●2.読書録【ひつじの本棚】

2017年3月 9日 (木)

■【書評】『日米対等 ―トランプで変わる日本の国防・外交・経済』、アメリカ・ファーストの本当の意味。 

藤井厳喜、二冊目。2017年1月10日時点の情報で書かれた最新の意見を聞きたくて読んでみた。

■戦後70年の枠組みをぶっ壊すトランプ大統領登場により、日本が対米自立するチャンス到来というのがこの本の趣旨。それを日本の国防、外交、トランプ政権分析、トランプ政権の狙い、日本経済という切り口で語っていく。

■【防衛】

トランプ政権は発足後、さっそく日米安保を堅持することを明示することで日本を安心させたが、本書が書かれた時点で著者はGDP2%の防衛費をかけてアメリカの装備を購入することを提案している。

一種の肩代わり論だ。

長距離ミサイルをアメリカから買って攻撃能力を高めよ、自衛隊は在日米軍の補助部隊であり「普通の国」を目指すべき、という藤井節炸裂なのだけれど、この辺は、はいはい、と聞き流せばいい。

この人の本から得るべきなのは、現状を読み取る力なのだ。

その意味では、在日米軍のプレゼンスあってこその日本の平和、台湾の重要性、朝鮮半島の不安定性というポイントが重要だ。

特に、韓国の政治・経済の崩壊、THAAD配備に伴う中国の韓国叩き、北朝鮮による金正男暗殺と弾道ミサイル発射が在日米軍攻撃が目的であるとする声明など、朝鮮半島の急展開がこのあとどうなるか。

何があってもおかしくない。

ともかく日米安保を維持し、深めること、当面はこれに尽きるだろう。

■【外交】

トランプの勝利を予言していたのは木村太郎と自分くらいだという自慢から始まるのだが、それなら私も恐怖指数に投資してちょっとばっかし儲けたぜと自慢したくなる。

けれど本論はそこにはなくて、意図は自前の情報収集能力のなさに対する警告にある。

現地取材の情報を信じず、アメリカのメディアを信じる日本のマスコミの能力無さは別に今更というところだが、インテリジェンス(情報戦)の能力を全く持たない外務省は領事省にしてしまえという論には深くうなずく。

もう外務省に対してはあきらめていて、官邸と自民党のインテリジェンス能力を高めよ、というのが著者の論だ。

インテリジェンスの9割は映画のようなスパイ行為ではなく、一般に出回っている情報の分析だといわれるが、インターネットの時代、ますますその重要性は高まっているだろうし、逆に、著者が力説するように人とのつながりがポイントになってくるだろう。

朝鮮半島の動向だけでなく、ことしは党大会で中国の代表が変わるという重要なイベントがあるわけで、国防の観点からもインテリジェンスは死活問題だ。

■【トランプ政権分析】

トランプ政権の主要なメンバーの人物評。

キーはマイク・ペンス副大統領だという。

ポピュリストの代表として大統領になったトランプは共和党と一枚岩というわけではない、けれど法案を通すためには共和党との連携が必須である。

その意味で共和党のベテラン議員であるペンスが重要だということだ。

その背後にはトランプの娘婿のジャレッド・クシュナー(ホワイトハウス上級顧問)らトランプ一家がいて、それは彼らのバランス感覚を示していると言える。

 外交の要である国務長官にはエクソン・モービルのCEOだったレックス・ティラーソンが就いた。これがトランプの基本方針を示しているという。

1つにアメリカは石油・天然ガス(シェールガス)でやっていく、ということ、2にロシアとのつながりの強化(ティラーソンは北極海油田開発でロシアと連携)、3にアメリカ復興のための大企業との連携である。

エクソン・モービルは国際企業ではあるが、アップルのような利益最優先のボーダーレス企業ではなく、アメリカの国益を代表する企業なのだという、エクソンについては良く知らないが、日本における新日鉄みたいなものだろうか。

ともあれ、草の根から大企業までのオールアメリカンでの体制を意味するものだ。

 国防長官はテロ掃討作戦を指揮した狂犬マティスこと海兵隊大将のジェームズ・マティス。単なるガッツのある軍人ではないようで戦史、戦略の研究にいそしみ、蔵書が実に7000冊という勉強家。「戦争の本質は変わらない」という戦争観を持つようだ。

トランプは親ロシア、反中国といわれるが、歴史を踏まえた冷静な対応をしてくれそうだ。

 商務長官はロスチャイルド商会から投資家になったウィルバー・ロス。

日本でも再生ビジネスを行い、東日本大震災のときには13億円の支援基金をあつめ叙勲を受けた親日家。

金儲けばかりではない、反グローバリズムの視点を持つ人なのだろう。

 主席戦略官兼上級顧問のスティーブ・バノンは毒舌ニュースサイトを立ち上げたガチガチの草の根保守。マスコミでは影の大統領などと呼ばれ、実際、中東からの入国禁止の大統領令は彼が進めたなどと言われるが、本書での記載は少ない。

選挙戦でポピュリズムを煽る意味では重要であったが、軍事、経済、外交、という視点では今後消えていく存在なのかもしれない。

■【 トランプ政権の狙い】

普通に働けば一戸建てにクルマがあるという豊かな生活を得ることが出来るという本来の意味での「アメリカン・ドリーム」を復活させる。それがトランプが国民に約束したことだ。

そのための国益最優先であり、その敵は「アメリカン・ドリーム」の主役であった中間層から労働と金と誇りを奪い去ったグローバル企業である。

グローバル企業はアメリカの高い賃金を嫌い、生産を賃金の安い中国などの低賃金国にシフトした。

それは形を変えた植民地主義的奴隷制であると著者は断ずる。

労働基準法も環境基準も整備されていないそれらの低賃金国で過酷な労働を安い値段で強いることでグローバル企業は莫大な利益を得る。

しかもその利益はアメリカ国内に還流することはなく、タックスヘブンを経て、一部の金持ちの懐に入るという構図だ。

それをぶち壊し、再びアメリカに力を取り戻す。

トランプは経済の主体が国民にあることを知っている。

国内に莫大な投資を行い、仕事を増やし、消費を活性化させる。

それが復活の起点なのだ。

日本の政界、官僚は爪の垢を煎じて飲んだほうがいい。

■【日本の経済】

トランプがTPPから手を引くことは確定的だ。

そこで著者はチャンスかもしれないという。

TPPからアメリカが抜ければ、アメリカ企業からの提訴による国内法の改定、もっと言うと社会保険の崩壊から逃れられる。

さらには本来の意味での大東亜共栄圏が築けるのではないか、というところに夢を馳せる。

でも、それって前項の「植民地主義的奴隷制」じゃない?って突っ込みたくなるけれど、方向的には面白いと思う。

あとはアメリカ兵器をバンバン買えとか、政府発行通貨があるから国債による借金なんて全然気にすることはないとか、かなり乱暴な論がならぶ。

どうも著者の国際情勢の分析の鋭さは、それを日本に向けた瞬間に自分の願望がにじみ出てしまって、目が曇ってしまうように思われる。

そういうところに注意さえすれば、やはり視点が鋭くかつ新鮮で、追いかけたい分析者ではある。

今年はEUが本格的に崩壊していく可能性もあり、それよりなによりアジア、特に朝鮮半島のバランスが一気に崩れる可能性も高まってきた。

荒れる時代には、こういう広く客観的な視点の人物の声に耳を傾けるべきである。

                  <2017.03.09 記>

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2017年2月26日 (日)

■【書評】『最強兵器としての地政学』 藤井厳喜。相手の気持ちで地図を眺めれば世界の今が読めてくるのだ。

面白い。一気に読み終えた。

近現代の世界史といまの世界の見方が一気に体系化され、なるほどと腑に落ちる。地図の読み方というだけでなく、そこに歴史と民族の動きを捉えたとき、今われわれの目の前で動いている一つ一つのニュースの意味がしっかりとした形をともなって立ち上がってくる。これからの世界の動きが読めてくる、特に中国の思惑と対抗手段を理解する上で最良の本なのではないだろうか。

■真ん中に日本があり左手にはユーラシア大陸、右手には太平洋とその先にアメリカ大陸がある。そんな世界地図を見ているのは日本人だけである。という当たり前のことに気づかせる最高の教材は上下さかさまのオーストラリアの世界地図である。

同じようにイギリス人は、アメリカ人は別の世界地図を見て生きている。

北極圏が異様に拡大されたメルカトル図法の地図も、航海に便利だというだけで、別の目的からすれば別の地図を見る。上が北、左右が東西なんて決まっているわけではない。

東西冷戦の時代にアメリカとソ連の関係者は北極を中心としてアメリカとソ連がにらみ合う地図でものごとを考えていた。メルカトル図法の地図だけを見ていたのでは決して理解できない緊迫感がそこにはある。

■地図の中心をどこに置くのかだけではない。そこにどういう物語が起きるのかが問題だ。

地政学は大きな力をランド・パワー(大陸国家)とシー・パワー(海洋国家)に二分することで整理し、理解していく。

中国やロシアはランド・パワー、イギリスやアメリカ、日本はシー・パワーと定義づける。

ランド・パワーは大陸の中心にどっしり構え、陸を進み、周辺の海を目指す。一方のシー・パワーは港の拠点を抑え、海上通路を確保することで海を支配する。

その物語はローマ帝国、モンゴル帝国の時代から普遍であり、歴史は繰り返していく。

日本の戦略を考えるうえで一番参考になるのは同じ大陸の反対側の端に生きるイギリスである。

イギリスは大西洋からアフリカ最南端の喜望峰を確保し、一方で地中海を抜けてカイロを支配、インド洋に抜けてカルカッタを押さえて海洋帝国を確立した。

大英帝国の成功は、シー・パワーであることをわきまえ、決して大陸を支配しようとはせず、大陸がひとつの勢力に染まらず対立の構図が続くように政治的介入をすることで大陸からの侵略が起こらないような防備に留めたことにある。

日本の失敗はシー・パワーでありながら中国大陸の奥深くまで進出してしまったことにある。

日本はアメリカを敵にすべきではなく、地政学的にはむしろ後ろ盾にすべきであって、そのなかで大陸を牽制しながら沿岸沿いに進むべきであったのだ。

と、しても拡大路線を進めば東南アジアでアメリカ、イギリス、フランスの権益とぶつかるのは必然で、既存の勢力との戦争と敗戦は避けられなかったのかもしれないが、、、。

■地政学的観点からみれば、歴史を読むだけでなく、今を解釈し未来を読むことができる。

著者の藤井厳喜はロシアのクリミア併合を予測していたという。

彼はモスクワを中心とした地図を載せる。それを眺め、モスクワに住む人の気持ちになれば、クリミアがロシアの絶対防衛の要であることがよくわかる。

バルト海のサンクトペテルブルグと黒海のクリミア半島はロシアが海に出ていくための要衝である。黒海への出口を失えば黒海を中心とした地域のプレゼンスを失い、クリミアから1000kmしか離れていないモスクワは丸裸となってしまうのだ。

プーチンの強権だ、帝国主義の復活だと世界の世論がいかに騒ごうが、ここはロシアが生き残るためには絶対に必要な場所であり、政治的な戦略がウクライナのクーデターで覆されたとき、防衛的に必要な行動であったということだ。

これは新聞やテレビのニュースを見ていても理解できないことである。

それはアメリカであったり、イギリスであったりする視点で作られたニュースであり、それをなぞるだけの日本のマスコミには到底たどり着かない視点なのである。

そしてそれは日本とロシアとの関係、そして中国の関係を考えるうえで、どうしても必要な視点なのである。

■ロシアとの関係を考えるときに重要なのは北方領土だ。

ロシアの東の出口であるウラジオストック。

そこから太平洋に出ていく道はサハリンと大陸の間の間宮海峡、そして日本の北の宗谷海峡、日本本土を抜ける津軽海峡、対馬海峡だけである。

冬季に海が凍れば北の回路は閉ざされる。そのことを考えれば、ロシアにとって、いかに日本が邪魔であるかがわかる。

冬季の限界線が流氷が流れ着く北海道北部あたりにあるとするならば、宗谷海峡を抜けて千島列島の最南部の北方四島を押さえるルートの確保がウラジオストックを活かすための要点であることが理解できる。

今の日本にとって重要なのは中国の海への進出を押さえることである。

そう考えればロシアとことを構えるのは得策ではない。ロシアは決して北方四島を手放さない。彼らが太平洋に出ていくための生命線だからだ。それを無理に全島返還などと強く出たところで反発を招くだけだということだ。

■海に出ていきたいのは中国も同じだ。

著者は、その要衝は台湾だと喝破する。

沖縄と台湾に押さえられた東シナ海。台湾と東南アジアが押さえる南シナ海。

囲碁の渾身の一手のように台湾は中国の海洋進出を抑え込んでいるのだ。

中国は今般の南シナ海の占拠と同時に、鉄道と河川の支配によってインドシナ半島を取り込みつつある。

これにより南シナ海を占拠されれば日本はその生命線であるシーレーンを分断されるだけでなく、SLBMを搭載した中国の原潜に隠密行動を許すことになり、核戦略的にも危機的な状況に追い込まれることになる。

この囲い込みを完遂させる要衝が台湾なのだ。

■著者はこれからの日本が取るべき道は、海洋国家、シー・パワーとして、まずアメリカをバックに持ち続けること。二つ目に、台湾を含む東南アジア諸国との連携、3つ目に中国を大陸的に囲む中央アジアとの連携だという。

中国が覇権国家として世界を牛耳ろうとする戦略が明確である以上、それに対抗するこの囲い込み戦略は理にかなっている。

中国が太平洋に出ていこうという思いが日本の権益と存続に強い脅威となる限り、それはうまくいかない、割に合わないと思わせる必要がある。むしろそれが戦争を回避する道なのだと思うのだ。

■著者の思想はどこか偏っているようにも思える。特に中国、韓国に対する嫌悪は強烈だ。

日本にとっての大陸に対する重要な緩衝地帯である朝鮮半島を味方につけておく必要性を考えれば、どうなのか、と思えるくらいだ。

彼の考え方を丸のみにするのは極めて危険だ。

けれども、考えるルールとしての彼の地政学は極めて有効である。この本が出版された時期はアメリカ大統領戦は終わっていないのだが、トランプの勝利を予言している。

地政学は地理だけではく、民族の心の動きを読む学問なのだと理解した。今の世界はグローバリズムが限界に達し、民族主義が立ち上がってきている時代なのである。イギリスのEU離脱でそれは決定的になった。その文脈でみればトランプ当選は自然な流れであり、彼の地政学は、世界史を俯瞰した歴史観で現代を眺め、その流れを見極める技なのである。

彼は今後の世界を覇権国家が不在の混乱の時代と考えている。その中で日本がどう生きていくべきなのか、本書はその重要なヒントを提示してくれている。

                          <2017.02.26 記>

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ロシアの覇権主義とイギリスの覇権主義が日本で衝突した時代について考えるとき、世界全体と日本周辺の地政学的状況は極めて強い緊張状態となった。その状況を理解する世界観というものを教えてくれたのは司馬遼太郎の坂の上の雲である。

この地政学の本を読んで、改めて坂の上の雲の素晴らしさを理解した。

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2017年1月17日 (火)

■【書評】『三流の維新 一流の江戸 「官賊」薩長も知らなかった驚きの「江戸システム」』 原田伊織、明治批判は良いのだけれど、いまいち見えない次世代に活きる江戸時代発の新しさ。

『明治維新という過ち』で話題をさらった原田伊織の新刊である。

趣旨は、明治維新以降に否定的に扱われている江戸時代こそ、あたらしい社会のカタチを模索する今後の世界が参考とすべき素晴らしい時代だった、というものだ。

面白い読み物であった。けど、どうも尻すぼみなんだよね。

■まず、著者は明治維新をおこした勤皇の志士たちはテロリスト集団であり、尊王の意識などまったくない連中だと断じる。

明治政府にしても、江戸時代の遺産によってやっと運営できたもので、連中のやったことといえば「王政復古」の号令のもと「廃仏毀釈」をすすめ、日本独自のものとして開花した仏教文化を破壊するなど、どこぞやのテロ国家と変わらんということを説く。

通読して思うのは、どうも一神教や共産主義のような排他的な一元的価値観に縛られたものが嫌いでしかたないのだな、ということだ。

結局、勤皇の志士たちの思想を源泉とする一元的価値観に支配されてしまった日本は、世界を敵にまわした戦争に突入し、この国を破滅に導いたという歴史観には、なるほどと膝をたたくものがある。

著者は、勤皇の志士や明治という時代をことさら美化する司馬遼太郎を敵視するが、その司馬遼太郎自身が日本軍という組織のなかで自らが苦しめられたその価値観と明治が連続するその矛盾を感じているのかもしれない。その意味でも正鵠を得た見方ともいえるだろう。

■そこはよい。だが、本論の江戸時代発の提案が希薄なのだ。

本書では乱暴狼藉が支配した戦国時代と対比させることで、「元和偃武」に始まる江戸時代がいかに平和で平穏な時代であったかを参考とした文書を羅列しながら説得力をもって説いていく。

江戸時代の街道はしっかりと整備され、一人旅も安全で、庶民も自由に旅に出ることが出来た。それは幕府の威信をかけたものであったこと。

人口分析からみると江戸時代の人口に変化がなく静的な社会という見方があるが、実は人の移動がダイナミックに行われた活力にあふれた社会であったということ。

鎖国は、外国人を拒絶する狭量な姿勢から生まれたものではなく、戦国時代に戦乱の中で生け捕りになった日本人を奴隷としてアジアに売りさばいたスペイン人、ポルトガル人たちを追い出し、同時に日本侵略の先兵として日本の既存の価値観を否定し破壊するキリスト教宣教師たちを排除する、その国防の観点から生まれた制度だということ。

このあたり、実に面白いし、勉強になる。

■けれども、だからどうなのか、という話なのだ。

原田伊織は明治を否定した。

一元的価値観という意味では戦後の資本主義社会も「合理」という意味で同じであり、そこに破綻が生まれているとしている。

だからこそ、感覚的な「中世」と合理的な「近代」の中間にある「近世」という世界でも独自の存在となる時代であり、250年の他に類を見ない平和を維持した「江戸時代」に一体なにを見、そこから引き出すのか、そこを語らなければ論理が収束しないのだ。

明治ダメ!ほら、江戸って素敵でしょ?

に留まってしまっては、単なる読み物に終わってしまう。

実際、江戸時代にポスト資本主義のヒントが隠れていると私自身思っているので、どうしてもそこを期待したくなってしまうのだ。

 
まあ、そこを差し引くとしても、今までの価値観をひっくり返すお話がいっぱい載っているので、それはそれで非常に魅力的なのは間違いなく、一読して損することはない。

 

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                    <2017.01.17 記>

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2016年12月14日 (水)

■【まんが評】『ぼおるぺん古事記』、こうの史代。おおらかな、それでいてわれわれと地続きの神代の物語り。

こうの史代さんは天才である。

あの何だかよくわからない古事記の世界を、コトバなしでも伝えることができるという「まんが」というメディアの力を使って、そのこころの機微をダイレクトに伝えることに成功してる。

まんがとしても、古事記伝としても、革命的な作品だとおもう。

「夕凪の街、桜の国」や、「この世界の片隅に」とはまた違う味わいの、こうの史代の世界がここにある。

■古事記は言わずと知れた日本最古の歴史書で、712年に編纂されたといわれる。天皇の存在を神話と地続きに語ることで、その権威を保証するものであるのだが、その中身のおおらかさというか、なんともいい加減なところが実に日本的で素敵なのである。

けれど、本でその物語を読もうとすると、ひたすら長ったらしい漢字の名前の神様の羅列で、中身に素直に入れず、かといって、天岩戸とか、因幡の白兎とか、ひとつひとつの物語りにフォーカスした「おはなし」だけでは、単なる昔ばなしになってしまって、何かが大きく欠落してしまう。

そこを、こうの史代は「読み下し文」で古事記のテキストを忠実に追いながら、いきいきとした神々のキャラクターを創造し、紙面のなかで彼らに息吹きを吹き込み、古事記のお話を演じさせる。

その瞬間、とっつきにくい古事記の文字の連なりに、古代に生きた人々の魂が宿り、ああ、なんだ、いまと同じじゃないか、と心から思える。

まんが?と思うなかれ、むしろ、まんがだからこそ成功したコロンブス的超絶アプローチなのである。

しかも、巻頭の写経のような原文の写しの和綴じ本的付録を見ればわかるが、こうの史代さんは、おそらく徹底的に古事記を読み込んで完全に自分のものとしている。

それを咀嚼し、まるで口嚙み酒をつくるかのように、その感情を「まんが」の画面に定着させる行為。余計なセリフや解釈を排除し、さらにボールペンのみで描くというシンプルさが、「アイデア」を「作品」へと完成させているのだ。

■古事記は神代の時代から推古天皇の時代までを描くが、本作は上つ巻と呼ばれる神話時代の巻を題材にしている。

・天の巻 天地創生 天地創生からスサノオノミコトまで

・地の巻 出雲繁栄 オオクニヌシノミコトの物語り

・海の巻 天孫降臨 ニニギノミコトの物語り

まずは、天地創生。

高天原に形もおぼろげなアメノミナカヌシノカミがあらわれ、歴史がはじまる。ここからイザナギ、イザナミまでの神世七代は、混沌から実体が像を結んでいく時代なのだけれども、この薄らぼんやりしたイメージが、イザナギ、イザナミの感情移入可能な、しっかりしたキャラクターに移っていく、その描きかたゆえに、この不可思議な世界観が、なんともすんなりと心に入ってくる。

イザナギ、イザナミの国生みでは、つい、ヒルコってなに??と思ってしまったりするのだけれど、ああ、はじめはうまくいかなかったんだな、と若い夫婦の心情に寄り添うことで、すんなりと通過する。

ともかく、原文の読み下しで進むので、原文にしか頼ることができない。それゆえに余計な途中下車での勝手な解釈に惑わされることなく、原文の本来の意図が浮かび上がるのだ。

イザナミが火の神を生むことで死んでしまう悲劇、イザナミを探しに黄泉の国を訪ねるイザナギ。

そこでイザナギが見たイザナミは!

本来のイメージであれば体中からウジが湧いていて、その姿を見られたイザナミが怒り狂うという場面なのだが、菓子をぼりぼり食いながらのごろ寝でテレビのワイドショーを見ているという描写。

恐れ入りました。

確かに原文にはない、けど、そういうことだよね!

ここがギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケの悲劇との差であって、「美化」というものがまったくもって存在しない、古事記がほかの世界の神話と一線を画している素晴らしいところなのだ。

ちょっとやりすぎ?という気もしないではないが、本質を突いた素晴らしいまなざしだと思う。

そして、この世と黄泉の世界のはざまにある黄泉比良坂。

追ってくるイザナミと、千引岩をたてに別れを告げるイザナギ。

原文の背景に、幸せであった二人の回想が流れる。

なんて切ないんだろう。

そして、コトバで語らないって、なんでこんなにも力があるんだろう!!

■時代は、イザナギが清めた体からうまれた、アマテラスとスサノオの代に引き継がれる。

このアマテラスのふくよかなキャラがまた素晴らしい。

天照大神といえば神々しい美しい姿で描かれるのが定番でしょ?

でも、これです。

それが、なんともワガママなアマテラスの性格にぴったりだということが、出雲征伐あたりになってようやく合点がいくのである。

スサノオもまたヒーローらしからぬブ男である。

たぶん戦前なら発禁処分もの。

でも、だからこそ、その情感がいきるのだ。

このあたりで素晴らしいシーンといえば、もちろん天岩戸もあるのだれど、なんといってもオホゲツヒメのお話。

お前、そんなきたねーところからひねり出したメシを食わせたのか!とスサノオに殴り殺された可哀そうなオホゲツヒメ。

原初に神であるカミムスヒが、そのオホゲツヒメの体から五穀を生み出すシーンは感動的に美しい。

人間的なものに寄り添ったこの作品のなかで、もっとも神話的な見せ場といえるだろう。

それがあって、その直後のクシナダヒメとの幸せを詠んだスサノオの和歌のあたたかさが効いてくる。

やくもたつ いづもやえがき つまごみに 

やえがきつくる そのやえがきを

■さて、そんなこんなでスサノオはたくさん子である神々をつくり、その子孫にオオクニヌシがいて、第二巻目は、彼の物語り。

ここは本当に分からない。

なにが分からないかというと、オオクニヌシはスサノオの直系であって、ともに国造りをするスクナビコなんかは原初の神のカミムスヒの実の子供だったり、それをオオクニヌシが直接カミムスヒに高天原に確かめに行ったりする。明らかに天尊族。

なのに、アマテラスの直系に領土を取られてしまうのだ。

このあたりは、種々雑多なカミを祭ったクニが、アマテラス系のカミのもので、ひとつにまとまる過程で生じる矛盾なのだろう。

で、そんな矛盾なんか、この作品はまったく気にしない。

あくまでも原文なのである。

その潔さがいいのである。

古事記のもつ、おおらかさを描こう、という強い意志をそこに感じるのである。

とらわれない、深く考えないからこそ、スセリビメの猛烈なやきもちと、メンドクセー、と思いながらも、そんなスセリビメをかわいく思うオオクニヌシのやさしさが強く押し出されるのだ。

さて、そんなオオクニヌシが治める地上の世界を、アマテラスが奪おうと試みる。

が、送り出す刺客は、オオクニヌシの世界が居心地よいのか、全然帰ってこない。

その度に、パパどうしよう、と原初の神であるタカミムスヒを引っ張り出して会議を招集、案を出すのは毎回オモヒナネ、という繰り返しが笑える。

征服者がアマテラス、被征服者がオオクニヌシ(=スサノオ)という構図で考えるならば、オオクニヌシが悪者になってしかるべき。歴史書とはそういうものである。

けれど、オオクニヌシは悪者どころか、すごくいい人。アマテラスたち天尊族も、かなり間抜け。

どこまでも、おおらかなのである。

■第三巻は、ついに天孫降臨である。

アマテラスに地上を治めよ!と命令された長男が、めんどくさいから自分の子供のニニギに任せた!って、どうにもいいかげんな感じ。この締まらない感じがほんと古事記なんだよなあ、と改めて思う。

で、なんといってもポイントはセクシー姉さんのアメノウズメの再登場!

なんだかよくわからいけど、高天原のすぐ近くに凄い顔をして立っている地元の神(国つ神)のサルタヒコに「面勝つ神」として派遣されたアメノウズメのかわいいことと言ったらない!

ニニギは完全にくわれてしまうわけだけれども、実はそこには理由がある。

ニニギは、見初めたコノハナノサクヤビメを娶るのだが、同時に嫁いできた姉のイハナガヒメはおそろしく不細工であったために恐れをなして追い返してしまう。

だが、コノハナノサクヤビメが咲けば散る花のような幸せを、イハナガヒメが永遠の命を、意味していたがゆえに、ニニギは永遠を失い、死にゆく運命を背負う。つまり、われわれ人間と同じ地平に立つことになるのだ。

ここにおいて、神話は人の物語りへと、地続きに流れていく。

ニニギの子孫であるヤマサチビコは神性をもつ最後の世代なのだろう。ラストのトヨタマビメとの悲劇は、人とカミが共存できなくなってしまった悲しみの物語りなのである。

それをカラーボールペンで美しく描く、こうの史代さんの心情がひしひしと迫ってくる。

美しい、あまりにも美しいラストなのである。

素晴らしい!

                      <2016.12.14記>

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■追記1

ボールペンで描くこのタッチ、どっかでみたなと思ったら、諸星大二郎ですね。好きなのかな?

■追記2

このブログでは、みんな呼び捨てだけど、こうの史代さんだけ、今回は’さん’付けです。実は筆者と同じ年に生まれてることに気づいてしまって、なんだか、突き放した敬称略にはできず、つい’さん’をつけてしまいました。

■追記3

第三巻、巻末にあるヤマツミ一万尺。コノハナノサクヤビメとイハナガヒメの姉妹がひたすらアルプス一万尺をやっている、という話なんだけど、もうお腹がよじれそうに笑ってしまった!絶品です!

 

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2016年12月 5日 (月)

■【書評】『人工知能の経済の未来 2030年雇用大崩壊』、井上智洋。来るべきユートピアの夢。

AIの発達により、近い将来雇用は激減する。その将来像は果たしてディストピアなのか、それとも?

■著者はマクロ経済学者であり、その視点でAIによって将来の世の中がどう変わっていくかを予測する。

昔から、マクロ経済学者なんてものは信用していない。勝手に世の中をモデル化、数式化して算数をもって予測する人たちであり、そんなもんでこの血の通ったわれわれの生活を予測できるはずがあるもんか!なんて思いを抱いていたのである。

実際、最近の日本経済を見ても、デフレターゲットなんてことをぶち上げて、日銀に国債を買い上げさせ金を市場にジャブジャブ投入するのだけれど、微塵もデフレが起きる様子もない。円安誘導も、ゼロ金利も、われわれの財布のひもを緩めることはできない。

なぜかならば、我々の財布のひもを支配しているのは、現在、そしてそこから思い描かれる金欠生活への不安であり、その不安が抜本的に解決されない限り、状況は変わるはずがないからだ。

そんな、われわれの心情をパラメーターとして組み込むことのない経済モデルに基づく計算事で、それがいくら権威的であっても、未来を読み解くことなんてできるはずもなく、やはりマクロ経済学なんてものは信用できない、ということの証左なのである。

■けれど、この著者の井上智洋は、そういった私の決めつけを完全に裏切ってくれる。

もちろんマクロ経済学者として、きわめて予測が困難な複雑系である経済というものを単純化モデル化し、我々が今直面している、AIを含む第4次産業革命が世の中に与える影響をメカニズムとして説明し、それなりの説得力を与えることに成功している。

しかしながら、井上さんの思考は、あくまでもそれをツールとして使っているに過ぎない。本質は、世の中が何で動いているのかという歴史観とでもいうようなものである。

われわれ人類が定住し、農耕を覚えてから、どれだけ文明が発達しようとも一人当たりのGDPは一定であった。それは耕地の面積や面積当たりの収穫が莫大に増えたとしても、豊になるのは一瞬で、それにつられて人口が増加し、一人当たりの食料はまた厳しくなっていく。それがあの『人口論』のマルサスが提示した「マルサスの罠」である。

だが、1800年頃にイギリスで発生した蒸気機関を核とする第一次産業革命は、そのマルサスの罠を超えた。機械への投資による生産性の拡大のスピードが豊かになることで発生する人口の増加を大きく引き離したのである。

これより、我々の文明は有史以来のパラダイムから抜け出し、新たなステージに躍り出た。これが資本主義の本質である。

それから1870年頃の内燃機関、モーターによる第二次産業革命、1995年頃のパソコンとインターネットによる第三次産業革命と続く。

だが、それらは社会変革を引き起こすほどの力はもたず、資本主義を加速させ、先進諸国が成長の限界のなかで低成長を余儀なくされる中で、資本を持つものと持たざる者による富の偏在を拡大させるに至った。

■さて、次なる第四次産業革命は2030年頃と著者は予測する。

これは、汎用AIの実用化に伴うものである。

現在のAIは特化型人工知能(特化型AI)と呼ばれるもので、SIRIにしろ、ペッパーにしろ、それは、目的を人間にインプットされ、その枠組みのなかで思考するAIである。

それに対して、人間の脳の仕組みを解明し、(そのままコピーするのではなく)、モデル化、モジュール化して、再構成することで、自分の頭で考えることのできる人工知能を作り出そうという動きが活発になっており、その目指すものを汎用人工知能(汎用AI)という。

この汎用AIは人間のような肉体を持たないがゆえに、人間とまったく同じように感情をもった存在にはなりえない。

しかしながら、人間と同じようにすべてのことがらを全体像としてとらえ、考えることができる。

特化型AIは、工場の組み立て作業だとか、受付のような単純な労働はできるけれども、いろいろな情報を集めて、まとめ、提案を行うというような、総合力を必要とする頭脳労働には対応できない。

それを可能にするのが汎用AIなのだ。

■2030年頃に汎用AIが実用化し、2045年頃にそれが社会にいきわたるとしたら、我々の社会はいったいどうなってしまうのか。

著者の予想では、現在人口の半分を占める労働人口が約一割に激減する。

いわゆる会社勤めなんてものはAIにとって代わられ、残るのは、作品や商品企画を生み出すようなクリエイティブな仕事、経営者のようなマネジメント、人間の機微に対応する能力が必要なホスピタリティ、しかも、その能力がAIに追いつくことができないようなトップクラスの人材だけとなる。

それはそうだろう。

一度導入すれば、文句も言わず、賃上げも要求せず、福利厚生もいらず、人間が一週間かかる情報分析業務も1分で仕上げ、しかも24時間働き続けることができるのだ。

どう考えても人間は労働市場から締め出される。

その結果、人々の収入は無くなり、市場には投資家と経営者と、生活保護で最低限の暮らししかできない市民が分断されて存在することとなる。

そこに映し出されるのは、今の格差なんてもんじゃない、完全な分断社会、ディストピアなのである。

■そこで著者が提案するのがベーシックインカム(BI)だ。

生活保護とか、そういう何かの基準で資金を分け与えるのではなく、金持ちにも、貧乏人にも、等しく資金を提供する。

それは、保護、というよりも、国民であることに対する「配当」である。

来るべき2045年に向け、インフレをコントロールしながら、徐々にBIの額を増やしていく。

最終的には、国民は別に働かなくても、それなりの生活はできるようになる。

という筋書きだ。

■実にいい、というより確かにBIしかない、という気がする。

これならば、勝ち組である投資家も才能のある高給取りも、高い税金はとられるけれども、その再配分、配当機能によって、市場が維持される。それが、自分の豊かな生活を支える大前提だというコンセンサスを得られれば、受け入れられるものだと思う。

そこに現れるのは、額に汗して働かなくてもいい社会だ。

20世紀初頭のフランスの思想家ジョルジュ・バタイユを引いて著者は言う。

資本主義社会は「有用性」つまり、「役に立つこと」にとりつかれてしまっている。

今、我々が勉強をするのも、労働をするのも、自分のため、というよりも、いつの間にか、「役に立つかどうか」という視点にすり替わってしまっている。

そのために、失われてしまっているものがあるだろう。(ここ20年の大学の変貌ぶりを見よ!!)

「至高性」とバタイユが呼ぶそれは、役に立つとか立たないとか、そういう次元ではなく、そのもの自体に価値があるもの、例えば、夕焼けが美しいとか、子供がかわいいとか、そう感じる瞬間に、そこにあるものである。(私が別のブログ「エロス的人間論」で「エロス」として定義したものに近いかもしれない)

そして、「有用性」を強要する資本主義は、労働力としての人間を手放すことによって、人間をそこから解放する。

それこそが、汎用AIによる第四次産業革命が生み出す社会変革なのだ。

著者の論の核心はここにある。

単なるAIの技術説明でも、経済動向予測でもない、骨太な思想的背景をもったその論が、マクロ経済学なんてもの、と嘲笑っていたわたしの偏見を打ち砕いてくれた。

この井上智洋という人、人間としてとても好きになってしまった。

■さて、問題は、そこから先にある。

中学生の頃に期待して読んだトマス・モアの「ユートピア」の世界。

そこで私の夢を打ち砕いたのは、その「ユートピア」を支えているのが奴隷であったという事実であった。

しかし、井上さんが提示する未来は「汎用AI」によって支えられている。

汎用AIに自我が生まれないという前提にたてば、傷つき、搾取されるもののいない、素晴らしい真のユートピアの実現ということになる。

新しい社会の幕開けである。

その時、人間はいったいどうなってしまうのか?そこに、どんな世界があらわれるのか?

映画『未来惑星ザルドス』でジョン・ブアマンが描いたような、退屈な生活に生きる意欲を失ってしまうような世界なのか、

あるいは、平安時代の貴族のような、源氏物語や枕草子のような、素直で人間くさい、愛すべき世界なのか、

2045年まであと30年弱。わたしは80歳に近い歳になる。

何とかそこまで生き延びて、その世界を、そしてそこにたどり着くまでの物語りに、社会の参加者として、しっかりと感じ、見て、行動していきたい。

そして、何よりもそれが、子供たちがにっこりと心から笑って暮らせる世の中であって欲しいと、切に、こころから願うのである。

                    <2016.12.5 記>

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2016年12月 3日 (土)

■【マンガ評】『この世界の片隅に』。こうの史代。 小さな記憶の欠片たちの物語。

今、読み終えました。

絶対に泣くと思ったのに、、、

しかし、・・・・なんだろう、このすっきりした気分は。

■とてもおおらかで、やさしく、かわいらしい物語がつづく。

天然で、一生懸命な、すず。

おとうさん、おかあさん、おばあちゃん、すみちゃん、鬼いちゃん。

周作さん、お義父さん、お義母さん、お義姉さん、晴美ちゃん。

隣組のみなさん。

リンさん。

哲さん。

■だが、呉への空襲がはじまっても、それでも続けてきた「普通」の生活も、爆撃が残した時限爆弾で晴美ちゃんと、そのやわらかくちいさな手を握っていた右手を失ったとき、すべてが狂い始める。

 
嘘だ。
  

目の前のやさしさも、笑顔も、すべてが歪んだ嘘にまみれたものに見え、でもそれは自分が歪んでいるからだとわかっていて、その宙ぶらりんな中に、すずは落下していく。

それでも、それでも、懸命に生きたのに、終戦の玉音放送ですべてが終わりになってしまう。

道に転がる死体には目をつぶりながら精一杯、普通を守ろうと頑張ってきたのに、今更何を言っているのか。

悔しさに震えながら泣き崩れる、そんなすずのあたまを、やさしい右手がなでてくれる。

それに、すずはふと我にかえるのだが、何が起きたのか、ここではまだ気が付かない。

■終戦のどたばたが少し落ち着きを取り戻し、すずは隣組の刈谷さんと衣服を食料に交換してもらうために遠出をする。

その帰り、行き倒れになった広島の被災者が自分の息子だと気づくことができなかったという、刈谷さんの壮絶なことばに触れたとき、すずは気づくのだ。

 
なんでうちが生き残ったんかわからんし

晴美さんを思うて泣く資格は うちにはない気がします

でもけっきょく うちの居場所は ここなんですよね

生きとろうが 死んどろうが 

もう会えん人が居って

うちしか持っとらん それの記憶がある

うちはその記憶の器として 

この世界に在り続けるしかないんですよね

晴美さんとは一緒に笑うた記憶しかない

じゃけえ 笑うたびに思い出します

たぶんずっと 何十年経っても
 

このシーンのすずの晴れやかな顔。

 
この世界で 普通で まともで居ってくれ

わしを笑うて思い出してくれ

それが出来んようなら忘れてくれ
 

哲が、すずに残していった記憶が、すずをそこに導いてくれる。

そこに差し込むさわやかな光に、震えるシーンだ。

■あのとき、泣き崩れるすずのあたまをやさしくなでたのは、失ってしまった彼女自身の右手だったのだ。

その右手は、これまで生きてきた彼女のたいせつな、ひとつひとつの思い出とともにあった存在なのだ。

軍艦を見に行きたいという晴美ちゃんの手をにぎり、

リンさんにすいかやハッカ飴の絵を描いてあげ、

小学校6年生の波間にはねるうさぎを描いたその右手は、もう、すずの右腕にはないけれど、

ずっと、そこにあり続けていたのだ。

■人は、記憶として生きている。

それは比喩でもなんでもなく、だれかの記憶として生きているものなのだ。

この世界の片隅で、周作にみつけてもらい、その記憶として、すずは立派に生きている。

それはちいさな、切れ切れの愛。

そのちいさな記憶の、ちいさな愛の重ね合わせで、この世界は出来ているのだ。

  

だれでも この世界で そうそう居場所は無うなりやせんよ

 

死んでしまえば記憶は消えるとリンさんは言ったけど、リンさん自身は消えたとしても、幼い頃、おじさんの家で出会った座敷わらしの記憶とごたまぜになりながら、すずに寄り添いながら生きている。

戦争で、いっぱい人が死んだけれど、何万人とか何十万人とか、そういう統計学から離れたところで、その亡くなったひとりひとりが、それぞれに関わり合った人たちの記憶の欠片となって、生き続けているのだ。

生きてる人も、死んでしまった人も、会うことがなってしまった人も、みんな。

                       <2016.12.3 記>

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2016年3月13日 (日)

■【書評】『資本主義の終焉、その先の世界』榊原英資、水野和夫。いま、最大の国難の時期にあって我々はどう動くべきなのか。

歴史が幻想だとしても、現在を読み解く鏡という意味では強力な武器になる。

■ポイントはシンプル。

現在の世界経済はゼロ成長の時代に入った。投資が隅々までいきわたり、もう投資先がなくなってしまった世界はゆっくりと成長を前提としない仕組みを模索していくことになる。というものだ。

中世の地中海経済は開拓先がなくなり、ブローデルが「長い16世紀」と呼ぶ停滞の時代に入った。金利は2%を下回り、紀元前3000年のシュメールで金利が生まれてから最低の値。そして、現在はその長い16世紀をさらに下回るマイナス金利の時代である。

マクロでみれば金利=投資効果であり、現在において投資にメリットはない。

■2000年頃に躍り出たBRICsはインドを除き大幅に減速。残された投資先はアフリカだが人口的にもうま味はなさそうだ。

我々は経済のパイを地理的に拡げる限界に到達した。資本主義は利益を収奪する「周辺」を失った。

リーマンショックの原因となったサブプライムローンは、そんな地理的限界を国内の中間層に切り替える試みで、無審査の低金利で中間層から「未来」を収奪し、中間層を抹殺していった。

小泉改革以降、新自由主義に舵を切った日本も派遣社員の拡大で中間層からの収奪に忙しい。

それはそうだ。

1%以下の低金利時代。投資しても利益が出ないのに、ROE(自己資本利益率)8%を要求するならば、社員の賃金を下げる、購入コストを買いたたくなどをして、出金をセーブするしかないからだ。購入コストの低下は、下請け企業の更なる賃金低下を招く。

経済産業省主導の国民からの収奪は続き、中間層は疲弊していく。そういう構図にある。

■アベノミクスで経済が回復したと安倍首相は胸を張るが、第1の矢である金融緩和の結果は、株価が上がり、円安で輸出企業が潤っただけで、株価上昇で儲けたのは海外投資家であり、企業の利益はデフレ下では投資に進まず内部留保が膨らむだけなのである。

第2の矢の財政出動は、いくらやってもデフレは解消しない。それはそうだ。購入意欲の源泉である給与所得が上がらないのだから高いものを買おうなんて思う人は誰もいない。

インフレ目標2%なんていうのはまったく意味不明で、実体経済の主体である国民の気持ちがまったく分かっていない人間の理屈なのである。

第3の矢である成長戦略については未だに具体的姿が見えないが、榊原と水野も否定的だ。その根拠は、成熟してすべてがいきわたった世界において物欲を刺激する新たな「商品」は生まれない、というところにある。

これについては、少し疑問があり、後述する。

■この本が出たのは2015年12月25日。年明けの未来を見通していたかのようである。

翌、2016年正月明けの株式市場は上海市場の暴落に引きずられて連日の株安。一時はドル110円、日経15000円割れに至る。

現在、17000円越えまで戻しているが、明日の日銀黒田会見、水曜日のFRBイエレン会見次第でさらに上げるかもしれないが、先週木曜日のECBドラギ会見の乱高下をみるとそうも楽観できないだろう。

中国の中間層が確立できない状態での低成長下は中国が次の時代のエンジン足り得ないことを意味しているし、原油バブルの崩壊はアメリカのシェール革命投資の焦げ付きを意味する。また、欧州を牽引するドイツは外需主導であり中国やアメリカの影響を直接受ける構図であり、ドイツ銀行の不安はぬぐえない。

日本はマイナス金利で不動産バブルを期待するが、実体を伴わない覚せい剤的なものだと分かっているから、何かの破綻が起きればその余波を受けてはじけるのは目に見えているので、ババ抜きゲームの感を否めない。

もう、世界経済の失速は始まっている。あとはどうランディングするかだ。

最悪なのは選挙対策として、今、日銀がやっているような無理な買い支えである。反動が起きくなるだけであり、本当に急落するときに下落率の減速させる本来のオペレーションが出来なくなるのではないか、それを心配するのである。

■日本における低成長時代は江戸時代の中~後半にも見られた。徳川の平和が訪れ、一気に生産性が向上。豊かになった日本は生産性向上の限界を天井に長期の停滞期に入る。

だが、その時代は文化が満ち溢れた時代であり、これからの日本は今の低成長を前提として維持しながらそういった時代をめざすのだと二人は語る。

けれども、内部で完結していた江戸時代と、原油や原材料、食糧を輸入に頼る今の日本では構図が異なる。

今、日本が低成長を維持できているのはかろうじてアメリカと中国の経済が維持されているからだ。

そこそこの内需があるものの、製造業はいまだに外需に頼っているのだ。

世界が購入余力を失った時、日本がどうなるか。想像するだに恐ろしい。

だから、アベノミクスの第3の矢は成長戦略から産業革命戦略に読み替える必要がある。

世界経済に左右されない強固な国造りをしなければならない。

■今、まさに国難である。

明治維新になぞらえれば、いまは開国の舵を切った幕府に対する不安が高まった安政の大獄の頃だろうか。これから動乱が始まるのである。

明治を打ち立てた幕末の志士たちは世界の知を己の血に取り込むことで日本の独立を守った。

今回は、世界に渦巻く金融至上主義の断末魔から国民経済を守るというオペレーションだ。

まだ体力があるうちに次の手を打たなければならない。

いくつかヒントがあるように思われるので列挙しておく。

 

①AI、ロボット技術の推進

少子高齢化は避けられない。国内消費を支える国内生産を維持するならば、体力的に厳しく安価な労働力が不足する。

そこで移民だ、と考えていたが、欧州をみればどうも良い選択だとは思えない。

そこで日本がリードするロボット技術で解決するのだ。今の技術なら自動車の組み立ての完全自動化も可能だろう。

農業にしても、AI化で相当なことができるはず。生産の効率化で食糧需給の問題も一気に解決したい。農家は土地を提供してそれに応じたリターンを得ればよい。

ともかく国内生産の高コスト問題が賃金だとするならば、完全自動化がひとつの答えになるだろう。

問題は雇用だが、高齢化福祉をはじめとする社会保障に活路を見出してはどうかと思う。これは③で述べる。

 

②エネルギー革命

原油の輸入に頼らない社会をつくる。

自動車は近い将来EV化するだろう。そうすれば、住宅との組み合わせで日中、夜間はEVに貯めた電気を使い、深夜はEVの充電に充てる。そうすれば電気需要の安定化、効率化を図れる。

問題の発電は何かの革命が必要だが、そこにこそ研究開発投資と人財の投入が必要だと考える。

かつて消えていった夢の技術である常温核融合はどうなったのか?

量子力学の世界は日進月歩である。膨大なエネルギで量子状態を作り出す今の核融合のアプローチは極めて効率が悪く、その一方でわれわれ生体の仕組みの中に量子状態を作り出すメカニズムがあることが分かってきている。例えば光合成がそうだ。

常温核融合のポイントは、金属結晶格子の中に取り込んで水素原子間の距離をつめることにある。その程度の距離では量子状態にはならない、というのが現在の理解だが、生体が量子状態を生むメカニズムを紐解くことで、不安定的にしか再現できなかった常温核融合をコントロールする技術が生まれるのではないだろうか。

 

③地域でつくる人のつながり

①で生産する仕組みができあがり、②でエネルギーが確保されれば、基本的にシステムは回りだす。

だが、この仕組みは拡大を指向しないエコシステムであるがために労働市場と賃金の縮小を生む。

どうやって国民は自分の食い扶持を稼いでいくのか。

①、②の仕組みで利益を得るのは企業である。

その企業に参加できるものは生きていけるが、それ以外の人間は収入の手段を持たないことになる。

いったい我々はなにをもっているのか?

たぶん、その答えは社会的安定なのだと思う。

これが現代日本が持つ最大の価値である。

いま、私に答えはない。

だが、人と人とを分断し、能力主義、自己責任という宗教を布教してきたのが資本主義だとするならば、その逆のところに答えがあるのではないだろうか。

歴史をひも解き、ヒントを探す手もあるかもしれない。

 

いずれにしても、時間が無い。

あと10年の間に次の道筋が描けなければ、子供が社会に出るときに日本の秩序は崩壊しているかもしれない。

だから、ただ危機感をもつだけでなく、自分に何かできることが無いか、それを模索中なのである。

                            <2016.03.13 記>

■資本主義の終焉と歴史の危機

2014年3月刊。この本に先立つ水野和夫の本。

彼の主張とロジックはこの本の方が本質に触れている。

むしろこちらを読むべきだろう。

 

■資本の世界史  資本主義はなぜ危機に陥ってばかりいるのか ウルリケ・ヘルマン

2015年10月刊

資本主義の起源をイギリスの産業革命とし、貨幣経済と資本主義を峻別する論。

資本主義の本質は投資に対するリターンの拡大であり、ゆえに拡張が資本主義そのものである。

新自由主義は、実体を伴わないその行き過ぎた拡張主義ゆえに破綻する。経済危機に対しては実体経済への投資が必要でケインズ流の大型財政出動と高率の累進課税が最良の選択である、とする。

産業革命以降、我々は指数関数的な成長をしてきた。

その成長と危機の歴史が分かりやすく解説されていて、とても勉強になった。

けれども、だからといってこの低成長の時代にケインズ流が通用するかどうかは疑問である。

それを差し引くにしても、資本主義の本質に迫る良書だと思う。

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2015年6月11日 (木)

■【書評】『沈みゆく大国アメリカ 〈逃げ切れ! 日本の医療〉』堤 未果。国民を守るのが国の仕事じゃなかったの?

我々が安心して暮らしていくために無くてはならない国民皆保険制度に危機が迫っている。堤未果の激しい問題提起を受けて、少し考えてみた。

■アメリカ資本主導の新自由主義によって、いかにアメリカ社会が壊されていったのかを生々しく描き出し、TPPによって日本社会が狙われている、という警鐘を鳴らしてきた堤未果の新刊。

沈みゆく大国アメリカ、というタイトルでありながら、主題は日本の国民皆保険制度がアメリカ資本に狙われている、という極めて強い警告にある。

オバマケアが誰の為の制度なのか、そして現代アメリカにおいて大金を持たない人たちがどうなってしまうのか。介護の現場、医療の現場で何が起きているのか。

その姿は、近い将来の日本の姿なのだ。

■日本国憲法25条によって国家に守られるはずの日本人の安全が、金の亡者であるアメリカ資本の外圧と、竹中平蔵を代表とする経済財政諮問会議のような私利私欲で動く売国奴たちによって、切り刻まれている。

すでに総仕上げの段階だ。

後期高齢者医療制度で年寄りを切り捨てた日本国政府。混合診療(自由診療)による形骸化をねらいつつ、最終的に国民皆保険制度を殺す刀は国家戦略特区である。

 

国家戦略特別地域とは・・・(少し長いですが wikiから)

地域を絞って、そのエリア内に限り従来の規制を大幅に緩め、外国企業を誘致する計画である。また、この区域は「解雇ルール」、「労働時間法制」、「有期雇用制度」の3点の見直しを対象としている

国家戦略特別区域の方針を決める産業競争力会議。この委員となった竹中平蔵の説明に拠れば、内容は以下の通り。

この国家戦略特区(=国家戦略特別区域)は、今までの特区と異なり総理が主導の特区であり、これまでの地方から国にお願いして国が上の立場から許可するというものとは大きく異なり、例えば、東京ヘッドクウォーター特区や北海道の輸出農業を特区にしてといった形で、特区を、国を代表して特区担当大臣、地方を代表して知事や市長、民間を代表して企業の社長という国、地方、企業の3者統合本部でミニ独立政府の様に決められる主体性を持った新しい特区です。この特区を活用して岩盤規制に切り込みたいと思っている。

アメリカ通商代表部(USTR)のカトラー次席代表代行も、アベノミクスの3本目の矢である「成長戦略」に謳われている規制緩和や透明性の確保などについて、「TPP交渉のうち1つの焦点となっている非関税分野で、アメリカが目指すゴールと方向性が完全に一致している」、「(TPP交渉の非関税分野の議論は)ほとんどすべて安倍首相の3本目の矢の構造改革プログラムに入っている」と語り、歓迎している。

2013年10月21日、午前の衆院予算委員会で、雇用分野を所管する厚生労働相など、関係分野の大臣を、国家戦略特区ごとに設ける統合推進本部から、外す考えを表明。この件に関して安倍晋三総理は、「意見を述べる機会を与えることとするが、大切なのは意思決定。意思決定には加えない方向で検討している」と語った。

 

国民はどこにいるのか。

 

<追記 2015.6.14>

昨日の報道によると国家戦略特区は東京全域に拡がることになったようだ。もはや「特区」ではない。

だが、問題の本質はそこにはない。やり口だ。

失われた20年からの脱却。そのための構造改革。それ自体は否定しない。

だが、構造改革に伴う反対意見を封じ込めるために、議論の蚊帳の外に置き、一方的になし崩し的に、実行に移すそのやり口。

特区ならば、法律の範囲外なのか?必要な手続きを踏まなくていいのか?

そこにはもう民主主義などない。【独裁】だ。

正しい、とか、正しくない、なんてどうでもいい。そんなもの、どこにもありはしないのだ。

何事にも、メリット、デメリットがある。その提案について、どんなメリットがあり、どんなデメリットがあるのか。それは、その人の立場によって全く異なるものである。

だからこそ議論が必要なのであって、その議論の結果、どんなことが起こるかの全貌を全員で共有し、不利益を被る人の気持ちを斟酌しつつ、全員で進むべき道をを探っていく。

それが民主主義だろう。

今の安倍政権は、その意味で、【反民主主義】的である。

集団的自衛権の問題も、ニュースステーションにおける恫喝の問題も、「正しいことをしているのだから、外野は文句をいうな。」 という、その基本的性格を指し示している。

だが、いろいろな立場での議論展開する場であるマスコミの反応はにぶい。ここでも機能不全が起きているとしか思えない。(集団的自衛権の問題も憲法学者の長谷部恭男さんによる勇気ある一刺しがなければ、なんとなーく、ずるずる行っていたに違いない。)

そこが恐ろしい。。。<追記 おわり>

 

■さて、そもそも誰の為の改革なのか。その底流を探ってみよう。

 

日本は高齢化社会になるのだから、医療費の財源が必要である。

そういって消費税の税率が8%にまで上げられてきた。

その一方で、1989年に40%であった法人税は、2012年の見直しで25.5%まで引き下げられている。

過去25年の消費税税収累計280兆円といわれるなかで、同時期の法人税減税の累計は、ほぼ同等の250兆円である。

なんのこっちゃ。国民の血税が企業に流れただけじゃないか。

■いやいや、企業の収益をあげることで、家計に還元されるのである。金は天下の回り者。

というのが安倍さんの主張だが、以下のグラフを見て欲しい。

2008年のリーマンショックの景況が分かりやすいが、2012年に向けて企業の純利益は順調に回復。その一方でサラリーマンの平均年収は、ほぼ変わっていない。

アベノミクスでさらに企業の利益は上昇しているはずであるが、いっこうに家計には回ってこない。

<サラリーマン平均年収推移>
Photo

<企業当期純利益推移>
Photo_2

■いやいや、給与は安定して支払い続けなければならない。利益が良くなったからといって、そのまま給与に反映するわけにはいかんのだよ。

というのが、毎年の労使交渉の企業の言い訳だが、ちょっとまて。2001年の底から回復していくなかで、むしろ平均年収は下がっているのだ。

むしろ、リストラによって足腰を回復した企業は、回復したにも関わらず【スリムな体制】=【外転化、派遣化によって勝ち取った高収益構造】を維持していこうとしている。

そういうことだろ。

国民からむしりとられた金は決して帰ってはこないのだ。

これが1980年代から始まった日本の【資本主義化】の実像なのである。

■先の『無業社会』の書評でも挙げた憲法25条。

 

日本国憲法 第二十五条

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

国民皆保険制度はこの精神によって維持されてきた。

憲法に照らすならば、今の日本政府のやろうとしていることは明かに違憲である。企業の利益を優先し、憲法で定義されている責任を放棄した日本国政府の罪は重い。

それを強く主張したい。

立憲主義国家として、政府の暴走を止める機能は働かないのか。日本の司法は死んでしまったのか?三権分立は単なる御託なのか。。。。

 

日本国憲法 第八十一条 

最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である

 

戦後70年。

集団的自衛権の行使を柱とする安全保障関連法案論議が高まる今、改めて憲法に記された文言の意味を噛みしめながら、改めてこの国のカタチを論議する。

そういう時期に、この国は差し掛かっているのではないだろうか。

                           <2015.06.11 記>

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■『無業社会』働くことができない若者たちの未来。工藤啓、西田亮介。今、日本に必要な価値観とは。

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2015年6月 2日 (火)

■【書評】『意識はいつ生まれるのか――脳の謎に挑む統合情報理論』マルチェッロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニ。「意識」とは複雑さを最大限にした「状態」のことなのだ。

意識を定量化し、測定する。今までの脳科学が踏み込めなかった領域に我々は何を見るのか。

■植物状態にある患者がいる。

何を呼びかけてもまったく反応はない。だが、このような患者のうち、意識を保っている人がいることが分かってきた。

その患者は、ありありとした意識を持ちながら、指も、表情も、目も動かすことが出来ず、自分に意識があるということをまわりに伝えることもできないそんな永遠とも思われる地獄に生きている。

こんなひどい話があるだろうか。

その患者に意識があるかどうかを知るすべはないだろうか。

この一念に動かされ、著者は思考をめぐらし、しかし既存の手法では「意識」を捕まえることが出来ないことに絶望する。

だが、そこで著者は立ち止まることなく、新しい理論と測定方法によって、この「意識」の世界に立ち向かっていく。

そのワクワクする挑戦に読む者は引き込まれていくのだ。

■意識のないこん睡状態と意識のある状態の違いとは何か。

何に意識があり、何に意識がないのか。

そこで著者はデジタルカメラを持ち出す。

何百万画素を持っていようが、デジカメの世界では、各画素の「情報」は独立である。100万の画素情報であるならば、情報量は100万である。

一方、意識は、見える情報をニューロンの発火状態の総体として捉える。ひとつひとつのニューロンが、他のニューロンと短距離、長距離、いろいろな組み合わせとしてつながりあう。(複雑系で議論される最適なネットワークの状態とそっくりだ!)

100万のニューロンが、個々独立でもなく、一斉にまったく動きをするのでもなく、複雑な「情報量を最大とする」つながりとして立ち現れる。

このようなとき、そこに意識が立ち現れるのではないか、という仮説である。

■一つの「行動命令」に対して単純な反応をしめす小脳は大脳以上のニューロンの数をもっているにも関わらず、各ニューロンモジュールは独立で、複雑な振る舞いをしない。

一斉に同調する心筋細胞によって動く心臓は、細胞がすべてつながり同調する単純な振る舞いをする。

したがって小脳にも、心臓にも、「意識」はない。

■「意識」があるとき、一つのニューロンを刺激すると、そのニューロンだけが反応するのではなく、また、ニューロンのつながり全体が同じ反応をするのではなく、いろいろなニューロンが複雑で入り組んだ反応をする。

その現象をとらえる装置を著者たちのグループは作成し、10年の歳月をかけて測定してきた。

結果、昏睡、あるいは、ノンレム睡眠をしているときには、単純な応答しか見せなかったニューロンが、意識があるときには、極めて複雑な応答を返してくる。

ここに、念願の「意識」をとらえるのである。

■本書は、「意識」がどのように発生するのか。という難題に直接答えているわけではないが、「意識」の発生する状態を定義し、測定し、検証するという偉業は、その答えへの確実な一里塚である。

それは我々を悩ませ行き止まりに追い込んできた「哲学的ゾンビ」を測定し、数値化する科学であり、今後発展していくAIが意識を持つことが出来るのか、或いは、意識をもった機械が持たねばならない「資質」を提供するものである。

その意味で、これからの我々の科学、哲学に対する重要なキーストーンとなる書なのである。

≪参考記事≫
【複雑な世界、単純な法則 ―ネットワーク科学の最前線―】 マーク・ブキャナン著。我々を取り巻く複雑なネットワークが持つ、幾つかの特性。

■【無意識の脳、自己意識の脳】「私」とは何か?A・ダマシオ

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                          <2015.06.02 記>

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■【書評】『無業社会』働くことができない若者たちの未来。工藤啓、西田亮介。今、日本に必要な価値観とは。

少子高齢化が進む中で、今の若い者は大変だなあと他人事にはしていられない重大な問題なのである。

■2012年時点での若年無業者数(15~34歳の非労働力人口のうち,家事も通学もしていない者)は63万人(内閣府)。若年就労者1600万人だから、実に4%(若年人口の2.3%)もの若者が就職もせず、求職活動もしていない、ということになる。

この数値は統計が開始された1995年時点で約40万人だったものが、2002年に60万人に跳ね上がり、高止まりしている状況だが、少子化を考慮すると比率としては継続した上昇傾向を示す。

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それに対して、2015年4月時点での若年失業者は79万人(5%)であり、2003年の173万人(9%)、2010年の130万人(7%)をピークに、バブル崩壊が完了した1993年時点の76万人(4%)に近いあたりまで戻してきており、対照的だ。

どうやら無業者の問題は、景気だけによるものではないようだ。

■著者はNPOとして若年就労支援を行ってきた方であり、その経験とデータから若年無業者の実態を語る。

そこに映し出されるのは、病気であったり、就職先の不適合であったり、就職面接の失敗により、労働社会からはじき出されてしまった若者の姿である。

いい歳して親のすねをかじりながら、ろくに働きもせず、2ちゃんを眺めて暮らしているという外見は、あくまでも’今の姿’であり、その裏にあるのは、そこから抜け出そうとしても決して抜け出すことが出来ない。その諦めの上での已むない姿なのである。

これについて、努力が足りない、と一蹴すべき問題ではないことは、先のデータが示している。景気が回復し、失業率が戻ってきても、無業者は増え続けているのだ。そこには何らかの理由がある。

■著者は、それを、一度落ちこぼれると圧倒的に不利になる「日本型システム」にあると読む。

実際、この社会に働いていて、それはしみじみと感じる。働き方が自由であるべきだとか、多様性だとか、いろいろかっこいいことは言われるが、確かに中途採用は増えたが採用されるのは、30代ばりばりの即戦力、落ちこぼれを知らないエリートばかりなのだ。

■著者たちの努力は、この社会システムとの「つながり」を失って、孤立してしまった若者たちを再度「つながり」に導く努力である。

これは極めて大切なことであって、一旦社会から孤立して何年も過ごしていると、再び社会に復帰するのは至難の業であって、実際私自身、3年間の実体験があり、その大変さは肌身で知っている。その時大切なのは、「社会復帰へのリハビリ」と「仲間」である。

その意味で、著者たちの活動は極めて的を得ていると思う。

■だが、その受け入れる社会自体が変わらなければ、元の木阿弥だ。

企業は、失われた20年の間に効率化を極めた。一度落ちこぼれると圧倒的に不利になる「日本型システム」を維持しつつも、いや、それを維持するために、それ以外のモノを切り捨てていった。

その効率化の権化が、一度ドロップアウトしたものを拾い上げ再生するという社会的役割を引き受けるか?答えはNOだ。

それならば、誰かがその役割を引き受けなければならない。効率という観点からは、あまり価値のあると思えないものたちを、それでも一人の人間として誰とも比べることのできないものを受け入れる世の中であらねばならない。

それを国家に丸投げするのではなく、行き過ぎた資本主義に対する新しい価値観を立ち上げること。

たぶん、著者たちの活動がその先駆けになるのではないか、と思うのである。

 

日本国憲法 第二十五条

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

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                          <2015.06.02 記>

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