●2.読書録【ひつじの本棚】

2017年8月 3日 (木)

■【書評】『いま世界の哲学者が考えていること』 岡本裕一郎著。【哲学】は最早、現代には通用しないのか。

現代において、いろいろな局面で構造的変化が起きようとしている。それを今の哲学者たちがどう読み解いているのか、それを俯瞰することで時代を読み解く頭を整理する。そういう本である。


【単行本】いま世界の哲学者が考えていること 岡本 裕一朗 (著)

■ポスト構造主義以降の哲学については、日本では断片的にしか情報が入ってこないし、残念ながら日本を舞台に最先端の哲学が展開していく状況にないからとてもありがたい本だ。

ヨーロッパのポスト構造主義とアメリカ、イギリスの分析主義を超えて、カントから始まる従来の相対主義を克服する「実在論的転回」、ポスト構造主義の根幹である言語論的転回をツールに拡大する「メディア・技術論的転回」、科学的視座から神経学、物理学の延長として心を取り扱う「自然主義的転回」。この3つの軸で現在の哲学が進んでいるのだという。

「実在論的転回」には仏教的な、もっというと禅の思想を感じるし、「メディア・技術論的転回」は意識が肉体から道具に延長されることは日々の実感であるし、「自然主義的転回」はまさにこのブログでも追及していることだからその流れは体感している。思想のための思想から、実学としての哲学が帰ってきたような印象であり、わくわくする。

■さて、現代の哲学の概観をなでる第一章に続いて、本論に入る。

以下章立てで、「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」、「資本主義」、「宗教」、「環境問題」についての具体的状況を語っていく。

あとがきにもあるが、著者は結論を導くのではなく、そこで繰り広げられる思想的アプローチを多面的に紹介し、それぞれに対する疑問をなげかけるにとどめる。

それは読み手の思索を励起し、読んでいてとても楽しい。

ただ、ITとかバイオテクノロジーとか地球温暖化とかいったときに、著者が先の宣言に反してレイ・カーツワイルの幾何級数的技術の進化や環境問題に対する「コペンハーゲン・コンセンサス」をそのまま取り上げていて、そこに本書の限界も感じられる。

著者は思想史の専門家であって、科学的思考には少し疎いように見受けられる。だから権威の言うことに、しかもそこにそれらしいデータとかグラフをつけられれば信じるしかない。

■さらに言うならば、著者は【哲学者】でもない。

哲学者は真理の探究者である。その基本スタンスは疑うことだ。

われわれが信じていることを解体し、論理的に再構築して、この世界を説明する。それが哲学者、というのがわたしの理解だ。

この本で、「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」、「資本主義」、「宗教」、「環境問題」にかかわる【思想】をなでるわけだが、ニュースになるような表層的問題にとらわれていて、【本質】には触れることはない。

例えば、「ITと人工知能」ならば、機械とそこに流されるソフトウエアに【わたし】という自我が生じるのか、という問題から、【自我】に関する21世紀の哲学を語らねばならないし、ネットとビッグデータによる管理、監視社会の問題なら、【社会】とはなにか、についての本質論が今どうなっているかを語らねばならない。

しかし、語られるのは、技術論であったり、脳科学であったり、社会問題について、つまり具体的で個別の問題なのである。

果たしてこれは【哲学】なのだろうか。

著者は日本の大学の哲学科で学ぶのはデカルトの何々論についての研究とかばかりで、自分の哲学を構築しないと批判しながら、哲学とはそもそも何なのか、何を語るものなのかという根本が決定的にずれているように思えるのだ。
 
第一章の21世紀の哲学の現状での新しい切り口で、現代の課題の論点の奥にある真理を浮かび上がらせる、そういう展開を期待したのだけれど、残念ながら、そういう深みにはほぼ踏み込めていない。

■【社会思想】と【哲学】はあきらかに違う。

前者は、【その社会において何を信じるか】を問うものであり、後者は、【そんな社会、うそだから】と嘲笑うものだからだ。

もっというと、前者は【ある価値観】を前提にしており、後者は【その前提を覆す】ことに意味を置く。

前者は、ある前提の地平のなかでの議論だが、後者は、その前提となる地平から離れた次元からの視点で物事を眺めようとする。

この宇宙を知るためには、この宇宙を抜け出してメタ的な視点から見るしかない。

それが哲学なのであって、第二章以降の各論において決定的に欠落しているのはそこなのだ。

いくら多面的な思想を提示したところで、この大地を離れない限りコペルニクスにはなれないのである。

■第一章でわくわくしたのは、著者が「実在論的転回」、「メディア・技術論的転回」、「自然主義的転回」という3つの切り口を提示して、ならば世界はどう変わるか、最先端の哲学者たちはどういう世界を、どういう宇宙を見ているのか、というそこなのだ。

デカルトが「わたし」という主観しか信じられない!といって、そこからスタートしたのに対し、その主観から始まる世界があるのと同時に絶対的な世界も実在するのだというのが「実在論的転回」ならば、それが示すのは【わたし】がいない世界だ。

禅語に【山是山水是水】ということばがある。

悟りに至らない段階では、山は山としか、水は水にしか見えない。 しかし、本来無一物の境地に至ると、一切が無差別平等となり、山は山でなく、水も水でなくなってしまう。 さらに修行が深まって悟りの心さえも消え去ってしまうと、山が山として水が水として新鮮に蘇ってくる。

我々は【山】という言葉、概念で山を見る。

けれどそこには現実の【山】はない。

現実の【山】は、【わたし】の外にあるからだ。

【山】という言葉が、概念が、われわれを縛るならば、インターネットという新しい【言語】を得たわれわれが見ている【山】は、【世界】はどう変容したのか。

「メディア・技術論的転回」という切り口が示すのは、そこである。

「自然主義的転回」が示すのは、ニュートン的物理学で宇宙は整然と説明できるという【幻想】の打破である。従来の、要素を分解してその関係性を記述するやり方では【生命】や【心】などの複雑系は記述できない。

だからこそ量子論とかネットワーク論とか、そういう関係性そのものに注目する最近の科学があたらしい【世界】を見せるツールになるのだ。

■そういう視点で各論を見ていこう。

「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」については、究極を言えば、【どこまでが’わたし’なのか】、という問い立てを避けられないはずだ。

ネットワークで世界に広がった【わたし】、ソフトウエアの中に発生した【わたし】、細胞から再生されたわたしの外の【わたし】。

そういった規格外の【わたし】が現実となった現在、世界の哲学者は【わたし】をどう再定義しているのか。

フーコー、ドゥルーズの視点は示され、社会から監視、監禁される人間から、データとして分解され管理される人間への変容、概念としての従来的「人間の終わり」について語られる。

あとは、あれはいいこと、これは悪いことという価値観のはなしで、ハーバマスの自然発生と人為が混乱することで起きる「自己」への影響、その前提となるハンナ・アレントの「出生性」が面白いくらい。

確かに善悪とか道徳というのが論点になるのだけど、これがいい、いやだめだ、という論争はすでに社会的前提によって支配されているわけで、そこが【思想】的であって、【哲学】的でないのだ。

結局、このあたりの話題はまだ整理されていない、ということなのだろうか。

■「資本主義」、「宗教」については、文系的概念の話題だからか、【常識】を疑い、再定義するという意味で哲学的であり、そこそこに議論が整理されている。

【格差】が問題だというけれど、本当?それって【不平等はいかん】という価値観に縛られてるだけでしょ?実は、お金なんて生きていくのに十分にあればいいんでしょ。というフランクファートの「十分性の学説」。

個々の意志を尊重したときに発生する矛盾から、自由主義は原理的に成り立たないことを示したアマルティア・センの「自由主義のパラドクス」。

「ハイパーグローバリゼーション」と「民主政治」と「国民国家」が同時には成り立たない。取り得る道は、①「ハイパーグローバリゼーション」と「民主政治」による【世界連邦制】、②「ハイパーグローバリゼーション」と「国民国家」による【ネオリベラリズム】、③「民主政治」と「国民国家」による【賢いグローバリゼーション】の3つしかないと喝破したダニ・ロドニック。

西洋近代が合理主義による【世界の脱魔術化】だと説いたマックス・ウェーバー。実際にわれわれは近代を「脱宗教」、「世俗化」の過程だと思っている。

それを「第一の近代化」として、現代を「第二の近代化」つまり、<「自分自身の神」をもつ宗教の個人化><多様な宗教に寛容なコスモポリタン化>による【世界の再魔術化】の過程として定義したウルリッヒ・ベック。

【宗教】と【科学】の機能は重ならないとしたグールドと、それを批判して【神】を妄想だと反証したドーキンス。

【宗教】を自然現象ととらえ、科学的解析の対象としてそこから生まれる「陶酔、呪縛」から逃れる方法を探ろうとするダニエル・デネット。

それに対し、【国家】が存在することを科学で説明できないからといって超自然現象といえるのか?として、すべてを自然科学で説明することはできないと反論したマルクス・ガブリエル。

やはり、この手の概念的話には【哲学】は親和性があるようで、いい悪いの価値観を超えた論理展開に、こちらの思索もずんずん励起されて面白い。

■で、一番がっかりするのが最終章の「環境問題」だ。

どうもこの章は、そもそもの【地球環境問題】というテーマを幻想だと退けようとする意図が見えてしまう。

中立であろうとするこれまでの著者の立場が突然崩れるのだ。

環境問題についての立場は【キリスト教的人間中心主義】と【環境的価値に重きを置く生態系主義】の対立として捉えられる。まずは問題をそこに据える。

けれど、そこでの対立を別の次元で統合しようとして環境を経済的貨幣価値に変換したロバート・コスタンザにしても、それは経済という一元論だとして「リスク評価」で考えるべきだとしたウルリッヒ・ベックにしても、やっていることは【哲学】ではなく、【最適化】論であるがゆえに、根本的転換には至らない。

ベアード・キャリコットの近代科学を前提とした人間中心主義からポストモダンの科学(相対性理論、量子論、進化論、生態学)に基づく環境倫理への転換も紹介されるが(私は発想自体には違和感を感じないのだが)著者はポストモダンは時代遅れで説得力がないと自ら退ける。

で、そもそも【地球環境問題】という【終末論】は幻想である、という逃げに走るのだ。

しかもビョルン・ロンボルグの「コペンハーゲン・コンセンサス」なる政策の優先順位で環境問題の評価が低いと、これはノーベル経済学賞をうけた一流の研究者たちがまとめた内容であると鼻を膨らませる。

いやいや、IPCCも国連も手放しに信じるべきではないけれど、同じように「コペンハーゲン・コンセンサス」も手放しで信じるべきではないだろう。

言いたいのは「疑うこと」だというのは分かるけれども、あまりにも論理がお粗末で、それが最終章だというところに悲しさすら感じてしまった。

■結局のところ「何がいいのか」、「何が大切なのか」という【価値観】という物差しを棄てない限り新しい地平は開けない。

「実在論的転回」、「メディア・技術論的転回」、「自然主義的転回」というツールを整備しておきながらも、「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」、「環境問題」という人類が直面している重要課題については【哲学】は何も語ることができないのかと暗澹たる気分になる。

著者はこれだけの膨大な世界の最新の思想を読み込んでいて、それでもなお、【哲学】をもってそれらを切り裂くことができないのだ。

やはり、【哲学】の世界は閉塞してしまっているのだろうか。

あるいは、【科学】と【哲学】があまりにも乖離してしまったことが不幸なのか。

【科学】と【哲学】が同じ地平にいたギリシャの時代の素朴さに一旦帰ってもいいのかもしれない。

                         <2017.08.03 記>

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2017年7月24日 (月)

■【マンガ評】『大純情くん』、おおらかで希望に満ちた、懐かしき松本零士の世界。

『銀河鉄道999』のエッセンスはすべてここにあるんだよねえ。


大純情くん (1) (講談社漫画文庫)

■松本零士といえば、『銀河鉄道999』と『戦場まんがシリーズ』が大好きだった。

でも、小学校6年生くらいのころかな、大純情くんのなぜか3巻だけを持ってて、何度も何度も読んでた記憶があって、特に、学校で物野けじめを待っている先生の話が好きだったなあ。

いま改めて全3巻通して読んでみると、なんだろう、あんまりカッコつけていない素直な松本零士がにじみ出ていて、なんともしみじみする。

未来都市のビル群のなかで取り残されたような古い町並みが残った地域のなかの、そのなかでもさらにボロいアパートの四畳半に住む一人暮らしの中学生、物野けじめ。

そこに突如として姿を現し、金言がつまった『古代催眠術大辞典』のページを開いたまま去っていく謎の美女、島岡さん。

『大純情くん』に登場する、けじめと島岡さんは、明らかに鉄郎とメーテルだ。

この作品が書かれたのが1977年、『銀河鉄道999』と同じ年に連載開始。

どちらの構想が先なのかは知らない。

でも、話がシンプルなだけに、『大純情くん』は実に素直にぐっとくる。

後半、けじめが住む四畳半のある世界が、どういう世界の上に存在しているのかが次第に明らかになっていくのだけれど、ああ『銀河鉄道999』の構想はすでに出来上がっていたのだな、と今にして思う。

そこのスリルもいいのだけれど、一番いいのは、けじめがいろいろな不思議に遭遇しながらも、まだ世界に疑いを持っていない一巻目。

こういう昭和の心情的懐かしさにしみじみしてしまうのは、年を取った証拠かな。

■そして何より、島岡さんが開いてくれている『古代催眠術大辞典』のページにかかれている心に染みる言葉たち。

夢、人生、友情、男ということ。

これが松本零士だよね。

 

できると信じていることは

ときとしてできることがある 

できないと信じていることは

絶対にできはしない

(ナピカ・マナムーメ)

 

食えるときに 食え

なぐれるときに なぐれ

これが満足して 生涯を

終えるための基本だ

(メキシコの大山賊 エルブラント クエス クワントス 1822年没)

 

なにもせず笑う者よりも

なにかをして笑われる者のほうに

いつの日か 勝利はおとずれるものだ

これが 万世万物の真理というものだ

(藤原明衡 治歴二年 (1066)没)

 

だれにも手出しのできないところがこの世にはひとつだけある

それは人の心のなかだ 

そこはその心の持ち主の自由の天地だ

(ヘルマン・ヘッケラー/自由詩人/1774)

 

人の涙を見て わらう者は

いつか地獄で なく日がくる

人の涙を見て 心で涙をながす者は

人の涙に おくられて

やすらかに この世をさる

(B.C.1020 バクダードにておもう アラメド・アブドゥラ)

 

悔しさが男を作る 

悲しさが男を作る 

みじめさが男を作る 

復讐心が偉大な男を作り上げる 

強大な敵がお前を真の男に作り上げる

(三葉機と共に散った大ドイツ帝国不滅の飛行軍人 マンフレッド・フライヘル・フォン・リヒトホーフェン)

 

男の友情はお金では買えないものだ

男が男の血と汗と心で戦いとるものだ

そういう友情こそ 

命にもまさる とうといものであると

わたしは信ずる

わたしはそのためになら

死んでもよい

(ハンニバルとともに アルプスをこえるとちゅう死んだ勇士 レオヌス・プラクトゥルスの日記より)

 

この世に痕跡をのこして死ぬとき

人は満足して眠りにつく

しかし人生という目に見えない足跡が

いちばん とうといものだ

(即身仏となった名僧 深海山)

 

そして、

とおく 時の輪の接するところで

けじめと島岡さんは汽車に乗る。

01

            <2017.07.24記>

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【単行本】大純情くん 全3巻 松本零士 マガジンKC
KC版、3巻目巻末に収録されている短編、『秘蝶の谷』も、希望に満ちていて素晴らしくいいです。

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2017年7月13日 (木)

■【書評・哲学】『あなたの人生の物語』から、時間と自由意志について考えてみる。

テッド・チャンの『あなたの人生の物語』を読んだら、なんとも哲学したくなってしまったので、作品に対する書評は短編集のすべてを読み終えてからにするとして、久しぶりに思考の森に分け入ってみようと思う。

Anatanojinnseinomonogatari_2

■この作品は、エイリアンであるヘプタポッドが使う言語を言語学者の主人公が学ぶうちに、時間を超越した認知を獲得する話である。大事なのは、そこで主人公が見つめる自分の「確定した未来」へのいとしさなのだけれども、それを演出するSFとしての道具立ては「時間を超越した認知を導く言語」とその背景にある「変分原理」という物理法則である。

このSF的道具立てに注目したとき、「時間」と「自由意志」についての深い思索に思わず導かれてしまうのだ。

■1.時間について

通常の我々の現在の常識では、時間は過去、現在、未来へと一方向に、しかも一定の速さで流れていくものである。

幼い頃から日々時計を見ながら育ち、学生になって物理学で初めに学ぶのは、初速50km/hで投げ上げたボールは、何秒後に同じ場所に落ちてくるか、というような「時間」を物差しとしたものの見方だ。

投げ上げたボールの初速を上げれば人工衛星になり、さらに速度を上げれば地球の重力を振り切って、太陽を中心とした楕円軌道に乗るだろう。

我々が認識する太陽系だとか、銀河系だとか、そういった宇宙の広大な世界は、高校一年生で学ぶ、「時間」を基準とした物語の上に成り立っているのだ。

アインシュタインが時間は相対的なものである、と言ったとしても、なかなか実感としてそれを認知することはできない。

■しかし、ヘプタポッドは「時間は一方向に流れる」という常識をわれわれ地球人から取り払おうとする。

ヘプタポッドが見る世界はわれわれが一般に用いる「ニュートン力学」ではなく、「変分原理」あるいは「最小作用の原理」よばれるものによって構築されているらしい。

運動の時間変化は作用積分が最小となる軌跡を選びながら進む。

なんのことやらわからないが、どうやらニュートン力学的な「初期値と時間」による世界の記述ではなく、「全体を見たときの最小値」が現れるという時間をものさしとしない世界観のようだ。

時間というものを座標軸として認識し、それを含んだ座標系を俯瞰することができれば、過去とか未来とか、そういう見方ではなく、この時間ではこう、この時間ではこう、という時間の流れの束縛から独立した見方が可能になる。

ヘプタポッドは、「過去」と、「現在」と、「未来」を同じ目線で眺めているのだ。

■時間に関する哲学的問題として、未来、および、過去はあるのか?という問いがある。

結論から言えば、我々の認知を基準に考えれば、過去も未来も、「今、ここ」にある意識に映る影に過ぎないが故に、その実在を証明することはできない。

その「影」とは「概念」であり、我々の意識が言語を道具として作り上げたものだ。

例えば、柴犬のポチは見通しのたたない明日を苦にして睡眠障害に陥るだろうか、庭の植木鉢をひっくり返した過去の失敗を悶々と悔やみ続けるだろうか。

いや、柴犬のポチにあるのは「今、ここ」だけなのだ。

たとえ、昨日の失敗を気にしているように見えたとしても、それは見ている飼い主の意識に映る幻影であって、ポチは飼い主の態度を見て反応しているだけに違いない。

なぜならば、ポチには「過去」とか「未来」という「概念」を認知する「言語」による抽象概念の構築ができないからだ。

ポチに「過去」とか「未来」が存在しないのならば、何故この世に「過去」とか「未来」が存在すると言い切れるのか。

ポチが投げたボールをジャンピングキャッチするとき、彼は運動方程式を解いているわけではない。経験から瞬時に運動を把握して落下点でジャンプする。そこに一定の速度で流れる時間(t)は必要ないのだ。

■それでも、われわれにとって「過去」も「未来」も、ありありと実在するように見える。

幻影は認知できる限りにおいて実在なのだ。

そういう意味では「過去」も「未来」も存在する。

しかしながらそれは、単にわれわれが生きていく上で「便利」だからであって、決して絶対的な真理として時間が存在しているわけではない、ということだ。

『あなたの人生の物語』でテッド・チャンが示したヴィジョンは、われわれの認知と別の認知体系においては、「時間の流れ」を絶対的なものとしなくても世界を把握できるのだ、という可能性を示して見せている。

そこがこの作品をSFとして極めて華麗なものにしているのである。

■2.自由意志について

この物語では、主人公の女性言語学者がヘプタポッドBと呼ばれる言語(文字)をマスターすることによって、未来を認識できるようになる。

そこで問題になるのは、「未来」を知ったとして、主人公がその未来につながらない行動をとる「自由意志」があるならば、「未来」は確定しない、というパラドックスだ。

この問題について、テッド・チャンは明確な回答を示すことはなく、「未来」を知ったものが使命感のようなもので突き動かされる、と今までの論理の構築に比べると拍子抜けするほどにぬるい仮説を述べるにとどまってしまう。

もしヘプタポッドたちが見ている世界が、未来と現在を区別することなく認知することで広がるものであるならば、現在の「私」は未来に縛られていて自由意志など存在しない、自由意志は錯覚で、後付けの「使命感」のようなもので片付けられる、ということになる。

それは本当だろうか。

■果たして自由意志はあるのか。

人間には?犬には?魚には?みみずには?ゾウリムシには?石には?

そう考えていくと、自由意志というものは普遍的に存在するものではないのだろう。

自由意志とは、時間感覚と同じように、人間の意識が生んだツールか、もしくは副産物、たぶんその両方なのだろう。

リベットの『マインドタイム』を読めば見えてくる話だが、人は自分の行動を時間的にさかのぼって、自分の意志で行ったと錯覚する。『マインドタイム』で実証されるのはクルマの前にボールが転がってきたときのような反射行動だが、ゆっくりと時間をかけて熟考した行動というものについても、それが後付けでないという証拠はない。

むしろ、「変分原理」、「最小作用の原理」が示しているのは、現象は因果関係とは別の原理で説明がつくということであり、自由意志があろうがなかろうが、そこで現れる現象は最小値に収まるということだ。

■これはいわゆる決定論とは違う。

決定論の文脈の中にはまだ過去から未来への流れが存在していて、私が過去にいる時点の未来がすでに決まっている、という論である限り、この話とは別なのだ。

実は未来は確定していなくてもいい。

量子論的に多数の未来を同時に抱えているといってもいい。

その中から最小値が選び出され、我々はその「最小値」が「未来」であったと、未来における「今、ここ」で認識するのだ。

その固定されるであろう「未来」があって、それを選択する行動を「今、ここ」の私がとる。

時間をリニアにとらえる世界観では、それを因果関係と呼び、そこに自由意志がある、という。

変分原理に基づく世界観では、結果と呼ばれる「未来」に向かった「今、ここ」の行動がある、という。

同じ現象の言い方を変えただけのことであり、結論を言えば、時間を軸に進む我々の認知の世界では自由意志はあるけれども、もしそれが無かったとしても世の中の説明はつく、ということだ。

■大切なのは、「今、ここ」の行動と「未来」の結果は、並列であり、セットだということだ。

「今、ここ」の行動が違えば、「未来」の結果も違うものになる。

それは常にセットで動く。

『あなたの人生の物語』では、決まった未来のヴィジョンを受け取り、主人公は意識的にそれに沿った行動をとるのだけれど、これではパラドックスを抱えたままである。実はテッド・チャンはまだ自らが否定して見せた「時間」と「因果関係」に縛られている。

だから「未来」を固定した瞬間に、自由意志が失われる矛盾に襲われるのだ。

「今、ここ」の主体の意識が「未来」を知ったとき、というのは「今、ここ」の現象に過ぎない。

ヘプタポッドの世界における「今、ここ」の主体は「未来」と同じ地平にあるのだ。

■われわれの意識は「今、ここ」でしかないのだから、ヘプタポッドの世界にわれわれの意識の入り込む余地はない。

それはどういうことか。

意識を語るために我々の「時間の一方向性」と「因果関係」が支配する世界でみるならば、100%実体のある「未来」が多数同時に存在している、とするのが量子論だ。

観測者がそれを「見る」という「今、ここ」の行動が選ばれた瞬間に「未来」の結果が一つに定まる。

「わたし」という主体が持つ意識はひとつの像しか結ぶことができない。青酸カリを仕込まれた箱の中にいる、生きているシュレディンガーの猫と死んでいるシュレディンガーの猫を同時に認知することはできないのだ。

もし、行動を起こす前の「今、ここ」の主体の意識が、「今、ここ」でないその先の「未来」にも同時に存在するのであれば、量子論的な多数の未来、多元宇宙の広がりを認知しているということになる。

そうすると、「わたし」は、「今、ここ」で感じている世界と同時に複数の宇宙に存在し、それを俯瞰しているということになり、それはもはや人間の視野などではなく、この宇宙の上位存在である「神」の視野をもつことになってしまう。

そういう意味でヘプタポッドがわれわれと同じ意味での「意識」を持つならば、われわれの世界を語る小説の作者のような意味での「神」なのだ。

■だから、ヘプタポッドBを習得したルイーズが認知する「未来」は常に一つだけであり、取り得る行動も、その「未来」とセットとなる「行動」ひとつに絞られる。

ルイーズが「未来」の量子論的広がりをありありと認知することはなく、意識は常に「今、ここ」に限定され、唯一の「未来」に向かった「最小作用」を選び取る。

それはテッド・チャンのいう「使命感」などで決まるものではなく、「最小作用の原理」に従った数学的帰着なのである。

ルイーズに「今、ここ」の意識はあったとしても、そこにはもはや「自由意志」は存在しない。

■もしかすると量子コンピューターにはそれの認知が可能なのかもしれない。

が、我々が「認知」できないものを「認知」出来ているかどうかを「認知」するというのは概念的には可能かもしれないが、それがどういうことかというのは実感としてありありと理解することは不可能だろう。

けれど、光合成のプロセスが「最小作用の原理」によってあらかじめ最適値を知っているかのようなふるまいを見せることとか、われわれの「意識」というものがシナプスのつながりという物質的なものによってつくられるのではなく、ネットワーク上のゆらぎのように立ち現れえるように見えることとかを考えてみると、実は、われわれの基盤である「生体」というものはヘプタポッド世界的存在なのかもしれない。

この物語のルイーズがもしヘプタポッドBの完全な理解に至り、「生体」の原理原則を覗き見るヘプタポッド世界に入っていくとするならばどうだろう。

その、われわれを構成する原理を理解するというその行為は、あたかも小説の中の主人公が自らを描いた小説そのものの成り立ちや構造を前にして立ちすくむような、まるで(わたしが大好きな)『ソフィーの世界』が提示した恐怖を思い起こさせる。

それはまさに人類の進化であり、人が神になる物語だ。そして、『あなたの人生の物語』の映画版である『メッセージ』で提示された3000年後の未来に向けて「ヘプタポッドが人類を進化させる」という意味も極めて明確になってくるのである。

■結論

1.時間の流れという意味で、「過去」も「未来」もわれわれが作り出した道具に過ぎず、確かに存在する、と言えるのは「わたし」という主体が認知する「今、ここ」だけである。なお「わたし」という主体がない場合は「今、ここ」も存在することはない。あるのは時間的広がりだけである。

2.自由意志はあるという言い方もできるし、ないという言い方もできる。「時間の一方向性」や「因果関係」を軸に世界を見るか、「最小作用の原理」を軸に世界を見るかの違いに過ぎず、確かな存在かどうか、という論点にはならない。

以上。

                     <2017.07.13記>

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【文庫】あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

<映画評>【メッセージ】「言語」の持つ力と「物語」が出会うとき。


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2017年7月11日 (火)

■【書評】『閉じていく帝国と逆説の21世紀経済』 水野和夫 画期的社会変革論から導かれるのは、実は個人レベルでの価値観の大転換、要するに金持ちや成長志向からの脱却なのだ。

低金利を切り口に資本主義の本質とその終焉を説いた『資本主義の終焉と歴史の危機』の続編。終わりを迎えた資本主義のその先の世界を読み解くスリリングさだけでなく、我々が信じる「金持ち」=「幸せ」という価値観を打ち崩す衝撃がそこにある。


[新書] 閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済

■要約してしまうならば、民主主義と資本主義の蜜月は、資本主義が地理的拡大により周辺国から「徴収」することが出来た1970年代までで終了した。パイがでかくなることがなければ、ゼロサムゲームになるわけで、企業の利益拡大は国民国家の利益と両立はしない、むしろ国民国家の利益を吸い上げる形となる、ということだ。

それが具体的に進行した形が新自由主義、グローバリゼーションであり、今、アメリカやイギリスやフランスで見られる反グローバリゼーションは、国民国家の危機に対する反動である、と見る。

つまり、1990年代のグローバリゼーションは、その発生からすでに反国民国家であることが構造的に決定づけられていたということになる。

■アメリカは、地理的拡大の完了後もパイを拡大するために、IT革命にのって金融市場で世界のカネを「徴収」した。スピードを上げ、ネット空間で高速に時間を切り刻むことによって、カネを増殖させては取り込んでいく。

けれども、ゼロ金利とはそもそも、カネを持っていても、それが価値を生まない、ということを意味しているのだから、その行為には全く意味がない、ということになる。

資本主義とは、資金を投入することで、財が増えるその効率を上げていく仕組みである。

しかしながら、われわれが直面しているゼロ金利とは、資金を投入してもリターンがゼロである、つまり、効率はもはや上がらない、投資するカネを持っていても意味がない。要するに資本主義という仕組みが終了した、ということなのだ。

■そう考えれば、最近の大企業が最高の利益を出しながら再投資をしないで内部留保ばかりを蓄えるというのも当たり前のことだ。

給与を上げるということについても、企業にとってそれは投資の一形態なのだから、人材が頑張って効率を上げようとしても限界が見えているならば、その投資はしないと判断するのもまた道理なのである。

日本やドイツが到達したゼロ金利とは、つまりそういう世界のことなのだ。

水野和夫氏は、三菱UFJモルガンスタンレー証券のチーフエコノミストだった人だから、まさにその「マネー」の世界の当事者であり、

お前が「徴収」する側だったんだろ!カネ返せ!!

という突っ込みをしたくもなるが、まあそれだけに説得力もある。

■水野氏は、理論値とそのデータで資本主義が行き詰まっていることを説明し、その上で、「長い16世紀」というイタリア、スペインの陸の閉じた時代から、イギリス、オランダの拡大していく資本主義への転換がはじまり、それが今、再び「長い21世紀」において終焉を迎えているという歴史観を唱える。

確かに、中国が余剰生産力を持て余している時点で、世界の生産能力的には終わりだろう。国家の保護によりで急激なクラッシュはないにしても、減速方向に向かうのは確実だ。

マネーが膨らまないということはインフレにはならないわけで、例えばクルマがすべてEVに置き換わっていくとかいうことが起きたとしても、効率がよく、コストコストパフォーマンスが良いものに置き換わるというだけで、デフレが収まるわけではない。購入者の収入が限られているのだから、買い替えも徐々に進行するだけで猛烈な特需が起きるわけでもないだろう。

イノベーションも、商品の革新も、資本主義の終焉を止めることはできない。

構造的にもう終わりなのだと理解するしかないのだ。

■言い方を変えるならば、ゼロ金利の日本とドイツは、資本主義のゴールにいち早くたどり着いた、ということだ。

それは悪いことでもない。

給与は上がらない。正規雇用は減ってしまい、むしろ押しなべて見ると給与は下がっているだろう。これからも上がる見込みはないし、年金だってもらえるかどうか定かではない。

とても不安だ。

けれど、不況下のインフレであるスタグフレーションに襲われているわけではない。

米の値段が何倍にもなって、10万円払わないと5kgが手に入らないというわけではないのだ。

浮浪者や餓死者が道に溢れているわけではない。

デフレが続いているおかげで、たいていの人は、贅沢さえ望まなければそこそこの生活は維持できるのだ。

ほとんどの人が、そこそこの生活を安定して過ごすことができる。

これって、戦争直後の日本人が切望した未来じゃないのか。

日本に限って言えば、今は決して悪い時代じゃない。

■一握りの金持ちが世界の富を独占している。

ピケティはそれを悪だと糾弾する。

けれど、それは本当に悪いことなのか。

もし、ゼロ金利で、投資が富を生むこともなくて、お金をため込むことに意味がなくなってしまっているならば、世界の富を独占することに何の意味があるのか。

誰が、どれだけため込んでいようが、どうでもいい。

この本を読んでいて衝撃を受けたのは、そこに気づいてしまったからだ。

カルロス・ゴーンが年収20億円だろうが、そんなことは私には関係ない。お金が好きならば勝手にすればいい。

自分の家族が暮らしていけるだけの、そこそこの収入があれば幸せに生きていけるのだ。

あとは老後の問題だけだ。

それは、社会全体の問題であって、富が増えない時代なのであれば、自分の老後を保証するカネを蓄えるということは、誰かの老後のカネを奪うということであり、本質的な問題解決にはならない。

金持ちからカネを奪ってそこにあてたところで、いつかはそれも尽きてしまう。

成長のない定常社会を前提とした仕組みを作り出す、それ以外に道はないのだ。

今の日本は悪い時代じゃないと先に書いたが、グローバリズム志向の現状のまま放置してしまうと、さらに国民国家の搾取が進み、大変なことになる。

それは国民生活の完全な破綻か、それに対する猛烈な反動による社会不安だ。

今のアメリカがまさにそれだ。

では、どうすればいいのか。

■著者がこの本で前著から踏み出しているのは、資本主義が終焉を迎えた後に国家がどうあるべきかの方向を指し示しているという点だ。

それは「閉じた帝国」だと水野和夫氏はいう。

EUが一番近い。

欧州というエリアを囲い、その領域のなかで統治をおこなう。

バブル崩壊後の円高の時代に、それでも日本はアメリカに縋りついたが、ドイツはたもとを分かち、フランスと共にEUを立ち上げた。

電子空間上のマネーの増殖に走ったアメリカを尻目に、EUは域内の実体経済を重んじた。

EUは今もグーグルやアップルと戦い、ドイツ銀行がアメリカ金融資本にはめられても、新自由主義とグローバリズムに抗し続けている。

そこが水野氏の心を突くのだろう。

■けれど、その「帝国」は中央集権的であるがゆえに、それを構成する国の主権は奪われていく。EU=ドイツにヨーロッパ諸国は牛耳られていく。

その不満がイギリスを離脱させ、フランスを不安定にさせているのだ。

国民国家どうこう、民主主義どうこう、という割に、「帝国」下での自由についてあまりに無頓着だ。

いやいや、「帝国の統治」と「地域社会の自立」の二本立ての構造だろう、というだろうけれども、逆に言えばその中間に位置する「国家」はいらない、ということだ。

けれど、国家ってそんなに簡単なものではないだろう。

言葉があり、文化があり、そのまとまりが国境を定めている。

田中克彦の『ことばと国家』を読めば、ドイツとフランスの国境の抱える深さが分かるし、言語が思考方法を規定していることを考えれば、国家と言語が結びつく国では、帝国の統治に対する反発は必至だろうと想像はつく。

■どうも水野氏の頭の中では経済が定常状態でまとまっていた中世回帰という発想があるようで、そこが違和感の源泉なのだと思う。

歴史とはアウフヘーベンによって進化していくものである。

マルクスはその最終形を共産主義としたが、真の共産主義は実現することはなく、共産主義の実験は、人は欲望に突き動かされるものである、と証明することで終わった。

しかしながら歴史は輪のように回帰するのではなく、やはり同じことを繰り返すように見えても、実は進化しながら「らせん」に進んでいく。

キリスト教の神は死に、個人は自由の刑に処せられた。

その対価である個人の尊厳や自由は、中世以降の発明品であって、それは現代科学の物理理論と同じように手放すことはできないのだ。

「帝国」がもたらすのは、パンと安心であり、その対価は統制である。それがゆるやかな統制であっても、そこには自由も独立もなく、あるのは従属なのである。

EU諸国が内包する不満はまさにそこにあるに違いない

大きな地域統合と域内最小単位の自立というイメージは悪くはないのだけど、統合は安全とルールを与える「帝国」ではなく、シンプルな「理想」のもとに集まる「連邦」によるべきなのだろうとおもう。

■日本が生きる道については、アジア諸国と帝国を組むことを想定しつつ、今は無理なのでその機会をうかがうように立ち振る舞っていく、という道筋を描く。

わたしが想像していたのは日本だけで閉じた国をつくり、その中で江戸時代的安定を目指す、というイメージだったのだが、一億人の人口を養うだけの食料とエネルギーをどうするか、という問題に解答を見出すことが出来ないでいた。

確かに、海洋アジア帝国で、インドネシアやオーストラリアを仲間にすれば、食料とエネルギーに目途を立てる道筋は見えてくる。

でもやはり中央集権的な帝国ではなく、ゆるく価値観を同じくする連邦制なのだろうな、と思う。

TPPが母体になるのだろうけれど、中国との軍事的関係性、アメリカとの対立回避が問題になるのは明らかで、戦略的にうまく進めないといけない。

連邦の旗印となる「理想」も描かねばならない。

そのためには50年、100年の、かなりの大戦略を描いてそれを実行できる、相当な人物が必要になってくるだろう。

たぶん、個人では成し遂げることはできなくて、まずはそういう人材が育つ場所が必要になるのだろう。

今後の日本の政界再編で、そういった「人物」が育つインキュベーター(孵卵器)が出来ることを期待したい。

まあ、そのためにはまず日本人が成長にこだわらない大人の思想に気づくことが第一歩なのだけれど。

                        <2017.07.10  記>

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2017年7月 8日 (土)

■【マンガ評】『エースをねらえ!』 だから、きらめくような生命をこめて。

ウインブルドンが盛り上がっているからではないが、急に猛烈に読みたくなって大人買いして読みふけってしまった。

Photo_2

■1995年ウインブルドンで松岡修造が故障からの軌跡の復活の末ベスト8に勝ち進んだ試合、「この一球は絶対無二の一球なり」という庭球訓を自分に言い聞かせるシーンあったと知り、そしてそれまでの苦難に満ちた彼のテニス人生は『エースをねらえ!』によって支えられてきたのだと知ったとき、ああ、これはしっかり読んでおかねばなと思ってはいたのだ。

しかし、これほどまでに魂に響く物語だとは思わなかった。

TVアニメの『エースをねらえ!』(古い方)は大好きで再放送を何度も見たし、『新・エースをねらえ!』も見てはいた。

けれど、ここまで感動した記憶はない。

岡ひろみの頑張りや成長も、お蝶夫人の精神性の高さも、藤堂さんの強さややさしさも、もちろん素晴らしいのだけれども、結局のところ、それらはすべて宗方仁の生きざまに集約される。

その意味で、『エースをねらえ!』は宗方仁の物語だと言えるだろう。

■その宗方仁の生き方を提示し、かつ、この作品の核となるシーンがある。テーマとしては、ここがすべてだといってもいい。

林の中で倒れてしまった宗方を岡が見つけ出し、自分がもうテニスが出来ない体であると岡に知られたことを悟り、宗方が岡に語り掛けるシーンだ。
  

  この一球は絶対無二の一球なり

  されば心身をあげて一打すべし

              ― 福田雅之助

あのことばが好きで 

かならず暗唱してからプレイした

  
だがそのことばが心底骨身にしみたのは

テニス生命を絶たれてからだった

  
この世のすべてに終わりがあって

人生にも試合にも終わりがあって

いつと知ることはできなくても

一日一日

一球一球

かならず確実にその終わりに近づいているのだと

   
だからきらめくような生命をこめて

ほんとうに二度とないこの一球を

精いっぱい打たねばならないのだと

Photo

■岡に出合い、苦しかったそれまでの人生を

彼女にすべてを託すためのものとして受け入れ、

それからの生の一瞬一瞬のすべてを

全身全霊をもって、子を思う親の無償の愛をもって、

岡に注ぎ込んでいく

Photo_3

「この27年が人の80年に劣るとは思わない」

と言い切るほどに最期の瞬間まで熱く生きた男。

その生きざまが、お蝶夫人を、藤堂を巻き込み

宗方仁の想いは継承されていく。

宗方は死んでも、宗方は常に岡と共にある。
  

  岡、エースをねらえ

 
その最期の言葉がいつまでもどこまでも広がっていく。  

生きる、ということの意味を改めて教えてくれる『エースをねらえ!』というマンガは、確かに少女漫画というよりも、人生に向き合うための教科書なのかもしれない。

Photo_4

                   <2017.07.08 記>

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2017年7月 2日 (日)

■【書評】『悪の正体 修羅場からのサバイバル護身論』、佐藤優。「悪」に名前をつけることの危うさについて。

ロシア連邦初代大統領エリツィン。その腹心を務めたブルブリスとの逸話を語ったプロローグに引き込まれた。実際に歴史に立ち会った人間の話は迫力が違う。

■1993年。エリツィン大統領派と最高会議派との対立は、最高会議派の武装反乱に至り、エリツィンはこれを武力を持って鎮圧する。分裂と内乱がロシア全土に拡大するのを阻止するためとはいえ、そのためには何百人もの同胞の血を必要とした。

エリツィンも、実際にこの鎮圧の指揮を執ったであろうブルブリスも、そこに「罪」を意識する。

これもまた、佐藤優の言う「悪」のカタチだ。

プロテスタントは(ロシア人はプロテスタントではないけれど)、その罪によって楽園を追い出された人間は原理的に過ちしか「悪」しか為すことができないと考える。

では佐藤の言う「悪」とはいったい何なのか。

■悪は直接に体験されるものである。と佐藤はラッセルの『悪魔の系譜』を引用する。

娘が殴られ、老人が襲われ、子供が犯される一方、テロリストは飛行中のジェット機を爆破し、偉大な国家は一般市民の居住地に爆弾を投下する。個人的にも社会的にも狂気にとらわれていない者なら、こうした行為に対して、すぐさま正当な怒りをつのらせるだろう。赤ん坊が打ちすえられるのを目にして、倫理観につらつら思いをはせたりはしない。もっとも根本的なレヴェルにおいて、悪は抽象的なものではないのだ。現実的かつ具体的なものにほかならない。

ラッセルはその上で、世の中には3つの種類の悪があるという。

一つは、人が故意に他者を苦しめるときに発生する悪。

一つは、自然が人にもたらす悪。

もう一つは、完全性が欠如している(神=善が損なわれている)という悪。

最後のひとつは明らかにキリスト教的な考え方であるけれども、自然災害がもたらす悲劇もまた「悪」だとする観点は、すべてを創造した神にとって人間はやはり特別な存在であるという意識を内在しており、これもまたキリスト教的で、「怒り」と「実り」の両方をもたらしてくれる自然という感覚をもった日本人とはやはり違うのだな、と思う。

佐藤はキリスト教徒であると同時にもちろん日本人であり、本書もその心情にそった展開をする。

人が他人を苦しめる悪はもちろん取り上げるのだが、自然がもたらす悪についても、そこから展開する人災(原発事故)や、社会に関わる悪(いじめ)へと転換していく。

その意味で、この本で扱う「悪」とは、人によってなされ相手に苦痛をもたらす具体的な行為を伴う悪、ということができる。

■佐藤優は国際政治のスペシャリスト。

外務省のロシアの専門家であり、その後、鈴木宗男議員事件に連座する形で512日の拘留、執行猶予付きの有罪判決を受けた人物である。

その罪とは国後島ディーゼル発電施設の入札に関与した罪、イスラエル学会に支援を行った罪であり、極めて政治的な色が濃いものである。

日頃の著作ではあまり強くは語らないけれども、佐藤はプロテスタント神学を学んだキリスト教徒だ。

国家公務員として国益に反することを行ったと二年近い期間拘留されるその彼の胸中で何かが育ったのは間違いないだろう。

けれどもそれは社会への復讐ではなく、啓蒙という形となった。


 受けるより与える方が幸いである (使徒言行録、第20章35節)
  

「知る」ことの強さを語る、その背後には、「知って欲しい」という祈りが込められているようにも思える。

■その佐藤はなぜ今、「悪」を取り上げたのか。

それは今の日本人が「悪に鈍感になっている」という危機意識である。

悪に鈍感な人間は、人に対して悪をおこなっているのにその意識がない。

自分の行為が相手を苦しめていてもその自覚がない。それは、個人的な行為についてもいえるのだけれども、社会として集合的に行われる行為、たとえば沖縄・辺野古の基地移設問題についての我々の鈍感さとして表れてくる。

SNSの無責任な投稿から始まり、弱者への社会的圧力への無関心に至る「悪」の蔓延に、強い憂いをもったのだろうと想像するに難くない。

■具体的な「悪」への処方箋が示されるわけではない。

大事なのは「知る」ことである。

「知る」とは「カタチ」を認識することである。

失楽園でのアダムやイヴのついた嘘や責任転嫁から始まり、資本主義とその究極のカタチである新自由主義が構造的に内包する「悪」に至る、具体的な「悪」の物語は、「悪」に対して感度が低くなってしまった我々に対して、「悪」がどういうカタチを伴って我々の周りに、そして我々のなかに立ち現れてくるのかを教えてくれる。

それを直ちに消し去ることはできないにしても、「知る」ことは重要なことなのである。

■しかしながら逆の言い方をするならば、むしろ、それが「悪」を生む、ということもできるかもしれない。

自らの外に「悪」を認識することは、「憎しみ」を生じさせる。

自らの中に「悪」を認識することは、「苦しみ」を生じさせる。

諸刃の剣だ。

そこにキリスト教的なキマジメさが感じ取れる。

プロローグで語られたブルブリスにしても、自らの行為が悪であると認識していようがしていまいが、人を殺めるという行為には変わりはない。

悪に自覚的であるならば、それは却って手加減のないものになってしまうかもしれない。

十字軍にせよ、原爆投下にせよ、IS掃討にせよ、キリスト教徒による自覚的「悪」ほど恐ろしいものはない。

佐藤優が生きてきた西洋のパワーポリティクスの世界は、確かにそういう原理で動いているのだろう。

■他人の悲しみや苦しみに感度を高めるということに対してはまったく異論はない。

人の痛みを感じる共感こそが、人間の人間たるゆえんである。

けれども、そこに「悪」や、より具体的なカタチの「悪魔」を見出すことは果たして我々に幸福をもたらすのであろうか。

仏教では、すべてを因果のなせる業であると説く。

他人から与えられる理不尽な行為も、 人知を超えた天災も、そこでは等価であり、天を恨むことが無駄であるように、人を恨んでも仕方がない。

いやいや、そんなに人間は割り切れるものではない。

相手が人間であると認識した瞬間、他人の「悪意」を感じたとき、我々の心は激烈な恨みにさらされる。

しかし、その自分の復讐心のなかに、なにかカタルシスのようなものを覚えたとき、相手に報復している自分の姿に喜びを感じてしまったとき、底知れぬ恐怖を感じるのである。

私のなかにこそ悪魔がいるのだと。

■それもこれも、「悪」を認識するというところから始まっているのではないか。

すべての苦しみは、怒り、妬み、悲しみ、そういったものは、不公平だとかも含んだ「悪」によって成り立っているのではないか。

怒りや、妬み、悲しみは自然な感情である。

けれども、そこに火をつけて燃え下がらせるものがあるとするならば、それは「悪」の定義づけなのではないか。それは、「悪」の対極である「善」を正当化させることによって激しく燃え盛る性質をもっているからだ。

■人が生き物である限り、日々何かを犠牲にして生きている。

それは食料となる生き物なしには生きていけない(ベジタリアン諸君!植物ももちろん生物だよ!)。生き物は生まれながらにして生きていくことを目的として生きている。それは植物にしても、動物にしても、もちろんわれわれ人間にしても同じである。

その「生きるべくして」生まれた生命の犠牲の上に我々は生きている。

そして社会という仕組みを動かすなかでは、不公平な苦労を背負わされる人が出てくるのも必定で、不公平なんてのは当然にしてあるものである。

もちろん、不公平は決してあってはならない、なんて声高に正論を述べる人もいるだろうが、本当にそう信じているのであれば極めておめでたい人なのだろう。ある意味幸せなひとだ。その人たちは自分たちだけで幸せな原始の森に帰ればいい。(いや、戻れるものなら私も縄文時代に戻りたいのだが!)

■言いたいことは、図らずもプロテスタントと同じ答えで、我々は生まれながらにして「悪」を抱えて生きているということだ。

問題なのは、それを忌むべき「悪」ととらえるか、われわれの「性質」ととらえるかの違いなのだ。

「悪」は対局となる「善」を生み、対立と争いの種となる。

「性質」は、分析を可能にし、それをコントロールする科学を生む。

ならば、われわれが進むべき道は明らかだろう。

「悪」に悪魔の名前をつけてはいけない。

その瞬間に、我々は「善」や「神」に呪われるからだ。

怒りや、妬み、悲しみを生む「それ」を、それとしてそのまま理解すること。

それが、人が幸福の道を歩む方向性なのではないか、

この本で「悪」について、つらつらと考えた結果たどりついた仮説は、いまのところそういうところだ。

結論は永遠に出ないのだろうけれど。

 

                    <2017.07.02 記>


■悪魔の系譜  ジェフリー・B. ラッセル

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2017年6月24日 (土)

■【書評】『同調圧力 メディア』 森達也。議論を封殺する自民党を民主主義の敵と批判し、そこに異を唱えないメディアを腰抜けと罵る我々も実は同罪なのだ。

本書は『創』に連載された森達也の「極私的メディア論」を2010年7月号から2017年4月号までまとめたものである。

森達也の視線は、ぶれることなく、今日現在へとつながっていく。日々のニュースの洪水につい忘れてしまうが、過去の出来事は確実に現在につながっているということを改めて思う。

■8年の間にずいぶんといろいろなことが起きた。

ここで取り上げられている「事件」を挙げてみよう。

2010年: オウム裁判

2011年: 尖閣問題、9.11後のアメリカの過剰反応、東日本大震災と福島原発事故

2012年: 3.11の余波、『靖国』、『ザ・コーブ』抗議活動

2013年: 自公民大勝利・第2次安倍政権発足、北朝鮮ミサイル騒動、特定秘密保護法、天皇の政治利用

2014年: 日本版NSC構想、音楽家代作問題、憲法改正論議、福島原発の風評被害、集団的自衛権論議、 朝日新聞慰安婦報道ねつ造問題

2015年: 仏・反テロデモ、ISによる後藤健二さん・湯川遥菜さん殺害、川崎・中一少年殺害事件、安全保障関連法に対する自民選出憲法学者違憲判断、安全保障法案可決、シリア・イラク難民問題

2016年: 安倍政権のメディアへの圧力と放送法による電波停止論議、選挙権18歳化と自民党による「学校教育における政治的中立性についての実態調査」、共謀罪/テロ等準備罪法案、トランプ米大統領選勝利

2017年: テロ等準備罪法案可決

■基本的に森達也の主張は変わらない。「思考停止」に対する警鐘だ。

それは本当だろうか、という疑問を持ち、自分なりに情報を集めて自分の頭で考える。

2010年から現在に至る道筋を追いながら、日本の社会が「テロ」、「北朝鮮」などの脅威にあおられながら、「思考停止」のまま流されていく様子がリアルタイムで語られていく。

ここでは「思考停止」は「同調圧力」と集団に視点を変えた形で継続される。

そこに浮かびあがるのは「不謹慎」というような一見常識に沿った形での猛烈な社会圧力の強化だ。

集団に対して異なる主張をするものに圧力をかけ、修正を迫る一種の暴力である。

オウムによる地下鉄サリン事件によって我々の社会に埋め込まれた毒薬がじわじわと効果を発揮していく。森達也が懸念した通りになった。

■危機を感じた集団は、イワシにしろ羊にしろ群れをつくって集団としての運動を開始する。統制の乱れは個体の死ばかりではなく集団へのリスクを高める。その集団としての本能が我々にも作用し始めているのかもしれない、と森は考察する。

日本だけではない。イギリスのEU離脱、フランス大統領選挙、もちろんトランプ大統領の登場。これらはポピュリズムの文脈でまとめられるが、そのポピュリズムの根幹にあるものが「不安」だということだ。「不安」をうまく煽って(羊の群れを)誘導するものが政権を取る時代である。

しかし、森達也はさらに踏み込んでくる。

16年3月号の『私はチッソであった』という記事である。

■水俣病で父を失い、家族や自分の健康を阻害され、チッソを訴え続けていた人が、ある日提訴を取り下げる。

「自分がチッソの立場であったら、私がチッソの社員であったらということを考えずに生きてきた。出た結論は私も同じようにしたであろう、ということだった」

社会によって「悪」と断定されたものに対し、この世の中は容赦がない。

確かにそれは「悪」なのかもしれないが、弱いと見るや徹底的にそれを叩く姿勢は傍から冷静にみれば気持ち悪いものである。

例えば朝日叩き。

私自身、朝日新聞の行為は許せないし、批判的である。

けれど、それで朝日新聞の存在を全面的に否定するというのはやり過ぎ、ということだ。

大切なのは、その問題の発生した構造を明らかにして二度とそういうことが起きないような努力を社会が行うことだ。

■家計学園問題以来、安倍政権の雲行きが怪しい。

ようやく「社会」が安倍政権の独善に気づき、急速にその批判に舵を切り始めている。

衆参両院の過半数を抑えていることを背景に、議論を封殺したまま物事を決めていき、異論を発するものは警察力まで動員して排除しようとする。

こういう政権が憲法改正などと主張しているのだから流石に世の中も危機感を感じ始めたということだ。

私もその尻馬に載って記事を書き散らしたりなぞしている。

けれど、『私はチッソであった』の観点からするならば、排除すべきは安倍晋三と首相官邸や自民党総本部の面々ではなく、彼らにそういう動きをとらせた「構造」である。

もちろん、安倍政権による憲法改正には断固反対である。

憲法改正を目的にした9条改正なんて意味不明だ。

■だから継続して批判的目で見ていくのだけれども、そういうことを可能にしてしまった「この世の中を覆う空気」がなぜ発生して、3.11を経験してもなお消えることなく、むしろ強化されてしまったのか。

どうすれば、その「空気」に「水を差す」ことが出来るのか。

そこがまさに考えていくべきポイントだ。

「オウム信者に対して敵対していた右翼団体や周辺住民のうち、彼らに直接接触した人たちは無条件の排斥をしないようになる。」という趣旨のことを森は語るのだが、そこにヒントがあるのかもしれない。

大切なのは直接顔を突き合わせた対話である。顔や素性さえ見えないSNSでの主張の氾濫がこの空気の醸成を推し進めているのだろう。

いまさらこの流れを止めることはできないが、世の中のみんながその特性を知っているかどうかできっと変わってくるにちがいない。

■この雰囲気は戦前にそっくりだ。

という声をニュースでたまに聞くようになった。

たぶんそれは正しい。

ならば、我々が「なぜ戦争を起こしたのか」と前の世代を問い詰めるその追及を自分自身にも向けなければならない。

何故、止めることが出来なかったのか?

と、次の世代に問われて答えに窮することのないように。

                        <2017.06.24 記>

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【参考記事】
【「空気」の研究】 山本七平。決して古びることのない本質的日本人論。

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・・・中村健治の読みもあながち間違っちゃいなかったということだね。

 
【参考記事】
 

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2017年6月22日 (木)

■【書評】『縄文とケルト 辺境の比較考古学』 松木武彦。遺跡の愚直な踏破体験からのみ浮かび上がってくる「文明外」の世界。

ケルトってよく聞くけど実はよく知らない。でも気になる。それを縄文と比較して語るというのだから、これは面白そうと一も二もなく飛びついた。

■結果、いい意味で裏切られた。

古代イギリス文明と縄文はローマと中国という大陸文明の辺境にあってとても似た形で「非文明」の文明を発達させたという極めてそそるテーマである。いきおいドラマチックな展開を期待するのだが、もう終盤まで徹底的に遺跡紀行なのである。

語り始めてすぐに、ともかく出かけよう!と我々をイギリスのど田舎の殺風景な場所に連れていく。

そこで出くわすのはヘンジと呼ばれる石の遺跡である。

松木さんはイギリス全域にひろがるそれを時代毎に系統立てて道案内していく。

微に入り細に入りそれらを解説していく姿は実に楽しそうで、好感が持てるのだけれど次第にそれにも飽きてくる。

古代文明の話でいえば最近読んだ『人類と気候の10万年史』があるが、そこで体験したようなスリリングさは全くないと言っていい。

実際、その細かい説明に何か意味があるかと言えば、ただそれだけであり、そこから衝撃的事実が浮かび上がってくるわけではないのだ。

■しかし、そこがポイントなのだと思う。

蓄積されたデータを分析して何かを導き出す、そういう「文明的」な方法論の外にこの本はあるのだ。

ひたすら体験する。

その体験から何かを感じる。

そういう体験から来る意識下での反応、そこに目を向けることこそが、「大陸の文明」に侵されなかった「辺境の文明」である先ケルトと縄文の方法論であり、松木氏は図らずもその方法論を実践してみせている。

その長い旅路の果てに、我々はもともとイギリスに住んでいた先ケルトと大陸から金属や階級という「文明」を運んできたケルトが連続性を保ったものであり、その構図が縄文と弥生にも言えるという結論にたどり着く。

そこに論理はない。

発掘された事実を直に体験し尽くすことから浮かんできた「イメージ」だ。

そして、たぶんそれは正しい。

■その後、ケルトはドーバー海峡が渡りやすかったがゆえに、ローマの支配を受けて消滅し断絶する。もう一方の弥生は元寇をも返り討ちにした対馬海峡によって守られ、連続的に古墳時代へとつながっていき、現在に至る、それが現在のイギリスと日本を分かつ分岐点であった。

というのがその続きなのだけれども、先の結論も、この話も別に新規性のある論ではない。むしろ最近の定説といっていいだろう。

けれども、ではこの本に価値がないかと言えば、圧倒的にそれは違う。

ここでは「論理」とか、そこから導出される「結論」に大した意味はないのだ。

東西の遺跡を踏破し、そこで生活をしていた人たちの心に思いを馳せ、驚くべきことに大陸の東と西の両端の島国において同じように発達したであろうその心に触れるとき、時間も距離も飛び越えた人間としての確かな共感がそこにある。

何度も何度も遺跡に足を運んできた松木さんだからこそ、その内側で育った実感だろう。

そして、我々はこの本の旅路を通してそこに触れることが出来る、そこに本書の唯一無二の価値があるのだ。

理屈を離れたときに、たとえば一人旅の街で出会った体験にも似た清々しさのようなものが、そこにある。

とても気持ちの良い本である。

 

                    <2017.06.22 記>

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2017年5月17日 (水)

■【書評】『昨夜のカレー、明日のパン』、木皿泉。誰もが何かを抱えていて、けれど、明日は必ずやってきて、そこに気が付くときがくる。

ゆるくて深いシナリオライター木皿泉こと和泉、妻鹿夫妻による初めての小説である。

もうね、おかしくて笑っちゃうんだけど、油断してると、つい、うるっときちゃうんだよね。。。

<Amazon>昨夜のカレー、明日のパン

■主人公は若くして旦那に先立たれた奥さんテツコと、息子の死を乗り越えることが出来ていないギフの二人。

この小説は、古い一軒家で暮らす彼らと、そこに関わる人々の群像劇である。

一樹の幼馴染みでCAをしていた「ムムム」改め、タカラちゃん。

一樹に憧れていた従弟の虎尾くん。

テツコの同僚で、彼女と一緒になりたいと願っている岩井さん。

それぞれが、一樹の若すぎる死によってバランスを崩していて、そこに引きずられてしまっている。

その穴は、あまりにも大きいがために、日常のなかで隠されてしまい、とぼけたやわらかいその日常も、どこかぎこちない。

けれども、彼らはなんとか、何かに気づくとか、何かのけじめをつけることで、自分なりの「一樹の死んだ世界」での生き方を探り当てていく。

その、ほっこりした解放感がたまらなく心地よく、たとえそれが本質的解決ではなかったとしても、とてもやさしい気持ちにさせられるのだ。

■木皿泉のドラマはQ10と富士ファミリーしか見てないのだけれど、そういったやさしさにあふれた作家なのだと思う。

そして登場人物の誰もが何かを抱えていて、それでも日常のなかでもがきながらも微笑んでみたりしながら生きている。

この世の中に生きていると、

ああ、あいつはダメなやつだ、取るに足らないやつだ、

とか、つい考えてしまう。いや、それどころか、

その他大勢

なんていう、ほとんど名前も覚える気もない扱いをしてしまう相手もいたりするものだ。

けれど、木皿泉はたとえ、通りすがりの人であっても、いちいち語りはしないけれども、どの人にでもその人が抱える何かがあって、いつかはそのひとがそれを乗り越えていく。そういう希望をすべてのひとに与えている。

■それはファンタジーだと思う。

実際の僕らが生きている世の中は『言ってはいけない』なんて下品な新書を持ち出すまでもなく、どうしようもなく差別的だ。

誰もが前向きに生きていける、そういう世界ではない。

確かにそれは真実だ。

それでもなお、木皿泉の紡ぎだすファンタジーが我々の心を打つのは、脳溢血で不自由なからだになり、生きていても仕方がないとまで思い詰めてしまう和泉さん自身のこころであり、そこに寄り添う過酷さのなかでうつに悶える妻鹿さんのこころ、そこからにじみ出るやさしさゆえなのだと思う。

■一樹とテツコのプーケットでの新婚旅行。

まだ明けきらない道を裸足のお坊さんたちが歩いていく、

それを見て一樹がつぶやく、

 
あ、そうか、

みんな、のぼっていく太陽に向かって歩いているんだ。

 ――文庫版に書き下ろされた短編、「ひっつき虫」より

    
生きていく限り、我々は歩いていく。

歩いていくことが、生きているということなのだ。

そこに優越も、良し悪しもない。

誰もが他でもない、自分の人生を歩いていく、

それだけのことだ。

そして、それはこれからのぼってゆく太陽によって、ひとりひとり等しく照らされ、輝くのである。

                   <2017.05.17 記>

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2017年5月 4日 (木)

■【書評】『失われてゆく、我々の内なる細菌』マーティン・J・ブレイザー。 抗生物質がもたらす脅威。仕組みを理解し、それを乗り越える科学。

なぜ花粉症やアトピーの子供が増えたのか。それは幼児期における抗生物質の投与によって体内の常在細菌の多様性が崩れ、これまで人間が仕組みとして持っていた免疫の過剰反応を抑制する機構がうまく育たないことによるものだった、という衝撃的な内容。

おい、もう子供育っちゃったよ。。。。

■本書でも一章を割いて警告をしているが、一般に抗生物質の害は、耐性菌を生み出すこととされる。

抗生物質に対して生き残った細菌は、その耐性が強化されていき、「アメリカだけで年間200万人が抗生物質耐性菌に感染し、2万3千人が死亡している」(米、疾病予防管理センター)のだという。

これはこれで大きな問題なのだけれども、本書で扱うのは我々の体のシステムとしての問題だ。

■ヒトの皮膚、消化管、鼻、耳、膣などには細菌が住み着いている。

ヒトの体は30兆の細胞からなるが、人と共にくらし、共に進化してきたこれらの常在細菌の数は100兆個。しかもその種類は1000万種という多様性をもっている。

彼らは人間の体に間借りしているだけではなく、害を及ぼす細菌が繁殖するのを抑えたり、人間の体細胞とやり取りをして免疫系のバランスをとったり、脳細胞と同じ数の神経細胞をもつ腸管を通して脳の成長にも関与する。

いわゆる共進化というやつである。

抗生物質はこれらヒトマイクロバイオームと呼ばれる内なる生態系を破壊する。

■第二次大戦後、抗生物質は我々の命を救ってきた。

コレラ、肺炎、ジフテリアなどなど。

抗生物質がなければ、感染症で死亡する子供の数が激減することはなかったろう。

けれども抗生物質の普及と反比例するように、子供のアレルギー症状が急増していく。

花粉症、食物アレルギー、セリアック病、クーロン病。

それだけでなく逆流性食道炎、若年性糖尿病、肥満、自閉症といったものも猛烈な勢いで増加している。

一般に相関関係は必ずしもその原因を意味しない。

テレビの普及と交通事故の増加は社会の発展において相関関係があるが、原因と結果を結ぶ因果関係はない。

世の中のとんでも本は、これらの「相関関係」から原因を決めつけるが本書は違う。

細菌について研究を続けてきた著者とそのグループは、実験による検証や膨大な調査データの地道な分析から相関関係から予測される因果関係を検証して見せる。

■中心となるのはピロリ菌。

胃がんの原因として忌み嫌われている菌である。テレビの健康番組でも芸能人の胃からピロリ菌が検出されたと大騒ぎして、早期除菌を強く勧められたりする。

実はピロリ菌は人類の胃のなかに普通にいた細菌なのだという。

ところが上水道や下水道が完備され、糞便を通したピロリ菌の感染経路が遮断されたために、現代の文明社会ではピロリ菌の保菌者が激減しているのだそうだ。

ピロリ菌は胃壁に炎症を起こす。

これは検証された因果関係。

ピロリ菌保菌者に胃がんが多い。

これは相関関係。

ところがピロリ菌が無い人には問題がある。

ピロリ菌は確かに炎症を引き起こす。だが、これに意味がある。

防衛反応を指揮するリンパ球であるT細胞には、促進的に働くものと抑制的に働くものがあって、ピロリ菌による胃壁の炎症を「通常」と認識した免疫系は抑制系の免疫系を育てる。

逆に言えば、ピロリ菌による胃壁の炎症を持たずに育った人は抑制系の免疫の成長が未熟で、「異物」に対して過剰な反応を見せる。

それが花粉症であり、アトピー性皮膚炎であり、喘息であり、食物アレルギーなのだ。

■肥満も腸内細菌との関連がある。

我々が食べてる家畜。これらは日本とアメリカにおいては抗生物質の投与が行われている。これは病気にならないため、と思っていたのだが、抗生物質の投与が成長を促進することがその理由であることを初めて知った。

抗生物質によっては腸内の細菌の種類は半減する。細菌は酵素やホルモンの分泌にも関連していて、細菌叢をかく乱されたからだは無駄に脂肪や肉をため込むようになるのだ。

しかも驚くべきことに幼児期に抗生物質にさらされ、腸内細菌のバランスをくずした人はその後抗生物質を与えられなくなり細菌叢が戻ったとしても、太りやすい体はもとに戻らない。

実験とは予想外のことが分かるから面白い。

■さらに自閉症との関連も語られる。

人の心は腸にある。という話もある。

「腹の虫」などというし、腹の調子によって気分はずいぶんと影響を受けるのを我々は良く知っている。

腸内の神経細胞は脳と同じだけあり、常に連絡を取り合っている。

脳は脳だけで機能しているわけではないのだ。

そして腸内細胞は腸の神経細胞と情報のやり取りをしているという。腸内の細菌叢によって脳への情報伝達の内容もそこから育つシステム自体も決定されるということだ。

つらいことや心苦しいことがあると腹が痛くなる。

もし、腸が「こころ」の窓だとするならば、その成長過程で腸と脳をつなぐシステムに異常があれば、そこに自閉症が生じたとしても不思議ではない。

■ヒトの腸内細菌はどのように生じるのか。

実は胎児には腸内細菌は存在しない。

出産時に産道を通るときに母親の膣の中の細菌を飲み込み、皮膚に付着させるのだ。

そこから、いろいろな細菌を親とか兄弟とか環境からとか受け取って独自で多様な細菌叢を形作っていく。

著者は、その意味で「一番最初の母親からの贈り物」を阻害する帝王切開を批判する。

母親の膣の中の乳酸菌を一番はじめに腸内に取り込むことができなかった子供の免疫的、ホルモン的、神経的な成長を心配するのだ。はじめが肝心ということだ。

■うちの子供が帝王切開だったからというわけではないが、あまりに批判的なのもどうかと思う。帝王切開によって出産の危険が低くなっているのも事実なのだ。

同じように抗生物質についても全面的に問題視することは、もはやできないだろう。

要はバランスで、なんでもかんでも抗生物質(たとえばウイルス性のインフルエンザには抗生物質はまったく意味がない)という風潮はやめるべきだろう。

大切なのは知ることである。

それによって対処が変わってくるからだ。

著者は対応として、帝王切開においては膣内ガーゼ法といって膣内細菌を新生児に与えるやり方や、腸内細菌については糞便注入という健康な細菌叢をもつ人の糞便を腸内に移植する方法などを提示する。

後者などは、かなり抵抗があるが、効果は絶大らしくもっと「受け入れやすい」形で発展することが望まれる。

過去に戻るのではなく、仕組みを理解した上で、新しいカタチを創造する。

それが科学なのだ。

                <2017.05.04 記>

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