●9.ドラマ・芸術・ほか

2017年3月 2日 (木)

■【社会】かまやつひろしさん、死去。わが良き、甘く苦い思い出とともに。

1日、かまやつひろしさんが肝臓がんで亡くなった。78歳だった。

Kamayatsu

ムッシュ~。

下駄を鳴らして奴がくる~♪

あの時きーみは、若かあった~♪

何にもない、何にもない、まったく何にもない~♪

の、の、の、の、ボーイ~♪今夜だけ~♪

狂って狂って狂って狂って、あとはさようなーらー♪

ゴロワースを吸ったことがあるかい?短くまで吸わなけりゃダメだ♪

ゴホゴホ

あー、ムッシュ!!!

さよなら、ムッシュ!!!

青春をどうもありがとう!

ゆっくり、おやすみください。ご冥福を。

                     <2017.03.02 記>

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2017年1月 9日 (月)

■【芸術】小説家という職業、うまくいかない人生に対する絶望、そして私は、

昨日の読売に、小説家同士の対談が載っていた。

そのなかで、

「小説家は最後の職業だ」

ということばがあって、それが印象的だった。

要するに、うまくいかない自分の人生に対するどうにもならない絶望があって、そこからの最後のあがきが小説家という仕事だというのだ。

■小説家には2種類あると思う。

ひとつは、例えば東野圭吾のように作品を量産できる、いわゆるストーリーテラー。

お話の世界観と登場人物から、自然と物語が立ち上がっていく。

なったことがないので想像に過ぎないが、売れっ子小説家のインタヴューなんかを総合すると、そんなイメージだ。

もうひとつは、今回の発言主の直木賞作家、葉室麟さんのような、魂を削って小説を生み出すタイプ。

たぶん、夏目漱石なんかは、こっちだと思うのだが、血反吐を吐きながら原稿用紙に向かい、己のなかのどうしようもないもの、認めたくないものを外在化することで、その救済をおこなうような、そして読む者はその見える形になった救済の物語りに魂を震わす、そういう作家だ。

想像するだけで恐ろしい生業である。

■2年前のことである。

わたしは深い絶望のなかにいた。

死にたいと思った。

仕事は順調で、仲間にも恵まれ、必要ともされていたし、

家族はあたたかく、

そこそこ豊かな暮らしを楽しんでいた。

けれど、こころのなかに自分でもわけの分からない、どうしようもないものがあって、

恥ずかしいことだけれど、大学の同期の連中と飲んでいるときに、死にたいとつぶやいてしまった。

■大丈夫だよ、と心配してくれる優しい仲間のなかで、ひとり鋭く切り込んでくるやつがいた。

 

いまの自分に納得がいかないんだろ。

やりたいことがあるんだろ。

文章、書けばいいじゃん。

 

そいつは大学で研究をしてる男で、昔から、かっこよくて、運動もできて、女子にもてもてで、でも、べろんべろんに酔っぱらうのが大好きな、素敵なやつなんだけど、そいつが、ちゃんと俺の目をまっすぐ見てそう言ってくれたのだ。

ありがたかった。

救われた気がした。

■それから、すぐ会社をやめて、なんてことはしなかったけど、哲学者の私塾に少し通ってみたり、自分なりの幸福論についてまとめてみたり、次の人生に向かって少しだけでもなにか準備をしていると、なんだかほんのり明るいものが見えてきた。

そうすると不思議なもので、シナリオのプロットらしきものがいくつか頭に降りてきて、なんとなく書き留めていたら、去年の夏の盛りに、ちょうどそれにあったシナリオコンテストが目に留まり、それに向けて一本だけ書いてみた。

そんな急ごしらえのシナリオが入選するはずもないのだけれど、実際に書いて世の中に対してチャレンジしてみたということは、「おまえは風呂屋の桶だ、ゆうばっかりだ」とおやじにからかわれてきた身からすれば、大きな一歩だと思うし、自信にもなった。

引き続きこのブログで、書くことで生まれる新しい発見を味わいながら、今年からしっかりシナリオの勉強を始めようと思う。

小説も気になるし、その構想もなくはないのだけれど、この胸の奥にどろりとたまった黒い澱は、もう少しそっとしておこうと思う。今はまだ、大人しくしてくれているから、無理に引っ張り出して棒切れで突く必要はないだろう。

年が明けて数え50になる。いい区切りだと思う。

少し遅くなったが、新年の抱負ということで。

 

                        <2017.1.9記>

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2017年1月 6日 (金)

■【ドラマ評】『富士ファミリー 2017』、木皿泉。新しく生まれ変わる魔法の言葉は「おはぎ、ちょうだい」。

「わたし、ここにいていいんですか?」

「いいんだよ。っていうか、もういるし。」

なんてセリフで泣かせてくれた富士ファミリーが帰ってきました。

またしても、正月早々泣かせてくれます。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
番外編  『富士ファミリー2017』
          作:木皿泉 放映:2017年1月
       出演: 薬師丸ひろ子、小泉今日子 他

■あらすじ■
富士山のふもとにある古びたコンビニ「富士ファミリー」。そこには偏屈な笑子バアさん(片桐はいり)と前回やっとの思いが実を結んで結婚した長女、鷹子(薬師丸ひろ子)、近所で旦那と子供との家庭をもった三女、月美(ミムラ)、結婚して東京から戻ったのにそもまま急死してしまった次女、ナスミ(小泉今日子)の幽霊がいる。ナスミの旦那で若い女、愛子(仲 里依紗)と出来ちゃった結婚をしてしまった日出男(吉岡秀隆)、鷹子の旦那、雅男(高橋克己)などのレギュラーメンバーに新しいバイトのぷりお(東出昌大)を加え、今年も明るく、そしてしみじみとしたお話が展開する。

Photo

■木皿泉は夫婦コンビの脚本家で、『すいか』、『野ブタ。をプロデュース』、『セクシーボイスアンドロボ』、『Q10』などを手掛けた作家だが、人間のあったかい心の機微をゆるく、それでいて力強く描く天才である。

そしてこの富士ファミリーもまた、しみじみ心に染みてくる作品なのである。

■今回のお話のテーマは新しく生まれ変わるということ。

ナスミは前世のこだわりを捨てさって生まれ変わることを決意し、鷹子は世界的に有名になった占い師である幼馴染みのキイちゃん(YOU)が中学生のころに予言した「2016年の大みそかに鷹子はこの世を去る」という内容を昔の日記に見つけてオロオロし、月美は叱り飛ばしたら幼い息子が口を聞けなくなったと途方に暮れる。

そこに、この歳になって友達がいないと気づいた笑子バアさんが老人麻雀クラブで出会った喧嘩友達(鹿賀丈史)との戦時中の思い出話や、師事していた教授(萩原聖人)が論文のデータ偽装でスキャンダルになり大学の助手の仕事を失ったバイトのプリオ君が今までの人生の意味を見失ってしまう話や、前世の思いをいっぱい背負った新米幽霊のテッシン(羽田圭介)がナスミにからかわれながら荷物を捨てていく話などが折り重なり、新年にふさわしいそのテーマが浮かび上がっていく。

キーワードは「おはぎ、ちょうだい」だ。

ナスミが生まれ変わってもわかるようにと笑子に伝えた合言葉だ。

富士ファミリーは、笑子が作ったおはぎを売るのが恒例なのだが、そこに向けてすべてが収斂していくさまは、本当に手練れだなあ、と感心するのだけれども、そのラストがもう、猛烈に心を揺さぶって、久しぶりに声をあげて泣いてしまいました。。。

■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■おはぎちょーだい絡みでいえば、月美の息子、大地と笑子のシーン。
   

仏壇に飾ってあるナスミの写真を見る大地に笑子が言う。

「お前のお母さんのお姉さんだよ。もう死んじゃったの。」

「でも大丈夫、人間はみんな生まれ変わる。人は何回でもやり直せるんだよ。」

「新品の人間になる魔法の言葉を教えようか。」

「おはぎ、ちょうだい。だよ。」

店で買い物をする月美のもとに戻った大地は、「おはぎ、ちょうだい」とおはぎを買っている月美の姿を見て母親に抱き着く。

「おかあさん、生まれ変わったんだね!」

口を聞いてくれた息子に驚き、思わず抱きすくめる月美。
   

ちょっとしたことが切っ掛けで、それが大きなおできにようになってしまって、どうにもならなくなってしまう。

けれど、人は他人との日々の関わりのなかで変わっていく、生まれ変わっていく。その関係性の連鎖が人生なのだ。

■愛子に気を使ってナスミの着ていた服を処分しようとする日出男。愛子は、それに激しく抵抗し、ナスミがかわいそうだと、ナスミのことをなかったことにするなんて不公平だと、自分のコスプレの洋服も捨てると言い出す。

「忘れちゃうんだよね、そんなのイヤだ!」

私が今、この富士ファミリーで日出男や笑子バアさんや鷹子たちに囲まれて暮らしている今が、いつかこの洋服のように忘れ去られ、捨てられてしまう、そういうことに抵抗して売るのだ。

結局、ナスミの小さいころの体操着は愛子と日出男のかわいい赤ちゃんの洋服に作り直されることになる。

過去は消えていくものだけど、形を変えて伝わっていくものだというメッセージだ。

これも人間の関連性のなかで息づく、生まれ変わりのひとつの形である。

■そしてラストである。

キイちゃんと遊んではいけないと母親に言われ、それを知ったキイちゃんは鷹子のもとから去っていく。その時のキイちゃんの心の傷は、2016年の大みそかに鷹子がこの世を去るというウソの予言の形で大きな呪いに育ってよみがえる。

そのころのことを思い出し、そのときのキイちゃんの気持ちに寄り添うことで自らの力で呪いを解いた鷹子。そのもとに尋ねてきたキイちゃんに「あなたの呪いは解けたの?」と問う鷹子。

自分を必要だと思ってくれる人がいれば、呪いは解けるんだよ。

鷹子が自分のことを本当に思ってくれていることを知ってキイちゃんも救われたのだ。

キイちゃんを見送った鷹子のもとに、おはぎづくりで忙しい店の方から、「鷹子さん、ちょっと来て、あれどこにあったっけ?」と呼ぶ声がする。

そこで、普段気づかない生活のなかで、自分も必要とされているのだと気づくのだ。それはとてもうれしいことで、これさえあれば生きていけるのだと。

「ほんとだ、自分を必要だと思ってくれる人がいると、どんな呪いも解けるよね。」

その後ろに鷹子を心配してそばにいたナスミが悲しい顔で立っている。
 

ここで爆泣。

だって、ナスミはもうこの世にいなくて、自分は見守ることしかできなくて、みんなの日々の生活には関わっていないから、必要ともされていない。

なんて残酷なシーンだろう。

鷹子が自分の幸福に気づいた、そこで間髪入れずに示されるナスミの悲しい現実。

鷹子の笑顔から切り替わるピント。

遠く立ちすくむナスミ。小泉今日子の全身からほとばしる悲しみは、そのさりげなさ故に、ものすごい力で迫ってくる。
 

そして、おはぎづくりに忙しい家族のみんなの姿に心が落ち着きかけたところで最後の一撃。

おはぎのパックをひとつくすねて店の前にひとりですわる笑子。ナスミのためのおはぎだ。笑子はもうそこにはいないナスミに語り掛ける。

 
「もう生まれ変わったのかい」

「みんな力になってくれるかい」

「いじわるな奴はいないかい」
 

なんていうやさしさなんだろう。書いていてまた涙があふれてくる。

ナスミも、死んでいった人もまた、必要とされている。

  

ありがたいことだなあ。

なにが?

生まれてきたことだよ。

 

                      <2017.01.06 記>

■DVD 富士ファミリー(2016版)

迷惑をかけるためだけに生まれた介護(され)ロボットとしてマツコロイドも出演。笑子バアさんとのからみで、迷惑をかけるだけに生まれてきたのにも意味はある、いるだけですごいことなんだって、セリフが深すぎです。


■木皿泉 しあわせのカタチDVDブック
NHKBSで放送された木皿泉夫妻を追ったドキュメンタリー。NHKがふたりにショートドラマの脚本を依頼し、その創作過程を出来上がったショートドラマを挟み込みながらたどっていく。

夫、和泉努は妻の妻鹿年季子とコンビを組み『すいか』が評価されてこれからというところで、脳溢血になり介護が必要な体になってしまう。妻鹿はそんな和泉に寄り添いながら、ずっと和泉とふたりで創作活動を続けてきたのだ。

TVカメラのレンズを通して見えてくるその姿は決して単純な夫婦愛などではなく、ここまで仲が良くても、どうしても人間はひとりなのだ、という事実であって、だからこそ、ふたりなんだ。それが愛というものなのだと、しみじみと感じ入り、自然と涙があふれてくるのであった。

 

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2016年12月 8日 (木)

■【絵画】ダリ展・国立新美術館。少年サルバドールの心象風景。

ダリは、どうもわざとらしくて好きになれず、いままで敬遠してたんだけど、まあ、まったく見ずに拒否るのもどうかと思い、いつものごとく展示終了間際に国立新美術館へ足を向けた。

Photo

■やはり、予想通り、ダリは私の思い込みとは異なる人のようだ。

わたしの中の勝手なイメージでは、奇をてらい、中身に乏しく、俗物的な彼の作品をシュルレアリスムなんて呼ぶのは言語道断である、というもの。

『魔術的芸術』を読んだときにでもブルトンに植え付けられたのか、とも思うが、いやいや、そもそも、やわらかい時計とか、足の長い象とか、どうでもいいでしょ的な感覚があって、もともと肌にあわない。そこにブルトンの論だったような気がする。

で、若い頃から晩年までの作品を一挙に並べた今回の展示を体感した感想はというと、なんだ「普通の人」じゃんか、というものだ。

■若い頃は印象派の流れの上で修業を積み、そこから反抗的にピカソの後追いをし、そして独自のダリ世界にたどり着く。

彼の描く情景は確かによくわからない悪夢的世界で、意識の解釈のフィルターを感じさせる「企画力」が、かえって絵画そのものへの没入を妨げるように思われる。わたしの先入観はここでは一旦肯定される。

けれども、それらのなかで時々こころをぐいとつかむ作品があって、そこにはダリのシュルレアリスム手法であるダブルイメージとか偏執狂的批判的活動とかのイメージは描かれているのだけれども、その背景には常にスペイン、カタルーニャの荒野が広がっていて、実はそれこそがダリの本質であり、やわらかい時計も、足の長い象も単なる飾りに過ぎないのではないか、或いは傷つきやすい本質を守るための鎧なのではないか、と、そこに至るのである。

つまり、ダリの心には常に少年時代の重荷として荒野が広がっていて、それを覆い隠すためのシュルレアリスムだったのではないか、ということだ。

1931
<降りてくる夜の影>1931年、ダリ27歳

31936
<オーケストラの皮を持った3人の若いシュルレアリストの女たち>1936年、ダリ32歳

遡れば、美貌であったという妹を描いた若い頃の作品は、本来は誇らしいであろうその美貌を隠して常に後ろ姿なのである。

愛するものを直接描くことを拒否しているのか、そもそも描くことができないのか。

サルバドールという死んだ兄の名を受け継いだ少年の奥底で、いつまでも自分を認めることができないような、この絵からは、そういう荒涼とした心情がただよってくるのである。

Photo_2
<巻髪の少女>1926年、ダリ22歳

■ダリは1934年に年上の人妻であったガラと結婚し、第二次大戦中にアメリカに渡る。

そして1945年、広島、長崎に原爆が投下され、科学技術が現実を追い越したことに衝撃を受ける。

それはダリにとって、シュルレアリスムの敗北であったのかもしれない。

1945
<ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌>1945年、ダリ41歳

そして、今日の一枚。

《ポルト・リガトの聖母》 1950年

キリスト教に帰依し、ガラとともにスペインに戻ったダリは、精神的支柱であるガラを中心に描いた宗教画に至る。

かつてダリを支配したギミックは影を潜め、安定と不安の精神世界が直接的に描かれている。

1950
<ポルト・リガトの聖母>1950年、ダリ46歳

この大作を、しばらくぼんやりと眺めていた。

マリア的に描かれたガラに抱かれた子供はダリ自身であるのだろう。

そしてガラの胸にも、ダリの胸にも大きく四角い窓が開いている。

これは初期の作品で背後の建物によく描き込まれていた窓と同じものなのではないか。その窓は決してぽかりと空いた穴の虚しさではなく、希望とか永遠性とか、そういう意味合いのなかでの「青空ののぞく窓」なのだ。

そうしてみたとき、ガラのこころとダリのこころは、窓を介して連続し、一体化し、永遠である。

ここにおいてやっと、われわれはダリのやすらぎを見るのだ。

                  <2016.12.8 記>

 

私が独りでいることは決してない。いつだってサルバドール・ダリといるのが習慣なんだ。信じておくれよ、それは永遠のパーティーってことなんだ ―サルバドール・ダリ

Photo_4

 

■うれしいことに、『アンダルシアの犬』も上映されていた。

中学3年の時以来かな。

目を剃刀で切り裂くファーストシーンはやはり衝撃的。

笑ったのは、主人公が女性を襲おうとして追い詰めるシーン。彼は獣の死骸を乗せたピアノを引きずっているのだけれど、引きずっているのはそれだけでなく、キリスト教の坊さんが2人、しかも生きたまま!!これは面白い。芸術ではなく、ギャグとしてだけど。

そんな感じで映画としては、やはりいまいちだと思うが、「若さ」、という点で、やはり素晴らしい作品だと思う。

Photo_3
<映画 アンダルシアの犬>1928年 
監督ルイス・ブニュエル 脚本ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ

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2016年11月14日 (月)

■メタリカ、8年ぶりのニューアルバム!ハードワイアード...トゥ・セルフディストラクト、メタリカはクリフ・バートンの魂を取り戻せるか?

ラーズ、こんどこそ本物か?


<Amazonn>ハードワイアード...トゥ・セルフディストラクト

メタリカが、前作『デス・マグネティック』以来8年ぶりのニュー・アルバムをリリースすることが決定した。  8月18日、ラーズ・ウルリッヒ(Ds)は、アメリカのミネアポリスのロック系ラジオ局93Xの生放送でのインタビュー中に、新曲「ハードワイアード」を初めて披露した。同曲が収録されたニュー・アルバム『ハードワイアード…トゥ・セルフディストラクト』は、11月18日にリリースされる。アルバム全体はCD2枚組というボリュームとなり、デラックス盤には収録曲の源になったギター・リフが収録されるCDがもう1枚付く。11枚目のスタジオ・アルバムとなる同作を、ラーズは「世界中の仲間に早く聴いて欲しくてたまらない」とコメントしている。 ― Japan Billboard 2016/08/26

Laod(1996), Reload(1997)でファンを困惑させ、St.Anger(2003)で絶望の淵に叩き込んだメタリカ。

Master of Puppets (1986)と...And Justice for All (1988)の放った最高の輝きは、なんとも切れの悪いうんちのようなうねりのなかで消え去った。

思えば、メタリカの何が好きだったかといえば、単なるスピードとヘビーなリフだけなく、時にもの悲しい語りとプログレ的な美しさに酔わせてくれる、その情感にしびれたのだ。

その音楽性の核はラーズ・ウルリッヒでもなく、ジェイムズ・ヘットフィールドでもなく、クリフ・バートンなのだと思う。

その遺産を使って最高の高みに上り詰めたのが...And Justice for All (1988)であり、Oneの成功によるものか、商業主義的な香りの漂うMetallica (1991)は、キャッチーで入門しやすくはあるものの、もはやあの陶酔は失われてしまっていたのだ。

さて、今回のHardwiredである。公開されているPVを見る限り、原点回帰的な感じはかなり色濃く漂っている。

難しいことを考えることをやめ、気持ちのいいメタルを追求したいというジジイたちの想いが込められているようにも思える。

むしろ、Kill 'em All (1983)的なアルバムなのかもしれない。

まあ、聴いてみるまで分からないわけで、少し楽しみではある。

発売予定は2016年11月18日。

                          <2016.11.14記>

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2016年11月 2日 (水)

■『ママにゲーム隠された!』。感動の最終ステージ。

まさかスマホゲームで涙ぐむとは思わなかった。
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ゲームのやりすぎで、ママにゲーム機を隠された小学生。
 
この部屋のどこかにゲームは隠されている。
 
見つけたアイテムを駆使して、ゲーム機を見つけるとんちゲーム。
 
へたなところを開けるとママが登場してゲームオーバー。
 
ひねりまくっていて、これがものすごく面白い。
 
一気に最後ステージまで遊んでしまった。
 
しかし、その最終ステージの30日目。
 
その落ちのドラマに思わず涙ぐんでしまった。
 
 
ああ、愛があふれている。。。。。
 
                     <2016.11.02 記>
 

Amazonからダウンロード<無料>

 

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2015年8月21日 (金)

■リカルド・ロペスを知ってるか?

ふと、リカルド・ロペスが頭の中に蘇ったので、ちょっと書いてみようと思う。

ともかく私の中ではボクサーといえばこの人的な存在なのだ。

Ricardo_lopez
リカルド・ロペス:1990年10月、無敗のままWBCストロー級の王者、大橋秀行に挑戦、5RKO勝ちをおさめ、新チャンプとなった。その後も敗れること無く2002年に引退。プロ52戦51勝37KO1分け。  

■私はあしたのジョー2世代で、井岡とその老師エディ・タウンゼントとか、マイク・タイソンとか、そういう時代。

マニアというよりミーハーで、井岡がんばれ!大橋まけるな!ってのり。

日本人が勝つ、ということが何よりも重要であった。

そんな気持ちで見ていた大橋VSリカルド・ロペス戦。

当時、大学生だった私は、いつもの調子で大橋を応援していたのだけれども、リカルド・ロペスのあまりの美しさにほれぼれしてしまって、もう、大橋の応援なんかそっちのけで食い入るように見つめ、感動していたのを覚えている。

■ともかく動く。

華麗なステップでかわす。打たれない。(前半は大橋から少しもらったけどね、ちょっと固かった。)

そして、神速のステップインで突き抜けるようなワン・ツーの速射。そして間髪入れず視界の外から飛んでくる左のショートアッパー。

結局、大橋もこれで意識をもっていかれました。

美しい。

これぞボクシング。

たぶん、それ以降にもっとすごいボクサーはいるんだろうけれど、やっぱり見ている時代のヒーローというのは不滅であって、私にとってはリカルド・ロペスが一番なのである!!

 

【1990年10月 WBCストロー級タイトルマッチ 王者・大橋秀行vs挑戦者・リカルド・ロペス】

                       <2015.08.21記>

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2015年8月18日 (火)

■【音楽評】『The Best Nightmare For Xmas(DVD)』 WHITE ASH。超、カッコよくね? 

最近、音楽から遠ざかっていたのだけど、ガッチャマン クラウズのOPのバンドがあまりにかっこ良過ぎてはまってしまったのだ。

デビュー5年、メジャーデビュー2年の生きのいいバンド、WHITE ASHである。

WHITE ASH MUSIC VIDEO集 The Best Nightmare For Xmas

■上記、DVDではこのYOUTUBE版の’落ち’が収録されてます■

音楽を語る語彙が少なくてもどかしいんだけど、リズムといい、メロディといい、何を歌ってるかわからん歌詞といい、びびっとくるんだよね。

途中でテンポをおとしたり、止めてみたりするのもいい。こいつら、かっこいいを楽しんでるなあ、きっと。

ヴォーカルの’のび太’のルックスは決してかっこよくなくて、でも、そこがまた味がある。あの意味のわからん歌詞をすらすらとのびやかに歌いきる感じ。最高です。

ドラムス(剛)もギター(山さん)も上手いし、中でも、よく前面に出てくる紅一点、ベースの彩さんがまたかっこよし。

リーダーが引っ張る’のび太’バンドじゃなくて、メンバー4人でつくるジャムセッションぽいというのか、LIVE感なんだよね。

このDVDのMUSIC VIDEOを見ていて、WHITE ASHのかっこよさの本質はそこにあるのじゃあないか、と思う。

技巧も素晴らしいんだろうけれど、それを上回る、ノリっていうのが命なんだろうね。

レッチリみたいにコーラスが増えてくると、さらに面白くなる気がするんだけどな、どうだろう。

LIVEって行かないんだけど、ちょっと行ってみようかな、って、そんな気にさせるバンドなのでありました。

                        <2015.08.18  記>

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2015年7月 8日 (水)

■『ダナエ』、クリムト。恍惚としてエロスに浸る幸福。欲望も悟りをも越えた、人間が最後にたどり着く楽園。

圧倒的なエロスに酔いしれるのである。

Photo

クリムト作、『ダナエ』(1907-08)。

ダナエは、ギリシャ神話の人物。孫に殺されるという神託を信じ、ダナエの父親は男が近寄らないように娘を塔に閉じ込めるが、その美しさを見染めたゼウスが金の雨になって塔に流れ込み、ダナエと交わる。そのシーンである。

 

余計な解説や感想などはいらない。

ただ、ただ、恍惚と、ダナエとの世界に没入する。

それが幸せなのである。

エロスは、人間がたどりつく最後の楽園なのだと思う。

ここでは、一旦『ダナエ』を離れ、エロスについて語ってみよう。

■ここでいうエロスとは、もちろん愛におぼれるエロスを多分に含むが、人間の心の動きとして大きくとらえたとき、すべてを忘れ、恍惚とその世界に浸る幸福という意味で、さらに広い枠組みとして現れる。

それは、娘の寝顔を眺めているときであったり、刻々と変わる夕焼けの空の色彩に引き込まれているときであったり、どんな高級イタリアンレストランでも食べることのできない青春を過ごした喫茶店のペペロンチーノの味を思い出しているときに、私をとらえているものなのだ。

そこでは、社会のしがらみも、欲も、苦悩もすべて消え去り、ただただ、恍惚の世界がある。

それは、株でうまくやって一億円も儲けたり、会社で抜擢され同期の誰よりも早く昇進したことによって得られる幸福感とはまったく性格の異なるものである。

何かを得れば、さらに欲しくなるのが、我々の欲望の本質であり、満足のすぐそばには、強い不満が常に寄りそっている。

そういう、何かを得る、というものではなくて、目の前のもの、そのものを、そのものとして味わい、愛おしみ、恍惚として没入する。それがエロスだ。

そこに幸せの秘密が隠されているのだと、私は確信する。だから、エロスにこだわるのだ。

■今、私たちは、資本主義社会に暮らしている。

資本主義の駆動力は欲望である。もっとお金を稼いで、もっと良い暮らしをしよう。その為にお金を稼ぎ、それを消費する。

貧しい人は、もっと「幸せ」であるべきだ、と資本主義社会にどんどんと組み込まれ、もっと、もっと、幸せに、もっと、もっと、お金を稼ぎ、もっと、もっと消費をしよう。

そうして消費のパイの大きさが、日々成長することを前提に、資本主義社会の「幸せ」は約束されている。

かつて、マルクスは、資本家というものがいて、労働者を搾取するのが、資本主義の本性だ、と批判したが、結局のところ、労働者たちも、もっともっとお金を、もっともっと幸福を、という世界観を選び、組み込まれることから逃れることは出来ず、共産主義の実験は完全に失敗した。

すべての人々が、その欲望の仕組みに取り込まれ、その幸せを維持していくために、さらにその欲望を膨らませていかなければならない。

そこには、資本家も労働者もなく、あるのは、欲望によって駆動される圧倒的に強固なシステムなのである。

■だが、資本主義が欲望のシステムである限り、その欲望が満たされることは無い。

金が欲しい。地位が欲しい。愛が欲しい。

欲しい、欲しい、欲しい。

それが、本当に幸福な世の中ではないと、誰もが薄々感じているのであるのだけれど、今の豊かな生活が、資本主義の仕組みに支えられているのも現実で、それを手放す勇気もない。

だから、常に満たされない欲求を抱えながら、我々は生きていかざるを得ない。

それが、資本主義社会に暮らすものの悲劇である。

■わたしを苦しめる欲なんてものは、幻に過ぎない。

仏教は、そう教える。

目も鼻も口も耳も、

見えるものも、匂うものも、味わうものも、聞こえるものも、

こころに浮かぶものも、感じるものも、

すべては幻、実体のないものである。

「空」という、この仏教の概念は、それらの感覚や感情を徹底的に洗い流そうとする。

欲望、怒り、悲しみ、苦しみ、といったものは「私」から生まれ出たものに過ぎない。「私」がいない世界では、そんな感情や、苦しみは存在しえないのだから。

欲望、怒り、悲しみ、苦しみ、は「私」という洞窟のなかで空しく響く、「こだま」なのである。

だから、その洞穴から去れ、「私」というコダワリから去れ。

というのが仏教の神髄なのだと、私はとらえている。

■だがしかし、そうして何者でもない真っ白な紙のような私は、本当にそうなりたかったのか。

実は、悟りとは、そういうものではないのかもしれない。

一休宗純が、夜のしじまに浮かぶ小舟の中の静寂にいて、それをカラスの声が切り裂いた。

その瞬間、一休を苦しめてきた「私」が消え去り、世界がありありと、その目の前に現れてきたのだという。

真っ白な紙となりたい、という思いもまた、一休の欲であり、「私」そのものであった。

それが木端微塵に打ち砕かれ、「私」というメガネを通さずに、世界が世界としてありのままのものとして、ある。

■そうして、真に「私」を去り、ありありと世界を感じることが出来たとき、アリジゴクのように引き込んで離さない、資本主義の魔の手から、我々は逃れることができるのかもしれない。

それは、ひとつの方法なのだと思う。

爽やかな一陣の風のような、そんな生き方は、極めて、かっこいいと思う。

けれども、それが幸せかと問われれば、何か違うような気もするのである。

人生に対して、どこか一歩引いた、よそよそしさを感じてしまうのだ。

 

目の前にある、そのものをそのものとして、「私」そのものが愛している。

愛おしい、と感じるのは「私」。

そうして、その愛に没入していく過程で、時間も空間も消えていき、「私」が溶けていく感覚。

それがエロスであり、悟りの先にあるものなのではないか、と強く提起したいのだ。

それは、「私」と、それを包み込む「世界」への強い肯定であり、愛である。

エロスは決して、虚無でも、逃避でもなく、

世界に対する、明るく、前向きな姿勢なのである。

この閉塞した、出口の見えない資本主義の地獄のなかで、一条の光を見出す試み、態度こそが、エロスなのだ。

 

改めて、『ダナエ』を見る。

すべてが消え去り、ただ胸をつく感情が漂う。

その瞬間に、幸せがあるのだ。

 

                         <2015.07.08記>

 

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2013年3月29日 (金)

■NHKドラマ『ラジオ』。3.11は忘れてはいけないもの、というだけではなく。

女房が録画していたものを横目で見ていたのだけれど、つい引き込まれ、ずしりとしたものを心に残していった。

あれから2年。

思い出たちは未だに瓦礫と積まれ、更地にぽつんと残る廃墟。

地盤沈下した道路は満潮になると冠水してしまう。

そこでは、忘れてはいけないもの、というだけではなく、現在進行形なのだ。

その中で寡黙に、けれども何とか心を支えながら生きている人たちがいる。

某ちゃんのドラマというカタチをとりながら女川の現在を直接心に伝えてくる、最良のドキュメンタリー。

そして、今もそれは続いているのだ。

                           <2013.03.29 記>

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