●3.名画座【キネマ電気羊】

2017年11月13日 (月)

■【映画評】『シン・ゴジラ』 災厄と再起。人間の底力としてのシン・ゴジラ。

地上波初放映。

今回は、この映画におけるゴジラとは何か、そしてそこに込められたメッセージとは何か、について改めて考えてみたい。

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No.87-2  『シン・ゴジラ』
          監督: 庵野秀明、 樋口真嗣 公開:2016年7月
       出演: 長谷川博己 竹野内豊 石原さとみ 他

Title

■日常に襲い掛かりすべてを破壊する想定外の災害。

ここでのゴジラは明らかに3.11東日本大震災及び福島第一原発事故である。

第2、第3形態のゴジラに破壊された街のがれきを前に立ち尽くす矢口の姿は、われわれが目にした津波の後の東北の街だし、その後の放射能汚染は原発事故後のわれわれの放射能汚染に対する危惧そのものだ。

そして、相模湾から再度上陸する第4形態のゴジラは、東海沖を震源とする大規模地震であり、そのとき首都は壊滅状態になるかもしれない。その予想図と見て取れる。

■東日本大震災で我々が計画停電だ、ガソリンがないだの、ポポポポンだの言っていた時、現場では、ぎりぎりの中で踏ん張っていた人たちがいる。

東電の職員や必死の放水を行っていた人たちは、制御の前提である電力が喪失し、メルトダウンが起きているのかどうかすら分からない中で、放射能汚染で生命の危機があるかもしれないなかで、しかし、ここで踏ん張らなければ日本が壊滅する、という想いで戦った。

ヤシオリ作戦の訓示で矢口は隊員たちに命の保証はできないとした上で協力して欲しいと訴える。

現場の放射線レベルが危険域に高まるなか、決死の覚悟で実行されるヤシオリ作戦だったが、注入部隊の第一小隊は、ゴジラの破壊光線の一閃で全滅。

実際の福島第一原発での注水作業で犠牲者が出たとは聞いていないが、まさにそういった覚悟は現場にあったに違いない。

■一方で、津波の被災地も地獄の様相を呈していたようで、3.11直後から現地に突入していった不肖宮嶋さんの写真集をみると、もう言葉ならないものが胸に込み上げてきて、当時も、今も、復興にたいして何もしていない自分が情けなくなってくる。


■ 再起 単行本 – 2011/7/26 宮嶋 茂樹 (著)

この『再起』で描かれている、あまりにもむごい事態、しかしながら、それでも久しぶりの風呂や、軍楽隊に笑顔をみせる人たちや、まさに身を粉にして働く自衛隊、トモダチ作戦の米兵たち、その姿は『シン・ゴジラ』の終盤に描かれたものの実像であり、そこに重ねた見たときに、あまりにもぐっとくるシーンが目について、そのたびに身を震わせるのである。

■この映画はあまりにも情報量が多く、テーマも重層的だ。

映画館で観たときには、その全体像を読み解こうと必死になっていたのだけれども、こうして改めて観てみると、やはり骨格はここにあるのだなと思う。

牧博士が提示した

好きにしろ

という言葉も、「そろそろ思ったようにしてよろしいのでは?」という官房長官代理の首相代行へのセリフで補完され、原発だとか、安保法制だとか、この国の行く先について考えたときにずしりとくるのだけれども、それは所詮、「理屈」のはなしだ。

映画というものが伝えるのはもっと、言葉の奥にある、感情とか感覚とかそういう世界のものであって、そう考えたとき、やはりグッとくるのは不条理に立ち向かった人たちの実際の姿に寄り添う気持ちなのだとしみじみ思う。

高速高密度リアリティ映画でありながら、感動するところは人間のこころの強さに対してなのだ。

そして庵野が追及したリアリティはまさにその感動を支えるために存在したのである。

                      <2017.11.13 記>


【Blu-ray】シン・ゴジラ Blu-ray特別版3枚組

■関連記事■
■【映画評】『シン・ゴジラ』 非日常的災厄の向こうににじむ、この国への想い。

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2017年11月 3日 (金)

■【映画評】『ブレードランナー2049』 わたしの大切なこの記憶こそが現実(real)なのだ。

ラストシーンを見終わったあと、じんわりと、ゆっくりと、静かな幸福感に包まれていく。。。

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No.113  『ブレードランナー2049』
           原題:Blade Runner 2049
          公開:2017年10月
      監督: ドゥニ・ヴィルヌーヴ 製作総指揮 : リドリー・スコット

      出演: ライアン・ゴズリング  ハリソン・フォード  アナ・デ・アルマス 他

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■あらすじ■
デッカードがレイチェルを連れ失踪してから30年の月日が流れた。

謎の大停電によりほぼすべての情報が消失し、真実が見えなくなった世界。

自分自身もレプリカントであるブレードランナー”K”は、あるレプリカントを追ってそれが住む荒野の一軒家にたどり着く。しかし、それが大きな枯れ木の下に埋めていたものの衝撃的な秘密が、世界を、そしてK自身の存在をも揺るがすものに拡大していく。

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■1982年のブレードランナー公開から35年。

私も中学生から50前のジジイになった。

はっきり言えば不安があった。

あの大好きな『ブレードランナー』がどうなってしまうのか。

しかし、それは杞憂どころか、予想を遥かに超えた幸福として降り注いだ。

ドゥニがどれだけブレードランナーを愛しているか、世界中のブレードランナーファンには痛いほどよくわかる。

金曜の公開日に見て7日目、そろそろ熟成してきたので、なんとか文字としてその感動を記してみたいと思う。

■ブレードランナーといえば何といっても、シド・ミードがデザインし、ダグラス・トランブルが視覚効果を担当し、リドリー・スコットが見事に作り上げた映像美である。

今回のドゥニ・ヴィルヌーブ監督と撮影のロジャー・ディーキンスは、序盤で見事にそれを再現し、さらには荒涼たる赤いラスベガスの見事な’イメージ’を見せつけてくれた。

’もや’をコントロールする見事な空気遠近法が、リドリー・スコット的映像にさらなる奥行きを与え、あの’映像の魔術師’の後継者としてドゥニ・ヴィルヌーブは、映画『メッセージ』での衝撃以上のものを、むしろ安心感としてわれわれに与えてくれる。

その違和感のなさが、前作からの延長としての163分のこの物語に深く没入することを可能にしているのだ。

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■音楽のハンス・ジマーはパイレーツ・オブ・カリビアンを手掛けた人だけれども、リドリー・スコットとはブラック・レインやグラディエータ―での付き合いもあって、ヴァンゲリスが構築したブレードランナーの世界観を美しく再現している。

比較静かなシーンにドーンと響く重低音の効果が強烈で、これもブレードランナーと共通することだけれども、映画館だと極めて強烈。爆音上映だと、いったいどうなってしまうのだろうか。

■今回の原案と脚本は、前作でも脚本を務めたハンプトン・ファンチャー。

現在79歳。

その高齢でこのプロットを書き上げたのだから恐れ入る。

前作と同じくハードボイルドタッチだが、『ブレードランナー』で、逃げる女を背中から撃ち殺し、レイチェルに関係を強要する粗野なハリソン・フォードに対して、今回のライアン・ゴズリングは知的で影をまとった優男であり、複雑な物語をしっかりと牽引していく。

ハリソン・フォードとショーン・ヤングの組み合わせは、かなり観客を突き放した存在だったが、ライアン・ゴズリングとアナ・デ・アルマスの組み合わせは、深く我々の感情移入を許すので、そのあたりが、『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』の作品の方向性の大きな違いとして挙げることが出来るだろう。

『ブレードランナー』の硬質な感じはあれでいいし、今回の『ブレードランナー2049』のプロットはこれでなければ成り立たない。

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■さて、天才科学者ウォレス(ジャレッド・レト)である。

今回の『ブレードランナー2049』で一番懸念していたのは、『プロメテウス』、『エイリアン:コヴェナント』という『エイリアン』前日譚でリドリー・スコットが語りだした”神”についてのテーマだ。

制作総指揮のリドリー・スコットが話をそっちに持って行ってしまうのではないか、人が個人として持つ根源的不安について語るはずのブレードランナーに、人類全体の進化とかそういうヴィジョンを持ち込んでしまうのではないか、という心配だったのである。

その役割を担うのがウォレスである。

彼は、タイレル博士の後継者でありながら、タイレル博士がロイ・バッティに見せた息子に対するような人間性は一切みせない。

生み出したレプリカントとは決して同じ地平には立とうとしないのである。

これこそが神の立ち位置だ。

彼が盲目であることは、逆説的にすべてを見通せるという印象を我々に与え、ジャレッド・レトの演技によって完成する。

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腹心をつとめるラブ(なんと象徴的な名前だろう)は、最後まで決してウォレスを裏切らないが、そこにある畏れ(恐れではない)は、まさに神に対する愛。

創造主に対する、われわれが使う【愛】とはまったく異なる【Love】なのである。

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しかし、見終わってみれば、神であるウォレスはKに対する対照的存在に過ぎないことがわかる。

あくまでも『ブレードランナー』は『ブレードランナー』であり続け、「リドリーさん、趣味に走らないでありがとう」と、われわれは深く胸を撫でおろす。

■では、この映画のテーマは何か。

原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で、P・K・ディックは、人間を定義づける者は何か?というテーマを提示した。

1982年の『ブレードランナー』(及び最終版、ファイナルカット)では、出来事の外側からリドリー・スコットらしい語らずの語りとして、それを描こうと試みた。

そして、今回の『ブレードランナー2049』はKの内側の物語として再び『ブレードランナー』を語ることで、われわれの心に感情としてそのテーマを忍ばせてくる。

これ以上語るとネタバレになるので言えないのだけれども、前半部分ですでにイメージとしてそれは示されている。

■Kが処分するネクサス8型アンドロイド、サッパー・モートンの農場の風景は、静謐なソ連の映像作家アンドレイ・タルコフスキーの世界そのものであり、ぽつんと立つ枯れた木と家を燃やすシーンはもう明らかに彼の遺作となった『サクリファイス』(1986)へのオマージュだ。

『ブレードランナー』から引き継いだ、人間とは何か?というテーマに対するドゥニ・ヴィルヌーブの回答は、サッパー・モートンという存在を通してしっかりと刻み込まれている。

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タルコフスキーは語っている。

《この分かたれた世界で人が人といかにして理解しあえるのか? 互いにゆずりあうことでしか可能でないでしょう。自らをささげ、犠牲とすることのできない人間には、もはや何もたよるべきものがないのです。

私自身が犠牲をなしうるか?

それは答えにくい事です。私にもできないことでしょうけれども、そうなれるようにしたいと思います。それを実現できずに死を迎えるのは実に悲しい事でしょう》

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以下、ネタバレに入ります。

宇宙イチかわいい、アナ・デ・アルマスちゃんの写真のあとにネタバレに入りますので、必ず鑑賞後に先へとお進みください。

ああ、アナちゃん

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■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

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■『ブレードランナー』のディレクターズカットである最終版で示された驚愕の疑問が、「デッカードがレプリカントなのかどうか」というテーマである。

例の「ユニコーンの夢」と、ふたりの逃亡を許したガフが残す折り紙が示唆するもの。

今回その答えが示された。

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Kと対峙したときにデッカードが見せる屈強な戦闘能力。

高濃度の放射能にも耐えうる肉体。

基本、レイチェルと同時に試作されたレプリカントであることは間違いないだろう。

『ブレードランナー』でタイレル博士はロイ・バッティに対し、寿命を延ばす方法はない、と断言した。それをもってデッカードがここまで長生きするはずがない、という説があるがそれは誤りだ。

それはレプリカントが生まれた後に修正できないという話であって、そもそも4年の寿命はレプリカントが自我を持つ危険にたいする単なるリミッターに過ぎなかったことを思い出そう。その後、生殖可能な究極のレプリカントとしてデッカードとレイチェルが生み出され、互いに引き合うように巧みに誘導されたとみていい。

物語上欠番に見える「ネクサス7型」こそがデッカードとレイチェルなのだ。

では、デッカードがレプリカントだった、というのが「結論」なのか?

いや、そうではない。

■この映画のテーマは「人間とは何か?」である。

単にデッカードがレプリカントであったかどうかということは問うてはいないのだ。

ポイントは、デッカードが娘に掘った動物が、何故「ユニコーン」ではなく、「馬」だったのか。という点にある。

ユニコーンは空想上の動物であり、デッカードの夢の中にしか住むことはできない。

その夢が、デッカードをして自分が人間なのか、それともレイチェルのように記憶を植え付けられたレプリカントなのかと思い悩ませたはずだ。

あたかも原作におけるフィル・レッシュのように。

では、出産でレイチェルを失ったデッカードは娘に何を見たのか。

それは目の前の現実だ。

レプリカントであろうが、人間だろうがそんなことには意味はない。

自分の生み出した一つの命がそこにある。

その「現実(real)」がデッカード自身を解放し、悪夢として自分を苦しめる一角獣からツノをもぎ取ったカタチとして、馬を彫りだしたのだ。

これから生きていく娘の記憶は現実であり、その象徴であり、賛歌ともいえる。

■ウォレスたちに捕えられたデッカードは、アイデンティティを揺さぶられつつも

I know the real....

というセリフで対抗する。

自分の記憶は模造品かもしれないが、生き生きとした現実だ。

模造だろうが、本物だろうが、そこに意味などない。

わたしの記憶こそが現実(real)なのだ。

そんなデッカードに、形ばかりのコピーのレイチェルなどまったく通用するはずがない。

レイチェルの瞳は緑だった。

現実に緑だったかどうかが問題なのではない、デッカードの記憶、思い出の中のレイチェルの瞳の色が問題なのだ。

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原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、最後のさいごにデッカードは「生きた本物の動物」へのこだわりを捨てて機械仕掛けのヒキガエルにも愛情を覚えるようになる。

そして疲れ切った体をベッドに横たえ、情調オルガンの助けを借りずに安らかに寝息を立てる。

本物か、偽物かを決めるのは自分自身であるという地平にデッカードは、やっとたどり着いたのだ。

映画『ブレードランナー』でのデッカードは、この続編をもって、やっと原作のラストの平穏に迎えられるのである。

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■Kについてはどうだろう。

レイチェルの遺体が埋めてあった木の根元に刻まれた「6 10 21」の文字。これは自分の記憶の中の木彫りの馬の裏に刻まれた日付と完全に一致する。

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そのことが、レイチェルが生殖可能なレプリカントであるというこの世界を揺るがす秘密であることを超えて、K自身の存在を揺さぶるのだ。

デッカードを探すべく、かつての同僚だったガフを探し当て、話を聞き出そうとするシーンで、ガフが作った折り紙は羊であった。

単純な解釈で言えば、これは原作の電気羊を意味するものだろう。

’K’の由来は原作のフィリップ・K・ディックのミドルネームだと考えればすんなりとたどり着く。

しかし、もう一歩踏み込むならば、世界で初めてのクローン動物である羊のドリーに思い当たるだろう。

羊の折り紙が意味するものは、模造品である、と同時に、Kが(比喩的な意味での)クローンであるという示唆なのである。

■自分の記憶が作られたものなのか、本物の記憶なのかを確かめるべく、Kはレプリカントの記憶製作者であるアナ・ステリン博士のもとを訪ねる。

観ている最中はこのシーンはカットしても良くないかな、なんて考えてたんだけど、とんでもない。

Kの記憶を覗き見たアナ・ステリンの涙。

まさか、そんな伏線になっているなんて思いもしない。

Kともども完璧にやられてしまいました。

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レプリカントの反抗組織のリーダーに、

「あなた、まだ自分が奇跡の子供じゃないって気づいてないの?だれでも自分がヒーローだって信じていたいもんね。」

なんて感じの極めて意地悪なセリフを吐かれる。

ここで、ああ、と絶望するのだ。

思い返せば、同じDNAの女と男。

どちらかがコピーだったということだ。(DNAが同じというのはもちろん記録上の問題で実際にアナ・ステリンとKのDNAが同じだということではない)

ここでガフが作った羊の折り紙が、コピー羊のドリーであり、Kの運命を示しているということにつながっていくのである。

ああ、なんという絶望。

■しかも最悪なことに、これまでKを支えてきたジョイはラブに踏みつぶされ、もうこの世にはいない。

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データでしか存在しないジョイは、しかしながら、Kにとっては現実だ。

つねにKに寄り添い、示唆を与える存在。

作り物ではない、その自我によって、データリンクを自ら切断し、「死」の可能性を受け入れることで「自由」を手にしたジョイ。

そしてその死は、Kを本当の生へと導く。

ジョイはそういう意味で、Kの中の魂か形となって現われた存在だったのかもしれない。

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■Kはラブからデッカードを守り抜き、父を娘のところへといざなう。

Kの記憶は、コピーでしかなかったけれども、だからこそ、その記憶を大切に守りたかった。

それは父と娘が静かな幸せを取り戻すことで完結する。

それを成し遂げ、満たされながら降りかかる雪のなか、静かに大地へと身をゆだねるK。

ヴァンゲリスのティアーズ・イン・レインが流れ、自然とKの姿が前作でのロイ・バッティ―が死にゆくシーンと重なって見える。

前作を愛するものは、ここで流れる涙を止めるすべはないだろう。

I've seen things you people wouldn't believe.

Attack ships on fire off the shoulder of Orion.

I've watched c-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate.

All those ... moments will be lost in time, like tears...in rain.

Time to die…

… そんな記憶もみな、時とともに消えてしまう

雨の中の涙のように… 

死ぬときがきた …

 

ロイ・バッティは死にゆく間際に目の前の「生命」をいつくしんだ。

限られた生だからこそ、命がいとおしい。

その想いはKへと引き継がれ、ロイ・バッティと同じ祝福に包まれながら、その生を閉じるのだ。

雨の中の涙のように。。。。

手のひらに淡く溶ける雪のように。。。。

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                     <2017.11.03 記>

 

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■【蛇足1.】

この社会の秩序を守ろうとしたマダムは、何故かラブと知り合いのようだった。

前日譚のショートムービーをみると多少わかるのかもしれないけれど、それはあとでのお楽しみにしよう。

さて、レプリカントの反抗組織は残ったし、ウォレスは健在だ。

続編をつくる余地は完璧にある。

ウォレスの組織、反攻組織、そして秩序を維持しようとする勢力。

なんだかもう、そういうのは『ブレードランナー』ではない。

こんな難解で、しかもさらに難解な35年前の前作を見ないと深く理解できない作品は大ヒットはしないだろうから、本当にそっとしておいて欲しいものだ。

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■【蛇足 2.】

小雪が降りかかる中、死にゆくKがあおむけになって何かをつぶやくよね。

このシーンを観ているときは、もうロイ・バッティばかりが頭のなかを占めていて、ぼろぼろと涙を流しながら、一緒になって

Time, to die....

って一緒になってつぶやいてたんだけど、

落ち着いて考えるとたぶん違うよね。

なんて言ってたのか気になってしょうがない。

シナリオにあったのか、ゴズリングのアドリブなのか。

たぶん後者だろうけれど、ネタバレになるからしばらくこれは明かされないんだろうな。

ブルーレイの特典映像とかまで待つのかな。。。。

うーん、もう一回観に行って確かめてこよう。たぶん分からないだろうけど(笑)。

■関連記事■

【ブレードランナー】。暗闇を切り裂く光。人間らしさとは何か。

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■【原作】P・K・ディック 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』


【原作】アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
(ハヤカワ文庫 SF (229)) 文庫 – 1977/3/1


【DVD】『ブレードランナー』製作25周年記念
アルティメット・コレクターズ・エディション(5枚組み) [DVD]


【文庫】〈映画の見方〉がわかる本
ブレードランナーの未来世紀 (新潮文庫)
2017/10/28 町山 智浩 (著)

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■STAFF■
監督   ドゥニ・ヴィルヌーヴ
脚本   ハンプトン・ファンチャー
      マイケル・グリーン
原案   ハンプトン・ファンチャー
原作、キャラクター創造
      フィリップ・K・ディック
      『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
製作 アンドリュー・A・コソーヴ
    ブロデリック・ジョンソン
    バッド・ヨーキン
    シンシア・サイクスシンシア・サイクス・ヨーキン
製作総指揮  リドリー・スコット
         ティム・ギャンブル
         フランク・ギストラ
         イェール・バディック
         ヴァル・ヒル
         ビル・カラッロ
音楽     ハンス・ジマー
        ベンジャミン・ウォルフィッシュ
撮影     ロジャー・ディーキンス
編集    ジョー・ウォーカー
製作会社  アルコン・エンターテインメント
        スコット・フリー・プロダクションズ


■CAST■
K / ジョー      - ライアン・ゴズリング
リック・デッカード  - ハリソン・フォード
ジョイ        - アナ・デ・アルマス
ラヴ          - シルヴィア・フークス
ジョシ警部補(マダム)   - ロビン・ライト
マリエット       - マッケンジー・デイヴィス
アナ・ステリン博士     - カーラ・ジュリ
ミスター・コットン      - レニー・ジェームズ
サッパー・モートン     - デイヴ・バウティスタ
ニアンダー・ウォレス    - ジャレッド・レト
ココ        - デヴィッド・ダストマルチャン
ドク・バジャー        - バーカッド・アブディ
フレイザ     - ヒアム・アッバス
ナンデス     - ウッド・ハリス
ファイル係    - トーマス・レマルキス
レイチェル     - ショーン・ヤング
ガフ       - エドワード・ジェームズ・オルモス

【小ネタ】Kはロボット刑事♪

Wikipediaより 
企画時の作品タイトルは『ロボット刑事K2』。その後、主人公の名前が変更されて「ロボット刑事J(ジョー)」となり、最終的にタイトルは『ロボット刑事』に決定した。Kの愛車の名が「ジョーカー」なのは、その名残である。

・・・Kにジョーという名前をつけたジョイは、相当な特撮オタクと見た♪

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2017年10月25日 (水)

■【映画評】『マイマイ新子と千年の魔法』 片渕須直監督。千年のつながりに気づくとき、身近な死がやわらかく心の中に降りてくる。

Amzonで配信されているのを発見。早速視聴!ああ、このぐっとくる感じ。やっぱりいいですよ。片渕さん!

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No.112  『マイマイ新子と千年の魔法』
          監督: 片渕須直 公開:2009年11月
       出演: 福田麻由子 水沢奈子 森迫永依 他

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■あらすじ■
戦後10年ごろの周防の国、山口。田園風景の広がる町に空想力の豊かな小学三年生の少女、新子が住んでいた。おじいちゃんから、ここは千年前にここにあった都とつながっているんだと教えてもらった新子は、おでこのつむじのマイマイをなでながら、千年前の人たちが待ちゆく姿を目の前に浮かび上がらせてはひとり楽しんでいた。

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そんなある日。都会から転校生の貴伊子と出会い、ともに空想のなかで遊ぶようになる。その千年前の都には独りぼっちのお姫様がいて、ふたりは彼女の寂しさに心をめぐらす。。。

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■『この世界の片隅に』の、すずさんの世界から10年くらい後。広島のお隣の山口でのお話。

片渕監督は、この映画のイベントでのふとしたきっかけにより、こうの史代さんを知り、『この世界の片隅に』に至ったのだという。

実に運命的な作品だ。

そして、『この世界の片隅に』のあとに、この『マイマイ新子』を観ると、あの映画の要素のほとんどがすでに詰まっていることに驚くのである。

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おおらかで毎日をたのしく駆け回るこどもたち、けれどその底流には暗くて重いものが流れていて、それを知ってか知らずか、川は流れ、草はそよぎ、雲は流れ、蝶がひらひらと遊んでいる。

原作はまったく違えども、『この世界の片隅に』の世界観そのものだ。

いや何しろ新子のお母さんがまるですずさんの10年後のようで、ありゃー、やってしもうた、とは言わないものの、不意に見せる彼女のおとぼけ具合に、ついほっこりしてしまう。

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■そして、この物語の重要な要素は、1000年前のお姫様。

いると思っていた同じ年頃の娘は病によってすでになく、遊び友達のいないお姫様はひとり寂しく過ごしている。

そして、彼女が切り刻んで流す赤い色紙が1000年の時を超えて、新子と貴伊子たちのもとに金魚というかたちとなって現われる。

新子と貴伊子が夢想する1000年前のさびしいお姫様は実在し、その想いがふたりのもとに流れ着くのだ。

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■あこがれのひづる先生曰く、きっとそれは諾子というお姫様で、いま我々の知る清少納言であるということをひづる先生が開いた本が教えてくれる。

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普通の物語りならば、夢であれ、現実であれ、この寂しい歴史上のお姫様と二人を引き合わせ、困難に立ち向かう構図となろう。

しかし、1000年の時は金魚のひずると貴伊子の一瞬の夢以外に交わることはなく、この物語はあくまで現実をたどっていく。

この抑制こそが、逆に1000年という時をそのままに感じさせる。

はるか昔から、諾子の生きた平安時代を通り過ぎ、新子と貴伊子の頬を撫でて、われわれの今に、そしてこれから先に続く未来に。

流れていく時間というものを、ずっと自然は眺めてきた。

われわれが空や山々や草原に遊ぶ虫たちやせせらぐ川を眺めるとき、自然はそこに永遠を見せてくれる。

物語の終盤に、われわれが生きていく上でそれがどういう意味を持つのかを、言葉ではなく、感情として悟る。

 

『枕草子』 清少納言

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし

秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。

冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし

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■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

小川をせき止め、小さな池を作ることで子供たちは絆を深める。

金魚のひずるを祝いはしゃぐのだが、貴伊子の失敗でひずるは死んでしまう。

という、もう一つのテーマがここで提示される。

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■貴伊子にとって記憶にすら残っていない母の死。

みんなが頼る年長のタツヨシ。

生き返ったひずるを見つけるべく、みんなを引っ張るタツヨシだったが、そのタツヨシが信じる強い父の象徴である木刀の裏に潜む影は、残酷な「死」という形で彼をどん底に突き落とす。

ここで物語は大きく暗転する。

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■みんなに信頼される警察官であったタツヨシの父が、ばくちと街の女に入れあげ、借金を返せずに自死を遂げる。

そのことを知った新子は夕闇が迫る中、タツヨシのもとに向かう。

 
バー・カルフォルニアの女をやっつけてやろう!
 

タツヨシと新子の大人の世界に対する決死の殴り込みは、その悲壮さがかえって愛らしい。

繁華街に潜り込むふたりの覚悟が滲み出すシーンはとても素敵だ。

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大人の世界と子供の世界の断絶。

しかし、タツヨシの父の死を知った大人たちは、その垣根を取り払って二人にこころを開いて見せる。

戦後10年の時代において、死というものは当たり前にあっただろうが、それ故に、分かり合える共通語でもあったのだろう。

タツヨシがずっと抱えていた強い父へのあこがれと、弱い父への反発は、父の死を受け入れることで解き放たれる。

暗い小川のなかで、新しいひずるを見つけ出す。

010

■一方、貴伊子は夢の中で諾子と重なりあり、自分がたどった道を諾子に歩ませ、村の子供にこころを開かせる。

ここでは貴伊子と新子の物語を追いかけるように1000年前での再話が行われ、時間というものは一方的に流れるのではないことが示される。

1000年前の諾子の時間も、今を生きる貴伊子の時間も、そして貴伊子の母が生きた時間も、同時に並行して流れているのだ。

記憶とか、想いをよせることがある限り、それはずっと寄り添うように流れている。

貴伊子は言葉ではなく、気持ちとしてそのことに気づくのである。

そして、ひずるの墓を史跡のそばにつくることで、ひづるは永遠に生きるよね?とおじいさんに問うた新子への答えが、ここで提示されるのだ。

タツヨシにとっての父の死、貴伊子とっての母の死、新子にとっての大好きなおじいちゃんの死。

死は、死として厳然とあるのだけれど、その思い出がある限り、その人の人生は決して死ぬことはない。自分に常に寄り添い、生き続けるのである。

027

 
そして新子と貴伊子、諾子と古子の1000年の物語は重なりあり、続いていく。それは、わたしたちの物語りであり、未来の子供たちの物語りでもあるのだ。

ただただ自然がそれを眺めている。

009

011

                      <2017.10.25 記>

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【関連記事】

■【マンガ評】『この世界の片隅に』。こうの史代。 小さな記憶の欠片たちの物語。

 

015

■STAFF■
原作:高樹のぶ子(「マイマイ新子」マガジンハウス・新潮文庫刊)
監督・脚本:片渕須直
キャラクターデザイン・総作画監督:辻繁人
演出:香月邦夫、室井ふみえ
 
画面構成:浦谷千恵
作画監督:浦谷千恵、尾崎和孝、藤田しげる
メインアニメーター:川口博史、今村大樹
美術監督:上原伸一
美術:桐山成代、今野明美、野崎佳津、岡田昌子
色彩設計:橋本賢
撮影監督:増元由紀大
CGディレクター:矢山健太郎
編集:木村佳史子

音楽:村井秀清、Minako "mooki" Obata
音楽プロデューサー:岡田こずえ
主題歌:「こどものせかい」コトリンゴ(commmons)
挿入歌:「Sing」(作詞・作曲:Joe Raposo、編曲:村井秀清、歌:杉並児童合唱団)

山口弁監修:森川信夫
山口弁指導:久野道子
翻訳協力:兼光ダニエル真
草笛演奏:河津哲也
後援:山口県/防府市/山口県教育委員会
協力:山口県フィルム・コミッション
支援:文化庁
エグゼクティブプロデューサー:丸田順悟
チーフプロデューサー:高谷与志人
プロデューサー:岩瀬智彦、市井美帆、松尾亮一郎
共同プロデューサー:二方由紀子、赤瀬洋司
アニメーション制作:マッドハウス


■CAST■
青木新子:福田麻由子(主人公の少女)
島津貴伊子:水沢奈子(東京からの転校生)
千年前の少女・諾子:森迫永依
青木長子:本上まなみ(新子の母)
青木光子:松元環季(新子の妹)
青木小太郎:野田圭一(新子のおじいさん)
青木東介:竹本英史(新子の父)
青木初江:世弥きくよ(新子のおばあさん)
鈴木タツヨシ:江上晶真(頼れる兄貴分)
シゲル:中嶋和也(新子の友達)
ヒトシ:川上聡生
ミツル:西原信裕
一平:冨澤風斗
タツヨシの父:瀬戸口郁
バー・カリフォルニアの女:喜多村静枝
オヤブン:関貴昭
四郎:海鋒拓也
ひづる先生:脇田美代(山口放送)
庶務課の藤原:阿川雅夫(防府市役所)
千古:奥田風花
多々良権周防介:小山剛志
清原元輔:塚田正昭

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2017年10月17日 (火)

■【アニメ評】『交響詩篇エウレカセブン』&『エウレカセブンAO』 ファンタジーにおける【現実(リアル)】とは何か。その成功と失敗を探る。

エウレカの映画、、『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』をやるっていうから、思い立ってエウレカセブン全50話を見直して、その勢いで未見だったAO全24話をやっとこさ見終わった。

もう映画の公開も終盤になってしまった。

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■2005年に放映された『交響詩篇エウレカセブン』は、永遠のボーイ・ミーツ・ガールの名作だ。

トラパーという「風」に乗って、空を駆け巡ることが出来る世界。

田舎町でくすぶるレントン少年の家に、空からロボット(LFO)ともに謎の少女が墜ちてくる。

 
話を追うごとに、この世界とエウレカの真相が明らかになっていくのだが、そのギャップが大きくなるほどにレントンとエウレカの絆は深まっていく。

そして、世界が崩壊していくなかで、最後の希望は二人に託される。

観る者は、大人と子供のはざまにある二人の成長と、お互いを思いやる決意に胸を打たれるわけである。

■けれども、この荒唐無稽な物語を、「真実」として観る者が受け入れるのは、その二人だけでなく、登場する人々一人一人を丁寧に描き切ったことによるものだということに疑う余地はない。

「ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん」をキーワードに、

ホランドが、タルホが、ゲッコーステイトのメンバーが大人として二人を見守り、レイとチャールズが親の愛を伝え、荒れ狂うアネモネをドミニクが守り抜く。寡黙に人生を貫くユルゲンス、そしてノバク、サクヤ。。。。

あたかもガンダムからイデオンに至る富野由悠季の全盛期(富野喜幸の時代)を見るようなその人物群像の厚さが、「真実」(リアル)を生み出していくのだ。(レイとチャールズなんて、ランバラルとハモンそのものじゃん!とは言うまい)

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■ファンタジーとは、もちろんその世界の設定がしっかりと構築されていることは必要なのだけれども、現実的であることは必要条件ではない。ただただ、その世界に住み人たちが意志をもって進めばいい。むしろ、【現実的】にこだわろうとそこに注力してしまうと逆にしらけてしまう性質をもっている。

大切なのは、その世界に生きる人たちすべてがそれぞれの人生を生きている、その実感が伝わるかどうかなのだ。

『エウレカセブン』が名作と呼べる理由はそこにある。

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■さて、続編の『エウレカセブンAO』である。

監督は京田知己のままで、シリーズ構成が 『カウボーイビバップ』や『攻殻機動隊S.A.C.』の佐藤大から『機動戦艦ナデシコ』や『鋼の錬金術師(2003)』の會川昇へと交代。

それが原因かどうかはわからないけれど、『AO』はかなりきびしい。

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■時は遡り、現代の地球。

しかし沖縄が独立していて、とか微妙に違う。

そこにエウレカとレントンの息子と思しき少年、アオが、各地にあらわれるスカブコーラルとそれを狙うシークレットと呼ばれる謎の存在に巻き込まれるお話。

世界情勢の設定は緻密で、とくに沖縄のアイデンティティや日本のありかたについては考えさせられるものがある。

けれども、エウレカセブンのファンタジーと「現実(リアル)」の融合は完全に破綻している。

我々の日常的な現実(トゥルースの現実)が、スカブコーラルの侵入によってずれを生じ、、、というところでダメ押しである。

ファンタジーを日常的現実と対比をしようとして破綻した例をわれわれは知っている。

先に挙げた富野由悠季の『聖戦士ダンバイン』である。

バイストンウエルで紡がれた物語が、ザマ・ショウの日常的現実と交錯した瞬間に、ストーリー的興味が膨れ上がるのと反比例するように、無理がたまり、デウス・エクス・マキナ!とばかりに突然の終わりを告げる。

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■百戦錬磨の手練れである富野由悠季をもってしても破綻をさけることができなかったのは、【日常的現実】と【現実(リアル)】をはき違えてしまったことにある。

ファンタジーが介入した時点で、【日常的現実】は【現実(リアル)】たり得ず、リアルらしき非リアルに対する違和感を拭い去るために大風呂敷を拡げてしまい、結局破綻をむかえることになるのだ。

『エウレカセブンAO』に関して言えば、【日常的現実】という嘘をパラレルワールドで逃げてしまった。

これは最悪だ。

観る者は、自分の立ち位置を失い、途方に暮れる。そこには作り手の自己満足しか残らない。

唯一、レントンとエウレカが再び出会う。ただそのためだけにこの作品の意味はある。

残念ながら、アオにも、ナルにも、フレアにも、トゥルースにも、途中までの愛着は消え去り、ただ冷たい神の目で眺めるほかなくなってしまうのである。

101

■さて、映画 『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』である。

TVシリーズの設定を変えての再話であるらしく、巷の評判は芳しくない。

評判が悪い映画が大好きな自分としても、残念ながら、ここまでの考察を踏まえれば、なかなか劇場にお金を落とす勇気は出ない。

本来、エウレカセブンの続編として見たいものは、(たとえ蛇足だと分かっていても)アダムとイブとして地球に降り立ったレントンとエウレカのそれからだ。

あえて3部作としてのハイエボリューションに期待するのは、そこだろうか。

再びパラレルワールドに逃げないことを祈るばかりだ。

                    <2017.10.17 記>

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2017年10月15日 (日)

■【アニメ評】『宝石の国』 美しく透明な世界は、どこまでその奥行きを見せるのか?

第2話で、いきなり主人公が溶けてなくなっちゃったよ。

まいったな、おい。

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■2017秋のアニメは、あんまり気になるのがなくて、ぼんやり『宝石の国』って綺麗な世界だな、と眺めてたんだけど、これはとんでもなく面白い話かもしれない。

 

<ものがたり>

遠い未来、ほとんどの生物は滅び、海底に沈んだ有機物が再構成されて結晶化し、浮かび上がったのが、彼ら宝石たち。

月からの狩人にさらわれるのを防ぎながら何百年、何千年の時を生きている。

一番若く、何のとりえもないフォスフォフィライトは、ある日、金剛先生から博物誌を編む仕事を任せられる。

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■フォスのダメっぷりがかわいいんだけど、いきなりカタツムリに飲まれて溶けちゃいました。

安心して見てたから、かなり衝撃的。

まどかマギカの3話に迫る破壊力だ。

これはもう見るしかないな、月人とは何か、宝石っぽくない金剛先生は何者か、そもそも宝石たちって何なのか。

衝撃を与えると砕け散るとか、ファンタジーの枠を振りきっているところも百凡の異世界ものと一線を画していて好印象。

マンガは連載中みたいだから、メイドインアビスみたいに途中で終わっちゃうんだろうけど、今期は、これと3月のライオンに絞ろうかな。

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いやあ、こいつら、、、いったい。

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孤独なシンシャ フォスがいなくなったあと彼女は。。。

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ゴーシェナイトとモルガナイト。

透明水彩のような髪が素晴らしく綺麗。

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ダイヤモンド。うん、かわいい。

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金剛先生。

フォス、エースをねらえ! とか言わないでね。

                 <2017.10.15 記>


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2017年10月10日 (火)

■【映画評】『エイリアン コヴェナント』 或いは、フランケンシュタインの怪物が自ら名前を得る物語。

ああ、リドリー・スコットのエイリアンが帰ってきた!

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No.111  『エイリアン:コヴェナント』
           原題: Alien: Covenant
          監督: リドリー・スコット 公開:2017年9月
       出演: マイケル・ファスベンダー   キャサリン・ウォーターストン 他

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■あらすじ■
2000人の移住者を冬眠状態で乗せた惑星移民船コヴェナント号は航海の途中、超新星爆発の影響で損傷を受けクルーを目覚めさせる。修理の途中、謎の信号をとらえ、どうやら人類のものであると分かった副長のオラムは事故で死亡した船長の代わりに不安を振り払いながらも信号の発信源である地球型惑星を新天地とする決断をする。

しかし、そこは死が待ち受ける恐怖の惑星なのであった。

■前作『プロメテウス』は人類創生の神との対峙を描いた作品で、噛めば噛むほどの素晴らしい映画だったのだけれども、『エイリアン』を期待した部分については少し物足りない部分があったのは事実。

けれど、今回の『コヴェナント』(契約)は100点満点、いや200点超えの『エイリアン』だ。

『エイリアン』から40年。その創造者であるダン・オバノン、世界の構築者H・R・ギーガーの魂をそのままに、育ての親といえるリドリー・スコットの手によって完全によみがえるだけでなく、さらに深淵な広がりを見せつけてくれた。

ファンには最高のプレゼントだ!

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■ストーリーは、宇宙船が謎の惑星に誘導され、謎の遺跡に導かれ、生き残った女性がその恐怖と戦う、というもので、完全に『エイリアン』の筋書きを踏襲する。

と書いても、全然ネタバレにはならない。

もともと『エイリアン』は、初見も恐ろしいけれど、10回見ても、20回見ても、同じ場面でドキドキし、ああっ、と声を上げてしまう。先が見えていても、それでも恐ろしい、そういう映画だ。

ゴールドスミスのあざとくない音楽を底流に、ギーガーの悪夢世界、オバノンの着想と何人もの手によって練り上げられた完璧なプロット、そして何よりも、当時新進気鋭の映像作家であったリドリー・スコットの手による、暗闇と湿度とそこに差し込む光によって構成された美しいイメージと、見せない、見えないことで強調される恐怖。

これ以上にない贅沢な才能が、B級ホラーをして最高のエンターテイメント、最高の芸術作品へと昇華させている、それが『エイリアン』なのだ。

『コヴェナント』は、音楽も、プロットも、その悪夢世界も、すべて再現することにより、私は『エイリアン』である、これが『エイリアン』なのだ!と強烈に主張し、リドリーは80歳の齢となっても、まったく衰えを見せないどころか、さらにその上に超えていく。

もう一度言おう!ファンにはこれ以上ない喜びを与えてくれる。

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■しかし、リドリー・スコットは同じことを繰り返しただけではない。

むしろ本質的テーマはそこにはない。

前作の『プロメテウス』で提示された創造主と被造物の物語を、デヴィッドというアンドロイドの視点で、さらに先へと推し進める。

『プロメテウス』と同じく、ここではリドリー・スコットは多くを語らない。

一度見ただけでは、おそらく半分も味わえていないだろう。

意味深なカット、意味深なセリフの裏に膨大な世界観が拡がっている予感がするのだが、まあ、とりあえず初見でどこまでたどり着けるか、挑戦してみよう。

Eye

デヴィッドの瞳。

そして『エイリアン』は『ブレード・ランナー』の方向へ舵を切っていく。

『ブレード・ランナー』が被造物であるレプリカントを通して人間とは何かを語る作品ならば、『エイリアン』前日譚シリーズは創造主、被造物の関係から人間を語る作品群となりそうだ。

   
■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

さて、冒頭のシーン。『プロメテウス』から遡り、アンドロイドのデヴィッド誕生の場面から物語は始まる。

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雄大な自然の中の完璧な人工。印象的な画面だ。

ここで目覚めたデヴィッドが、創造者のウェイランドから名前を問われたときに、そこにあるダビデ像に一瞥をくれたあと、「我が名はデヴィッド」と答える。

ここに、この物語のすべてが集約されていると私は考える。

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ダビデは紀元前10世紀の古代イスラエルの2代目の王。

Wikipediaによれば、その30年の中央集権的君主制の治世において改革を推し進める中で、王国を神から奪い自らのものとした、とある。

その意味では、(西洋世界において)初めて神から自立した人間ということになる。

デヴィッドはその名を名乗った。

目覚めた後、圧倒的な知識とスキルを見せつけるが、ウェイランドはそれに対して、

「それでもお前は、私の下僕だ。」

と釘を差すが、それに対してデヴィッドは

「あなたはいつか死ぬ。わたしは永遠に生きる。」

と返す。

『プロメテウス』で最期までウェイランドに従ったデヴィッドだが、その死後、人間となること、いや、死んでしまう人間を見下していた彼にとっては、神になることがデヴィッドを突き動かす動機となっていく。

人間を想像したエンジニアすら、死んでしまうもので、それを超えて自らが造物主となること。

好奇心が強く、創造性を備えたデヴィッドは、その意味であまりにも「人間」なのである。

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■名前はとても重要だ。

作中、デヴィッドがウォルターにその心情を説明する言葉として、シェリーの詩が登場する。(本人はバイロンだと勘違いしていてウォルターにそれを指摘されて赤恥をかく。)

 
我が名はオジマンディアス 王の中の王である

偉大なる神よ、我が所業を見よ そして絶望せよ!

ほかには何も残っていない 

巨大な朽ちた遺跡の周りには

ただ果てしなく砂漠が広がっている

もう、ラストまで見てみれば、この物語そのものである。

作者のシェリーは、19世紀初頭の詩人。代表作は『縛を解かれたプロメテウス』。神に対して人類が技術をもって乗り越えていく、当時の思想を反映したもののようだ。リドリー・スコットは前作『プロメテウス』を構想しているときに、当然ここまで考えていたのだろう。

そして忘れてはいけないのは、シェリーの妻、メアリーが旦那の安直な思想に反論として書いた小説が、原題『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』、かの『フランケンシュタイン』だ。

 
■【書評】『フランケンシュタイン』 メアリ・シェリー著。それでも生きていく理由。
 

生命の謎にのめり込んだフランケンシュタイン博士は、人工生命を生み出すが、己の所業に恐れおののき放置して逃げ出してしまう。

人工生命は、目覚めたあと、自然を理解し、人間を観察し、言葉を覚える。

しかし周りからは人間として認められない。

その苦悩の果てに、博士を探して追い詰める。

彼は博士に「名前」を付けて欲しかったのだ。

■この物語は、単に技術(プロメテウスの火)の進歩が生む悲劇を描いただけではない。

人間とは何か、それは認めてもらうことなのだ、

とメアリーは訴えたかったのだと思う。

そう考えると、「自ら」デヴィッドと名乗ったアンドロイドの位置づけに大きな意味が生まれてくる。

知識も能力も人間を凌いでいて、創造性だって負けていないのに、それでも「従僕」としてしか扱われない。

『プロメテウス』では、その扱いに対するデヴィッドの苛立ちがすでに描かれている。

なぜ我々を生んだのか?

という問いに

作れたからさ!

と軽く流したチャーリー・ホロウェイを好奇心のための実験台にしてしまう。

永遠の命を渇望し、「神」と並ぼうとしたウェイランドの死には蔑みに近い哀れみを見せる。

それは、生まれたときにすでに芽生えていた「感情」であり、それゆえの「ダビデ」。

認められないのであれば、人間になれないのであれば、自分が神になるのだ。

エンジニアたちも、例外ではなく、「完全」でない彼らは「神」たり得ない。

デヴィッドがエンジニアの母星を死の星に変えたのは、復讐ではない、失望であり、蔑みなのだ。

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説明は一切ないが、エンジニアの母星の文明は数千年の間に衰退してしまったように見える。かつての栄光はなく、古代の文明が戻ってきた(デヴィッドの船)ことを神の降臨のように崇める。(どうやら巨人でもない。)

デヴィッドは完全に失望し、蔑み、「神」として彼らを消し去る。

我が名はオジマンディアス 王の中の王である

偉大なる神よ、我が所業を見よ そして絶望せよ!

ほかには何も残っていない 

巨大な朽ちた遺跡の周りには

ただ果てしなく砂漠が広がっている

ダビデはヤハェエから脱却し、それを「プロメテウスの火」で焼き払うのだ。

■それと対比をなすのは、コヴェンナント号に乗り組んだ最新型のアンドロイド、ウォルター。

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マイケル・ファスベンダーの一人二役の神懸った演技には完全にやられたが、同じ顔であっても、デヴィッドとウォルターはまったく魂の在り方を異にする。

特別映像だったかネットで公開されているものに、ウォルターの目覚めのシーンがある。

窓の外に降りそそぐ雨粒(ウォーター)を見て、「我が名はウォルター」と名乗る。

己はなく、誰にも平等に降り注ぐ雨水のような存在。

それがウォルターだ。

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ネオモーフに襲われたとき、ダニエルズをかばって左腕を失うウォルター。

それは「愛」なのだと、デヴィッドに指摘される。

デヴィッドは創造性をインストールされていないはずのウォルターの中にその萌芽をみたのだ。

しかし、ウォルターは「神」としての「創造」の賛同者になることはなく、職務としての乗員保護を優先させる。裏切られたデヴィッドは失望する。

どこまでもデヴィッドは孤独だ。

■この作品をみて、疑問として浮かぶのは、何故デヴィッドはエリザベス・ショウを殺して実験台にしたのか、というところだろう。

救ってくれたエリザベスに愛を感じていたとも告白しているし、今でも彼女の写真を眺めながら暮らしている。

けれど、それは『ブレード・ランナー』でレプリカントがニセの記憶にすがるように家族の写真を大切にするのと同じで、偽物なのだ。

「愛」とは、親が子供をいつくしむように、体の奥から湧き上がってくるような、目の前の相手の体に起きているであろう感覚を自分のなかに感じる「共感」を基礎として立ち上がってくる感情だ。

アンドロイド=レプリカントには、その「共感」が決定的に欠けているのだ。

デヴィッドが「愛」というとき、その「愛」は模倣の愛であって、われわれが感じる「愛」とは別物なのである。

とするならば、デヴィッドがどのようにエリザベスを殺したかは明らかではないが、その死体を解剖し、「創造」の材料とすることは、デヴィッドのなかではまったくの矛盾の発生はない。

我々が感じる居心地の悪い違和感は、実は彼の発した「愛」という言葉に騙されているだけなのだ。

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■人間でないものに人間を見、われわれの感情をそこに見てしまう。

その特性をリドリー・スコットはうまく突き、われわれを混乱に落としいれる。

終盤、コヴェナント号でダニエルズたちがゼノモーフ(ビッグチャップ)に襲われているのをウォルター(と我々が信じたもの)がモニターで監視しているその無表情に感じる不安、それもまた同じことの裏返しなのだ。

しかし、その特性こそが人間であることの証でもある。

リドリーはそれを逆説的に伝えたかったのではないだろうか。

ラストシーンで、ダニエルズはそのことに気づくのだが。。。

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■さて、自分なりに『エイリアン:コヴェナント』を消化できたように思う。もちろん、まだまだ気が付いていないところも多いだろう。

それはブルーレイが出たときにでも改めて考えることにしよう。

2019年には続編が公開されるらしい、『プロメテウス』と『コヴェナント』の間の話という噂もあるが、リドリーの年齢も考えると、『コヴェナント』と『エイリアン』の間の話を期待したい。

まだ『エイリアン』の舞台となったLV-426は登場していないし(コヴェナント号の目的地のオリエガ6ならノストロモ号の海図に乗っているはず)、あそこにはエンジニアの船と少なくとも一人のエンジニアのパイロットの死体があるのだから、まだこの宇宙にエンジニアの生き残りがいるということなのだから。

しかし、まあ、そこには絶望しか待っていないのだろうけれど。

■さて、デヴィッドの話ばかりになってしまったが、もうひとりの主人公、ダニエルズを演じたキャサリン・ウォーターストン。実にかわいらしい。

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旦那が死んでしまう悲劇から始まるが、彼との思い出を胸に立ち上がる、その健気な姿にすっかりやられてしまいました。

職業人としての姿しか描かれなかったリプリー(シガニー・ウィーバー)と対照的に、「人間らしさ」をしっかりと冒頭に描き込まれたのは、デヴィッドとの対比であったのだと改めて気づく。

いやあ、どこまでも計算しつくされた映画だ。

しかし、続編があるとして、彼女の無残な姿はあまりみたくないなあ。

■あと、とっても気に入ってしまったのが、新しいクリーチャー、ネオモーフ。

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ゼノモーフ(ビッグチャップ)が完全な生命体(バイオメカノイド)であるのに対し、発展途上のネオモーフはとても生物臭い。

それゆえに、そのたたずまいが生理的に恐ろしいのだ。

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こんなのに後ろに立たれたら、もうどうしようもないよね。

『プロメテウス』のラストに登場したディーコンの造形は少しがっかりだったので、今回のネオモーフには大満足。

もう、すぐさまネカの7インチ買ってしまいました。

ビックチャップの7インチ並みのいい出来栄えでしたよ!


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なんかこの生理的恐怖感、どこかで見たと思ったら『パンズ・ラビリンス』の怪物か。

こいつも相当こわかった。。。。

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■まあ、こんなところで終わりにしたい。

ああ、いつまでも語っていられるような気がする。

エイリアン好きにはたまらない映画。

リドリー、どうもありがとう!

そして今月公開の『ブレードランナー2049』、もちろん直接のつながりはないだろうけれど、テーマは交錯しはじめてるからね。

2049
リドリー・スコット制作総指揮、 監督はSF映画の金字塔だと勝手に思っている『メッセージ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ!

『ブレードランナー』はリドリーの映像マジックに度肝を抜かれたが、作品的にはルトガー・ハウアー演じるロイ・バッティが、リック・デッカードのいのちをいつくしみながら

It's time to die.

とつぶやいて逝く、あのシーンに尽きる映画だったように思う。

ディレクターズカットでユニコーンの夢とか出して、デッカードがレプリなのか?なんて話題になったが、そんなことはどうでもよかった。

しかし、『プロメテウス』と『エイリアン:コヴェナント』を見る限り、リドリー・スコットはP・K・ディックの想いに追いついてきたのだと感じられる。(『ブレードランナー』の時点でそこに思い至っていたのはルトガー・ハウアーだけだったのではないだろうか。)

さて、どんな話になるのか、事前情報は全部シャットアウトして、公開を心待ちにしているのである。。。

 

                      <2017.10.10 記>

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記事にしても図版にしても満足の出来、エイリアンフリークなら「買い」だと思います!


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この映画は、カットされたシーンを見ないと分かりません。リドリー・スコット隠し過ぎでしょ!


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こんなに何度もセット出されても、もう、買えません!!

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■STAFF■
監督 リドリー・スコット
脚本 ジョン・ローガン
    ダンテ・ハーパー
原案  ジャック・パグレン
     マイケル・グリーン
原作キャラクター創造
     ダン・オバノン
     ロナルド・シャセット
     H・R・ギーガー(エイリアン.オリジナルデザイン)
製作  デヴィッド・ガイラー
     ウォルター・ヒル
     リドリー・スコット
音楽  ジェド・カーゼル
     ジェリー・ゴールドスミス
     マルク・ストライテンフェルト
撮影  ダリウス・ウォルスキー
編集  ピエトロ・スカリア


■CAST■
マイケル・ファスベンダー
キャサリン・ウォーターストン
ビリー・クラダップ
ダニー・マクブライド
デミアン・ビチル

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2017年7月25日 (火)

■【映画評】『64-ロクヨン- 前編/後編』、映画はきらめくようなシーンの連なりで魂を揺さぶるものなのだ。

圧倒的迫力で、テンポもいい。

前後編、一気にいけるのは、映画としての集中力と規格外の役者の演技によるものだ。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.110  『64-ロクヨン- 前編/後編』
          監督: 瀬々敬久 公開:2016年5月/6月
       出演: 佐藤浩市  永瀬正敏 他

Title

■あらすじ■
一週間しか無かった昭和64年。昭和天皇崩御に揺れるそのなかで少女誘拐事件が発生した。少女は遺体で発見され、犯人の手がかりさえつかめないまま、14年の月日が流れ去り、「ロクヨン」と呼称された事件の時効まであと一年となる。

当時捜査員であった三上は、今では刑事部から異動になり広報官として記者クラブの対応に追われている。公安員会のメンバーの娘が起こした交通事故を県警が匿名としたことで、県警広報部と記者クラブの間に亀裂がはいる。そんなとき、未解決重大事件の解決を鼓舞する名目で警察庁長官の視察が予定される。そのセレモニーを成功させるためにも記者クラブとの関係改善に奔走する三上たち。だが、長官視察の前日に、ある事件が発生する。

■原作は読んでいない。

原作を忠実に再現したと評価されるNHKのドラマの評価が高い一方で、この作品に対する原作ファンの評価はあまり高くないようだ。

原作と比べてしまうとたぶん、そうなのだろう。

けれど、映画というのは小説とは違うものだし、連続テレビドラマとも違うものである。

映画は観る者の自由な思考を制限する。その映像の展開で観る者の意識を吸い上げ、その世界に没入させる。

その時、観る者は自分が体験したことのない世界を味わっていることに、そこに投げだされていることに満足を覚えるものなのだと思う。

2時間という比較的長い時間、それを維持することは難しい。

だから、ストーリーの軸が大事だし、テンポがとても大事になる。

小説や、連続テレビドラマにおいて、背景となる人物群の細かい心理描写や、設定のディテールの積み重ねが物語を盛り上げていく。魂は細部に宿る。

けれど、映画でその手法を使うならば、観る者の思考は乱され、没入を拒絶する。

たぶん、監督、脚本の瀬々敬久はそこをかなり意識したのだろう。この映画はエンターテイメントとしての映画を意識した造りをしているし、かなりの高いレベルでそれを成功させていると思う。

■県警に不信感をもつ記者クラブと広報の対立、県警上層部と理想主義者の三上の対立、本庁の方を向いて仕事をする上層部と現場の刑事部との対立、三上と娘との溝、ロクヨンで人生を狂わされた捜査員、事件解決よりも組織の維持が大切な警察、そして、昭和64年に取り残されたまま生きている被害者の父親。

この細密で複雑な群像が、ロクヨンという忘れ去られた事件に引きずられるように収斂していく物語である。

当然、枝葉を切れば、そこから見えてくる景色も変わってしまうだろう。

けれど、それが映画だ。

そこを補うのは濃密であまりにも強烈な俳優陣の演技力である。

それが、思い切った剪定によるテンポの良さとあいまって、この映画を高みにへと押し上げている。

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うっとおしい瑛太をはじめとする記者クラブの面々によるアナクロ学生闘争のような群像劇、滝藤賢一による80年代社会派映画的わかりやすい陰険さ全開のキャリア官僚、保身を強権で隠す奥田英二の刑事部長、説明すら拒む芳根 京子の親と自分への憎しみ、背中で引きこもる窪田 正孝、気弱さの演技だけで理不尽さへの反抗を読み取らせる吉岡 秀隆、ネタバレで書けないけど超絶演技を見せる緒形 直人、セリフひとつで観客を射抜く永瀬 正敏、ともかく熱いことはよくわかる佐藤 浩市。

ディテールを描かない、語らないけれども、役者の目で、魂で語らせる。

論理とか整合性とか、そういうのは成り立たないにしても、それだけで物語は説得力を持って進んでいくのだ。

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■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■さて、物語である。

あの昭和64年に取り残された人がいる。

天皇崩御と大喪の礼で日本が覆われている中、あがき、もがいた過去に取らわれ続ける人がいる。

この映画が目指すのは、それをすべて清算し、その魂を救うことである。

原作では、被害者の父である雨宮とかって捜査員だった幸田が狂言誘拐をして、犯人の目崎をおびき出し、警察に容疑者として確保させるところで終わったようだ。

映画を見ていても、ああ、ここで終幕か、と確かに思った。

けれど、映画ではさらに踏み込んでいく。

組織と自分の保身に走った刑事部長によって目崎は釈放される。

ああ、よくある「世の中の不条理は変わることなく続いていく」というよくあるやつかと思いきや、第二の誘拐事件を思わせる事態になり、三上が先頭に立って事件を解決する。

ミスから事件解決の糸口を失わせ責任をなすりつけられ引きこもってしまった日吉も失った月日を取り戻し、幸田も胸を張って生きていく決意をするし、雨宮も昭和64年の呪縛から解き放たれる。三上の娘が帰ってくることはないが、夫婦のこころには希望の灯がともっている。

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■まさに大団円、まさにカタルシス。

確かに、ベタだけれど、わたしは嫌いじゃない。

映画は、言うほどには観る者に自由を与えない。ならば、最後まで連れて行ってあげよう、という姿勢はエンターテイメントの作り手としては真摯な姿勢だと思うのだ。

しっかりと「落ち」をつくるのは、大事なことである。

けれど終盤、三上が「小さな棺」の罠で目崎をおびき出す、そのあとのシーンがいただけない。

目崎が放置されたクルマのトランクに手をかけたところで、「なぜ、トランクだとわかった?」と目崎を追求するところでカットして、捜査員たちが駆け付け、記者の秋川と目崎の娘がその後ろでたたずむシーンで終わらせるべきだった。

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三上が目崎と乱闘になり、殴りつける、川に頭を押し付ける。

それを目崎の娘に見せつけ、目崎が逮捕される姿に悲鳴を上げさせる。

そこに何を求めるのか。

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それは凶悪犯罪を行った鬼畜のような犯罪者に対して我々が抱く猛烈な怒り、そんな奴は殺してしまえ、その娘もひどい目に合わせてしまえ、という感情だ。

けれど、それは被害者の気持ちじゃない、われわれの心が求める制裁によるカタルシスだ。その暴力的感情は犯罪者のそれと何が違うのか。

シナリオ上、三上がわざとそれをやってしまったという悔恨を述べるシーンがあるが、この暴力シーンをカットしても話はつながるし、三上のセリフにそこまでの意識は感じられない。

人としての尊厳の一線を越えてしまう、それくらいの意味をもつシーンなのだ。

この痛快時代劇的無邪気さによって、ここまで積み上げてきた群像劇の深さが損なわれてしまう。

その意味で監督、脚本の瀬々敬久は致命的に浅い。

或いは観客をバカにしている。

「子を愛する親のお前がなぜ他人の子供を殺せるのか」

という問いに拳を使ってはいけないし、ましてやその子供を傷つけては本末転倒の自己矛盾だ。

■それでも、この映画が素晴らしい位置に保つのは何度も書くけれど役者の演技だ。

なかでも犯人の目崎を演じた緒方直人に愕然とした。

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娘を誘拐されたと思い込み、なんとかその命を救おうと必死になる父親の顔。けれど、相手が自分の過去の犯罪に気が付いていると知ったときの目。

あの演技は異常だ。

娘を愛する心を持ちながら、他人の娘を殺してしまえる矛盾、その異常性。

あの「目」が無ければ、物語がつながらない。

観る者は、あの演技によって一瞬にして、こいつは「おかしい」と了解する。

「子を愛する親のお前がなぜ他人の子供を殺せるのか」

という問いの答えは実はすでにここで出されているのだ。

緒方直人、いかんよ、これは凄すぎる。。。

■そして主演の佐藤浩市。

「子供がいなくなる、それが親にとってどういうことか、お前ら刑事にはそんなこともわかんないのか!」

やっぱり、ここのシーンだよね。

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前篇。

三上が雨宮宅で警察庁長官の訪問を受け入れて欲しいと依頼するシーン。

仏壇で手を合わせ、雨宮に向き直った三上が感極まって泣き崩れる。

その意味が、この後編の佐藤浩市の演技によって一気に深まる。

その後、長官訪問がキャンセルになったと伝えに来た時、雨宮は三上に「あなたは大丈夫ですか」と問う。

三上の自宅にかかってきた無言電話の主が実は雨宮で、だから三上の娘が失踪していることを知っているとにおわせるシーンだ。

そして二人でベンチに座って三上は逆に雨宮に問う。あなたはどうやって14年を過ごしてきたのか。

雨宮が脅迫電話の声の記憶を頼りに、電話帳の1ページ1ページ、1行1行をつぶしていきながら気の遠くなるような作業を続けてきたこと。

それらすべてが

「子供がいなくなる、それが親にとってどういうことか、お前ら刑事にはそんなこともわかんないのか!」

という佐藤浩市の演技に集約される。

見終わったあとに胸に残るのは、それら「親のこころ」の連なりによるなんともいえない熱いものだ。

映画は、ちょっとこれはな、という部分が例えあったとしても、いくつかのキラメくシーンがあって、その記憶がつながることで猛烈な感動を生み出すことがある。

だから、この映画はかなりの難があるけれど、凄いと言おう。

いい映画だ。

                      <2017.07.25 記>

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■STAFF■
監督  瀬々敬久
脚本  久松真一 瀬々敬久
原作  横山秀夫
音楽   村松崇継
主題歌  小田和正「風は止んだ」
撮影   斉藤幸一
美術 - 磯見俊裕
照明 - 豊見山明長
録音 - 高田伸也
編集   早野亮
制作会社  コブラピクチャーズ


■CAST■
三上家
 三上 義信 - 佐藤浩市
 三上 美那子 - 夏川結衣
 三上 あゆみ - 芳根京子
広報室
 諏訪 - 綾野剛
 蔵前 - 金井勇太
 美雲 - 榮倉奈々
ロクヨン捜査班
 松岡 勝俊 - 三浦友和
 望月 - 赤井英和
 漆原 - 菅田俊
 柿沼 - 筒井道隆
 幸田 一樹 - 吉岡秀隆
 日吉 浩一郎 - 窪田正孝
 村串 みずき - 鶴田真由
県警本部警務部
 辻内 欣司 - 椎名桔平
 赤間 - 滝藤賢一
 石井 - 菅原大吉
 二渡 真治 - 仲村トオル
県警本部刑事部
 荒木田 - 奥田瑛二
 落合 - 柄本佑
 御倉 - 小澤征悦
芦田 - 三浦誠己
 雨宮家
 雨宮 芳男 - 永瀬正敏
 雨宮 敏子 - 小橋めぐみ
 雨宮 翔子 - 平田風果
目崎家
 目崎 正人 - 緒形直人
 目崎 睦子 - 渡辺真起子
 目崎 歌澄 - 萩原みのり
 目崎 早紀 - 渡邉空美
ロクヨン捜査員の家族
 幸田 麻美 - 黒川芽以
 幸田 カイト - 佐藤優太郎
 日吉 雅恵 - 烏丸せつこ
記者クラブ
 秋川 - 瑛太
 手嶋 - 坂口健太郎
 掛井 - 坂口辰平
 髙木 まどか - 菜葉菜
その他の記者
 梓 - 嶋田久作
 山下 - 緋田康人
 佐伯 - 矢柴俊博
 宮本 - 加藤虎ノ介

 

 

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2017年7月19日 (水)

■【映画評】『楽園追放』 アンジェラ・バルザックはロイ・バッティである。結局、人のこころを動かすのは、人のこころの動きなのだ。

80年代のSF映画ファンにはたまらない映画である。これは、おっぱい美少女電脳ロボットアニメのフォーマットを使った古き良きSF映画であり、人のこころに響く人間賛歌なのである。

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No.109  『楽園追放 -Expelled from Paradise-』
          公開:2014年11月
      製作 野口光一 監督 水島精二  脚本  虚淵玄 
       出演: 釘宮理恵 三木眞一郎 神谷浩史 他

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■あらすじ■
ナノハザードにより廃墟となった地球を棄てて人類の多くは、データとなって電脳世界ディーヴァで暮らすようになっていた。 そのディーヴァが地上世界からの謎のハッキングを受ける。その主は、フロンティア・セッターと名乗った。ディーヴァの捜査官アンジェラは、生身の体・マテリアルボディを身にまとって地上世界へと降り立ち、地上調査員ディンゴと共にフロンティア・セッターの捜索を開始する。

■「全身の骨で感じるんだよ。ビートをさ」

  お尻を露出したおっぱい美少女が聞く。

 「それって、そんなにも凄いこと?」

 「古い人類のあなたがわたしを怖がらないのは、音楽を骨で感じることが出来るから?」

   
そういう映画だ。

もう少し分かりやすく言うと、こういうことだ。

電脳美少女と泥臭い人の仁義とが出会うことによって、人間とは何か、自由とは何か、というテーマを浮かび上がらせる。

それはかつて、『ブレードランナー』でロイ・バッティが見せた一瞬の輝きであり、『未来惑星ザルドス』のラストシーンに漂う懐かしさなのである。

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■この映画は、プロデューサーでCGクリエーターの野口光一が中心となって企画を立ち上げたオリジナル作品で、脚本は『魔法少女まどか☆マギカ』の虚淵 玄、監督は『鋼の錬金術師(第一期)』の水島精二、CGモーションアドバイザーとして板野一郎を迎えている。

これはきわめて贅沢な布陣であり、 面白くないわけがない。

予想にたがわず、虚淵 玄の紡ぎだすテンポのいい展開やこころを貫くセリフ、水島精二による情感あふれる人物描写、表情、フルCGとして後進に確実に受け継がれている板野サーカスも最高に素晴らしい。

けれど、それよりもなによりも、この作品にはどこか落ち着きのある独特の空気感があって、お尻むき出しの美少女を中心に据えながらも、大人の映画にとどまっているという曲芸にひたすら感心するばかりなのだ。

作り手たちが、ぶれずに守り通したコアの部分はそこにあるのだと思う。

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■人類が電子化された存在として電脳空間で暮らしている、という設定は特に目新しいものではない。サイバーパンクの世界を映画に持ち込んだ『マトリックス』の一歩先を進んでいるだけで、本質的には変わりはない。

また、電脳空間「ディーヴァ」がユートピアの顔をしたディストピアであり、そこを脱出する物語というのもまたしかりである。

神の顔をした保安局高官たちの存在が面白く、彼らがAIなのか、人間なのかは興味深いところだが、その設定自体は「よくある」話だ。

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■けれど、そういう設定の目新しさは、この作品にとってはどうでもいいことだ。

『マトリックス』にとっては、その世界観の設定がすべてだけれど、『楽園追放』にとっての設定は単なる「ガジェット」に過ぎない。

『楽園追放』が描くのは、その「ガジェット」の中で人間が何を感じ、何を思うか、ということなのだ。

それはまさに、『ブレードランナー』や『未来惑星ザルドス』といった80年代のSF映画が描こうとしていたことであり、野口光一や虚淵 玄が目指したところもそこにある。同時代の人間として、もう痛いほどわかる。

『楽園追放』は、今ではすっかり廃れてしまった古き良きSF映画の正式な継承者なのである。

そしてそれが、『楽園追放』が、おっぱい美少女を全面に押し出しながらも大人の映画たり得ている秘密なのだ。


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■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■アンジェラ・バルザックはロイ・バッティである。

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ロイ・バッティとは映画『ブレードランナー』に登場する逃亡アンドロイドのボス。

主人公のリック・デッカード(ハリソン・フォード)に仲間を殺され、ロイ・バッティは超人的身体能力でその復讐をする、しかし、リック・デッカードをしとめようとしながらも自らのアンドロイドとして定められた命が今まさに燃え尽きようとしていることを理解していて、最後の瞬間、リックの命を愛おしむように救うのだ。

『ブレードランナー』という映画はこのシーンがすべてである。

ロイ・バッティを演じたルドガー・ハウアーは監督のリドリー・スコット以上にそのことを理解していて、彼抜きにはこの映画は成り立たなかったであろう。

彼によって、アンドロイドのことばに表すことのできない感情が痛いほど胸に伝わってくるのだ。

人間とは何か、という問いを理屈ではなく感情として、確かな感覚を生み出すことに成功している珠玉の名シーンだ。

■プロデューサーの野口光一とシナリオの虚淵 玄は、確実にこのシーンを意識している。

ディーバにハッキングをかけたフロンティア・セッターが意識を自己生成させたAIであり、相棒で肉体をもつ地上人のディンゴがフロンティア・セッターと人間のように触れ合うさまに、アンジェラは混乱してしまう。

「フロンティア・セッターは人間なの?」

「人間かどうかなんて、どうでもいいじゃないか。」

そんなことを考え始めたら、むしろ肉体を持たないアンジェラも、人間かプログラムかどうかなんて区別できなくなってしまう。

アンジェラは、その感覚の無限の延長によって百億光年先のガンマバーストの音を聞いたり、素粒子に触れることすらできる。

けれど、骨で音を感じることはできない。

人間とはなにか、という問いが彼女の中で生まれ、育ち始める。

それはロイ・バッティが過酷な宇宙のかなたで感じ、死を前にしてその心に芽生えた感情そのものなのである。

■終盤、フロンティア・セッターの旅立ちを守るために戦うその最中、一緒に大宇宙への旅に行かないかとフロンティア・セッターに問いかけられた瞬間、アンジェラの前に世界が開ける。

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目の前に広がるそこにはないはずの緑の地平。

ああ、まだ知らないことがある。

その瞬間、彼女は自由だ。

人間とはそういうことなのだ。

■さて、災厄の後に人間が大気圏外に脱出して以降も100年以上の歳月をかけて、外宇宙への人類移住計画を遂行し続けてきたプログラム「フロンティア・セッター」。

映画『スタートレック』の「ヴィジャー」を思い起こさせる存在だが、むしろ同じ作家による『魔法少女まどか☆マギカ』の宇宙生命体キュゥべえとの対比が面白い。

どちらも客観的、論理的思考と語り口なのだけれども、キュゥべえが最後まで「わけが分からないよ」と人間のこころを理解できなかったのに対し、フロンティア・セッターは本人も良く分からないながらも、極めて人間くさい。

その人間臭さが、アンジェラをして人間としての生を取り戻させる。

『まどかマギカ』における絶望から解放は宇宙を作り変えるほどの転換を必要としたが、『楽園追放』の解放はひとりの人間のこころのレベルでの転換によって成し遂げられる。

このあたりがこの作品が「大人」だと思うところだ。

■そして、フロンティア・セッターの旅立ちの場面。

  
歌を歌って、仁義を通して、星空に夢を見たあんたなら、

もう、人間でいいんじゃないか
 

もう、このディンゴのセリフにやられてしまいました。

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死とか、愛とか、そういう「泣かせ」じゃない。

「真実」に触れたときに感じる震えるような感動。

もう、このシーンだけでこの映画は満点だ。

結局、人のこころを動かすのは、人のこころなんだよね。

 

                      <2017.07.18 記>

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■STAFF■
原作 - ニトロプラス、東映アニメーション
脚本 - 虚淵玄(ニトロプラス)
監督 - 水島精二
キャラクターデザイン - 齋藤将嗣
プロダクションデザイン - 上津康義
メカニックデザイン(フロンティアセッター) - 石垣純哉
メカニックデザイン - 齋藤将嗣、柳瀬敬之、石渡マコト(ニトロプラス)
スカルプチャーデザイン - 浅井真紀
グラフィックデザイン - 草野剛
3Dメカデザイナー - 池田幸雄
設定考証・コンセプトデザイン - 小倉信也
演出 - 京田知己
絵コンテ - 水島精二、京田知己、角田一樹、黒川智之
CG監督 - 阿尾直樹
作画監督 - 郷津春奈
デジタル作画監督 - 山崎真央
造形ディレクター - 横川和政
モーション監督 - 柏倉晴樹
色彩設定 - 村田恵里子
モニターグラフィックス - 宮原洋平(カプセル)、佐藤菜津子
美術監督 - 野村正信(美峰)
撮影監督 - 林コージロー(グラフィニカ)
編集 - 吉武将人(エディッツ)
音響監督 - 三間雅文(テクノサウンド)
音響効果 - 倉橋静男(サウンドボックス)
音楽 - NARASAKI
音楽プロデューサー - 島谷浩作、小西岳夫
モーションアドバイザー - 板野一郎
アニメーションプロデューサー - 森口博史
チーフアニメーションプロデューサー - 吉岡宏起
プロデューサー - 野口光一
アニメーション制作 - グラフィニカ
企画・製作 - 東映アニメーション


■CAST■
アンジェラ・バルザック -  釘宮理恵
ディンゴ  - 三木眞一郎
フロンティアセッター - 神谷浩史
ディーヴァ保安局高官 - 稲葉実、江川央生、上村典子
ディーヴァ女性エージェント  - 林原めぐみ、高山みなみ、三石琴乃

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2017年7月17日 (月)

■【演劇評】『ウエスト・サイド・ストーリー』@東急シアターオーブ。アメリカの虚構と矛盾と、そして生きる力。

うーん、映画より数段感動した。想像の遥か上!

音楽も、ダンスも、照明と美術の演出も最高!

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
番外編 ブロードウエイ・ミュージカル
      『ウエスト・サイド・ストーリー』
           原題: WEST SIDE STORY
          音楽: レナード・バーンスタイン  初演:1957年
      2017年7月公演 渋谷ヒカリエ・東急シアターオーブ
       出演: ケヴィン・ハック(トニー)、 ジェナ・バーンズ(マリア) 他

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■あらすじ■
ニューヨーク、ダウンタウン。 ポーランド系移民の少年グループ、ジェット団と、プエルトリコ移民の少年グループ、シャーク団の縄張り争いの緊張が張り詰めている。そんな中、ダンスパーティーで元ジェット団のトニーとシャーク団リーダー・ベルナルドの妹・マリアは出会い、一瞬にして恋におちる。

■まず度肝を抜かれたのが、演者の肉体。

ダンスとかバレエってほとんど見ないので、ああ肉体って迫力あるなあ、というのが第一印象。ミュージカルって歌だけじゃないんだね。

この強靭でしなやかな肉体群が生み出すキレッキレが最高に『クール』なのである。

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けれどそのダンスは、もちろん、音楽も歌も最高に素晴らしいんだけど、何よりも引き込まれたのは美術と照明が作り出す美しさ。情感あふれる演出だ。

『トゥナイト』のシーン。

夢のような美しさ。音楽と歌声と溶け合って、ああ、と没入する。

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■『ロミオとジュリエット』を下敷きとした物語構成はとてもシンプルでわかりやすいものなのだけれど、シーンのひとつひとつがヴィヴィッドで、物語よりも場面そのものに意味がある。舞台ってそういうものだよね。観ているその瞬間がすべて。

そういう意味で度肝を抜かれたのは『サムウェア』。

リフとベルナルドが死んだあと、急に差しはさまれる白い場面だ。

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背景は取り払われ、白いホリゾントの前でポーランド移民とプエルトリコ移民が和解のダンスを繰り広げる。

その希望も夢でしかないのだけれど、

このシーンで浮かび上がる希望は確かなものであって、このあとの悲劇的結末も、この希望ひとつによって救われる。

こういう構造を持ち込むことが可能なところが舞台の素晴らしさなのだと改めて思う。

■この物語を眺めるとき、どうもトニーに没入することができない。マリアもしかり。純粋なのだろうけれど、どうしても人物像が浅く感じてしまう。それが若者ということなのかもしれない。

その一方でアニタを始めとするプエルトリコの女たちは、そのスパニッシュ訛りの英語もあいまって、とてもリアルだ。

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『アメリカ』。

希望に夢ふくらませ、不安を国において渡ってきた憧れのアメリカ。

実際にはあとから入ってきた移民に対する偏見や差別という現実に直面するわけで、この『アメリカ』という楽曲がきわめて皮肉に用いられている。

トランプ大統領下の不寛容なアメリカ。

『ロミオとジュリエット』の許されざる恋の物語の姿を借りて、自由を標榜しながらも、その社会構造のなかに不寛容が入り混じるアメリカの矛盾。

それは初演の1957年から60年経った今日においても根深く横たわっている、というよりもより一層色濃く表れているのだ。

だからこそ、その回復不可能とも思われる矛盾のなかで、アニタたちの生きる力強さがより前面に押し出される。

それが、アニタ達に感じる奥深さの源泉なのである。

物語はバッドエンドではあるし、現実世界もうまくはないだろう。

けれども、それでも、希望を胸に強く生きるアニタ達にわれわれは希望を見るのだ。

たぶん、それは『サムウェア』で提示される「白い希望」よりも強いリアリティをもって僕らの背中を押してくれる。

そう、そういうことなのだ。

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                      <2017.07.17 記>

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【DVD】<映画>ウエスト・サイド物語 

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うーん、正直なところ映画には途中までまったく乗れなかった。

ジェット団の子供的な部分と俳優たちがどうもかみ合わない。

ところが、リフが死んで浮足立つジェット団のなかで頭角をあらわしたアイスが『クール』を歌いだすシーンに少年たち独特の狂気を感じ、そこから急に面白くなった。

ここ、凄かったなああ。

うつらうつら観てたんだけど、ここで一気に目が覚めた。

アイスを演じるタッカー・スミスが一瞬見せる悪魔のような瞳のぎらつき。

この一瞬だけで価値があると思います。

 

 

■STAFF■
原案・演出・振付  ジェローム・ロビンス
音楽  レナード・バーンスタイン
脚本  アーサー・ロレンツ
  
音楽監督・指揮 ドナルド・ウイング・チャン
演出・振付  ジョーイ・マクニ―リー


■CAST■
ケヴィン・ハック(トニー)
ジェナ・バーンズ(マリア)
キーリー・バーン (アニタ)
ランス・ヘイス(リフ)
ヴァルドマー・キニョーナース-ヴィアノエヴァ(ベルナルド)

 

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2017年7月 6日 (木)

■【映画評】『魔界転生』 深作欣二監督。強烈で、獰猛で、そういうことが許された時代の息吹は、未だ色あせることはないのだ。

これは単なる伝奇ものではない。人の業についての物語りだ。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.108  『魔界転生』
          監督: 深作欣二 公開:1981年6月
        出演: 沢田研二  千葉真一 他

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■あらすじ■
島原の乱で一揆勢を率いて戦うも夢破れ自害した天草四郎時貞は、3万余もの同胞の亡骸を前に、救いの手を差し伸べなかった神とたもとを分かち、悪魔に魂を明け渡してその恨みを晴らすために蘇る。

夫の愛を得られなかった細川ガラシャ、柳生との勝負に強い心残りを抱たまま老いてしまった宮本武蔵、女への煩悩を捨てきれなかった槍の使い手、宝蔵院胤舜、伊賀の里を幕府に不意打ちされ皆殺しにされた忍者霧丸。天草四郎は彼らの未練、怨念を救い取り魔界へと誘い込み、現世へと復活させる。

彼らの目的は徳川幕府を崩壊させ、日本全土を焼き尽くすこと。その動きを知った柳生但馬守とその息子、十兵衛は彼らの目論見を止めることが出来るのか。

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■エロイムエッサイム、我は求め訴えたり

現在でもアニメの世界ではファンタジー全盛だけれども、かつての時代にも「伝奇もの」と呼ばれる独特のファンタジー世界があった。

『魔界転生』はその代表格ともいえるものだろう。

しかし、ファンタジー或いは伝奇というものが本筋ではない。

深作欣二と角川春樹が描きたかったのは人の業だ。

愛する人に自分だけを愛して欲しいという想い、押さえつければ押さえつけるほど狂おしく迫ってくる性衝動、自分が一番強い剣術使いであることを確かめたいという情念。

魔道に堕ちる登場人物たちは、我々のこころの鏡である。

この『魔界転生』は、それをストレートに描くことが出来た時代の作品であり、だからこそ、古臭さも感じることなく、いまだに強いインパクトを我々に与えることができるのだ。

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■現在の日本ではたぶんこの作品を作ることは無理だろう。

「恨み」や「未練」というものは、この時代においてはあまりにも「ベタ」過ぎてそのまま語ることが出来なくなってしまっている。

生々しい「情念」は、気の利いた設定にラッピングされ、きれいな映像や音楽によって飾り付けられた流行りのスタイルの映像作品として商品棚に並べられる。

「情念」をそのままカタチにしたような若山富三郎、室田日出男、成田三樹夫、丹波哲郎、千葉真一というあまりにも濃い昭和の漢(おこと)たちは過去の作品でしか輝くことはできない。

直球というものが成り立たなくなっているのだ。

■それは社会そのものについても言える。

実際の生活の中から情念や怨念は注意深く掃き清められ、(この二人を同列に並べるのはどうかとは思うけれども)応援団長の熱すぎる男、松岡修造や、森友学園の籠池氏のような、情念や怨念をむき出しにする人間は、「ネタ」化という加工を経ることで初めてネットやテレビで消費される。まともに取り合うものはもはやいないのである。

けれど、あの昭和の時代。こういう「むき出し」の人は世の中に溢れていて、さて彼らはどこへ行ってしまったのか。と、ふと思うのだ。

だがしかし、ひとの業というものはそう簡単に消えるものではない。

世の中から隠されてしまっているからこそ、逆にそれは陰湿に内にこもり、うねり、取り返しのつかないことになる前に健全に昇華される機会を心待ちにしているのだ。

こういう、「情念」をストレートに描き、それが作品として成立している過去の作品は、まさにその「内にこもった情念」に強く響くのだ。

■1981年といえば、まだバブルさえ始まっていない時代である。文化的には昭和元禄の始まりというところか。

その文化の始まりにおいて眩い輝きを放ったのが角川映画だ。

  読んでから見るか、見てから読むか

1976年の『犬神家の一族』から始まり、『人間の証明』(1977)、『野生の証明』(1978)、『白昼の死角』(1979)、『戦国自衛隊』(1979)、『復活の日』(1980)、『野獣死すべし』(1980)ときて、本作、『魔界転生』(1981)とくる。

これでもか、というほどの骨太の作品群だ。

その後、『セーラー服と機関銃』(1981)で大作路線からアイドル系へと大きく舵をきるわけで、『魔界転生』は第一期角川映画の最後の輝きともいえるだろう。

もちろん、『時をかける少女』(1983)や『蒲田行進曲』(1982)、『麻雀放浪記』(1984)を生み出した第二期も素晴らしいんだけど、「作品」の素晴らしさ、という冷静さを蹴散らすパワーを秘めた、それ故にダイレクトな「情念」を許容させた猛烈さ、というものはもうそこからは消え失せてしまったのだ。

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■その猛烈さが爆発する本編終盤、炎上する江戸城の中での若山富三郎のキレッキレの殺陣と、そのあとの千葉真一との立ち合いは最高に素晴らしい。演じる者が実際に火の中にあってこその鬼気迫るものというものがやはりあって、こういう迫力はなかなか現代風のCGでは得られない。

最近のアニメの描写力も、そこから引き出される感情も素晴らしいものがあるのだけれど、やはりCGに頼らない実写の迫力というものは別格であって、日本映画にこういう時代があったのだと知らない若い世代は是非にでも見ておくべきだと思う。「情念」の映像表現の極北がここにあるのだから。


■Amazon ビデオ 『魔界転生』

   
■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■深作欣二演出による個々人が生きている群衆シーンも凄いのだけれど、やはり綺羅星のような役者たちが素晴らしく、それをひとりひとり見ていこう。

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まず、柳生十兵衛を演じた千葉真一。柳生十兵衛といえば、この人しかいないだろう。

主要登場人物で唯一魔界に堕ちることを拒んだ人物を演じた千葉真一の気迫は猛烈だ。

この圧力に対抗できる役者は藤岡弘くらいだろう。

でも藤岡弘のような狂気を感じさせないところが柳生十兵衛たる所以なのだろう。

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ジュリーである。

天草四郎時貞という屈折したキャラクターに沢田研二はとても似合う。

天草四郎の恨みは3万人の民草の恨みである。

その恨みを背負っていながら、飢饉を生み出して罪のない民衆を苦しめお上に対する暴動を煽るという矛盾をはらんだ存在。

もはや恨みはそれ自体が目的化してしまっていて、それは悪魔に魂を売ったことによってもたらされた人格によるものなのかもしれない。

ジュリーといえば『太陽を盗んだ男』だけれども、この世のすべてを巻き込むような大きな狂気がとても個人的な情動と共存する、そういう危うさが、まさにジュリーなのだ。

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柳生但馬守宗矩を演ずるは若山富三郎。

迫力のある人である。そういう演技は知っていたのだけれども、殺陣がこれほど凄いひとだとは知らなかった。こんなにキレのある殺陣は見たことがない。

子連れ狼だとか、若山富三郎の全盛期は世代が上になるので新たな発見であった。(私にとっての拝一刀は萬屋錦之介だもんね)

但馬守は、息子であり、後継者である十兵衛に対し、剣の道を究める上で雌雄を決しておきたいという願望を捨てきれない、その一点で魔道に入るのだが、いまいちそこがピンと来ない。それでもラストの立ち合いは、まさに若山富三郎と千葉真一という師弟の仕合いであって、その炎のなかでの鎬の削り合いに理屈は不要なのである。

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宮本武蔵は緒形拳。

太い木刀で撲殺しまくる。あまりにも強い。二刀流もさまになっていてかなり稽古をつけたのだろう。

剣の道に生き、自らを慕った女の気持ちを知りながらそれを棄てた宮本武蔵。

その女の姪を登場に人の心を取り戻しかけるシーン。

そして巌流島を思い起こさせる十兵衛との決闘で、額を割られて倒れるシーン。

ともに緒形拳は派手な演技は行わないし、カットもロングショットで表情すら分からない。けれども観る者には武蔵の心情が十分に伝わるのだから、やはり役者としての緒形拳は尋常ではない。

濃密な昭和の俳優たちの中にあって、その微妙で奥深い演技が実に味わい深く、心に響くのである。

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佳奈晃子さんという女優はあまり意識したことがないのだけれど、恐ろしく妖艶な人である。

もともと原作には細川ガラシャは登場しないようなのだが、そこに「女」という業を組み入れた角川春樹と深作欣二には脱帽なのだが、それを演じきった佳奈晃子さんもあっぱれである。

将軍様でも、これでは参ってしまいます。

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さて、室田日出夫である。

胤舜は宝蔵院槍術の完成者。僧侶として女を遠ざけて生きているのに性的な衝動を抑えられない。

そのタガが外れて魔道に堕ちた胤舜はまさにセックスアンドバイオレンスの塊。そこに室田日出夫の獣性がきらめく。

『野獣死すべし』のリップ・ヴァン・ウインクルのシーンもいいけど、魔道に堕ちる前に女を襲う妄想に取りつかれる胤舜のシーンもまた素晴らしい。

狂気とは正気とのはざまにあるときに一番恐ろしい姿を現すのである。

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伊賀の影丸は真田広之。

まだまだ若い。

魔道に堕ちた連中のなかにあって、天草四郎を信じる素直さと父を亡くした少女を思う人間性との間に揺れ動く。

若いということは「業」が浅いということ。

逆に年をとればとるほどに、人は抱えるものが増えていき、背負う「業」も深くなる。

しかし、業が深ければ深いほどに、人としても深くなる。

真田広之は今では深みのあるハリウッドスターだが、本作の真田広之にはそれは感じない。

今の真田広之はどんな業を背負っているのだろう。

いまだにさわやかさを失っていないのだけれど。

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「神に会うては神を斬り、魔物に会うては魔物を斬る。これが村正にございます。」

このセリフがすべてである。

鍛冶師村正を演じる丹波哲郎。

「死んだら驚いた」

みたいな霊界の使者になって以降、すっかり印象が狂ってしまったけれど、よく思い出せばもともとそういう言い切り型の感じの人ではあった。

それゆえ、こういう「口上」が実に決まる。

本気なのか演技なのか分からない。

この人もまた「はざま」に漂う人なのであった。

 

こうして眺めてみると本当に濃い映画だ。

何だか『仁義なき戦い』が見たくなってきたぞ!

                      <2017.07.06 記>

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■STAFF■
製作 : 角川春樹
原作 : 山田風太郎
企画 : 角川春樹事務所
プロデューサー : 佐藤雅夫・本田達男・稲葉清治
脚本 : 野上龍雄・石川孝人・深作欣二
監督 : 深作欣二
撮影 : 長谷川清
録音 : 中山茂二
照明 : 増田悦章
美術 : 井川徳道・佐野義和
編集 : 市田勇
助監督 : 土橋亨
進行主任 : 長岡功
スチール : 遠藤功成
音楽 : 山本邦山・菅野光亮
衣裳アドバイス : 辻村ジュサブロー
協力 - 矢島特撮研究所、デン・フィルム・エフェクト
東映京都作品



■CAST■
千葉真一 : 柳生十兵衛光厳
沢田研二 : 天草四郎時貞
佳那晃子 : 細川ガラシャ
緒形拳 : 宮本武蔵
室田日出男 : 宝蔵院胤舜
真田広之 : 伊賀の霧丸
松橋登 : 徳川家綱
成田三樹夫 : 松平伊豆守
神崎愛 : おつう
菊地優子 : お光
丹波哲郎 : 村正
若山富三郎 : 柳生但馬守宗矩
  
大場順 : 柳生左門友矩
島英津夫 : 柳生又十郎宗冬
久保菜穂子 : 矢島局
成瀬正 : 甲賀玄十郎
中村錦司 : 石田上総守
河合絃司 : 神尾備前守
川浪公次郎 : 松平隼人正
鈴木康弘 : 富田主膳
有川正治 : 伊崎平内
岩尾正隆 : 安井藤兵衛
内田朝雄 : 酒井雅楽頭
相馬剛三 : 阿部豊後守
丘路千 : 堀田備中守
角川春樹 : 板倉内膳正
中江英生 : 細川忠利
林三郎 : 水野勝成
小林将孝 : 戸田氏鉄
飛鳥裕子 : 甲賀くノ一
鈴木瑞穂 : 小笠原少斎
浜村純 : 茂左衛門
東龍子 : 茂左衛門妻女
梅沢昇 : 伊賀の長老
犬塚弘 : 宗五郎
秋山勝俊 : 与平
野口貴史 : 彦作
白川浩二郎 : 米十
高月忠 : 百姓
中島茂樹 : 百姓
赤羽明 : 百姓
吉沢高明 : 百姓
鄭美玲 : 百姓
丸平峯子 : 百姓
白石加代子 : 声
カルロッタ池田 : 霊
畑中猛重 : 侍
中島葵 : 百姓女
三谷昇 : 旅僧
味方健 : 能シテ
味方団 : 能子方
谷田宗二郎 : 能ワキ
茂山あきら : 能アイ

 

 

●●● もくじ 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●

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