■【書評】『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』、下條信輔 著。境界線の無い、ゆらぎの中に浮かぶもの。
「わたし」という意識はいったいどういうものなのか、その問いに対する大きなヒントを与えてくれる本である。
■「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤
下條信輔 著 講談社現代新書 (1999/02)
■知覚心理学、認知神経科学の大家である著者が、「意識」、「こころ」の正体に迫るその切り口として作り出した概念が「脳の来歴」、である。
「意識」というものは「これ」と指し示すことが出来るものではない。
個人の遺伝子に埋め込まれたもの、生まれ育ってきた経歴、まわりの環境、音、匂い、肌触り、ぬくもり、といった身体感覚としての記憶、それらの総体を「脳の来歴」と名付け、意識とは、そこにもたれかかるようにして立ち現れてくるものだ著者はいう。
■他者の「意識」、「こころ」は、そうやって生まれた脳の来歴によって、「自分と同じようにそこにあるもの」と想定することで認識される。
他者の意識の中に自分が入り込めない限り、そうとしか言うことができない。
それでは、自分の「意識」、「こころ」はどうやって認識できるのか。
■転んで泣いている子供のそばに寄って「痛いのかい?」と尋ねたとき、子供の中に「痛い」という「意識」が初めて生まれてくる。
その時の自分の状態を「痛い」ということばと結びつけて「認知」が生まれる。
面白いことに「認知」は自らの中からではなく、外からやってくるものなのだ。
そこには「他者」が必要なのである。
■ここに、大きなヒントがあるように思われる。
「自分」という意識は、自分の記憶や周りの世界への認識、身体感覚だけで作られるものではなく、「『他者』の存在」にも大きく依存するものなのではないか。
「意識は脳に宿る」という唯脳論から、身体感覚の積層というA・R・ダマシオ(『無意識の脳、自己意識の脳』)の考え方。
そこからさらに自分の肉体の殻をやぶって他者、環境へと広がっていくイメージ。
「自分」と「世界」は確かに違うものなのだけれども、そこにはハッキリとした境界がない、という物の見方だ。
「意識とは、一つの状態、機能の名称ではなく、異質なもののゆるやかなまとまり」
と著者は語る。
確かにそういうものなのかもしれない。
■さらに、著者は「意識」と「無意識」の違いへと踏み込んでいく。
「無意識」とは、自動的であたかも機械のようなものであって、多分動物にもあるもので、科学的に踏み込んで行きやすいもの。
「意識」は、とらえどころのない、ゆるやかなまとまり。
では、「無意識」と「意識」の境界線はあるか、というと、そこにもハッキリとした境界線があるわけではなく、ゆらいでいる。
フロイトのいう「前意識」に近いイメージで、それが「無意識」と「意識」のあいだにぼんやりと存在する。
■「意識」というのは、何かにに焦点をあてることであって、そのまわりにぼんやりと「意識されないもの」が拡がっている。
通常、我々が歩いているとき、常にそこに意識を集中しているわけではなく、何か考え事をしながら、なんとなーく無意識に周りを見ている。
その目の前に自転車がスッと現れた瞬間、そこに「意識」の焦点が移る。
「意識の周辺の背景(地)なしに、意識(図)は生じ得ない」
このあたりもナルホドと思わせる。
■ここにおいて、「意識」というものの全体像が浮かび上がってくる。
要するに自己の内と外、さらに無意識との境界線がハッキリとしない、とある瞬間の「状態」、ということである。
「<意識>とは何か」
という問いに対しては、そもそも明確な答えが出せない性質のものなのだ。
■けれども、「私」の中には確かに「意識」、「こころ」というものは確固として存在する。
そこに分け入って確かめることは出来ないけれども、他の人にも「意識」、「こころ」は存在し、犬や猫やイルカにも、その性質やレベルは違っても「こころ」のようなものがあるように見える。
では、その「意識」、「こころ」を人工的に作り出すことは出来るのであろうか。
■SF作家、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」ではアンドロイドのレイチェルに「こころ」のようなものが垣間見えるのであるが、果たしてそういうことは可能なのか。
見せかけだけでない、自我を、魂を持った機械というものを作り出せるのか。
答えはNOであり、YESであると思う。
■1+1=2の演算の集合である電子回路を基礎とした今のコンピューターでは、「そう見えるもの(シミュラクラ)」は作れても、自我そのものを作り出すことは出来ないであろう。
「意識」はあいまいで境界線のぼやけた「状態」であって、「解析」、「演算」では近づくことの出来ないものだからである。
近代から続く還元主義的科学がその頂点を極めた現在、その先に立ちはだかっているのも、同じく「複雑系」といわれる「あいまい」で「境界線」のぼやけたものたちなのだ。
地球の気象をスーパーコンピューターで解析、予測しようとしても、そこに現れるのはあくまでもシミュレーションの結果であって、「そのもの」ではない。
どこまでも近づくことはできるかも知れないが、決して到達することの出来ないものなのである。
■だがその一方で、我々に「意識」がある、という事実は、それを作ることが可能であることを示唆している。
だって、実際にあるんだもん。
作れねぇワケないだろ。
ということなのだが、その為には新しい概念のコンピューターが必要になるのだろう。
1+1の積み上げではなく、局所と全体がゆらぎながらも密接に関係し合う、というような複雑系的演算方式(?)を作り出すことが出来るならば、もしかすると、そこに「魂」が生まれる可能性があるのではないか。
■けれど、それでもなお、我々は「意識」を解明するには至らないであろう。
倫理を度外視してそこに踏み込んでみたとしても、
それは「私」にとって、新たな「他人」に過ぎないからである。
要はどうどうめぐりなのだ。
<2009.12.20 記>
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下條信輔 著 講談社現代新書 (1999/02)
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