今回のテーマは、編集工学。

■『爆笑問題のニッポンの教養』(番組HPより)
FILE023:「世界は編集されている?」 2008.4.1放送
編集工学研究所・所長 松岡正剛。
■「編集工学」ってなんじゃらほい。
というところから始まるのだけれども、
「20世紀のあいだに、平和とか環境を大切にしなきゃいけない、という考え方についてはもう出尽くした。じゃあ、どうするのか?その方法を集めてくる」のが編集工学なのだそうで、やっぱりなんだかわからない。
つまりは、「芸術」、「文学」、「歴史」、「科学」、「哲学」。
そういった個々の「学問」を横断的に捉えてものごとを考える、ということらしい。
■「編集」といえば対象を切りとってつなげる作業のことだと思っていたのだけれども、その編集という作業のメカニズムを考えたとき、入ってくる情報(インプット)と出てゆく表現(アウトプット)のあいだに『ずれ』がある。
その『ずれ』が重要なものであり、「編集」が持つ意味そのものだということのようだ。
■だとするならば編集工学とはいっても、「学問」というよりは、一般にあるものとは質の異なった「表現」を生み出すための新しい「手法、技術の体系」というような気もする。
これは仕事として表現に携わっていない人にとっても重要なことで、それは、日々のたわいもない会話の中でいかに空虚な時間を排し面白く充実したときを楽しめるか、という問題なのである。
もちろん爆笑問題のふたりにとってもそれは重要で、彼らの活動そのもの、根源的な部分を問うはなしなのである。
■太田は言う。
本当に表現したいものがあって、それを語ろうとするのだけれども、語れば語るほど、(その表現は)死んでしまう。
「すべてを語ってしまうと伝わらない」のである。
自分が見たこと聞いたこと学んだこと、そこから生まれてきた何かをひとに伝えようとするとき、何か必ずこぼれ落ちるものがある。
それは、われわれが機械ではなく、生命という「動的」な存在であるからこそ生じるものである。
■機械による転写、伝達はノイズが入りにくい。入るけれどもそれは人間の会話と比べれば圧倒的にノイズが少ない。ほぼすべての場面でデジタル化が進んだ現代においては、その正確さはとんでもなく向上している。
機械の「取りこぼし」は少ないのである。
ところが、「伝わらない」。
ネットに書き込みされた文章をみても、「あ、これはコピペしたな。」というのは何となく分かるものである。文章が死んでいるのだ。
もっと分かりやすく言うと、面白くない。
何故かといえば、情報を「感じ取った」そのひとが過去の経験という巨大な図書館のなかでその情報を咀嚼し、味わい、その結果現れてくるのが「表現」であるからなのだ。
右から左に情報を垂れ流す「コピペ」はに「魂」の存在を全く感じさせることはない。
■では、感じたこと、考えたことをつぶさに表現へ織り込んでいけば、自分オリジナルのその表現は「面白い」ものになるのだろうか。
柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
正岡子規
俳句は、音として五、七、五 の十七文字に束縛された「不自由」な表現手法である。では何故、俳句はひとの心を惹きつけるのか。
夕方のやわらかな風にあたりながら、ひとり縁側にすわって柿をひとかじり。かぁ、かぁとカラスの鳴き声が聞こえたので、ふっと顔をあげてみるとその瞬間、ごーん、という鐘の音が低く長く響いてきた。遠くに法隆寺の影が夕焼けに浮かんでいる。ああ、そろそろ秋も終わりか。などと少しさびしい思いが胸を去来するのであった。
この俳句から浮かんだ光景を自分なりの文章に書き下してみると、だいたい180文字くらいになった。
私のつたない文章の方は、「わたしが感じた心象風景」をいろいろ説明はしているのだけれど、それ以上の「広がり」を感じさせない。
一方、’柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺’が描き出す「広がり」は、ご~~んという鐘の音とともに、どこまでもどこまでも広がっていく。
■この違いは何か、というと俳句は「想像すること」を読み手に託しているからなのではないだろうか。
必要なことがすべて解説されつくした表現とは「教科書」のようなものである。
「教科書」がつまらないのは読み手がそれ以上の想像を膨らませる余地が無いからである。「教科書」が面白いという学生は滅多にいない。
もしいるとするならば人並みはずれた想像力の持ち主であって、そういう人の教科書をみるとそこにのっている肖像写真にひそんでいる「隙」を決して見逃さず、大抵の場合は夏目漱石の耳からバナナが生えていたりするものだ(しかも上向き(笑))。
■編集とは「切ること」である。
インプットされた情報と自分自身をかけあわせた産物を、そのままではなく、最低限にまでそぎ落としていく。
そこで「大切なこと」を取りこぼしてしまうのではないか、と恐れるのではなく、その取りこぼされた部分を「受け手」の想像力が埋めていくとき、表現者自身も想像だにしなかった「作品」が出来上がる。
■太田は自分の漫才について、こう語る。
完璧になるまでとことん練習したいし、そのためにきちんと練習もする。けれど、ライブでやると会場の広さとか、客層によって、「完璧」なはずの「漫才」自体ががらりと変わってしまう。
それはある意味、爆笑問題の芸には「取りこぼし」がいっぱいあって、それゆえに、「爆笑問題」の面白さを説明しているのだと思う。
取りこぼしや隙があるほど、観客はそれを埋めようと想像をはたらかせ、主体的にそこに関わってくる。その「主体的関与」のエネルギーは舞台の上のふたりにも影響を与え、そこにダイナミックな関係性が生まれてくるのだ。だから面白い。その「場」が生きているのだから。
■編集については「切り取る」だけではなく、「つなげる」も大切である。
むしろ、そこが「編集工学」なるものの真骨頂なのだと思う。
それぞれ独立した体系をもつ、いろいろな学問を総合して新たな「ものの見方」を生み出していく。
なーんて書くとかっこいいのだけれど、要は、煤けて線香くさい「鐘」「法隆寺」ということばに「柿」をぶつけた正岡子規のやり方と本質的にはなんら変わるものではない。
そのやり方は、鮮やかなカキの色と甘くてカシュッという食感を読み手に想起させることで、そこにただよう荘厳な線香臭い空気を笑い飛ばす、そういう乱暴で、かつお茶目な行為なのだ。
それは先の教科書好きの学生についても同じで、「夏目漱石」と「耳からバナナ(しかも上向き)」の出会いは極めて正岡子規的であり、編集工学的でもあるのだ。
■番組の後半で「価値に差をつけない二元論」に話が及んだのだけれども、「『善』と『悪』がどちらも必要で価値のあるものだとするこの考えが持つ、「矛盾」をかかえたまま進み続けるというビジョンがとても気に入った。
二つの対立する主張が「両方とも正しい」という優等生的な捉え方よりも、「矛盾してるよ、当たり前ジャン」という捉え方の方が実態に即しているばかりではなく、「面白さ」を生むエネルギーに満ちている。
そこで「正義」というコトバが出てきたら要注意だ。
「正義」は「悪」を許さない、のだから。
実に堅苦しく、緊張する、面白くない考え方である。
■深刻な矛盾は至るところに渦巻いている。
けれど、ある個人や集団を批判、弾圧したところで「矛盾」が解消されるわけではない。一見、解消されたかのように見えても、深いところでのたうちながら再び現れるまでのエネルギーを充満させ続けているだけに過ぎない。
相反するものの「関係性」や「場」を「矛盾」と呼ぶのであって、そこには実態がないからである。
■「矛盾」が消えるものではないとするならば、その「矛盾」を抱えながら生きていくほか仕方ない。
それならば、その矛盾を嘆き、怒り、悲しむよりも笑い飛ばすようでありたい。
そこには確実に耐え難い悲しみが厳然として存在している。
けれど、素直にその悲しみにどっぷりと巻き込まれて嘆く、その一方で、その悲しむべき「矛盾」を自分の肉体から切り離し、客観的、相対的に捉えることができれば、また違う風景が見えてくるのではないか。
自分の感情に、自分の肉体に素直でありながらも、空から客観的にその矛盾の構図を捉えるこころを同時に持つということである。
それ自体が「矛盾」だという気もするけれども、「矛盾」を避けず、けれど正面からぶつけ合うのではなく、思いもよらない違った角度でぶつけてみる試み。
「悪の枢軸」を戦争によって懲らしめるのではなく、もっと突拍子も無い角度からその矛盾に当たることは出来ないか。
■東欧諸国の共産主義が崩壊していったのは、空爆でも掃討作戦でもなく、西側は豊かだよーん、という情報がそこに暮らす東欧諸国の皆さんの間に広がっていったことが大きな要因になった、と認識している。(違っていたらごめんなさい。勉強します。)
太陽政策、融和政策がどの場合でも通用するなどとは思ってはいないけれども、「えー、そんなことで状況が変わっちゃうのぉ?」と脱力してしまうような、誰もいままでに考えたことの無い「切り口」がきっとあるに違いない、ということである。
それは、正岡子規が法隆寺に柿をぶつけた試みと同じであり、あなたが退屈な授業に飽きて、教科書にある聖徳太子の頭の上にニワトリを描いたうえにあまつさえ、ポン!とタマゴまで産ませてしまった、その試みと何ら変わらないアプローチなのだ。
深刻な矛盾を解きほぐすのは、いつだってユーモアなのだと私は思う。
<2008.04.10 記>
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■本 『複雑系―生命現象から政治、経済までを統合する知の革命』
■M・ミッチェル・ワールドロップ 著■
★★★★☆(17件のレヴュー)
■ソ連は何故急激に崩壊したのか、株の暴落は何故おこるのか、生命はどうやって発生したのか。今までのアプローチでは捉えることの出来ない「複雑なシステムの振る舞い」を「複雑系(Complexity)」と呼ぶ。
■本書は、原子物理学、経済学、遺伝子生物学、電子計算工学、といたさまざまな分野の先端を走る科学者たちが米国サンタフェの地に集い、それぞれの学問大系と異なる分野の人たちと熱く、楽しく、語り合うことで「自己組織的な適応システム」という「複雑系」を捉える道を見出した、そのドラマチックな過程を知的興奮とともに語ってくれる。
■多少厚い本なのだけれど、非常に読みやすく「複雑系」の入門書として最適!という売り文句に偽りは無かった。
■文庫版も含めて絶版になっているが、古書はアマゾンでも十分に出回っているようなので、ちょっと興味があるな、と思った人には是非おすすめです!
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