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2010年4月11日 (日)

■久しぶりに。

何年か振りに道志の「うらたんざわ渓流釣場」へ行く。

駐車場の位置が変わっていたりして少し様変わりしていたが、管理釣り場のくせになかなか釣れない手ごわさは相変わらず、って俺が下手なだけか。

ボウズ、という言葉がアタマをよぎり始めた10時ごろからボチボチ釣れ始めて胸をなでおろす。

カゲロウのハッチがかなりあって、それに当たった感じでしょうか。

Img_6844

待望の一匹目。

Img_6848

ご無沙汰のヤマメちゃん。

写真はないけどイワナちゃんも。

午後に入って渋くなったけど、久しぶりに外でロッドを振るだけで気分はいい。

あわせ切れやらなにやらで、10個ちかくフライをロスト。

週末に巻き巻きせねば。

                             <2010.04.11記>

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2010年3月20日 (土)

■【映画評】『ディア・ドクター』、医者と白衣とペンライト。

♪遠回り 遠回りするのさ

 どんな道草にも 花は咲く

                ― エンディング曲 「笑う花」 ―

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.39  『ディア・ドクター
          
           監督: 西川美和 公開:2009年6月
       出演:笑福亭鶴瓶 瑛太 余貴美子 井川遥 香川照之 八千草薫 他

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■ストーリー■
山間の小さな村。そこで唯一の医師として村民から慕われている男・伊野のもとに研修医がやってくる。戸惑いながらも次第に伊野の献身に惹かれ、血の通った本当の医療に目覚めていく研修医。だが、伊野は誰にも言えぬ、ある秘密を抱えていたのだった。

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【DVD】ディア・ドクター

■西川美和は詩人である。

ドラマに差し挟まれる風景に余韻があって、その隙間が見る者の感情を開かせる。

その文体は多くを語らないが故に豊穣な印象に満ち溢れているのである。

   
■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■医師の印象を作り上げるもの、象徴としての白衣。

医師であるから白衣を着るのか、

白衣を着るから医師となるのか。

この物語のテーマは後者にあって、そこに巻き込まれていった男の泣き笑いを軽妙に、けれど深々と描きこんでいく。

■球が飛んでくるから打つ。

打つからまた球が飛んでくる。

それを繰り返しているうちに、だんだんその気になってくる。

そうやって目の前のことに無心になって取り組んでいるとき、

ニセモノでも、本物でも、論点はそこには無い。

■生きていく。

というのは、そういうことなのかもしれない。

  

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                           <2010.03.19 記>

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【DVD】ゆれる
揺れ動く記憶の風景。
オダギリジョー、香川照之のまさに「競演」が凄い。

  

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【CD】モアリズム「笑う花」

 

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■STAFF■
原作:西川美和 「きのうの神さま」(ポプラ社刊)
監督・脚本:西川美和
撮影:柳島克己


■CAST■
伊野治:笑福亭鶴瓶
相馬啓介:瑛太
大竹朱美:余貴美子
斎門正芳:香川照之
波多野行成巡査部長:松重豊
岡安嘉文警部補:岩松了
曽根登喜男村長:笹野高史
鳥飼りつ子:井川遥
鳥飼かづ子:八千草薫

    
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2010年1月 9日 (土)

■【映画評】『ゴジラ』、最初にして最高の怪獣映画。

言わずと知れた日本怪獣映画の魁である。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.38  『ゴジラ
      原作:香山 滋 監督:本多猪四郎 特殊技術:円谷英二 公開:1954年
   出演: 宝田 明 河内桃子 他

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【DVD】ゴジラ <昭和29年度作品>

■ストーリー■
水爆実験によって海底の棲みかを追われた古代の巨大生物が東京に上陸し破壊の限りを尽くす。我々人類はその脅威に対抗することは出来るのか。

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■ゴジラを見た。

だいたい25年ぶりくらいだろうか。

その後、幾多の怪獣映画を見たが、やはりオリジナルには敵わない。

何故なら、これ以降の特撮怪獣映画は『怪獣』そのものを描くわけだが、この映画は人間の業を描いているからに他ならない。

■その背景には原水爆の脅威があって、直接的にはビキニ島沖での第五福竜丸事件が切っ掛けとなっている。

焼け野原と化した東京の街は、つい10年前の東京大空襲を想起させるが、ゴジラの撒き散らす放射能は目に見えないが故にさらに恐ろしい災厄をもたらす。

被災者収容施設で少年にガイガーカウンターをあてて医師が悲しげに首を振るシーンが事態の深刻さをありありと描いている。

■そんな状況でもなお、この特異な生物を研究の対象として守るべきだと考える山根博士(志村 喬)。

脅威の破壊力をもつオキシジェン・デストリイヤーが政治的に利用される危険性が高いことが分かっていながらそれを完成させてしまう芹沢博士(平田昭彦)。

方向性は違えども、ともに真理を追究せざるを得ないという科学者の業である。

そして、そういった芹沢博士の業によって作り出されたオキシジェン・デストロイヤーでしかゴジラに対抗出来なかった、その悲観がこの映画に深みを与えているのである。

■もちろん怪獣映画としても素晴らしい。

ストップモーションによる人形アニメーションが主流だったアメリカの特撮映画に対して、精巧なミニチュアの街と着ぐるみ怪獣の組み合わせによる新機軸。

CG全盛の現在においても着ぐるみの実写の方がリアリティがある。

未だに廃れないその技術の元祖でありながら既に完成されているところに改めて驚かされる。

■あらを探せば切りが無いし、画面の粗さに助けられている部分もあるだろうけれども、本編と特撮の切れ目が気にならない。

映画に没入するためにはそこが一番キモになる部分なのだと思う。

それはセットやミニチュアを如何に精巧に作るかという、実に地道な作業に支えられているのである。

■このあと『ゴジラ』は怪獣プロレスへの道へと進み、志は急速に曲がっていってしまうのであるが、『クローバーフィールド』とか『グエムル・漢口の怪物』など現代の怪物映画に確実にその志は引き継がれている。

その意味で怪物・怪獣映画の金字塔といって間違いない、不朽の名作なのである。

  

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                              <2010.01.09 記>

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■STAFF■
原作:香山 滋
監督:本多猪四郎
特殊技術:円谷英二


■CAST■
尾形秀人(南海サルベージKK所長)     宝田 明
山根恵美子(山根博士の娘、尾形の恋人) 河内桃子
芹沢大助(科学者、山根博士の愛弟子)  平田昭彦
山根恭平(古生物学者)            志村 喬

    
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2010年1月 5日 (火)

■大河ドラマ「龍馬伝」。龍馬は一日にして成らずなのだ。

■最近のNHKは気合いが入っている。

一大巨編「坂の上の雲」をやりながら、その一方で坂本龍馬にオリジナル脚本で挑もうっていうのだから恐れ入る。

■さて、その「龍馬伝」である。

第1回はタイトル通り、土佐藩における上士と下士の不条理を描く。

そのなかで弱虫な子供であった龍馬が母の死後、その不条理を胸に抱きつつ腕の立つ青年剣士に育っていく。

■少年時代のアーノルド・シュワルツェネッガーが虚弱体質であったことはよく知られているが、それをバネにして一流のボディビルダーになり、一流の映画スターになり、政治家になり、と、何となく今回の「龍馬」像と重なって見えてくる。

坂本龍馬も、その根本は「弱虫」にあって、その弱さゆえに大きく羽ばたいていく、というわけである。

その辺りが新しい。

そこで福山雅治、ということか。

■ハッキリ言って福山雅治に坂本龍馬は似合わない。

剣の腕前とアタマの良さをちょっとお調子者の快活さで覆い隠す、そういう龍馬に対して福山雅治は線が細過ぎなのである。

けれども、我々の抱いている龍馬像は、薩長の手を結ばせ、船中八策であたらしい日本をデザインした英雄の姿であって、結果から作られた虚像なのかもしれない。

そこにズバッと斬り込み、「生きている龍馬」をえぐり出す。

どこか弱々しさを感じさせるような、そこに生の龍馬がある。だからこその福山雅治なのだろう。

■他のキャストで気になるといえば、やはりこの物語の語り部でもある岩崎弥太郎を演じる香川照之だろう。

この人は本当にすごい。

小汚くて、少し性根の曲がった青年期の弥太郎の見事なことといったらない。

「坂の上の雲」の正岡子規もいいけれど、こういうネジクレタ役をやらせたら右に出るものはいないのではないだろうか。

■オリジナル脚本の筆をとるのは「HERO」の福田靖。

演出は「ハゲタカ」、「白洲次郎」の大友啓史。

これで面白くないわけがない。

この後どんな龍馬像が描かれていくのか、楽しみに待とうと思う。

                            <2010.01.05 記>

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2009年12月20日 (日)

■【書評】『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』、下條信輔 著。境界線の無い、ゆらぎの中に浮かぶもの。

「わたし」という意識はいったいどういうものなのか、その問いに対する大きなヒントを与えてくれる本である。

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■「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤
下條信輔 著 講談社現代新書 (1999/02)

■知覚心理学、認知神経科学の大家である著者が、「意識」、「こころ」の正体に迫るその切り口として作り出した概念が「脳の来歴」、である。

「意識」というものは「これ」と指し示すことが出来るものではない。

個人の遺伝子に埋め込まれたもの、生まれ育ってきた経歴、まわりの環境、音、匂い、肌触り、ぬくもり、といった身体感覚としての記憶、それらの総体を「脳の来歴」と名付け、意識とは、そこにもたれかかるようにして立ち現れてくるものだ著者はいう。

■他者の「意識」、「こころ」は、そうやって生まれた脳の来歴によって、「自分と同じようにそこにあるもの」と想定することで認識される。

他者の意識の中に自分が入り込めない限り、そうとしか言うことができない。

それでは、自分の「意識」、「こころ」はどうやって認識できるのか。

■転んで泣いている子供のそばに寄って「痛いのかい?」と尋ねたとき、子供の中に「痛い」という「意識」が初めて生まれてくる。

その時の自分の状態を「痛い」ということばと結びつけて「認知」が生まれる。

面白いことに「認知」は自らの中からではなく、外からやってくるものなのだ。

そこには「他者」が必要なのである。

■ここに、大きなヒントがあるように思われる。

「自分」という意識は、自分の記憶や周りの世界への認識、身体感覚だけで作られるものではなく、「『他者』の存在」にも大きく依存するものなのではないか。

「意識は脳に宿る」という唯脳論から、身体感覚の積層というA・R・ダマシオ(『無意識の脳、自己意識の脳』)の考え方。

そこからさらに自分の肉体の殻をやぶって他者、環境へと広がっていくイメージ。

「自分」と「世界」は確かに違うものなのだけれども、そこにはハッキリとした境界がない、という物の見方だ。

 
「意識とは、一つの状態、機能の名称ではなく、異質なもののゆるやかなまとまり」

 
と著者は語る。

確かにそういうものなのかもしれない。

■さらに、著者は「意識」と「無意識」の違いへと踏み込んでいく。

「無意識」とは、自動的であたかも機械のようなものであって、多分動物にもあるもので、科学的に踏み込んで行きやすいもの。

「意識」は、とらえどころのない、ゆるやかなまとまり。

では、「無意識」と「意識」の境界線はあるか、というと、そこにもハッキリとした境界線があるわけではなく、ゆらいでいる。

フロイトのいう「前意識」に近いイメージで、それが「無意識」と「意識」のあいだにぼんやりと存在する。

■「意識」というのは、何かにに焦点をあてることであって、そのまわりにぼんやりと「意識されないもの」が拡がっている。

通常、我々が歩いているとき、常にそこに意識を集中しているわけではなく、何か考え事をしながら、なんとなーく無意識に周りを見ている。

その目の前に自転車がスッと現れた瞬間、そこに「意識」の焦点が移る。

  
「意識の周辺の背景(地)なしに、意識(図)は生じ得ない」
 

このあたりもナルホドと思わせる。

■ここにおいて、「意識」というものの全体像が浮かび上がってくる。

要するに自己の内と外、さらに無意識との境界線がハッキリとしない、とある瞬間の「状態」、ということである。

「<意識>とは何か」

という問いに対しては、そもそも明確な答えが出せない性質のものなのだ。

■けれども、「私」の中には確かに「意識」、「こころ」というものは確固として存在する。

そこに分け入って確かめることは出来ないけれども、他の人にも「意識」、「こころ」は存在し、犬や猫やイルカにも、その性質やレベルは違っても「こころ」のようなものがあるように見える。

では、その「意識」、「こころ」を人工的に作り出すことは出来るのであろうか。

■SF作家、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」ではアンドロイドのレイチェルに「こころ」のようなものが垣間見えるのであるが、果たしてそういうことは可能なのか。

見せかけだけでない、自我を、魂を持った機械というものを作り出せるのか。

答えはNOであり、YESであると思う。

■1+1=2の演算の集合である電子回路を基礎とした今のコンピューターでは、「そう見えるもの(シミュラクラ)」は作れても、自我そのものを作り出すことは出来ないであろう。

「意識」はあいまいで境界線のぼやけた「状態」であって、「解析」、「演算」では近づくことの出来ないものだからである。

近代から続く還元主義的科学がその頂点を極めた現在、その先に立ちはだかっているのも、同じく「複雑系」といわれる「あいまい」で「境界線」のぼやけたものたちなのだ。

地球の気象をスーパーコンピューターで解析、予測しようとしても、そこに現れるのはあくまでもシミュレーションの結果であって、「そのもの」ではない。

どこまでも近づくことはできるかも知れないが、決して到達することの出来ないものなのである。

■だがその一方で、我々に「意識」がある、という事実は、それを作ることが可能であることを示唆している。

 
だって、実際にあるんだもん。

作れねぇワケないだろ。
 

ということなのだが、その為には新しい概念のコンピューターが必要になるのだろう。

1+1の積み上げではなく、局所と全体がゆらぎながらも密接に関係し合う、というような複雑系的演算方式(?)を作り出すことが出来るならば、もしかすると、そこに「魂」が生まれる可能性があるのではないか。

■けれど、それでもなお、我々は「意識」を解明するには至らないであろう。

倫理を度外視してそこに踏み込んでみたとしても、

それは「私」にとって、新たな「他人」に過ぎないからである。

要はどうどうめぐりなのだ。

  

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                           <2009.12.20 記>

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■「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤
下條信輔 著 講談社現代新書 (1999/02)

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■ひつじの本棚■ 『無意識の脳、自己意識の脳』 「私」とは何か?

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2009年12月19日 (土)

■片山右京、富士山で遭難。生きて還ることの勇気。

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■片山右京が冬の富士山で遭難し、息を引き取った仲間2人を残して下山してきたという。

そもそもが無謀な行為であったのだ。

このニュースを聞いたとき、正直そう思った。

その軽率を非難することは容易だ。

けれども、’限界を超えるチャレンジ’に甘さがあったにせよ、その場面を想像するに、そこには身を切られるような壮絶な思いがあったに違いない。

■登山には詳しくはないが、冬の早朝の河口湖でフライロッドを振っていた時期があって、そこから眺める美しい富士の笠雲の下では強風吹きずさむ地獄があるのだろうな、というそれなりの想像はつく。

その状況の中で生還した右京を責めることはあまりにも酷な気もするのだ。

実際の状況はまだ漠然としているけれども、

生きて還る勇気。

これだけは否定してはいけないことのように思うのである。

   

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                            <2009.12.19 記>

■関連記事■
■『男が人生の忘れ物に決着をつける時。』 標高8848mの世界。 野口健、チョモランマ登頂。

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2009年12月16日 (水)

■NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』。単純明快に!

■まだ第3話を見てないのだけれども、2話目までの簡単な感想。

話は、伊予松山で生まれ育った秋山好古、真之、正岡子規が東京に出て、それぞれの道を歩み始めるところまで。

■いやー、引き込まれるドラマです。

90分があっという間に過ぎていく。

司馬遼太郎調の語り(渡辺謙)、久石譲の情感豊かな音楽。

また好古を演じる阿部寛、真之を演じる本木雅弘、子規を演じる香川照之がこれ以上ないというくらいハマっていて、脇を固める菅野美穂、伊東四朗も輝いている。

テンポが速くて、それでいて丁寧な演出、脚本ももちろん最高だ。

■2話目までで一番印象に残ったのが好古が真之を指導するときの「単純明快に!」という考え方。

一刀両断、って感じがして小気味いい。

■「単純明快に!」

いいねえ、気に入った!

迷ったときは、「単純明快に!」

とりあえず2010年のテーマとしておくか。

   

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                          <2009.12.16記>

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■坂の上の雲(全八巻)司馬遼太郎 著 文春文庫

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■「明治」という国家
司馬遼太郎 著 日本放送出版協会 (1989/09)

  
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■スタッフ■
原作:司馬遼太郎(『坂の上の雲』『明治という国家』)
脚本:野沢尚、柴田岳志、佐藤幹夫
演出:柴田岳志、佐藤幹夫、加藤拓、木村隆文、一色隆司
音楽:久石譲
主題歌:サラ・ブライトマン『Stand Alone』(作詞:小山薫堂 作曲:久石譲)

■キャスト■
秋山真之  : 本木雅弘     海軍軍人。日露戦争時の連合艦隊参謀
秋山好古  : 阿部 寛       陸軍軍人。“日本騎兵の父”とよばれる
正岡子規  : 香川照之      俳人・歌人。俳句や短歌の革新を目指す
* * * * * * * * *
山本権兵衛  : 石坂浩二   日露戦争時の海軍大臣。
                                       後に第16・22代総理大臣
東郷平八郎  : 渡 哲也     海軍軍人・日露戦争時の連合艦隊司令長官
高橋是清    : 西田敏行    神田・共立学校の英語教師。後に大蔵大臣、
                                       第20代総理大臣
伊藤博文    : 加藤 剛      初代内閣総理大臣
児玉源太郎  : 高橋英樹    陸軍軍人。日露戦争時の満州軍総参謀長
* * * * * * * * *
夏目漱石  : 小澤征悦        小説家。子規とは親交が深かった
秋山久敬  : 伊東四朗         秋山兄弟の父
秋山 貞   : 竹下景子         秋山兄弟の母
秋山多美  : 松たか子          好古の妻
秋山季子  : 石原さとみ        真之の妻
広瀬武夫  : 藤本隆宏         海軍軍人。海軍での真之の友人
正岡 律   : 菅野美穂        子規の妹。病床の子規を支え続けた
陸 羯南    : 佐野史郎           新聞「日本」主筆。子規の恩人
正岡八重  : 原田美枝子       子規、律の母
* * * * * * * * *
語り     :  渡辺謙

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2009年12月14日 (月)

■【書評】『ある異常体験者の偏見』、山本七平。周囲の空気に流されない、「自律」ということ。

この論文集が文芸春秋に掲載されたのは1973年から74年であるのだが、今なおその鋭さは鈍ることは無く、そのことは日本人の物の考え方が根本のところではあまり変わっていないということを指し示しているのかもしれない。

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■ある異常体験者の偏見
山本七平 著 文藝春秋 (1988/08)

■ここでいう異常体験とは、山本七平氏の砲兵としての従軍体験及びフィリピンでの俘虜体験のことを指し、異常体験をしたことで初めて分かることを敢えて「偏見」と呼んだ上で、再び日本が戦争、或いはそれ相当の異常事態に巻き込まれない為の警句としてこの本はある。

 「資源の無いこの国が戦争を始めたところで長くは続かないことは分かっていた。」

当時の軍人を含む、多くの人がそういうのだが、

それでは何故「墜落」すると分かっていて「飛んだ」のか!

というワケである。

■結論からいえば、資源とか軍事力といった物理的な要素からなる「確定要素」からすればその不均衡は明白であるのにに対して、「民衆の燃えたぎるエネルギー」といった精神力を主とする「不確定要素」でそれを補うことで戦争に進んでいった、ということだ。

が、こう言うと簡単すぎてこの本の面白みが伝わらない。

■何しろ、「異常体験者」の「偏見」なのである。

そこで体験した苦しみは、直接向かい合うことが出来ず、笑い話にするか、飛びのくか、似たような体験をした他のひとに託して語るほかない、という。

そこまでの凄みを背景とした「論」がそう簡単に理解できてしまえるほど軽かろうはずはない。

それでもその「論」が少しづつでもアタマの中に入ってくるのは、物事を理性的に捉え、論理的に語ることに徹底する、その姿勢にある。

■そこにあるのは「思考停止」に対する徹底的な批判である。

そのキーワードが山本氏が作り出した「軍人的断言法」という概念だ。

一定の判断以外は全部消し去ってしまう、これを徹底的に実施する(日本の旧)軍隊においては、合理的な判断が狂ってしまって、明確な命令が無くとも、ある一定の行動に縛られてしまう。

いや、もちろん軍隊というものは極めて論理的、合理的組織で、それでなければ戦争などは出来ないのではあるが、そこに生まれる一種の「空気」、「ムード」といったものがあって、それが個人の思考をしばり、「王様は裸だ!」と叫ぶことを出来なくさせてしまうのである。

■それは何も旧軍だけの話ではない。

「精神が兵器に打ち勝つ」理論や主張や解説が積み上がり、その表現がエスカレートして、世の常識になっていく。

そう世の中を扇動したのは当時のマスコミであり、そういう論調になびき、好んだ民衆自身もまた、「空気」をつくりだした主体なのである。

■その日本人の思考方法は今に至るも変わっていない。

「編み上げ靴に足を合わせろ」、というのは旧軍の有名な話だが、「経済的目標に人間を合わせろ」と言葉を変え、1973年の当時は公害問題としてその矛盾が現れ、2009年の現代においても利益をひねり出すのに人間を搾るカタチとして生きのびている。

合理的に考えれば到底無理な目標を立てて、精神力或いはモチベーションなどというコトバで煽って補おうとする、それは戦前の日本と何が違うのか、という話だ。

■「日本人の思考は常に「可能か、不可能か」の探求と「是か、非か」という論議が区別できない。

是か非か、の議論の前に可能か、不可能かが現実の問題として検討されねばならず、不可能なことの是非を論じるのは時間の空費である。」

と、山本七平氏はいう。

■かつてNHKで放映されていた「プロジェクトX~挑戦者たち~」の登場人物たちが不可能を可能にしていくその姿にカタルシスを感じていた我々は、まさにその思考に捉われているのである。

それの何が悪い。

出来る出来ないの問題ではない。

ヤルのだ!
 

実に心地イイ考え方である。

■この本を読み終えた今でも、その心地良さを捨てきれない自分がある。確かに、諦めない心が一見不可能と思われていたことを可能にすることもある。

が、それが本当に自分の思考なのか。事実をもとに自分で考え抜いた上での結論なのか。実は周囲の「空気」に流されているだけではないのか。「集団ヒステリー」に巻き込まれているだけではないのか。

それを改めて自分自身に問うてみる。

それが自らを律する、

つまり「自律」というものなのではないだろうか。

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                         <2009.12.14 記>

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■ある異常体験者の偏見
山本七平 著 文藝春秋 (1988/08)

 
■関連記事■
■【書評】『「空気」の研究』、山本七平。決して古びることのない本質的日本人論。

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2009年12月 9日 (水)

■成仏するのは誰なのか。『爆笑問題のニッポンの教養』 死生学、清水哲郎。

久しぶりの爆問学問。

今回のテーマは、死。

20091201_shimizu
■ 爆問学問『爆笑問題のニッポンの教養』(番組HPより)
FILE094:「よりよく死ぬための哲学」 2009.12.01放送
東京大学人文社会系研究科 上廣死生学講座教授 清水哲郎。

■自分はどのように死にたいか。

という話から始まり、身近でリアルな死についての対話が続く。

身近な人の死、というものは動物の死と違って、

’死んでいる’

とは言わない。

いなくなってしまった。

身体は残ってはいても、その人はもう、ここには居ない、

という。

確かにそうだ。

■大切な人がいなくなってしまう。

これほど身を切られるような悲しみは無い。

今、それを想像すると、すぐにでもそうなってしまいそうで

慌てて、その’死’のイメージを振り払う。

■けれども、それは確実にやってくる。

それを受け入れざるを得ない状況は必ずやってくる。

とても、とても、大切な人を失ってしまった。

その経験が、死別への恐怖をよりリアルなものとして

増幅させる。

■太田はいう、

お葬式っていうのは、どこか心を安堵させるものがある。

 ほら、いい表情をしているでしょう。

 皆さんがいらしてくれたのをよろこんでいるんですよ。

確かにそういう面もある。

■けれど、それはセレモニーにおける高揚感のような

一時的なものなのではないだろうか。

そのセレモニーがひと段落ついたときに、

あらためて、あのひとがいなくなってしまった

そのことに沈み込んでいくのだろう。

■初七日、四十九日、百か日。

お坊さんのお経を聞きながら、

ああ、本当にいなくなってしまったのだと

月日が経つとともに

それを受け入れるようになっていく自分がいる。

■3年経とうが、10年経とうが、

絶対に悲しみはあるのだけれども、

どこか日常のなかに溶け込んでいくような、

こころのなかに、この胸の中に

確かにいるよ、という心持ちが生まれてきて、

もしかすると成仏するのは死んだ人間ではなくて、

残された者の方にあるのではないか、

 

そんな気がするのである。

                          <2009.12.09 記>

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■どう生き どう死ぬか―現場から考える死生学
岡部 健/竹之内 裕文編他 著、 清水 哲郎 監修 弓箭書院(2009/5/7)

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2009年12月 6日 (日)

■MEGA WEB ヒストリックガレージ。何故に昔のクルマは美しい。

■お台場パレットタウンにあるヒストリックガレージの2階のエリアって雰囲気がいいなあとおもう。

ヒストリックカーって何故これほどまでに魅力的なのだろう。

何故ここまで美しいクルマがあるんだろう。

■確かに今のクルマもそれなりの美しさがあるのだけれども、

なにか本質的な違いがあるように思えるのは気のせいであろうか。

それとも過去への憧憬がそうさせるのであろうか。

いいなあ、と思わせるクルマが高度成長期の1970年前後に作られたということに、そのヒントがあるのだろうか。

因みに私が生まれたのも、そのあたりなのである。

                             <2009.12.06 記>

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■ トヨタ2000GT

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■ マツダ コスモスポーツ

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■ ディーノ246GTS 

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■ ディーノのホイールアーチからボディー側面の稜線へとつながるこのライン!
美し過ぎです。

   

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