心と体

2012年5月27日 (日)

■やっと出た!!

尿管結石、やっと出ました!!

Img_9331

尿道にチクリと違和感を感じた直後にポトリと出た。

ちょっと崩れたけれど、2.5mm×5mmほどの大きさ。

表面はガサガサしているものの固くはなく、結構もろい感じ。

いやあ、こいつには苦しめられました。

 

4月22日(日)に釣りに行った先で急な腹痛。

何とかクルマで自宅に戻るも、強い悶絶系の腹痛は治まらず、夜になって救急病院で見てもらっていろいろ検査、深夜になって、どうやら尿管結石と思われるので今日は入院しましょうってな感じで、生まれて初めての入院に。

救急病院の前に市の夜間診療で見てもらった時、多分、大腸炎でしょう、この時期は多いんだよね、あはははは、と笑った医者の診断はあまりにいい加減で、いやー、これは違う!、とセカンドオピニオンをもらいに行って正解でした。

 

結局、一晩点滴をしながら病院に泊まる。

翌朝、CTの結果をみるとこれは確かに尿管結石で、腎臓から膀胱の間の管のところに5mm程度の結石があります、とのこと。

でも、この位置と大きさなら自然に排出できそうだから、様子を見ましょう。とにかくたくさん水を飲んでください。

というわけであっさり退院。

とりあえず尿の出を良くする薬と、痛み止めの頓服をもらって一か月後に再検査ということになりました。

 

考えてみれば、一週間以上前から実は波状攻撃的な痛みはあって、でもしばらく我慢していれば治まっていたので放っておいたのだが、早く病院に行っておくべきだったか、と後悔しても仕方がない。ともかく、この痛みの波状攻撃というのが、特徴らしいので、しっかり記憶しておくことにする。

 

それから一か月、時々違和感を感じたりするものの、幸いのことながら悶絶系の痛みの再発はない。

けど、肝心の石が出ない。

何せ、石が出てこない限り、あの悶絶系がいつまた襲ってくるかもしれないとひやひやなのである。

これはこれで精神的につらい。

 

先日の再検査で腎臓の腫れはすっかり治まっており、石も膀胱の入口のところまで来ているので、あとちょっと、とのこと。

なんだか妊婦になった気分だ。

 

で、やっと結石が出た、という次第。

本当に待ち遠しかったよ。

名前でも付けちゃおうかしらん。

                         <2012.05.27 記>

 

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2009年12月20日 (日)

■【書評】『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』、下條信輔 著。境界線の無い、ゆらぎの中に浮かぶもの。

「わたし」という意識はいったいどういうものなのか、その問いに対する大きなヒントを与えてくれる本である。

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■「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤
下條信輔 著 講談社現代新書 (1999/02)

■知覚心理学、認知神経科学の大家である著者が、「意識」、「こころ」の正体に迫るその切り口として作り出した概念が「脳の来歴」、である。

「意識」というものは「これ」と指し示すことが出来るものではない。

個人の遺伝子に埋め込まれたもの、生まれ育ってきた経歴、まわりの環境、音、匂い、肌触り、ぬくもり、といった身体感覚としての記憶、それらの総体を「脳の来歴」と名付け、意識とは、そこにもたれかかるようにして立ち現れてくるものだ著者はいう。

■他者の「意識」、「こころ」は、そうやって生まれた脳の来歴によって、「自分と同じようにそこにあるもの」と想定することで認識される。

他者の意識の中に自分が入り込めない限り、そうとしか言うことができない。

それでは、自分の「意識」、「こころ」はどうやって認識できるのか。

■転んで泣いている子供のそばに寄って「痛いのかい?」と尋ねたとき、子供の中に「痛い」という「意識」が初めて生まれてくる。

その時の自分の状態を「痛い」ということばと結びつけて「認知」が生まれる。

面白いことに「認知」は自らの中からではなく、外からやってくるものなのだ。

そこには「他者」が必要なのである。

■ここに、大きなヒントがあるように思われる。

「自分」という意識は、自分の記憶や周りの世界への認識、身体感覚だけで作られるものではなく、「『他者』の存在」にも大きく依存するものなのではないか。

「意識は脳に宿る」という唯脳論から、身体感覚の積層というA・R・ダマシオ(『無意識の脳、自己意識の脳』)の考え方。

そこからさらに自分の肉体の殻をやぶって他者、環境へと広がっていくイメージ。

「自分」と「世界」は確かに違うものなのだけれども、そこにはハッキリとした境界がない、という物の見方だ。

 
「意識とは、一つの状態、機能の名称ではなく、異質なもののゆるやかなまとまり」

 
と著者は語る。

確かにそういうものなのかもしれない。

■さらに、著者は「意識」と「無意識」の違いへと踏み込んでいく。

「無意識」とは、自動的であたかも機械のようなものであって、多分動物にもあるもので、科学的に踏み込んで行きやすいもの。

「意識」は、とらえどころのない、ゆるやかなまとまり。

では、「無意識」と「意識」の境界線はあるか、というと、そこにもハッキリとした境界線があるわけではなく、ゆらいでいる。

フロイトのいう「前意識」に近いイメージで、それが「無意識」と「意識」のあいだにぼんやりと存在する。

■「意識」というのは、何かにに焦点をあてることであって、そのまわりにぼんやりと「意識されないもの」が拡がっている。

通常、我々が歩いているとき、常にそこに意識を集中しているわけではなく、何か考え事をしながら、なんとなーく無意識に周りを見ている。

その目の前に自転車がスッと現れた瞬間、そこに「意識」の焦点が移る。

  
「意識の周辺の背景(地)なしに、意識(図)は生じ得ない」
 

このあたりもナルホドと思わせる。

■ここにおいて、「意識」というものの全体像が浮かび上がってくる。

要するに自己の内と外、さらに無意識との境界線がハッキリとしない、とある瞬間の「状態」、ということである。

「<意識>とは何か」

という問いに対しては、そもそも明確な答えが出せない性質のものなのだ。

■けれども、「私」の中には確かに「意識」、「こころ」というものは確固として存在する。

そこに分け入って確かめることは出来ないけれども、他の人にも「意識」、「こころ」は存在し、犬や猫やイルカにも、その性質やレベルは違っても「こころ」のようなものがあるように見える。

では、その「意識」、「こころ」を人工的に作り出すことは出来るのであろうか。

■SF作家、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」ではアンドロイドのレイチェルに「こころ」のようなものが垣間見えるのであるが、果たしてそういうことは可能なのか。

見せかけだけでない、自我を、魂を持った機械というものを作り出せるのか。

答えはNOであり、YESであると思う。

■1+1=2の演算の集合である電子回路を基礎とした今のコンピューターでは、「そう見えるもの(シミュラクラ)」は作れても、自我そのものを作り出すことは出来ないであろう。

「意識」はあいまいで境界線のぼやけた「状態」であって、「解析」、「演算」では近づくことの出来ないものだからである。

近代から続く還元主義的科学がその頂点を極めた現在、その先に立ちはだかっているのも、同じく「複雑系」といわれる「あいまい」で「境界線」のぼやけたものたちなのだ。

地球の気象をスーパーコンピューターで解析、予測しようとしても、そこに現れるのはあくまでもシミュレーションの結果であって、「そのもの」ではない。

どこまでも近づくことはできるかも知れないが、決して到達することの出来ないものなのである。

■だがその一方で、我々に「意識」がある、という事実は、それを作ることが可能であることを示唆している。

 
だって、実際にあるんだもん。

作れねぇワケないだろ。
 

ということなのだが、その為には新しい概念のコンピューターが必要になるのだろう。

1+1の積み上げではなく、局所と全体がゆらぎながらも密接に関係し合う、というような複雑系的演算方式(?)を作り出すことが出来るならば、もしかすると、そこに「魂」が生まれる可能性があるのではないか。

■けれど、それでもなお、我々は「意識」を解明するには至らないであろう。

倫理を度外視してそこに踏み込んでみたとしても、

それは「私」にとって、新たな「他人」に過ぎないからである。

要はどうどうめぐりなのだ。

  

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                           <2009.12.20 記>

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■「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤
下條信輔 著 講談社現代新書 (1999/02)

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2009年12月19日 (土)

■片山右京、富士山で遭難。生きて還ることの勇気。

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■片山右京が冬の富士山で遭難し、息を引き取った仲間2人を残して下山してきたという。

そもそもが無謀な行為であったのだ。

このニュースを聞いたとき、正直そう思った。

その軽率を非難することは容易だ。

けれども、’限界を超えるチャレンジ’に甘さがあったにせよ、その場面を想像するに、そこには身を切られるような壮絶な思いがあったに違いない。

■登山には詳しくはないが、冬の早朝の河口湖でフライロッドを振っていた時期があって、そこから眺める美しい富士の笠雲の下では強風吹きずさむ地獄があるのだろうな、というそれなりの想像はつく。

その状況の中で生還した右京を責めることはあまりにも酷な気もするのだ。

実際の状況はまだ漠然としているけれども、

生きて還る勇気。

これだけは否定してはいけないことのように思うのである。

   

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■『男が人生の忘れ物に決着をつける時。』 標高8848mの世界。 野口健、チョモランマ登頂。

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2009年12月 9日 (水)

■成仏するのは誰なのか。『爆笑問題のニッポンの教養』 死生学、清水哲郎。

久しぶりの爆問学問。

今回のテーマは、死。

20091201_shimizu
■ 爆問学問『爆笑問題のニッポンの教養』(番組HPより)
FILE094:「よりよく死ぬための哲学」 2009.12.01放送
東京大学人文社会系研究科 上廣死生学講座教授 清水哲郎。

■自分はどのように死にたいか。

という話から始まり、身近でリアルな死についての対話が続く。

身近な人の死、というものは動物の死と違って、

’死んでいる’

とは言わない。

いなくなってしまった。

身体は残ってはいても、その人はもう、ここには居ない、

という。

確かにそうだ。

■大切な人がいなくなってしまう。

これほど身を切られるような悲しみは無い。

今、それを想像すると、すぐにでもそうなってしまいそうで

慌てて、その’死’のイメージを振り払う。

■けれども、それは確実にやってくる。

それを受け入れざるを得ない状況は必ずやってくる。

とても、とても、大切な人を失ってしまった。

その経験が、死別への恐怖をよりリアルなものとして

増幅させる。

■太田はいう、

お葬式っていうのは、どこか心を安堵させるものがある。

 ほら、いい表情をしているでしょう。

 皆さんがいらしてくれたのをよろこんでいるんですよ。

確かにそういう面もある。

■けれど、それはセレモニーにおける高揚感のような

一時的なものなのではないだろうか。

そのセレモニーがひと段落ついたときに、

あらためて、あのひとがいなくなってしまった

そのことに沈み込んでいくのだろう。

■初七日、四十九日、百か日。

お坊さんのお経を聞きながら、

ああ、本当にいなくなってしまったのだと

月日が経つとともに

それを受け入れるようになっていく自分がいる。

■3年経とうが、10年経とうが、

絶対に悲しみはあるのだけれども、

どこか日常のなかに溶け込んでいくような、

こころのなかに、この胸の中に

確かにいるよ、という心持ちが生まれてきて、

もしかすると成仏するのは死んだ人間ではなくて、

残された者の方にあるのではないか、

 

そんな気がするのである。

                          <2009.12.09 記>

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■どう生き どう死ぬか―現場から考える死生学
岡部 健/竹之内 裕文編他 著、 清水 哲郎 監修 弓箭書院(2009/5/7)

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2009年11月20日 (金)

■【書評】『獣の奏者』Ⅰ闘蛇編/Ⅱ王獣編、上橋菜穂子 著。群れの中の個の生き様を描く、ファンタジーの姿を借りた社会論。

NHK教育でやっているアニメ『獣の奏者エリン』の原作である。

なんだ子供向けか、と思ったら大間違い。

大人の心をグイと引き込む力強さをもった作品なのだ。

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■獣の奏者〈1〉闘蛇編 ■獣の奏者〈2〉王獣編
上橋 菜穂子 著  講談社文庫(2009/8/12)
 

■作品の世界はいかにもファンタジーらしい世界だ。

崇拝される王がいて、国を守る戦人がいる。

その戦人が操るのが’闘蛇’といわれる竜のような巨大な生物。

主人公のエリンはその闘蛇を育てる闘蛇衆の村に生まれるが生粋の闘蛇衆ではなく、緑の瞳をもつ流浪の民族、’霧の民’を母に持つ。

父は既に亡く、10歳にして目の前でその母を残酷なカタチで喪ったエリンがくじけずに成長していく、そういう物語でもある。

■だが、この物語の力強さの源泉は何かといえば、徹底したリアリズムにある。

ぬらぬらとした粘液に包まれジャコウのような甘いニオイを放つ’闘蛇’の描写から、蜂飼いのジョウンが蜜蜂の巣分けをする場面や、’闘蛇’の天敵である’王獣’のヒナとのコミュニケーションを試みるためにエリンが竪琴を改造する場面。

映像はもちろん、そのニオイ、手触り、音、といった五感のすべてにありありとした手応えをもって現れてくるのである。

そして、そのリアリズムは場面描写だけに留まらず、思わずハッとするような情け容赦のない物語の展開にも現れる。

期待する甘い期待をスパリと切り裂く鋭い刃にリアリティが宿るのである。

■さて、この物語のテーマは何であろうか。

 ― この世に生きるものが、なぜ、このように在るのか、を知りたいのです。

エリンが’獣ノ医術師’の学校の試験で、志望理由を問われたときの答えである。

わたしには、どうもこのあたりに核心があるのでは、と思うのだ。

■決して人に慣れることのないといわれていた王獣とのコミュニケーションにエリンは成功する。

では逆に、何故、何百年もの間、先達たちはひとりも王獣と対話をかわすことができなかったのか。

実は王獣を扱う為の’王獣規範’という厳格な規定があって、それに従う限り、ヒトは王獣とコミュニケーションが取れないように巧妙に仕組まれていたのだ。

■ヒトと獣が本当に分かりあうことは出来ない、そこには相手を制御するための’恐怖’が必要なのだ、とする考え方があって、王獣を制御する唯一の手段が’音無し笛’というもので、それを吹くと王獣は固まったように動けなくなってしまうのである。

それをヒトが作り上げる社会にアナロジーを求めたとき、極めて絶望的な社会の見方へとつながっていく。

■ヒトの世界には掟、戒律というものが、ある。

見えるもの、分かるものもあれば、見えぬもの、気付かぬものもある。

それらは人々が’安全’に暮らしていくために必要なものではあるが、それは同時に実は王獣に対する音無し笛のようなもので、我々のこころを縛りつけ、思考停止に陥らせているのではないか。

思考停止のまま群体として動いていくイメージ。

それを果たして生きていると言えるのであろうか、という作者の問いかけを感じてしまうのだ。

■その究極が蜂の社会であり、それを言いたいが為に、物語の前編において丁寧に丁寧にそれを描いたのではないか。

だからどうだ、とはっきり言わないのが小説の良さである。

ポンと投げたいくつかの小石が、心の水面に波紋を作り、それが重なり合いながら幾重にも拡がっていく。

そこに描かれる模様は、読み手のこれまでの人生によって変わっていくのである。

■だが、己の出自である霧の民の生き方に対して反吐が出る、と血を吐く思いで切り捨てるエリン。

そこに作者の想いが現れている、群れるな、と。

そしてそのとき、個が個として生き始めたとき、

初めて個と個が通じ合うことが出来る。

ラストシーンの感動は、その力強い希望の光なのであった。

    

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                        <2009.11.20 記>

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■獣の奏者〈1〉闘蛇編 ■獣の奏者〈2〉王獣編
上橋 菜穂子 著  講談社文庫(2009/8/12)
■続編として3巻目の<探求編>、4巻目の<完結編>が単行本で出ているけれども、1巻目の<闘蛇編>と2巻目の<王獣編>で話は完結しているので、ここで留めておくのもいいと思う。というより単行本を買うのはちと高いよね、やっぱり。
    

Photo ■獣の奏者 (3)探求編

Photo_2 ■獣の奏者 (4)完結編

 

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2009年11月14日 (土)

■【書評】『「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔』、森達也。たとえ理解不能であったとしても。

久しぶりに森達也を読む。

この人の文章は、するすると心に入ってくる。

何故だろうか。

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■「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔
森達也 著 2002/01 (角川文庫)

■本書は広報担当、荒木浩を中心に据え、地下鉄サリン事件以降のオウム真理教の内側を描いたドキュメンタリー映画『 A 』の製作記である。

テーマは、オウムの内側から社会を眺めることで日本人のメンタリティを探ること。

結果、そこに立ち上がるのはひとりひとりの人間が組織に組み込まれることで陥ってしまう思考停止。

それは地下鉄サリン事件を引き起こしながらも意識の変化が現れないオウムの信者たちの思考停止と、「社会の敵」と定義されたオウムに対して、相手もまた人間なのだという想像力を失ったマスコミを筆頭にした社会の側の思考停止、その合わせ鏡的な構図である。

■思考方法が根本的に異なる「オウム」と「社会」の狭間に立って、その通訳に当たる広報担当、荒木浩は、「言葉」が通じないその断絶の深さに苦しむ。

そしてオウムの本質を理解しようと、カメラを覗きながら、言葉を投げかけながら理解不能のその断絶の深さに苦悩する森達也。

ここにもまた合わせ鏡が存在し、けれどもその理解不能、通訳不能の苦悩があるからこそ、そこに安易なレッテル張りはなく思考停止から逃れることが出来る。

決して相手を理解できないと分かったとしても、組織を離れたひとりの人間として相手に対面したとき、共に歩いていくことが出来る。

■タイトルの「A」は、『オウム』のA、『麻原』のA、『荒木』のAでもあるのだけれども、それ以上に誰でもない、どこにでもいるA、つまり我々一人ひとりのことだ。

9.11があって、そこでもまた思考停止が蔓延し、未だに戦争状態が続いている。

オウムに限ったことではなく、この世の中、相容れない考え方をする組織同士の争いは止むことはない。

我々一人ひとりが自分のあたまで考えることの重要さに変わりは無く、相互に認め合うことの必要性という意味では、さらに大切な時代を迎えているのだと思う。
  

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                          <2009.11.14 記>

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■「A」―マスコミが報道しなかったオウムの素顔
森達也 著 2002/01 (角川文庫)

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■【DVD】A  監督 森達也 1997年
■この本を読んでいて作品の方が無性に見たくなった。
レンタル屋に置いてるかな・・・。

A2dvd
■【DVD】A2 監督 森達也 2001年

  

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2009年11月10日 (火)

■【書評】2日で人生が変わる「箱」の法則。心の戦争、心の平和。

’2日で人生が変わる’っていうのは大袈裟だけれども、確かにものの見方が少し変わったような気がする。

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■2日で人生が変わる「箱」の法則

■本書はベストセラー『自分の小さな「箱」から脱出する方法』の続編であり、かつエピソードゼロ的本である。

前作で主人公を「箱」の外に導いたルー・ハーバートが今回の主役。

犯罪に手を染めた息子が40日間の矯正キャンプに送り込まれることになるのだが、それを始めるに当たってその親を対象にした2日間のプログラムが実施される。

ルーはそのプログラムで、変わらなければならないのは息子ではなく実は自分自身だったということに、そして自分のこころを閉じ込め苦しめている「箱」の存在について自ら気付いていく、という内容だ。

■前著では、「箱」=自己欺瞞の概念の説明、そこからの脱出方法=相手を人間と見る、というところに重点を置かれていたが、今回はそれをさらに深堀りし、特に、相手を「モノ」ではなく「人間」としてみる、という方を繰り返し繰り返し説いていく。

「優越」、「当然」、「体裁」、「劣等感」。

そういった歪んだものの見方に捉われ、相手に不満をもって接するとき、人間はその相手を「モノ」として見ている。

自分と同じ血の通った人間であると感じることが出来ず、やっかいな「モノ」として扱ってしまう。

■すると相手も同じように自分を「モノ」として扱うようになり、不満が不満を呼ぶ連鎖反応が生じて人間らしい思いやりのある関係が消え去る。

心の戦争状態が生じ、安らかな心の平和が乱されてしまう。

それは家庭や職場で起きることだが、その個々人の心の荒みは民族間の憎しみ、ひいては戦争にまでつながっていく。

それを避けるためには、まず、自分自身、ひとりひとりが「箱」から出る、つまり相手をひとりの人間として捉え、その気持ちに寄り添うこと。そこからすべては始まっていくのだ。

■けれど、それはちょっときれいごと過ぎるのではないか。

そう感じたのは事実である。

世の中には理不尽な、人を人とも思わない嫌なヤツがいて、そんなきれいごとでは済まされないことだってあるだろう。

「箱」から出る=相手を思いやる、いい子ちゃんでいること。

そんなことで問題が解決するなんておとぎ話もいいところだ。

■ところが、読み進めるうちに、そうでもないか、と思えるようになってきた。

こころの中に小さな変化が生まれてきた。

本書の中で主人公のルー・ハーバートを導く役割りを担う二人の講師はユダヤ人とパレスチナ人で、しかも二人ともイスラエルでの民族間の憎悪と戦争の渦のなかで大切な人を失っている。

その二人の体験からは、その根幹に平和への祈りのようなものが流れているように感じとれるのだ。

■世の中にはどうしようもないヤツはいるものである。

こっちが自己欺瞞を乗り越え、冷静に、思いやりをもって対したとしても、そこにつけ込もうとするに違いない、酷いヤツはいる。

けれども、相手が決して変わらないとしても、それでもその相手を人間と見て思いやる。

そこに生まれるのは自分の心の平穏である。

自分の人生に言い訳をしない、真っ直ぐで澄み切った生き方である。

■親鸞がいう悪人正機説「善人なおもて成仏す。いわんや悪人や」というのは、悪人だからこそ罪を背負った苦しみの深さゆえに救われる、というものである。

だが、「救い」というものが自らの心の平穏を意味し、「成仏」とは、祈る者の心の中の悲しみや憎しみが消失することを意味するのであれば、「鬼畜のような相手」と考える自分自身の中にある苦しみ、それこそが救いの対象なのではないか。

「悪人」が救われるのではなく、「悪人」に苦しめられたこちら側の心が救われる、ということではないのか。

そんなことをぼんやりと考えてみるのである。

 

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                          <2009.11.10 記>

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■2日で人生が変わる「箱」の法則
■「自分の小さな「箱」から脱出する方法」の続編ではあるのだが、内容は独立しているのでこの本だけ読むのでもOKだと思います。

   
■関連記事■
■【書評】自分の小さな「箱」から脱出する方法。人間関係がうまくいかない根本原因はどこにあるのか。

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2009年10月10日 (土)

■【書評】自分の小さな「箱」から脱出する方法。人間関係がうまくいかない根本原因はどこにあるのか。

たった一つ、気持ちを切り替えるだけで周りの世界が違って見える。

本書は単なるハウツー本ではなく、「生き方」について気付きを与えてくれる本なのだ。

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■自分の小さな「箱」から脱出する方法
アービンジャー インスティチュート 著 大和書房 (2006/10/19)

■およそ人間関係がうまくいかない原因は、実は自分自身が相手に対して「箱」に入っているからだ、とこの本は説く。

ここでいう「箱」とは自己欺瞞、自分の気持ちを裏切ること。

例えば、失敗をした部下に対して、「何でそんな簡単なことさえ出来ないのか」、と思う、そのとき「私」は「箱」に入っている。

「私」は部下に育って欲しいと考えている、

そういう「自分の本来の気持ち」を裏切り、

「こんなにお前のことを思ってやっているのに」と、怒りの感情に流されてしまう。

■何故かというと、

「こんなにお前のことを思ってやっているのに」

と考えているときの主人公は実は「私」であり、それはそんな「立派な私」を正当化するための自己防衛的な思考となってしまうからだ。

本当に「部下に育って欲しい」と考えるならば、主人公は部下の方であって、その○○さんについて考える、その気持ちを汲み取り、関心をもつ。そのときに自然と湧き上がってくるのが本来の「私」の気持ちにそった行動なのである。

そういったことが、会社の中だけでなく、家庭でも、その他いたるところで起きていて、ギクシャクした人間関係を作り出してしまっている。

■この本では、その「箱」の概念とその驚くべき影響力の大きさ、そしてそこから脱出する方法について、主人公が学んでいくドラマ形式で語られる。

ゆえに非常に面白く、分かりやすい。

いや、むしろ「箱」について伝えるためには、講義形式では非常に困難で、読むものが自分の日常を重ね合わせることができるような形式であることが必要だったのだと思う。

なぜかならば本書のテーマ自体が、「私」と同じように血の通った「相手」にちゃんと関心を持つこと、心を向ける、そこにあったからなのではないだろうか。

■じゃあ、この本に書かれている内容を「理解」したとして、それで人生が明るく開けるか、というと、なかなかそうはいかない。

実は、この本を読んだのは3年ほど前で、その時も非常に感銘をうけて(お節介にも)、他の人に紹介までしてしまった。

それにも関わらず、今回再読してみて、自分が未だにすっぽりと「箱」に入っている現実に気付き、なんとも情けない気持ちに沈んでしまったのである。

■この本の最後の部分にも書かれているのだけれども、「箱」から出た状態を保つことは非常に難しい。

それほどまでに「箱」への誘惑は強烈で、いつの間にかまたそこに捉われてしまう。

ふと、一休さんの悟りに近いものなのかもしれないとおもう。

■「私」という洞穴から去る。

その感覚を掴んだ、とおもう間もなく、人間であるがゆえの煩悩に再び絡めとられてしまい、もとの洞穴に引き戻されてしまう。

けれども、「箱」を意識し続ける限りその洞穴の出口の光は常に目の前に開けるわけで、結局は「箱」を気に留めておく、そこに尽きるのかもしれない。

  
有漏地より 無漏地に帰る 一休み

雨ふらば降れ、風ふかば吹け

                      一休

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                          <2009.10.10 記>

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■自分の小さな「箱」から脱出する方法
■アービンジャー インスティチュート 著 大和書房 (2006/10/19)

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■2日で人生が変わる「箱」の法則
■アービンジャー インスティチュート 著 祥伝社 (2007/9/6)
エピソード・ゼロ的内容なのだそうで、現在取り寄せ中。
面白かったら改めて書評を書いてみたいとおもう。
  

■関連記事■
■【書評】『あっかんべェ一休』、坂口 尚。認めるより仕方ないじゃないか、それが今の’私’なのだから。
■ああ、半年前にも「気付いて」いたんじゃないか。
本当に情けない・・・。
と、おもう「私」もまた洞穴のなか(笑)。

   

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2009年10月 3日 (土)

■【映画評】『惑星ソラリス』、アンドレイ・タルコフスキー監督。胸を締め付ける望郷の想い。

SFというよりは芸術映画といったほうがいいだろう。

文句無く、これは名作である。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.33  『惑星ソラリス
           原題: SOLARIS
           監督: アンドレイ・タルコフスキー 公開:1972年 3月(ソ連)
       出演: ドナタス・バニオニス ナタリア・ボンダルチュク  他

     Photo ■【DVD】惑星ソラリス

■ストーリー■
海の惑星、ソラリス。どうやらその海は知性を持っているらしい。軌道上の宇宙ステーションから帰還した研究者はソラリスでの驚くべき体験を語り、その真偽を確かめるべく心理学者のクリスがソラリスへと向かう。

   
■寡黙である。

とても寡黙な作品である。

下手をすると観る者が置いてけぼりにされてしまいかねないくらい、寡黙である。

静かな情景と抑えられた表情、少ないセリフで構成されたこの作品は、消化の良すぎるハリウッド映画に慣れた眼にはあまりに退屈に映るかもしれない。

けれども、『2001年宇宙の旅』と並ぶSF映画の最高峰とまで呼ばれるにはそれだけの理由がある。

『2001年』が人類の更なる進化について語る外向きの映画とするならば、ソラリスはひたすら深く心理の奥に入り込んでいく内向きの作品である。

だから理屈は通用しない。

それを知るには、ただ体験するのみである。

   
■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■タルコフスキーの作品はほとんど見たつもりになっているのだけれど、どの作品もちょっとした映像の印象を残して記憶からスッポリと抜け落ちている。

そうか、筋書きそのものがあまり意味を持っていないのかもしれないな。

今回、改めてソラリスをみて、そう思う。

■たぶん《理解しよう》という考え自体が誤っているのだ。

タルコフスキーが表現したかったことは、頭で考えることではなく、感じることなのだ。

それゆえにスタニスワフ・レムの原作の設定である「知性のある海との邂逅」というテーマがそこに共鳴し、おおきく浮き上がってくるのだろう。

その体験は説明するものではなく、クリスの眼を通して体感するものなのだ。

■水辺があって、水草がそこに揺らいでいる。

その水辺をひとり歩くクリス。

胸にはぽっかりと穴が開いている。

10年前に自殺してしまった妻、ハリーに対する自責の念が彼をまだ苦しめている。

■そのクリスの目の前にリアルな存在としてのハリーを蘇らせたソラリスの思いは分からない。

けれども、それはクリスを、そしてハリーをも苦しめるものであった。

クリスが求めていたものは母、故郷、そして父。

それが本当の故郷であるか、ソラリスの作り出した偽りのものであるかはもう問題ではない。

そこには心の苦しみを癒してくれる何かがあるのだから。

そして、その悲しみ、苦しみは誰もがかかえているものであって、だからこそ、タルコフスキーの望郷の思いが我々にも沁みてくるのである。
  

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                           <2009.10.03 記>

■【DVD】惑星ソラリス

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■【原作】 ソラリスの陽のもとに
■スタニスワフ・レム ハヤカワ文庫SF(1977/04)
■原作の内容もすっかり忘れてしまったなあ。
実家に戻ったときにでも本棚を漁ってみるか。
  

    
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2009年9月19日 (土)

■【書評】『アサーション・トレーニング』、平木典子。主体的に生きるということ。

アサーションの本は数あれど、著者の平木典子さんは初めて日本にアサーションを紹介した人なのだそうで、日本における原典・オリジナルはこの本だということだ。

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■改訂版 アサーション・トレーニング ―さわやかな〈自己表現〉のために
平木 典子 著 日本・精神技術研究所 (2009/9/16)

■アサーション/アサーティブといえば、対人コミュニケーションで自分の主張をいかにうまく表現するか、と捉えがちなのだけれど、それを形容する『さわやかな』、というのがポイントなのだとおもう。

それは自分の気持ちを大切にすると同様に相手を尊重することであり、同時に自分の言動にちゃんと責任をとることができる、ということである。

■自分の気持ちを押さえ込めば欲求不満がぐつぐつとたまり、相手の気持ちを気にせずに自分の意見を押し通せばどこか心にしこりが残ってしまう。

このとき気持ちを押さえ込んだのも、自分の意見を押し通したのも自分自身であって決して相手の問題ではない。

『さわやか』な気持ちになるのもならないのも自分次第であって、その行動を自分で選択している限り、責任は自分にあるのだ。

自分の言動を自分で選択し、自分で受け入れたのだと認め、それに対して自分に出来ることをやる。

それが主体的に生きる、ということなのだ。

■けれども、そんなことを言ったって、世の中、相手次第のことだらけ。

自分の主張と相手の主張がうまくかみ合うとは限らない。

むしろ摩擦が発生するほうが普通のことである。

だから、それを当たり前のこととして受け止める、そしてお互いに素直な気持ちを見せ合うことが大切なのだ。

相手の気持ちを尊重し、一致しない’課題’を相手の人格から切り離してニュートラルに対峙する。

そうすれば、必ずとはいえないだろうけれども、勝ち負けに捉われるような交渉のやり方よりは話が前進する可能性は高まるだろう。

■その他、非合理的思い込みの話だとか、会話のうまい切り込み方だとか、’怒り’というやっかいな感情との付き合い方だとか、面白く、タメになる話が満載だ。

けれども、と平木さんはクギを刺す。

アサーションは自然と出来るようになることではなく、訓練が必要だ、ということだ。

だからあまり欲張らず、気になることをひとつひとつ、意識して繰り返し実践していきたいと思う。

と、いって上手くいくほど簡単ではないのだけれども。

   

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                        <2008.09.19 記>

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平木 典子 著 日本・精神技術研究所 (2009/9/16)
    

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