛かる。
砦を守るのは猛将ズリンスキー総督。
しかし2500人では到底守れるはずもなく、19日の激しい攻防戦の後、陥落。
その最期の場面、死を覚悟して火薬庫に火を投げ込もうとするズリンスキーの妻エヴァが右のやぐらの上に描かれている。
この攻防戦の後、オスマン・トルコの大帝スレイマン1世が死去。ヨーロッパのイスラム化は阻まれたのであった。
ここまで戦乱のその場面を描くことを避けていたムハだが、ここだけは烈火に浮かぶ地獄を描き込んでいる。
相手がイスラムだからか?
そこは良く分からない。
また写実的描写に徹してきたムハは、この作品に於いては、写実的場面の上に、黒煙としてだろうか、黒い「印象」を流し込んでいる。ここで流された人々の血が流れているように感じられる。
その意味でも特異な作品である。
■15.イヴァンチツェの兄弟団学校
クラリツェ聖書の印刷
1914年 610cm×810cm
ヘルチツキーの遺志を継ぐものたちがチェコ兄弟団。彼らはヘルチツキーの清貧と労働の教えを守りながらチェコに信徒を増やしていった。その教育の中心地がこのイヴァンチツェである。
そしてイヴァンチツェはムハの生まれた町なのだ。
右下に盲目の老人に聖書を読み聞かせながらこちらを見据えている青年の姿がある。これは若き日のムハを自ら描いたものだとされている。
使命感からスラブ叙事詩の制作に取り掛かり、民族の歴史をたどる中で自らの生まれた町がヘルチツキーの教えの中心にあったと知ったムハの胸には確信ともいえるものが宿ったに違いない。
このまなざしはその決意だ。
この風景は16世紀の後半。
それからまもなく1620年のビラ―・ホラの戦いでボヘミアは敗れ、フス派の貴族たちはハプスブルグ家によって処刑、チェコはカトリックの異民族に支配されることとなり、チェコ兄弟団はヨーロッパ各地に離散することとなる。
むしろそれがヘルチツキーの教えをヨーロッパに広め、プロテスタントの隆盛へとつながるのである。
■16.ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々
希望の明滅
1918年 405cm×620cm
コメンスキーはチェコ兄弟団の指導者。知識の共有が平和につながることを信じ、学校教育という概念の生みの親として知られる。
そのコメンスキーが亡命先のオランダで故郷を想いながら没する姿が描かれている。
20作のスラヴ叙事詩の中で最も情感に訴える作品である。
その静謐な空間のなかに、極めて私(わたくし)的な想いが漂い出てくるのである。
大義とか、そういった大上段に振りかぶる理屈をいったん置いて、人としてのコメンスキーを想う、この作品にはそういうムハのやさしさが満ちている。
■17.聖アトス山
正教会のヴァティカン
1926年 405cm×480cm
アトス山は聖母マリアが没したとされるギリシャ正教の聖地。ギリシゃとトルコの国境、エーゲ海に臨む半島にある山である。
スラヴ民族はチェコだけではない。
ロシア、ブルガリア、セルビアも含む広大な地域に広がる民族であり、その精神を一つに貫くのがギリシャ正教なのである。
苦難の後にこの聖地にたどり着いた巡礼たちを、聖母マリアと天使たちが祝福している。
それはスラヴ民族全体への祝福だ。
■18.スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い
スラヴ民族復興
1926年(未完成) 390cm×590cm
スラヴ叙事詩も終盤。時代は当時の現代につながる18世紀後半に至る。
その頃、スラヴ民族はハプスブルグ家が統治したオーストリア=ハンガリー帝国の抑圧の下にいた。
それに抵抗するスラヴ人組織のチェコ青年団がスラヴの女神に誓う、そういう場面である。
ここまで語られてきたキリスト教ではなく、民族の神がここで登場するところが興味深い。
この時代、すでにニーチェは『ツァラトゥストラかく語りき』を記しており、時代として「神は死ん」でいたのかもしれない。
本作は1928年のプラハでの「スラヴ叙事詩展」での公開では展示されていない。
歴史とするには、あまりにも近すぎたのだろう。
その代わりにスラヴ叙事詩展のポスターとして、左下の少女が抜き出されている。
彼女はムハの娘、ヤロスラヴァ。「スラブの春」という意味だそうだ。
(ちなみに右にいる少年は息子のイジー)
ヤロスラヴァが生まれたのはムハがスラヴ叙事詩に取り掛かり始めた50歳の頃。
当時はまだチェコスロバキアは独立を果たしていないから、ムハの想いは切実なものだったのだろう。
1910年に生まれたとして、ヤロスラヴァはいくつまで生きたのだろう。
父親がナチスに囚われたことで衰弱して亡くなったあと、ナチスドイツの下で生き延びたのであろうか。
1968年のプラハの春で期待に胸を躍らせ、直後のソ連・ワルシャワ条約機構軍の侵攻を目撃し、その後の秘密警察の支配下での暗黒の時代に深い絶望を覚えたのだろうか。
そして果たして、1989年のビロード革命で共産党が崩れ去る姿を見ることが出来たのだろうか。
父が願った夢がやっと実現した瞬間に娘が立ち会えた。
それを願って已まない。
■19.ロシアの農奴制廃止
自由な労働は国家の礎
1914年 610cm×810cm
1861年にロシアで農奴制が廃止された場面。
アメリカ人のパトロンから希望されて制作した一枚。だがロシアに取材に行ったムハが観たのは半世紀が過ぎても変わらぬロシア民衆の苦しみだったという。
ムハは1918年のロシア革命をどう見ていたのだろうか。
この作品が描かれた1914年にはまだその影はないが、その後のロシアでの出来事をムハがどう見ていたのかは気になるところである。
■20.スラヴ民族の賛歌
スラヴ民族は人類のために
1926年 480cm×405cm
1918年、第一次世界大戦によるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊によって、その支配下にあったチェコスロバキアが独立、建国された。
その喜びと祝福に満ち溢れた作品である。
上の赤い部分がフス戦争と黒い部分がその時代の圧政、中央が第一次世界大戦でのスラヴ民族の戦い、右下の青い部分が原初のスラブ民族を表している。
その歴史から立ち上がるスラヴの青年を皆が祝福し、キリストも背後から青年を支えている。
まさにスラヴ叙事詩の最後にふさわしい大団円である。
これらの作品がプラハで発表されたのは1928年のことである。
■アルフォンス・ムハ(1860-1939)
1939年、チェコスロバキアはナチスドイツの占領下でムハは、愛国心を助長させると78歳の老齢の身で逮捕される。
その後、解放されるもそのまま体調を崩し他界。
民族の自立と世界平和を夢見たムハの、あまりにも悲しい最期である。
現在、チェコスロバキアはビロード革命で民主化を果たし、チェコとスロバキアに分離して今に至る。
けれども、南スラヴ人国家であるユーゴスラヴィアは民族対立によって崩壊し、その傷はいまだに癒えない。
ヨーロッパ全体を見渡せばイスラム教徒の増殖に神経をとがらせ、難民に対する不寛容が広がっている。ヨーロッパの平和を願って育ってきたEUも風前の灯である。
ムハが生きていたなら、このヨーロッパをどう見るであろうか。
現在の世界に蔓延するナショナリズムと、自立した民族の連帯による平和を目指すムハの理想は、まったく逆のものなのだから。
スラヴ叙事詩20作品がまとめてチェコ国外に出るのは初めてのことだという。
それが日本である、ということに意味があるとするならば、日本人という民族に強い誇りをもちながらも他者に対して寛容であり得る。
そこに亡きムハの希望が込められているのかもしれない。
なんてことを夢想しながら、朝鮮半島の情勢を伝えるニュースを眺めている。
スラヴの連帯 1911
<2017.04.30 記>
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