●つぶやき

2012年7月 3日 (火)

■呪縛。

認めたくはないが、自分の仕事人生は失敗。

そこを認めないと先には進めない。

いや、先に進む必要なんてないさ。

仕事だけが人生じゃないよ。

 

と、言いつつ未だにこだわっている自分がいる。

やっぱり、認めたくない。

骨身に沁み込んだ、序列根性。

ああ苦しい、どうしたらこの呪縛から逃れられるのか。

                      <2012.07.03 記>

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2010年8月 4日 (水)

■15453粒の砂山。

一日、一日生きている。

その日に生きた証しをひとつの砂粒として数えたならば、

ここに15453粒からなる砂山がある。

 

とても小さな砂山だ。

ひと粒、またひと粒と、

変わらぬ毎日の分だけ。

ちいとも変わらないつまらん砂山。

 

けれど、ある日、ある一粒が、

小さな雪崩を引き起こす。

少し頂きの高さは減っただろうか。

もとの高さに戻るまで

あと幾にち砂粒を数えなければならんのか。

 

けれどその時、

その小さな砂山のすそ野は確実に広がっている。

気づかない程わずかではあるが確かに広がっている。

 

それは

この後の千粒、万粒が頂きを高くする、

その準備なのである。

                     <2010.08.04記>

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2010年7月31日 (土)

■勇気。

― 道 ―

この道を行けば どうなるものか 

危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 

踏み出せば 

その一足が道となり 

その一足が道となる   

迷わず行けよ 行けば分かるさ 

― 編集:アントニオ猪木 

  原典:清沢哲夫『無常断章』 「道」(・・・らしい)

   

元ネタは一休宗純だという説もあるが、

そんなことはどうでもいい。

これほど勇気をもらえる言葉はない。

                   <2010.07.31 記>

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2010年7月29日 (木)

■無いものねだりと自己否定。

目標を高く持つのはいいことだ。

けれども、自分の出来る範囲を大きく逸脱して

一気にそこにたどり着こうというのは

チャレンジでもなんでもなくて

無いものねだりというものだろう。

 

結局、その無謀な試みは達成されるはずもなく

自信喪失から自己否定へと

負のスパイラルに入っていってしまう。

  

このままではイカンともがけばもがくほど

必要以上に力んでしまって

さらに失敗、自信喪失、自己嫌悪。

その繰り返し。

 

どこかで正のスパイラルに転換しなければ。

 

それは、結局はアサーションの問題なんだろう。

つくづく、自分は苦手だな、と思う。

  

小さいことから、自分の出来ることからやってみる。

或いは、例えどんなに小さなことであっても出来たことから、

自分を認めてあげてみる。

それが、こころの安定、ひいては人間関係の安定にも

つながっていくのだろう。

 

私の自己否定のクセはガキのころから染みついたもので

急には変われるものではないと自覚している。

それ故に、意識して訓練、訓練。

そして自己信頼から生まれる自然なスマイルなのである。

                       <2010.07.29 記>

■【書評】『アサーション・トレーニング』、平木典子。主体的に生きるということ。
http://soko-tama.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-327d.html

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2010年7月28日 (水)

■何のために働くのか。

20歳の若造でもなし、

なぜ、そんな問いを立てるのか。

いや、

あの頃はもう、その日を生きるのに精いっぱい。

それどころじゃなかったし、

今の自分にしたって

もし、けつまづくことがなかったら

息も絶え絶え、問うことも知らず、

まだ走り続けていたのかもしれない。

  

立ち止まってしまったことが悲劇なのか。

 

改めて走り始めるその助走のなかでつぶやいている。

なぜ、俺は走るのか。

 

やりがいを求めて?

居場所を求めて?

食っていくため?

養っていくため?

 

そのひとつひとつを引っぺがしていったときに

何か確かなものがあるだろうなんて信じちゃいない。

むしろそのひとつひとつのすべてが正しくて、

そのモザイク模様それ自体がその時の正解。

 

ふん、何をわかったようなことを。

ただ走るのがめんどくさくなっただけなんだろう。

走ることから逃れたくなっただけなんだろう。

  

走るのに理屈はいらない。

ただ走る、働く、という行為があるのみ。

四の五の御託を並べるヒマがあったら

さあ、走れはしれ!

 

と、もとの道に戻っていくのも一つの手ではあるだろう。

けれど、またこの道を20年も走るのかと思うと

目の前に広がる長い道のりを前に

くらくらしてしまう。

  

生きていくためには走らなきゃいけないことも、

特別な才覚のない凡庸な自分にはこの道しかないことも

分かっている。

 

そうやって、

明日も重たい足をひきずりながら

惰性という名の思考停止で乗り切っていく。

そのうち、この問いも消えていくことだろう。

だから今夜ここに書き留めておこう。

何のために働くのか!!

                        <2010.07.28 記>

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2010年7月26日 (月)

■正気を保ち続けるために。

廃品回収業者の声が聞こえる。

仕事をさぼって

夕涼み。

     

                      <2010.07.26記>

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