●2.読書録【ひつじの本棚】

2017年11月 2日 (木)

■【書評】『「宇宙戦艦ヤマト」の真実』 豊田有恒 著。並べられた事実だけでは真実は見えない。当時の空気が再生され、行間が満たされたとき、はじめて真実が立ち上がってくるのだ。

オリジナルのヤマトに心躍らせた世代は、読んで損はない本だ。それだけでなく、サブカルチャーをこよなく愛する若きオタクたちも、オタク道(SFマニア道?)の長老の声を一度は聴いておくべきだろう。

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■豊田有恒さんは、のっけからお怒りである。

宇宙戦艦ヤマトについてのインタビューを大手新聞社(明らかに朝日新聞)から受け、発言を捻じ曲げられたばかりでなく、ヤマトを反戦の主張に政治利用されたと怒っているのだ。

その怒りがこの本を書いた原動力なのだという。

それ故に、今、われわれが失われてしまうはずの当時の息吹をこうやって知ることができたという意味で、朝日新聞さまさまなのである。朝日新聞Good Job!

■さて、現在御年79歳の豊田有恒さんは、SF小説の大家である。

とはいっても、中高とSF小説を読みふけった私も豊田さんの本は読んだことはなく、豊田有恒といえば、むしろテレビアニメ(当時はテレビまんが)創世記の立役者だという方がしっくりくる。

何しろ、「鉄腕アトム」でオリジナルの脚本を書き、「8マン」の企画設定、シナリオを描き、そして「宇宙戦艦ヤマト」の企画原案(本人いわくSF原案)に携わった人なのだ。

いや、恥ずかしながら実はヤマトの企画原案が豊田有恒だという認識はあまりなかった。

きっと西崎義展の企画案をベースに松本零士と藤川圭介が組み立てたものだとばかり思っていた。

事実、Wikiでも、例の裁判のせいか知らないが企画原案:西崎義展、山本暎一となっている。ちなみに第一話のクレジットは企画原案:西崎義展、監督:松本零士、脚本:藤川圭介、演出:石黒昇、監修:山本暎一、舛田利夫、豊田有恒となっている。

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本人は著作権に関しては、おおよそ松本零士。あえて分けるなら豊田有恒が20%、藤川、山本が10%ずつ。というイメージらしい。

しかし、それはあまりに謙遜のし過ぎである。

「アステロイド6」という企画原案をたてて、それが、異星人の放射能汚染攻撃によって地下に逃げ延びた人類に残された時間は1年。アステロイドの小惑星をくりぬいて宇宙船にしたて、遥か銀河の中心に放射能除去装置をもらいにいく、という内容だというのだから、もう骨格は出来上がっていて、「地球に残された時間はあと●●日」という、当時小学生だった私をどきどきさせたあの演出まで入っているんだから著作権はともかく、企画原案は豊田有恒以外に考えようがない。これを「企画」と呼ばずに何が企画か、といえるだろう。

豊田さんはあまりにSFマニア過ぎて、戦艦大和を持ち出した松本零士の感覚についていけなかったようで、しかしながら戦艦ヤマトでなければ、この作品になり得なかったことも十分理解しているのでこういう発言になっているのだろう。

■本書には、そういった「宇宙戦艦ヤマト」成立までの経緯について、一番初めに西崎義展にハインラインの「メトセラの子ら」みたいな企画を考えて欲しいと持ち掛けられた、まさに最初の一歩に関わった人間だからこそ語れる内容があふれている。

この内容は松本零士ですら語ることはできないだろう。

そして重要なのは、その前に関わった「8マン」や、「鉄腕アトム」を含めて、当時の制作現場の空気を再現しながら、シナリオ、企画を立てたその自分の頭の中の筋道を開示していることだ。

科学知識を延長しながら、物語の骨格を誰もが想像し得ないあの中国の古典に求めたり、スリルや驚きの真実を仕込んでいく様子は、読んでいるこちらもわくわくしてきてしまう。

これは現代のクリエーターにとって大変貴重なことである。

創造とは、まさにこういうことなのだから。

一方、紙面のかなりの割合を西崎義展への恨み節に費やしてはいるが、なかで本人も書いている通り、勝負師(あるいは山師)としての西崎義展がいなければ決して「宇宙戦艦ヤマト」は誕生しなかった。

このプロデューサーに要求される人たらしの能力の大切さも、恨み節の裏で見事に描き出されているのだ。

本書は決して西崎批判の本ではない。

もっと広い意味での創造に関する知恵のつまった本なのである。

■ところで本書のP66あたりから、とても気になる記述がある。

原子力発電所に関する記述だ。

まったく知らなかったが、豊田さんは1980年当時から原発について足を運びながら深く研究をしていたようだ。

(豊田さんの本を下に貼り付けました。今は懐かしきNON BOOK!あの、「ノストラダムスの大予言」とか出してたところ)

で、その内容はというと

・原子力発電は、そもそも原子力潜水艦の地上テスト施設を商用化することで始まった。

・原潜に採用されたウェスティングハウス社の加圧水型(PWR)に対し、開発が遅れたゼネラルエレクトリック社(GE)の沸騰水型(BWR)の投資を回収するため、日独への採用が進められた。

・その時のアメリカ製一号炉が福島第一原発。

・アメリカのマニュアル通りに建設したが、アメリカの設計思想はトルネードのリスクを回避するために電源設備を地下に設置、それが仇となって、3.11東日本大震災の事故へとつながった。

というもの。

■Wikipediaを見ても、当然のことながらGE救済のためにアメリカから圧力があったなんて話は出てこないが、ターンキー契約の話はあって、GEが設計から建設まですべてを請け負ったのならば、アメリカ式の設計思想で進められたとしてもおかしくないし、実際、なぜこの水の国日本において、水を被ったり溜まったりする地下施設に最後の命綱である予備電源が設置されたのかという謎も、この説なら合点がいく。

なかなか、深く調べた人でないとこういう経緯は分からないし、いったいどういうことが起きたのか?という意味では、今は喪失してしまった当時の「常識」というものが行間から抜けてしまった現在ではリアルにそれを理解することは非常に困難だ。

村の古老が語り聞かせる、

じゃないけれど、文字として残った情報だけでは理解できないことが、かつての時代の息吹を実際に肌で感じて生きてきた人の言葉によってはじめて再現されるわけで、年配の方のお話はしっかりと耳を傾けるべきだという話だ。

なお、豊田有恒さん自身は盲目的な反原発には強い批判を加えているらしい。いかにも科学技術オタクらしい姿勢である。

■歴史というものは、年表として理解される。

教科書にしても、ネット情報としても、その背景が記述されてはいるものの、その時代の人が「当たり前」としていたことは、現在では当たり前どころかすっかり忘れされれているもので、その「当たり前」が抜け落ちた瞬間に、行間に漂う意味を失った歴史の年表や教科書はただの事実の羅列にすぎす、その意味するところにたどり着くことはとても難しい。

私自身、来年50歳になるのだけれども、中学高校時代、常に社会の背景に存在した東西冷戦構造というものは、いまや跡形もなく、その「当たり前」が抜け落ちた憲法9条や日米安保条約を、平成生まれの人たちはどうとらえているのか、その行間をどう埋めるのか、と考えたときに、実際の感覚としてそのことが理解できる。

きっとそれは戦前、戦中派の人たち、戦後復興を担った人たちが我々の世代に感じたことでもあるのだろう。

歳をとらないと、そういうこともなかなか理解できない。

■この本のタイトルは『「宇宙戦艦ヤマト」の真実』である。

豊田有恒さんや、編集者がどこまでそれを意識していたかは定かではない。

けれども、豊田さんの語り部としての能力が優れていることによって、われわれ世代が何度「宇宙戦艦ヤマト」を見ても理解できない行間があったのだと気づかされる。

その行間を埋めるものこそが「真実」なのだ。

冒頭での朝日新聞の記者が「反戦」の象徴としてヤマトを扱ったことに対する怒り。

そうじゃないんだ。

あれは、あくまでもエンターテイメントなんだ。

作り手も楽しんで作ったんだ。

楽しんで、愛着があって、大好きで。

だからずるずるとダメだと思いながらも続編づくりに加担し続けたんだと。

その「大好き」という気持ちが詰まっていた行間を、変な政治性で埋めようとした記者が許せない。

つまり、「宇宙戦艦ヤマト」の真実とは、楽しかったこと、愛着が強くうまれたこと、だから西崎義展氏に搾取されようとも、ヤマトに関わり続けられた。

だから、著作権を西崎義展氏に根こそぎ奪い取られた松本零士もいまだに「ヤマト」を愛し続けることができるのだと。

大切なのは「大好き」という気持ちそのものなのだ。

それが、我々が「ヤマト」以降に育んできたオタク文化の命なのだ。

豊田有恒先生、どうもありがとう!

どうぞいつまでもお元気に、怒りをぶちまけ続けてください(笑)

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                        <2017.11.02 記>


【新書】「宇宙戦艦ヤマト」の真実 (祥伝社新書)– 2017/10/1 豊田有恒 (著)


【DVD】宇宙戦艦ヤマト DVD MEMORIAL BOX

■私が好きなアニメを3つ挙げろと言われれば、大人のカッコよさとエロスを少年時代の私の胸に焼き付けた初代『ルパン三世』、涙も枯れる群像劇の頂点『伝説巨神イデオン』、映画ファンのための宝箱としての『装甲騎兵ボトムズ』なのだけど、何故かDVDを見返すのは、それらを差し置いてこの『宇宙戦艦ヤマト』なのである。

自分の映画ファンとして、アニメオタクとしての原点がきっとこの作品にあるからなのだろう。だから自分にとっては他と比べることの出来ない絶対王座に君臨する作品なのかもしれない。


【Blu-ray】宇宙戦艦ヤマト2199 Blu-ray BOX (特装限定版)

■『宇宙戦艦ヤマト2199』は自ら誰にも負けないヤマトフリークを自称する出渕裕監督による『宇宙戦艦ヤマト』のリスペクトあふれるリメイクである。

情感の面で少し(というか、かなり)引っかかるところはあるが、作品としてはとても見ごたえがある作品となっている。

もちろん松本零士の名はクレジットされていない。

出渕裕監督は松本零士に謝りに行ったのだという。自分の責任ではないけれど、原作ファンならば当然の気持ちだろう。

その時に、松本零士は

「わかった、やるからには、頑張って、良い作品を作りなさい」

と励ましたそうだ。

これもまた「ヤマト」への愛情のなせる業だろう。

その後、出渕裕監督は宣言通り、『宇戦艦ヤマト2199』に続く、『宇戦艦ヤマト2202』の監督を受けていない。

たぶん、この新シリーズも延々と続くことになるのだろう。

それに耐えられないという出渕裕監督の判断もひとつの愛のかたちだ。

そして、いろいろな愛を乗せて「ヤマト」の航海は永遠に続くのである。

 

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【NON BOOK】原発の挑戦 足で調べた全15カ所の現状と問題点(祥伝社、1980年)

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2017年10月31日 (火)

■【書評】『教えてみた「米国トップ校」』 佐藤仁 著。 アメリカ大学事情の姿を借りた【知】の現場をめぐる人間論。

日本の知力は決して負けていない。

それを支えているのは、経済的にも社会的にもどうでもいいことに対する好奇心と、それを許容するおおらかさである。


【新書】教えてみた「米国トップ校」 (角川新書)  2017/9/8 佐藤 仁 (著)

■アメリカを動かすトップエリートたちを輩出し続けるハーバードやプリンストンといった一流大学は世界大学ランニングで万年低評価の東大なんぞより格段に素晴らしい大学だと我々は信じ込んでいる。

曰く、

・入学はやさしいが卒業は難しい
・討論形式の授業は日本の退屈な講義に勝る
・異彩を放つ人材の宝庫

しかし、東大を出てハーバードで修士をとり、現在は東大で教えながらプリンストンでも教鞭をとる佐藤仁氏は、本書でその常識を打ち壊す。

そこに描かれ米国エリート校の実態は、高校時代の成績がオールラウンドでトップクラスを維持しながらも入試の論文でアピールするための「経験」獲得に汲々とする受験生、入学したらしたで就職のために大学での成績ばかりを気に掛け、それぞれの主張はあるがどこか似たような雰囲気の学生たち、というものだ。

■その一方で、役に立たないことでも学ぶことが出来、相互扶助でギスギスしない、風変わりな個性を醸し出す学生をも包み込む東大のおおらかさが示される。

しかも論文の構成力などから考えて、決して東大の学力が劣っているわけではなく、全般に少し冷めていて突破力のある学生が少ないという性格の差があるだけだ。

佐藤氏は、それを自らの経験を交えながらも学者らしくデータを示しながら論理的に解説していく。

しかしながら氏はそういった「データの数値」を構成するひとりひとりの生徒にもまなざしを向ける。それは決して体験した者にしか語れないものだし、それ故にそこいらの評論家には決して真似をすることのできない深みがそこに横たわる本質をしみじみと伝えてくれる。

しかもその手法によって、アメリカと日本の社会的、文化的背景が肌身の感覚として立ち上がってくる。ここにおいて本書は単なる「アメリカエリート大学受験情報本」という枠を大きく逸脱し、アメリカの圧倒的パワーの裏に潜む「孤独」や、日本が守るべき強みとしての「寛容」が描き出される。

そしてそれはらせんを描くように「【知】とは何か」という高い地平で再び大学論に舞い戻る。

大衆受けのする「キャッチー」なテーマに隠して本来語りたいことを密かに語る、そういう小気味いい、ある種の狡猾ささえ感じさせる展開であり、氏の戦術的知性がうかがえて面白い。

■今回あぶりだされた

「グローバリゼーション全盛の世界における【知】の問題」と「日本の大学が担うべき役割」

というテーマはあまりに重要で深い問題であり、これについては次回作でさらに掘り下げて語っていただきたい内容である。

たぶん、その鍵となるものは氏が本書で見せた「【データ】を構成するひとりひとりの生きざま」に対するまなざしに関わるものであり、それ故に、日米の大学比較という表層の論議以上に著者が語るにふさわしい内容だと思われるからだ。期待して待つ。

 

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                        <2017.10.31 記>

この記事は、2017.9.14にAmazonに投稿した内容を加筆修正したものです。

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2017年10月21日 (土)

■【書評】『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』 矢部 宏治 高度に政治性を持つ案件については、日本人の人権は日本国憲法では保護されない?

日本は米軍に支配されてる。

そんなの知ってるわい、と思ってスルーしてたんだけど、これは目からうろこの本なのである。


【新書】知ってはいけない 隠された日本支配の構造 矢部 宏治・著

■本書に記されている内容を簡単にまとめる。
  

1.東京から日本海側までを覆いつくす空の米軍支配、「横田空域」

2.日本全土が治外法権、米軍の軍事演習はどこでも可能

3.安保と日米地位協定と日米合同委員会によって、米軍の特権は隠される

4.定例秘密会議、日米合同委員会は米軍から官僚への上意下達の仕組み

5.米軍取扱を定める裏マニュアル「部外秘資料(最高裁)」、「実務資料(検察)」、「日米地位協定の考え方(外務省)」

6.安保と日米地位協定は日本国憲法の支配を受けない。日本版統治行為論と、日本政府による米軍以外への拡大解釈

7.歴史をたどるとすんなりと理解できる憲法9条の意味

8.矛盾のすべては朝鮮戦争によって生まれた

9.米軍による占領状態の継続

    
ざっとこんな感じか。

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■基地の外でも米軍は自由に活動すること、そこで事故や事件が起きても、日本の警察は何もできないこと。

ニュースで何度もひどい事件を目にし過ぎて、すっかり麻痺してしまったのかもしれない。

そんなことは、もう常識だと思ってしまう。

しかし、それが行政、司法の世界ではシステマティックに行われているということには、改めて怒りを覚える。

一体誰のために仕事をしているのか。

■1960年の新安保で、米軍の特権は表向き消されるが、実際には「日米地位協定の考え方」として外務省内に定められ、最高裁も検察も、それぞれにマニュアルをもち、米軍や軍属の日本の法の外へと逃がしていく。

月に2回実施される米軍と官僚による日米合同委員会では、日本やアメリカの議会や首相、大統領が関与しないところで「占領政策」が米軍から通達される。

米軍は日本においては日本国憲法の支配の外にある。

それを是とする官僚たち。

■統治行為論、というらしい。

 
「日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」 ― 1959年12月砂川事件、最高裁判決骨子

  
高度に政治性を持つ案件については、日本人の人権は日本国憲法では保護されないということである。

そんな、ばかな。

しかし、それは日米安保に適用されるだけでなく、放射性物質についても各種条文の適用除外を受けていて、2011年の福島原発事故の翌年に原子力基本法が改正されて、以下の内容が追加されている。

 
原子力利用の安全の確保については、我が国の安全保障に資することを目的として、行うものとする

 
要するに原子力の安全確保も高度に政治性を持つ案件とされたと見ていいだろう。

これは最高裁の機能停止以外の何物ではなく、時期を考えれば安倍政権以前の問題として、官僚が統治行為論を拡大解釈して、国民の人権を制限する手法を手に入れてしまっている、ということだ。

日曜日の衆議院選挙と同時に実施される最高裁判事国民審査も、なにか虚しさが漂ってしまうのである。

■もうひとつ、本書で驚くべきことが示さている。

 
日本国憲法9条

一、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 
二、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 
今回の衆議院選挙の争点として、自衛隊の憲法での定義や、集団的自衛権が問題となっているが、その根幹に関わることである。

私自身、以下のようにとらえ、自衛権としての戦力は認められる、と考えていた。

「陸海空軍その他の戦力」は「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」や「国際紛争を解決する手段としては」 、「これを保持しない」

つまり、自衛権の確保を忍び込ませたとされる芦田修正の意図に沿った解釈だ。

 
日本国憲法13条
 
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

  
日本人の生命権を考えれば、当然のことである。

■しかし、本書で提示されるのは、日本国憲法の前提となった国連憲章の前身ダンバートン・オークス提案(1994、米英中ソ)、連合国共同宣言(1942、連合国26か国)、その大本となった大西洋憲章(1941、米英)への遡りだ。

ダンバートン・オークス提案は米英中ソのみが戦力を保有し、そのほかの国は戦力と交戦権を放棄、国連軍によって安全保障が行われる、という内容であり、その文脈で憲法9条を照らせば、

日本は国連軍を前提にして戦力を放棄する

という理解が極めて自然、条文もすんなりと理解できる。

自衛隊は違憲である。

という憲法学者の思考回路がさっぱり理解できなかったのだが、こういう説明を受ければ、もう明らかに自衛隊は違憲なのだ。

■しかし、実際には国連軍は創設されなかった。

従って、戦力放棄の前提が失われてしまう。

そこで日本の独立当時、朝鮮戦争で劣勢に立たされていたアメリカが採用したのが、日米安保によって国連軍の代わりとする、という論理だったのだ。

警察予備隊にはじまる日本の戦力、つまり自衛隊は、当然のように国連軍=米軍に組み込まれ、指揮命令系統は米軍最高司令官である大統領ということになる。

何しろ、日本が主権として発動できる「戦力」は無いのだ。

今、北朝鮮と戦争になった場合、自衛隊の最高司令官は安倍首相ではなく、トランプ大統領になる。

ロジックは分かるが、心がついていかない。

平時にすっかり慣れてしまって、まったくリアルにとらえていなかったのだ。

■戦後、自民党は、日米安保と9条と自衛隊の矛盾を、「専守防衛」という平和主義を維持するためにだましだまし、これらを運用してきた。

日本人の生命や財産を守るためには日本が日本の主権で動かせる自衛隊を持つ権利をもっているのは当然のことである。

その「当然」に「矛盾」を合わせてきたのだ。

しかし、何を目的にしているのか分からないが、安倍首相は2015年4月、安保法案審議に先立って、アメリカ議会でこの法案を通すことを約束した。

そして、安保法案を数の論理で通したあとは、憲法を改正して自衛隊を明記したいという。

一体だれに向けて動いているのか。時期を考えれば北朝鮮有事に向けた法整備を自衛隊を指揮するアメリカに約束した、と考えるのが適切だろう。

戦後、自民党保守本流が苦しみながらも工夫をこらして守ってきたものが、われわれ日本人以外のところを駆動力として、今崩れ去ろうとしている。

日本の防衛は日本の主権をもって行うべきだし、平時も含めて日本人の人権が制限されるのは絶対に間違っている。その大前提を回復した上で、在留邦人の保護や、米軍との共同作戦について議論を進めるべきなのだ。

このことをしっかり意識して、今回の衆議院選挙に臨みたい。

                 <2017.10.21 記>

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2017年8月 3日 (木)

■【書評】『いま世界の哲学者が考えていること』 岡本裕一郎著。【哲学】は最早、現代には通用しないのか。

現代において、いろいろな局面で構造的変化が起きようとしている。それを今の哲学者たちがどう読み解いているのか、それを俯瞰することで時代を読み解く頭を整理する。そういう本である。


【単行本】いま世界の哲学者が考えていること 岡本 裕一朗 (著)

■ポスト構造主義以降の哲学については、日本では断片的にしか情報が入ってこないし、残念ながら日本を舞台に最先端の哲学が展開していく状況にないからとてもありがたい本だ。

ヨーロッパのポスト構造主義とアメリカ、イギリスの分析主義を超えて、カントから始まる従来の相対主義を克服する「実在論的転回」、ポスト構造主義の根幹である言語論的転回をツールに拡大する「メディア・技術論的転回」、科学的視座から神経学、物理学の延長として心を取り扱う「自然主義的転回」。この3つの軸で現在の哲学が進んでいるのだという。

「実在論的転回」には仏教的な、もっというと禅の思想を感じるし、「メディア・技術論的転回」は意識が肉体から道具に延長されることは日々の実感であるし、「自然主義的転回」はまさにこのブログでも追及していることだからその流れは体感している。思想のための思想から、実学としての哲学が帰ってきたような印象であり、わくわくする。

■さて、現代の哲学の概観をなでる第一章に続いて、本論に入る。

以下章立てで、「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」、「資本主義」、「宗教」、「環境問題」についての具体的状況を語っていく。

あとがきにもあるが、著者は結論を導くのではなく、そこで繰り広げられる思想的アプローチを多面的に紹介し、それぞれに対する疑問をなげかけるにとどめる。

それは読み手の思索を励起し、読んでいてとても楽しい。

ただ、ITとかバイオテクノロジーとか地球温暖化とかいったときに、著者が先の宣言に反してレイ・カーツワイルの幾何級数的技術の進化や環境問題に対する「コペンハーゲン・コンセンサス」をそのまま取り上げていて、そこに本書の限界も感じられる。

著者は思想史の専門家であって、科学的思考には少し疎いように見受けられる。だから権威の言うことに、しかもそこにそれらしいデータとかグラフをつけられれば信じるしかない。

■さらに言うならば、著者は【哲学者】でもない。

哲学者は真理の探究者である。その基本スタンスは疑うことだ。

われわれが信じていることを解体し、論理的に再構築して、この世界を説明する。それが哲学者、というのがわたしの理解だ。

この本で、「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」、「資本主義」、「宗教」、「環境問題」にかかわる【思想】をなでるわけだが、ニュースになるような表層的問題にとらわれていて、【本質】には触れることはない。

例えば、「ITと人工知能」ならば、機械とそこに流されるソフトウエアに【わたし】という自我が生じるのか、という問題から、【自我】に関する21世紀の哲学を語らねばならないし、ネットとビッグデータによる管理、監視社会の問題なら、【社会】とはなにか、についての本質論が今どうなっているかを語らねばならない。

しかし、語られるのは、技術論であったり、脳科学であったり、社会問題について、つまり具体的で個別の問題なのである。

果たしてこれは【哲学】なのだろうか。

著者は日本の大学の哲学科で学ぶのはデカルトの何々論についての研究とかばかりで、自分の哲学を構築しないと批判しながら、哲学とはそもそも何なのか、何を語るものなのかという根本が決定的にずれているように思えるのだ。
 
第一章の21世紀の哲学の現状での新しい切り口で、現代の課題の論点の奥にある真理を浮かび上がらせる、そういう展開を期待したのだけれど、残念ながら、そういう深みにはほぼ踏み込めていない。

■【社会思想】と【哲学】はあきらかに違う。

前者は、【その社会において何を信じるか】を問うものであり、後者は、【そんな社会、うそだから】と嘲笑うものだからだ。

もっというと、前者は【ある価値観】を前提にしており、後者は【その前提を覆す】ことに意味を置く。

前者は、ある前提の地平のなかでの議論だが、後者は、その前提となる地平から離れた次元からの視点で物事を眺めようとする。

この宇宙を知るためには、この宇宙を抜け出してメタ的な視点から見るしかない。

それが哲学なのであって、第二章以降の各論において決定的に欠落しているのはそこなのだ。

いくら多面的な思想を提示したところで、この大地を離れない限りコペルニクスにはなれないのである。

■第一章でわくわくしたのは、著者が「実在論的転回」、「メディア・技術論的転回」、「自然主義的転回」という3つの切り口を提示して、ならば世界はどう変わるか、最先端の哲学者たちはどういう世界を、どういう宇宙を見ているのか、というそこなのだ。

デカルトが「わたし」という主観しか信じられない!といって、そこからスタートしたのに対し、その主観から始まる世界があるのと同時に絶対的な世界も実在するのだというのが「実在論的転回」ならば、それが示すのは【わたし】がいない世界だ。

禅語に【山是山水是水】ということばがある。

悟りに至らない段階では、山は山としか、水は水にしか見えない。 しかし、本来無一物の境地に至ると、一切が無差別平等となり、山は山でなく、水も水でなくなってしまう。 さらに修行が深まって悟りの心さえも消え去ってしまうと、山が山として水が水として新鮮に蘇ってくる。

我々は【山】という言葉、概念で山を見る。

けれどそこには現実の【山】はない。

現実の【山】は、【わたし】の外にあるからだ。

【山】という言葉が、概念が、われわれを縛るならば、インターネットという新しい【言語】を得たわれわれが見ている【山】は、【世界】はどう変容したのか。

「メディア・技術論的転回」という切り口が示すのは、そこである。

「自然主義的転回」が示すのは、ニュートン的物理学で宇宙は整然と説明できるという【幻想】の打破である。従来の、要素を分解してその関係性を記述するやり方では【生命】や【心】などの複雑系は記述できない。

だからこそ量子論とかネットワーク論とか、そういう関係性そのものに注目する最近の科学があたらしい【世界】を見せるツールになるのだ。

■そういう視点で各論を見ていこう。

「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」については、究極を言えば、【どこまでが’わたし’なのか】、という問い立てを避けられないはずだ。

ネットワークで世界に広がった【わたし】、ソフトウエアの中に発生した【わたし】、細胞から再生されたわたしの外の【わたし】。

そういった規格外の【わたし】が現実となった現在、世界の哲学者は【わたし】をどう再定義しているのか。

フーコー、ドゥルーズの視点は示され、社会から監視、監禁される人間から、データとして分解され管理される人間への変容、概念としての従来的「人間の終わり」について語られる。

あとは、あれはいいこと、これは悪いことという価値観のはなしで、ハーバマスの自然発生と人為が混乱することで起きる「自己」への影響、その前提となるハンナ・アレントの「出生性」が面白いくらい。

確かに善悪とか道徳というのが論点になるのだけど、これがいい、いやだめだ、という論争はすでに社会的前提によって支配されているわけで、そこが【思想】的であって、【哲学】的でないのだ。

結局、このあたりの話題はまだ整理されていない、ということなのだろうか。

■「資本主義」、「宗教」については、文系的概念の話題だからか、【常識】を疑い、再定義するという意味で哲学的であり、そこそこに議論が整理されている。

【格差】が問題だというけれど、本当?それって【不平等はいかん】という価値観に縛られてるだけでしょ?実は、お金なんて生きていくのに十分にあればいいんでしょ。というフランクファートの「十分性の学説」。

個々の意志を尊重したときに発生する矛盾から、自由主義は原理的に成り立たないことを示したアマルティア・センの「自由主義のパラドクス」。

「ハイパーグローバリゼーション」と「民主政治」と「国民国家」が同時には成り立たない。取り得る道は、①「ハイパーグローバリゼーション」と「民主政治」による【世界連邦制】、②「ハイパーグローバリゼーション」と「国民国家」による【ネオリベラリズム】、③「民主政治」と「国民国家」による【賢いグローバリゼーション】の3つしかないと喝破したダニ・ロドニック。

西洋近代が合理主義による【世界の脱魔術化】だと説いたマックス・ウェーバー。実際にわれわれは近代を「脱宗教」、「世俗化」の過程だと思っている。

それを「第一の近代化」として、現代を「第二の近代化」つまり、<「自分自身の神」をもつ宗教の個人化><多様な宗教に寛容なコスモポリタン化>による【世界の再魔術化】の過程として定義したウルリッヒ・ベック。

【宗教】と【科学】の機能は重ならないとしたグールドと、それを批判して【神】を妄想だと反証したドーキンス。

【宗教】を自然現象ととらえ、科学的解析の対象としてそこから生まれる「陶酔、呪縛」から逃れる方法を探ろうとするダニエル・デネット。

それに対し、【国家】が存在することを科学で説明できないからといって超自然現象といえるのか?として、すべてを自然科学で説明することはできないと反論したマルクス・ガブリエル。

やはり、この手の概念的話には【哲学】は親和性があるようで、いい悪いの価値観を超えた論理展開に、こちらの思索もずんずん励起されて面白い。

■で、一番がっかりするのが最終章の「環境問題」だ。

どうもこの章は、そもそもの【地球環境問題】というテーマを幻想だと退けようとする意図が見えてしまう。

中立であろうとするこれまでの著者の立場が突然崩れるのだ。

環境問題についての立場は【キリスト教的人間中心主義】と【環境的価値に重きを置く生態系主義】の対立として捉えられる。まずは問題をそこに据える。

けれど、そこでの対立を別の次元で統合しようとして環境を経済的貨幣価値に変換したロバート・コスタンザにしても、それは経済という一元論だとして「リスク評価」で考えるべきだとしたウルリッヒ・ベックにしても、やっていることは【哲学】ではなく、【最適化】論であるがゆえに、根本的転換には至らない。

ベアード・キャリコットの近代科学を前提とした人間中心主義からポストモダンの科学(相対性理論、量子論、進化論、生態学)に基づく環境倫理への転換も紹介されるが(私は発想自体には違和感を感じないのだが)著者はポストモダンは時代遅れで説得力がないと自ら退ける。

で、そもそも【地球環境問題】という【終末論】は幻想である、という逃げに走るのだ。

しかもビョルン・ロンボルグの「コペンハーゲン・コンセンサス」なる政策の優先順位で環境問題の評価が低いと、これはノーベル経済学賞をうけた一流の研究者たちがまとめた内容であると鼻を膨らませる。

いやいや、IPCCも国連も手放しに信じるべきではないけれど、同じように「コペンハーゲン・コンセンサス」も手放しで信じるべきではないだろう。

言いたいのは「疑うこと」だというのは分かるけれども、あまりにも論理がお粗末で、それが最終章だというところに悲しさすら感じてしまった。

■結局のところ「何がいいのか」、「何が大切なのか」という【価値観】という物差しを棄てない限り新しい地平は開けない。

「実在論的転回」、「メディア・技術論的転回」、「自然主義的転回」というツールを整備しておきながらも、「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」、「環境問題」という人類が直面している重要課題については【哲学】は何も語ることができないのかと暗澹たる気分になる。

著者はこれだけの膨大な世界の最新の思想を読み込んでいて、それでもなお、【哲学】をもってそれらを切り裂くことができないのだ。

やはり、【哲学】の世界は閉塞してしまっているのだろうか。

あるいは、【科学】と【哲学】があまりにも乖離してしまったことが不幸なのか。

【科学】と【哲学】が同じ地平にいたギリシャの時代の素朴さに一旦帰ってもいいのかもしれない。

                         <2017.08.03 記>

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2017年7月24日 (月)

■【マンガ評】『大純情くん』、おおらかで希望に満ちた、懐かしき松本零士の世界。

『銀河鉄道999』のエッセンスはすべてここにあるんだよねえ。


大純情くん (1) (講談社漫画文庫)

■松本零士といえば、『銀河鉄道999』と『戦場まんがシリーズ』が大好きだった。

でも、小学校6年生くらいのころかな、大純情くんのなぜか3巻だけを持ってて、何度も何度も読んでた記憶があって、特に、学校で物野けじめを待っている先生の話が好きだったなあ。

いま改めて全3巻通して読んでみると、なんだろう、あんまりカッコつけていない素直な松本零士がにじみ出ていて、なんともしみじみする。

未来都市のビル群のなかで取り残されたような古い町並みが残った地域のなかの、そのなかでもさらにボロいアパートの四畳半に住む一人暮らしの中学生、物野けじめ。

そこに突如として姿を現し、金言がつまった『古代催眠術大辞典』のページを開いたまま去っていく謎の美女、島岡さん。

『大純情くん』に登場する、けじめと島岡さんは、明らかに鉄郎とメーテルだ。

この作品が書かれたのが1977年、『銀河鉄道999』と同じ年に連載開始。

どちらの構想が先なのかは知らない。

でも、話がシンプルなだけに、『大純情くん』は実に素直にぐっとくる。

後半、けじめが住む四畳半のある世界が、どういう世界の上に存在しているのかが次第に明らかになっていくのだけれど、ああ『銀河鉄道999』の構想はすでに出来上がっていたのだな、と今にして思う。

そこのスリルもいいのだけれど、一番いいのは、けじめがいろいろな不思議に遭遇しながらも、まだ世界に疑いを持っていない一巻目。

こういう昭和の心情的懐かしさにしみじみしてしまうのは、年を取った証拠かな。

■そして何より、島岡さんが開いてくれている『古代催眠術大辞典』のページにかかれている心に染みる言葉たち。

夢、人生、友情、男ということ。

これが松本零士だよね。

 

できると信じていることは

ときとしてできることがある 

できないと信じていることは

絶対にできはしない

(ナピカ・マナムーメ)

 

食えるときに 食え

なぐれるときに なぐれ

これが満足して 生涯を

終えるための基本だ

(メキシコの大山賊 エルブラント クエス クワントス 1822年没)

 

なにもせず笑う者よりも

なにかをして笑われる者のほうに

いつの日か 勝利はおとずれるものだ

これが 万世万物の真理というものだ

(藤原明衡 治歴二年 (1066)没)

 

だれにも手出しのできないところがこの世にはひとつだけある

それは人の心のなかだ 

そこはその心の持ち主の自由の天地だ

(ヘルマン・ヘッケラー/自由詩人/1774)

 

人の涙を見て わらう者は

いつか地獄で なく日がくる

人の涙を見て 心で涙をながす者は

人の涙に おくられて

やすらかに この世をさる

(B.C.1020 バクダードにておもう アラメド・アブドゥラ)

 

悔しさが男を作る 

悲しさが男を作る 

みじめさが男を作る 

復讐心が偉大な男を作り上げる 

強大な敵がお前を真の男に作り上げる

(三葉機と共に散った大ドイツ帝国不滅の飛行軍人 マンフレッド・フライヘル・フォン・リヒトホーフェン)

 

男の友情はお金では買えないものだ

男が男の血と汗と心で戦いとるものだ

そういう友情こそ 

命にもまさる とうといものであると

わたしは信ずる

わたしはそのためになら

死んでもよい

(ハンニバルとともに アルプスをこえるとちゅう死んだ勇士 レオヌス・プラクトゥルスの日記より)

 

この世に痕跡をのこして死ぬとき

人は満足して眠りにつく

しかし人生という目に見えない足跡が

いちばん とうといものだ

(即身仏となった名僧 深海山)

 

そして、

とおく 時の輪の接するところで

けじめと島岡さんは汽車に乗る。

01

            <2017.07.24記>

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【単行本】大純情くん 全3巻 松本零士 マガジンKC
KC版、3巻目巻末に収録されている短編、『秘蝶の谷』も、希望に満ちていて素晴らしくいいです。

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2017年7月13日 (木)

■【書評・哲学】『あなたの人生の物語』から、時間と自由意志について考えてみる。

テッド・チャンの『あなたの人生の物語』を読んだら、なんとも哲学したくなってしまったので、作品に対する書評は短編集のすべてを読み終えてからにするとして、久しぶりに思考の森に分け入ってみようと思う。

Anatanojinnseinomonogatari_2

■この作品は、エイリアンであるヘプタポッドが使う言語を言語学者の主人公が学ぶうちに、時間を超越した認知を獲得する話である。大事なのは、そこで主人公が見つめる自分の「確定した未来」へのいとしさなのだけれども、それを演出するSFとしての道具立ては「時間を超越した認知を導く言語」とその背景にある「変分原理」という物理法則である。

このSF的道具立てに注目したとき、「時間」と「自由意志」についての深い思索に思わず導かれてしまうのだ。

■1.時間について

通常の我々の現在の常識では、時間は過去、現在、未来へと一方向に、しかも一定の速さで流れていくものである。

幼い頃から日々時計を見ながら育ち、学生になって物理学で初めに学ぶのは、初速50km/hで投げ上げたボールは、何秒後に同じ場所に落ちてくるか、というような「時間」を物差しとしたものの見方だ。

投げ上げたボールの初速を上げれば人工衛星になり、さらに速度を上げれば地球の重力を振り切って、太陽を中心とした楕円軌道に乗るだろう。

我々が認識する太陽系だとか、銀河系だとか、そういった宇宙の広大な世界は、高校一年生で学ぶ、「時間」を基準とした物語の上に成り立っているのだ。

アインシュタインが時間は相対的なものである、と言ったとしても、なかなか実感としてそれを認知することはできない。

■しかし、ヘプタポッドは「時間は一方向に流れる」という常識をわれわれ地球人から取り払おうとする。

ヘプタポッドが見る世界はわれわれが一般に用いる「ニュートン力学」ではなく、「変分原理」あるいは「最小作用の原理」よばれるものによって構築されているらしい。

運動の時間変化は作用積分が最小となる軌跡を選びながら進む。

なんのことやらわからないが、どうやらニュートン力学的な「初期値と時間」による世界の記述ではなく、「全体を見たときの最小値」が現れるという時間をものさしとしない世界観のようだ。

時間というものを座標軸として認識し、それを含んだ座標系を俯瞰することができれば、過去とか未来とか、そういう見方ではなく、この時間ではこう、この時間ではこう、という時間の流れの束縛から独立した見方が可能になる。

ヘプタポッドは、「過去」と、「現在」と、「未来」を同じ目線で眺めているのだ。

■時間に関する哲学的問題として、未来、および、過去はあるのか?という問いがある。

結論から言えば、我々の認知を基準に考えれば、過去も未来も、「今、ここ」にある意識に映る影に過ぎないが故に、その実在を証明することはできない。

その「影」とは「概念」であり、我々の意識が言語を道具として作り上げたものだ。

例えば、柴犬のポチは見通しのたたない明日を苦にして睡眠障害に陥るだろうか、庭の植木鉢をひっくり返した過去の失敗を悶々と悔やみ続けるだろうか。

いや、柴犬のポチにあるのは「今、ここ」だけなのだ。

たとえ、昨日の失敗を気にしているように見えたとしても、それは見ている飼い主の意識に映る幻影であって、ポチは飼い主の態度を見て反応しているだけに違いない。

なぜならば、ポチには「過去」とか「未来」という「概念」を認知する「言語」による抽象概念の構築ができないからだ。

ポチに「過去」とか「未来」が存在しないのならば、何故この世に「過去」とか「未来」が存在すると言い切れるのか。

ポチが投げたボールをジャンピングキャッチするとき、彼は運動方程式を解いているわけではない。経験から瞬時に運動を把握して落下点でジャンプする。そこに一定の速度で流れる時間(t)は必要ないのだ。

■それでも、われわれにとって「過去」も「未来」も、ありありと実在するように見える。

幻影は認知できる限りにおいて実在なのだ。

そういう意味では「過去」も「未来」も存在する。

しかしながらそれは、単にわれわれが生きていく上で「便利」だからであって、決して絶対的な真理として時間が存在しているわけではない、ということだ。

『あなたの人生の物語』でテッド・チャンが示したヴィジョンは、われわれの認知と別の認知体系においては、「時間の流れ」を絶対的なものとしなくても世界を把握できるのだ、という可能性を示して見せている。

そこがこの作品をSFとして極めて華麗なものにしているのである。

■2.自由意志について

この物語では、主人公の女性言語学者がヘプタポッドBと呼ばれる言語(文字)をマスターすることによって、未来を認識できるようになる。

そこで問題になるのは、「未来」を知ったとして、主人公がその未来につながらない行動をとる「自由意志」があるならば、「未来」は確定しない、というパラドックスだ。

この問題について、テッド・チャンは明確な回答を示すことはなく、「未来」を知ったものが使命感のようなもので突き動かされる、と今までの論理の構築に比べると拍子抜けするほどにぬるい仮説を述べるにとどまってしまう。

もしヘプタポッドたちが見ている世界が、未来と現在を区別することなく認知することで広がるものであるならば、現在の「私」は未来に縛られていて自由意志など存在しない、自由意志は錯覚で、後付けの「使命感」のようなもので片付けられる、ということになる。

それは本当だろうか。

■果たして自由意志はあるのか。

人間には?犬には?魚には?みみずには?ゾウリムシには?石には?

そう考えていくと、自由意志というものは普遍的に存在するものではないのだろう。

自由意志とは、時間感覚と同じように、人間の意識が生んだツールか、もしくは副産物、たぶんその両方なのだろう。

リベットの『マインドタイム』を読めば見えてくる話だが、人は自分の行動を時間的にさかのぼって、自分の意志で行ったと錯覚する。『マインドタイム』で実証されるのはクルマの前にボールが転がってきたときのような反射行動だが、ゆっくりと時間をかけて熟考した行動というものについても、それが後付けでないという証拠はない。

むしろ、「変分原理」、「最小作用の原理」が示しているのは、現象は因果関係とは別の原理で説明がつくということであり、自由意志があろうがなかろうが、そこで現れる現象は最小値に収まるということだ。

■これはいわゆる決定論とは違う。

決定論の文脈の中にはまだ過去から未来への流れが存在していて、私が過去にいる時点の未来がすでに決まっている、という論である限り、この話とは別なのだ。

実は未来は確定していなくてもいい。

量子論的に多数の未来を同時に抱えているといってもいい。

その中から最小値が選び出され、我々はその「最小値」が「未来」であったと、未来における「今、ここ」で認識するのだ。

その固定されるであろう「未来」があって、それを選択する行動を「今、ここ」の私がとる。

時間をリニアにとらえる世界観では、それを因果関係と呼び、そこに自由意志がある、という。

変分原理に基づく世界観では、結果と呼ばれる「未来」に向かった「今、ここ」の行動がある、という。

同じ現象の言い方を変えただけのことであり、結論を言えば、時間を軸に進む我々の認知の世界では自由意志はあるけれども、もしそれが無かったとしても世の中の説明はつく、ということだ。

■大切なのは、「今、ここ」の行動と「未来」の結果は、並列であり、セットだということだ。

「今、ここ」の行動が違えば、「未来」の結果も違うものになる。

それは常にセットで動く。

『あなたの人生の物語』では、決まった未来のヴィジョンを受け取り、主人公は意識的にそれに沿った行動をとるのだけれど、これではパラドックスを抱えたままである。実はテッド・チャンはまだ自らが否定して見せた「時間」と「因果関係」に縛られている。

だから「未来」を固定した瞬間に、自由意志が失われる矛盾に襲われるのだ。

「今、ここ」の主体の意識が「未来」を知ったとき、というのは「今、ここ」の現象に過ぎない。

ヘプタポッドの世界における「今、ここ」の主体は「未来」と同じ地平にあるのだ。

■われわれの意識は「今、ここ」でしかないのだから、ヘプタポッドの世界にわれわれの意識の入り込む余地はない。

それはどういうことか。

意識を語るために我々の「時間の一方向性」と「因果関係」が支配する世界でみるならば、100%実体のある「未来」が多数同時に存在している、とするのが量子論だ。

観測者がそれを「見る」という「今、ここ」の行動が選ばれた瞬間に「未来」の結果が一つに定まる。

「わたし」という主体が持つ意識はひとつの像しか結ぶことができない。青酸カリを仕込まれた箱の中にいる、生きているシュレディンガーの猫と死んでいるシュレディンガーの猫を同時に認知することはできないのだ。

もし、行動を起こす前の「今、ここ」の主体の意識が、「今、ここ」でないその先の「未来」にも同時に存在するのであれば、量子論的な多数の未来、多元宇宙の広がりを認知しているということになる。

そうすると、「わたし」は、「今、ここ」で感じている世界と同時に複数の宇宙に存在し、それを俯瞰しているということになり、それはもはや人間の視野などではなく、この宇宙の上位存在である「神」の視野をもつことになってしまう。

そういう意味でヘプタポッドがわれわれと同じ意味での「意識」を持つならば、われわれの世界を語る小説の作者のような意味での「神」なのだ。

■だから、ヘプタポッドBを習得したルイーズが認知する「未来」は常に一つだけであり、取り得る行動も、その「未来」とセットとなる「行動」ひとつに絞られる。

ルイーズが「未来」の量子論的広がりをありありと認知することはなく、意識は常に「今、ここ」に限定され、唯一の「未来」に向かった「最小作用」を選び取る。

それはテッド・チャンのいう「使命感」などで決まるものではなく、「最小作用の原理」に従った数学的帰着なのである。

ルイーズに「今、ここ」の意識はあったとしても、そこにはもはや「自由意志」は存在しない。

■もしかすると量子コンピューターにはそれの認知が可能なのかもしれない。

が、我々が「認知」できないものを「認知」出来ているかどうかを「認知」するというのは概念的には可能かもしれないが、それがどういうことかというのは実感としてありありと理解することは不可能だろう。

けれど、光合成のプロセスが「最小作用の原理」によってあらかじめ最適値を知っているかのようなふるまいを見せることとか、われわれの「意識」というものがシナプスのつながりという物質的なものによってつくられるのではなく、ネットワーク上のゆらぎのように立ち現れえるように見えることとかを考えてみると、実は、われわれの基盤である「生体」というものはヘプタポッド世界的存在なのかもしれない。

この物語のルイーズがもしヘプタポッドBの完全な理解に至り、「生体」の原理原則を覗き見るヘプタポッド世界に入っていくとするならばどうだろう。

その、われわれを構成する原理を理解するというその行為は、あたかも小説の中の主人公が自らを描いた小説そのものの成り立ちや構造を前にして立ちすくむような、まるで(わたしが大好きな)『ソフィーの世界』が提示した恐怖を思い起こさせる。

それはまさに人類の進化であり、人が神になる物語だ。そして、『あなたの人生の物語』の映画版である『メッセージ』で提示された3000年後の未来に向けて「ヘプタポッドが人類を進化させる」という意味も極めて明確になってくるのである。

■結論

1.時間の流れという意味で、「過去」も「未来」もわれわれが作り出した道具に過ぎず、確かに存在する、と言えるのは「わたし」という主体が認知する「今、ここ」だけである。なお「わたし」という主体がない場合は「今、ここ」も存在することはない。あるのは時間的広がりだけである。

2.自由意志はあるという言い方もできるし、ないという言い方もできる。「時間の一方向性」や「因果関係」を軸に世界を見るか、「最小作用の原理」を軸に世界を見るかの違いに過ぎず、確かな存在かどうか、という論点にはならない。

以上。

                     <2017.07.13記>

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<映画評>【メッセージ】「言語」の持つ力と「物語」が出会うとき。


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2017年7月11日 (火)

■【書評】『閉じていく帝国と逆説の21世紀経済』 水野和夫 画期的社会変革論から導かれるのは、実は個人レベルでの価値観の大転換、要するに金持ちや成長志向からの脱却なのだ。

低金利を切り口に資本主義の本質とその終焉を説いた『資本主義の終焉と歴史の危機』の続編。終わりを迎えた資本主義のその先の世界を読み解くスリリングさだけでなく、我々が信じる「金持ち」=「幸せ」という価値観を打ち崩す衝撃がそこにある。


[新書] 閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済

■要約してしまうならば、民主主義と資本主義の蜜月は、資本主義が地理的拡大により周辺国から「徴収」することが出来た1970年代までで終了した。パイがでかくなることがなければ、ゼロサムゲームになるわけで、企業の利益拡大は国民国家の利益と両立はしない、むしろ国民国家の利益を吸い上げる形となる、ということだ。

それが具体的に進行した形が新自由主義、グローバリゼーションであり、今、アメリカやイギリスやフランスで見られる反グローバリゼーションは、国民国家の危機に対する反動である、と見る。

つまり、1990年代のグローバリゼーションは、その発生からすでに反国民国家であることが構造的に決定づけられていたということになる。

■アメリカは、地理的拡大の完了後もパイを拡大するために、IT革命にのって金融市場で世界のカネを「徴収」した。スピードを上げ、ネット空間で高速に時間を切り刻むことによって、カネを増殖させては取り込んでいく。

けれども、ゼロ金利とはそもそも、カネを持っていても、それが価値を生まない、ということを意味しているのだから、その行為には全く意味がない、ということになる。

資本主義とは、資金を投入することで、財が増えるその効率を上げていく仕組みである。

しかしながら、われわれが直面しているゼロ金利とは、資金を投入してもリターンがゼロである、つまり、効率はもはや上がらない、投資するカネを持っていても意味がない。要するに資本主義という仕組みが終了した、ということなのだ。

■そう考えれば、最近の大企業が最高の利益を出しながら再投資をしないで内部留保ばかりを蓄えるというのも当たり前のことだ。

給与を上げるということについても、企業にとってそれは投資の一形態なのだから、人材が頑張って効率を上げようとしても限界が見えているならば、その投資はしないと判断するのもまた道理なのである。

日本やドイツが到達したゼロ金利とは、つまりそういう世界のことなのだ。

水野和夫氏は、三菱UFJモルガンスタンレー証券のチーフエコノミストだった人だから、まさにその「マネー」の世界の当事者であり、

お前が「徴収」する側だったんだろ!カネ返せ!!

という突っ込みをしたくもなるが、まあそれだけに説得力もある。

■水野氏は、理論値とそのデータで資本主義が行き詰まっていることを説明し、その上で、「長い16世紀」というイタリア、スペインの陸の閉じた時代から、イギリス、オランダの拡大していく資本主義への転換がはじまり、それが今、再び「長い21世紀」において終焉を迎えているという歴史観を唱える。

確かに、中国が余剰生産力を持て余している時点で、世界の生産能力的には終わりだろう。国家の保護によりで急激なクラッシュはないにしても、減速方向に向かうのは確実だ。

マネーが膨らまないということはインフレにはならないわけで、例えばクルマがすべてEVに置き換わっていくとかいうことが起きたとしても、効率がよく、コストコストパフォーマンスが良いものに置き換わるというだけで、デフレが収まるわけではない。購入者の収入が限られているのだから、買い替えも徐々に進行するだけで猛烈な特需が起きるわけでもないだろう。

イノベーションも、商品の革新も、資本主義の終焉を止めることはできない。

構造的にもう終わりなのだと理解するしかないのだ。

■言い方を変えるならば、ゼロ金利の日本とドイツは、資本主義のゴールにいち早くたどり着いた、ということだ。

それは悪いことでもない。

給与は上がらない。正規雇用は減ってしまい、むしろ押しなべて見ると給与は下がっているだろう。これからも上がる見込みはないし、年金だってもらえるかどうか定かではない。

とても不安だ。

けれど、不況下のインフレであるスタグフレーションに襲われているわけではない。

米の値段が何倍にもなって、10万円払わないと5kgが手に入らないというわけではないのだ。

浮浪者や餓死者が道に溢れているわけではない。

デフレが続いているおかげで、たいていの人は、贅沢さえ望まなければそこそこの生活は維持できるのだ。

ほとんどの人が、そこそこの生活を安定して過ごすことができる。

これって、戦争直後の日本人が切望した未来じゃないのか。

日本に限って言えば、今は決して悪い時代じゃない。

■一握りの金持ちが世界の富を独占している。

ピケティはそれを悪だと糾弾する。

けれど、それは本当に悪いことなのか。

もし、ゼロ金利で、投資が富を生むこともなくて、お金をため込むことに意味がなくなってしまっているならば、世界の富を独占することに何の意味があるのか。

誰が、どれだけため込んでいようが、どうでもいい。

この本を読んでいて衝撃を受けたのは、そこに気づいてしまったからだ。

カルロス・ゴーンが年収20億円だろうが、そんなことは私には関係ない。お金が好きならば勝手にすればいい。

自分の家族が暮らしていけるだけの、そこそこの収入があれば幸せに生きていけるのだ。

あとは老後の問題だけだ。

それは、社会全体の問題であって、富が増えない時代なのであれば、自分の老後を保証するカネを蓄えるということは、誰かの老後のカネを奪うということであり、本質的な問題解決にはならない。

金持ちからカネを奪ってそこにあてたところで、いつかはそれも尽きてしまう。

成長のない定常社会を前提とした仕組みを作り出す、それ以外に道はないのだ。

今の日本は悪い時代じゃないと先に書いたが、グローバリズム志向の現状のまま放置してしまうと、さらに国民国家の搾取が進み、大変なことになる。

それは国民生活の完全な破綻か、それに対する猛烈な反動による社会不安だ。

今のアメリカがまさにそれだ。

では、どうすればいいのか。

■著者がこの本で前著から踏み出しているのは、資本主義が終焉を迎えた後に国家がどうあるべきかの方向を指し示しているという点だ。

それは「閉じた帝国」だと水野和夫氏はいう。

EUが一番近い。

欧州というエリアを囲い、その領域のなかで統治をおこなう。

バブル崩壊後の円高の時代に、それでも日本はアメリカに縋りついたが、ドイツはたもとを分かち、フランスと共にEUを立ち上げた。

電子空間上のマネーの増殖に走ったアメリカを尻目に、EUは域内の実体経済を重んじた。

EUは今もグーグルやアップルと戦い、ドイツ銀行がアメリカ金融資本にはめられても、新自由主義とグローバリズムに抗し続けている。

そこが水野氏の心を突くのだろう。

■けれど、その「帝国」は中央集権的であるがゆえに、それを構成する国の主権は奪われていく。EU=ドイツにヨーロッパ諸国は牛耳られていく。

その不満がイギリスを離脱させ、フランスを不安定にさせているのだ。

国民国家どうこう、民主主義どうこう、という割に、「帝国」下での自由についてあまりに無頓着だ。

いやいや、「帝国の統治」と「地域社会の自立」の二本立ての構造だろう、というだろうけれども、逆に言えばその中間に位置する「国家」はいらない、ということだ。

けれど、国家ってそんなに簡単なものではないだろう。

言葉があり、文化があり、そのまとまりが国境を定めている。

田中克彦の『ことばと国家』を読めば、ドイツとフランスの国境の抱える深さが分かるし、言語が思考方法を規定していることを考えれば、国家と言語が結びつく国では、帝国の統治に対する反発は必至だろうと想像はつく。

■どうも水野氏の頭の中では経済が定常状態でまとまっていた中世回帰という発想があるようで、そこが違和感の源泉なのだと思う。

歴史とはアウフヘーベンによって進化していくものである。

マルクスはその最終形を共産主義としたが、真の共産主義は実現することはなく、共産主義の実験は、人は欲望に突き動かされるものである、と証明することで終わった。

しかしながら歴史は輪のように回帰するのではなく、やはり同じことを繰り返すように見えても、実は進化しながら「らせん」に進んでいく。

キリスト教の神は死に、個人は自由の刑に処せられた。

その対価である個人の尊厳や自由は、中世以降の発明品であって、それは現代科学の物理理論と同じように手放すことはできないのだ。

「帝国」がもたらすのは、パンと安心であり、その対価は統制である。それがゆるやかな統制であっても、そこには自由も独立もなく、あるのは従属なのである。

EU諸国が内包する不満はまさにそこにあるに違いない

大きな地域統合と域内最小単位の自立というイメージは悪くはないのだけど、統合は安全とルールを与える「帝国」ではなく、シンプルな「理想」のもとに集まる「連邦」によるべきなのだろうとおもう。

■日本が生きる道については、アジア諸国と帝国を組むことを想定しつつ、今は無理なのでその機会をうかがうように立ち振る舞っていく、という道筋を描く。

わたしが想像していたのは日本だけで閉じた国をつくり、その中で江戸時代的安定を目指す、というイメージだったのだが、一億人の人口を養うだけの食料とエネルギーをどうするか、という問題に解答を見出すことが出来ないでいた。

確かに、海洋アジア帝国で、インドネシアやオーストラリアを仲間にすれば、食料とエネルギーに目途を立てる道筋は見えてくる。

でもやはり中央集権的な帝国ではなく、ゆるく価値観を同じくする連邦制なのだろうな、と思う。

TPPが母体になるのだろうけれど、中国との軍事的関係性、アメリカとの対立回避が問題になるのは明らかで、戦略的にうまく進めないといけない。

連邦の旗印となる「理想」も描かねばならない。

そのためには50年、100年の、かなりの大戦略を描いてそれを実行できる、相当な人物が必要になってくるだろう。

たぶん、個人では成し遂げることはできなくて、まずはそういう人材が育つ場所が必要になるのだろう。

今後の日本の政界再編で、そういった「人物」が育つインキュベーター(孵卵器)が出来ることを期待したい。

まあ、そのためにはまず日本人が成長にこだわらない大人の思想に気づくことが第一歩なのだけれど。

                        <2017.07.10  記>

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2017年7月 8日 (土)

■【マンガ評】『エースをねらえ!』 だから、きらめくような生命をこめて。

ウインブルドンが盛り上がっているからではないが、急に猛烈に読みたくなって大人買いして読みふけってしまった。

Photo_2

■1995年ウインブルドンで松岡修造が故障からの軌跡の復活の末ベスト8に勝ち進んだ試合、「この一球は絶対無二の一球なり」という庭球訓を自分に言い聞かせるシーンあったと知り、そしてそれまでの苦難に満ちた彼のテニス人生は『エースをねらえ!』によって支えられてきたのだと知ったとき、ああ、これはしっかり読んでおかねばなと思ってはいたのだ。

しかし、これほどまでに魂に響く物語だとは思わなかった。

TVアニメの『エースをねらえ!』(古い方)は大好きで再放送を何度も見たし、『新・エースをねらえ!』も見てはいた。

けれど、ここまで感動した記憶はない。

岡ひろみの頑張りや成長も、お蝶夫人の精神性の高さも、藤堂さんの強さややさしさも、もちろん素晴らしいのだけれども、結局のところ、それらはすべて宗方仁の生きざまに集約される。

その意味で、『エースをねらえ!』は宗方仁の物語だと言えるだろう。

■その宗方仁の生き方を提示し、かつ、この作品の核となるシーンがある。テーマとしては、ここがすべてだといってもいい。

林の中で倒れてしまった宗方を岡が見つけ出し、自分がもうテニスが出来ない体であると岡に知られたことを悟り、宗方が岡に語り掛けるシーンだ。
  

  この一球は絶対無二の一球なり

  されば心身をあげて一打すべし

              ― 福田雅之助

あのことばが好きで 

かならず暗唱してからプレイした

  
だがそのことばが心底骨身にしみたのは

テニス生命を絶たれてからだった

  
この世のすべてに終わりがあって

人生にも試合にも終わりがあって

いつと知ることはできなくても

一日一日

一球一球

かならず確実にその終わりに近づいているのだと

   
だからきらめくような生命をこめて

ほんとうに二度とないこの一球を

精いっぱい打たねばならないのだと

Photo

■岡に出合い、苦しかったそれまでの人生を

彼女にすべてを託すためのものとして受け入れ、

それからの生の一瞬一瞬のすべてを

全身全霊をもって、子を思う親の無償の愛をもって、

岡に注ぎ込んでいく

Photo_3

「この27年が人の80年に劣るとは思わない」

と言い切るほどに最期の瞬間まで熱く生きた男。

その生きざまが、お蝶夫人を、藤堂を巻き込み

宗方仁の想いは継承されていく。

宗方は死んでも、宗方は常に岡と共にある。
  

  岡、エースをねらえ

 
その最期の言葉がいつまでもどこまでも広がっていく。  

生きる、ということの意味を改めて教えてくれる『エースをねらえ!』というマンガは、確かに少女漫画というよりも、人生に向き合うための教科書なのかもしれない。

Photo_4

                   <2017.07.08 記>

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2017年7月 2日 (日)

■【書評】『悪の正体 修羅場からのサバイバル護身論』、佐藤優。「悪」に名前をつけることの危うさについて。

ロシア連邦初代大統領エリツィン。その腹心を務めたブルブリスとの逸話を語ったプロローグに引き込まれた。実際に歴史に立ち会った人間の話は迫力が違う。

■1993年。エリツィン大統領派と最高会議派との対立は、最高会議派の武装反乱に至り、エリツィンはこれを武力を持って鎮圧する。分裂と内乱がロシア全土に拡大するのを阻止するためとはいえ、そのためには何百人もの同胞の血を必要とした。

エリツィンも、実際にこの鎮圧の指揮を執ったであろうブルブリスも、そこに「罪」を意識する。

これもまた、佐藤優の言う「悪」のカタチだ。

プロテスタントは(ロシア人はプロテスタントではないけれど)、その罪によって楽園を追い出された人間は原理的に過ちしか「悪」しか為すことができないと考える。

では佐藤の言う「悪」とはいったい何なのか。

■悪は直接に体験されるものである。と佐藤はラッセルの『悪魔の系譜』を引用する。

娘が殴られ、老人が襲われ、子供が犯される一方、テロリストは飛行中のジェット機を爆破し、偉大な国家は一般市民の居住地に爆弾を投下する。個人的にも社会的にも狂気にとらわれていない者なら、こうした行為に対して、すぐさま正当な怒りをつのらせるだろう。赤ん坊が打ちすえられるのを目にして、倫理観につらつら思いをはせたりはしない。もっとも根本的なレヴェルにおいて、悪は抽象的なものではないのだ。現実的かつ具体的なものにほかならない。

ラッセルはその上で、世の中には3つの種類の悪があるという。

一つは、人が故意に他者を苦しめるときに発生する悪。

一つは、自然が人にもたらす悪。

もう一つは、完全性が欠如している(神=善が損なわれている)という悪。

最後のひとつは明らかにキリスト教的な考え方であるけれども、自然災害がもたらす悲劇もまた「悪」だとする観点は、すべてを創造した神にとって人間はやはり特別な存在であるという意識を内在しており、これもまたキリスト教的で、「怒り」と「実り」の両方をもたらしてくれる自然という感覚をもった日本人とはやはり違うのだな、と思う。

佐藤はキリスト教徒であると同時にもちろん日本人であり、本書もその心情にそった展開をする。

人が他人を苦しめる悪はもちろん取り上げるのだが、自然がもたらす悪についても、そこから展開する人災(原発事故)や、社会に関わる悪(いじめ)へと転換していく。

その意味で、この本で扱う「悪」とは、人によってなされ相手に苦痛をもたらす具体的な行為を伴う悪、ということができる。

■佐藤優は国際政治のスペシャリスト。

外務省のロシアの専門家であり、その後、鈴木宗男議員事件に連座する形で512日の拘留、執行猶予付きの有罪判決を受けた人物である。

その罪とは国後島ディーゼル発電施設の入札に関与した罪、イスラエル学会に支援を行った罪であり、極めて政治的な色が濃いものである。

日頃の著作ではあまり強くは語らないけれども、佐藤はプロテスタント神学を学んだキリスト教徒だ。

国家公務員として国益に反することを行ったと二年近い期間拘留されるその彼の胸中で何かが育ったのは間違いないだろう。

けれどもそれは社会への復讐ではなく、啓蒙という形となった。


 受けるより与える方が幸いである (使徒言行録、第20章35節)
  

「知る」ことの強さを語る、その背後には、「知って欲しい」という祈りが込められているようにも思える。

■その佐藤はなぜ今、「悪」を取り上げたのか。

それは今の日本人が「悪に鈍感になっている」という危機意識である。

悪に鈍感な人間は、人に対して悪をおこなっているのにその意識がない。

自分の行為が相手を苦しめていてもその自覚がない。それは、個人的な行為についてもいえるのだけれども、社会として集合的に行われる行為、たとえば沖縄・辺野古の基地移設問題についての我々の鈍感さとして表れてくる。

SNSの無責任な投稿から始まり、弱者への社会的圧力への無関心に至る「悪」の蔓延に、強い憂いをもったのだろうと想像するに難くない。

■具体的な「悪」への処方箋が示されるわけではない。

大事なのは「知る」ことである。

「知る」とは「カタチ」を認識することである。

失楽園でのアダムやイヴのついた嘘や責任転嫁から始まり、資本主義とその究極のカタチである新自由主義が構造的に内包する「悪」に至る、具体的な「悪」の物語は、「悪」に対して感度が低くなってしまった我々に対して、「悪」がどういうカタチを伴って我々の周りに、そして我々のなかに立ち現れてくるのかを教えてくれる。

それを直ちに消し去ることはできないにしても、「知る」ことは重要なことなのである。

■しかしながら逆の言い方をするならば、むしろ、それが「悪」を生む、ということもできるかもしれない。

自らの外に「悪」を認識することは、「憎しみ」を生じさせる。

自らの中に「悪」を認識することは、「苦しみ」を生じさせる。

諸刃の剣だ。

そこにキリスト教的なキマジメさが感じ取れる。

プロローグで語られたブルブリスにしても、自らの行為が悪であると認識していようがしていまいが、人を殺めるという行為には変わりはない。

悪に自覚的であるならば、それは却って手加減のないものになってしまうかもしれない。

十字軍にせよ、原爆投下にせよ、IS掃討にせよ、キリスト教徒による自覚的「悪」ほど恐ろしいものはない。

佐藤優が生きてきた西洋のパワーポリティクスの世界は、確かにそういう原理で動いているのだろう。

■他人の悲しみや苦しみに感度を高めるということに対してはまったく異論はない。

人の痛みを感じる共感こそが、人間の人間たるゆえんである。

けれども、そこに「悪」や、より具体的なカタチの「悪魔」を見出すことは果たして我々に幸福をもたらすのであろうか。

仏教では、すべてを因果のなせる業であると説く。

他人から与えられる理不尽な行為も、 人知を超えた天災も、そこでは等価であり、天を恨むことが無駄であるように、人を恨んでも仕方がない。

いやいや、そんなに人間は割り切れるものではない。

相手が人間であると認識した瞬間、他人の「悪意」を感じたとき、我々の心は激烈な恨みにさらされる。

しかし、その自分の復讐心のなかに、なにかカタルシスのようなものを覚えたとき、相手に報復している自分の姿に喜びを感じてしまったとき、底知れぬ恐怖を感じるのである。

私のなかにこそ悪魔がいるのだと。

■それもこれも、「悪」を認識するというところから始まっているのではないか。

すべての苦しみは、怒り、妬み、悲しみ、そういったものは、不公平だとかも含んだ「悪」によって成り立っているのではないか。

怒りや、妬み、悲しみは自然な感情である。

けれども、そこに火をつけて燃え下がらせるものがあるとするならば、それは「悪」の定義づけなのではないか。それは、「悪」の対極である「善」を正当化させることによって激しく燃え盛る性質をもっているからだ。

■人が生き物である限り、日々何かを犠牲にして生きている。

それは食料となる生き物なしには生きていけない(ベジタリアン諸君!植物ももちろん生物だよ!)。生き物は生まれながらにして生きていくことを目的として生きている。それは植物にしても、動物にしても、もちろんわれわれ人間にしても同じである。

その「生きるべくして」生まれた生命の犠牲の上に我々は生きている。

そして社会という仕組みを動かすなかでは、不公平な苦労を背負わされる人が出てくるのも必定で、不公平なんてのは当然にしてあるものである。

もちろん、不公平は決してあってはならない、なんて声高に正論を述べる人もいるだろうが、本当にそう信じているのであれば極めておめでたい人なのだろう。ある意味幸せなひとだ。その人たちは自分たちだけで幸せな原始の森に帰ればいい。(いや、戻れるものなら私も縄文時代に戻りたいのだが!)

■言いたいことは、図らずもプロテスタントと同じ答えで、我々は生まれながらにして「悪」を抱えて生きているということだ。

問題なのは、それを忌むべき「悪」ととらえるか、われわれの「性質」ととらえるかの違いなのだ。

「悪」は対局となる「善」を生み、対立と争いの種となる。

「性質」は、分析を可能にし、それをコントロールする科学を生む。

ならば、われわれが進むべき道は明らかだろう。

「悪」に悪魔の名前をつけてはいけない。

その瞬間に、我々は「善」や「神」に呪われるからだ。

怒りや、妬み、悲しみを生む「それ」を、それとしてそのまま理解すること。

それが、人が幸福の道を歩む方向性なのではないか、

この本で「悪」について、つらつらと考えた結果たどりついた仮説は、いまのところそういうところだ。

結論は永遠に出ないのだろうけれど。

 

                    <2017.07.02 記>


■悪魔の系譜  ジェフリー・B. ラッセル

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2017年6月24日 (土)

■【書評】『同調圧力 メディア』 森達也。議論を封殺する自民党を民主主義の敵と批判し、そこに異を唱えないメディアを腰抜けと罵る我々も実は同罪なのだ。

本書は『創』に連載された森達也の「極私的メディア論」を2010年7月号から2017年4月号までまとめたものである。

森達也の視線は、ぶれることなく、今日現在へとつながっていく。日々のニュースの洪水につい忘れてしまうが、過去の出来事は確実に現在につながっているということを改めて思う。

■8年の間にずいぶんといろいろなことが起きた。

ここで取り上げられている「事件」を挙げてみよう。

2010年: オウム裁判

2011年: 尖閣問題、9.11後のアメリカの過剰反応、東日本大震災と福島原発事故

2012年: 3.11の余波、『靖国』、『ザ・コーブ』抗議活動

2013年: 自公民大勝利・第2次安倍政権発足、北朝鮮ミサイル騒動、特定秘密保護法、天皇の政治利用

2014年: 日本版NSC構想、音楽家代作問題、憲法改正論議、福島原発の風評被害、集団的自衛権論議、 朝日新聞慰安婦報道ねつ造問題

2015年: 仏・反テロデモ、ISによる後藤健二さん・湯川遥菜さん殺害、川崎・中一少年殺害事件、安全保障関連法に対する自民選出憲法学者違憲判断、安全保障法案可決、シリア・イラク難民問題

2016年: 安倍政権のメディアへの圧力と放送法による電波停止論議、選挙権18歳化と自民党による「学校教育における政治的中立性についての実態調査」、共謀罪/テロ等準備罪法案、トランプ米大統領選勝利

2017年: テロ等準備罪法案可決

■基本的に森達也の主張は変わらない。「思考停止」に対する警鐘だ。

それは本当だろうか、という疑問を持ち、自分なりに情報を集めて自分の頭で考える。

2010年から現在に至る道筋を追いながら、日本の社会が「テロ」、「北朝鮮」などの脅威にあおられながら、「思考停止」のまま流されていく様子がリアルタイムで語られていく。

ここでは「思考停止」は「同調圧力」と集団に視点を変えた形で継続される。

そこに浮かびあがるのは「不謹慎」というような一見常識に沿った形での猛烈な社会圧力の強化だ。

集団に対して異なる主張をするものに圧力をかけ、修正を迫る一種の暴力である。

オウムによる地下鉄サリン事件によって我々の社会に埋め込まれた毒薬がじわじわと効果を発揮していく。森達也が懸念した通りになった。

■危機を感じた集団は、イワシにしろ羊にしろ群れをつくって集団としての運動を開始する。統制の乱れは個体の死ばかりではなく集団へのリスクを高める。その集団としての本能が我々にも作用し始めているのかもしれない、と森は考察する。

日本だけではない。イギリスのEU離脱、フランス大統領選挙、もちろんトランプ大統領の登場。これらはポピュリズムの文脈でまとめられるが、そのポピュリズムの根幹にあるものが「不安」だということだ。「不安」をうまく煽って(羊の群れを)誘導するものが政権を取る時代である。

しかし、森達也はさらに踏み込んでくる。

16年3月号の『私はチッソであった』という記事である。

■水俣病で父を失い、家族や自分の健康を阻害され、チッソを訴え続けていた人が、ある日提訴を取り下げる。

「自分がチッソの立場であったら、私がチッソの社員であったらということを考えずに生きてきた。出た結論は私も同じようにしたであろう、ということだった」

社会によって「悪」と断定されたものに対し、この世の中は容赦がない。

確かにそれは「悪」なのかもしれないが、弱いと見るや徹底的にそれを叩く姿勢は傍から冷静にみれば気持ち悪いものである。

例えば朝日叩き。

私自身、朝日新聞の行為は許せないし、批判的である。

けれど、それで朝日新聞の存在を全面的に否定するというのはやり過ぎ、ということだ。

大切なのは、その問題の発生した構造を明らかにして二度とそういうことが起きないような努力を社会が行うことだ。

■家計学園問題以来、安倍政権の雲行きが怪しい。

ようやく「社会」が安倍政権の独善に気づき、急速にその批判に舵を切り始めている。

衆参両院の過半数を抑えていることを背景に、議論を封殺したまま物事を決めていき、異論を発するものは警察力まで動員して排除しようとする。

こういう政権が憲法改正などと主張しているのだから流石に世の中も危機感を感じ始めたということだ。

私もその尻馬に載って記事を書き散らしたりなぞしている。

けれど、『私はチッソであった』の観点からするならば、排除すべきは安倍晋三と首相官邸や自民党総本部の面々ではなく、彼らにそういう動きをとらせた「構造」である。

もちろん、安倍政権による憲法改正には断固反対である。

憲法改正を目的にした9条改正なんて意味不明だ。

■だから継続して批判的目で見ていくのだけれども、そういうことを可能にしてしまった「この世の中を覆う空気」がなぜ発生して、3.11を経験してもなお消えることなく、むしろ強化されてしまったのか。

どうすれば、その「空気」に「水を差す」ことが出来るのか。

そこがまさに考えていくべきポイントだ。

「オウム信者に対して敵対していた右翼団体や周辺住民のうち、彼らに直接接触した人たちは無条件の排斥をしないようになる。」という趣旨のことを森は語るのだが、そこにヒントがあるのかもしれない。

大切なのは直接顔を突き合わせた対話である。顔や素性さえ見えないSNSでの主張の氾濫がこの空気の醸成を推し進めているのだろう。

いまさらこの流れを止めることはできないが、世の中のみんながその特性を知っているかどうかできっと変わってくるにちがいない。

■この雰囲気は戦前にそっくりだ。

という声をニュースでたまに聞くようになった。

たぶんそれは正しい。

ならば、我々が「なぜ戦争を起こしたのか」と前の世代を問い詰めるその追及を自分自身にも向けなければならない。

何故、止めることが出来なかったのか?

と、次の世代に問われて答えに窮することのないように。

                        <2017.06.24 記>

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【参考記事】
【「空気」の研究】 山本七平。決して古びることのない本質的日本人論。

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・・・中村健治の読みもあながち間違っちゃいなかったということだね。

 
【参考記事】
 

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