■【映画評】『ブレードランナー2049』 わたしの大切なこの記憶こそが現実(real)なのだ。
ラストシーンを見終わったあと、じんわりと、ゆっくりと、静かな幸福感に包まれていく。。。
●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
No.113 『ブレードランナー2049』
原題:Blade Runner 2049
公開:2017年10月
監督: ドゥニ・ヴィルヌーヴ 製作総指揮
: リドリー・スコット
出演: ライアン・ゴズリング
ハリソン・フォード
アナ・デ・アルマス 他
■あらすじ■
デッカードがレイチェルを連れ失踪してから30年の月日が流れた。
謎の大停電によりほぼすべての情報が消失し、真実が見えなくなった世界。
自分自身もレプリカントであるブレードランナー”K”は、あるレプリカントを追ってそれが住む荒野の一軒家にたどり着く。しかし、それが大きな枯れ木の下に埋めていたものの衝撃的な秘密が、世界を、そしてK自身の存在をも揺るがすものに拡大していく。
■1982年のブレードランナー公開から35年。
私も中学生から50前のジジイになった。
はっきり言えば不安があった。
あの大好きな『ブレードランナー』がどうなってしまうのか。
しかし、それは杞憂どころか、予想を遥かに超えた幸福として降り注いだ。
ドゥニがどれだけブレードランナーを愛しているか、世界中のブレードランナーファンには痛いほどよくわかる。
金曜の公開日に見て7日目、そろそろ熟成してきたので、なんとか文字としてその感動を記してみたいと思う。
■ブレードランナーといえば何といっても、シド・ミードがデザインし、ダグラス・トランブルが視覚効果を担当し、リドリー・スコットが見事に作り上げた映像美である。
今回のドゥニ・ヴィルヌーブ監督と撮影のロジャー・ディーキンスは、序盤で見事にそれを再現し、さらには荒涼たる赤いラスベガスの見事な’イメージ’を見せつけてくれた。
’もや’をコントロールする見事な空気遠近法が、リドリー・スコット的映像にさらなる奥行きを与え、あの’映像の魔術師’の後継者としてドゥニ・ヴィルヌーブは、映画『メッセージ』での衝撃以上のものを、むしろ安心感としてわれわれに与えてくれる。
その違和感のなさが、前作からの延長としての163分のこの物語に深く没入することを可能にしているのだ。
■音楽のハンス・ジマーはパイレーツ・オブ・カリビアンを手掛けた人だけれども、リドリー・スコットとはブラック・レインやグラディエータ―での付き合いもあって、ヴァンゲリスが構築したブレードランナーの世界観を美しく再現している。
比較静かなシーンにドーンと響く重低音の効果が強烈で、これもブレードランナーと共通することだけれども、映画館だと極めて強烈。爆音上映だと、いったいどうなってしまうのだろうか。
■今回の原案と脚本は、前作でも脚本を務めたハンプトン・ファンチャー。
現在79歳。
その高齢でこのプロットを書き上げたのだから恐れ入る。
前作と同じくハードボイルドタッチだが、『ブレードランナー』で、逃げる女を背中から撃ち殺し、レイチェルに関係を強要する粗野なハリソン・フォードに対して、今回のライアン・ゴズリングは知的で影をまとった優男であり、複雑な物語をしっかりと牽引していく。
ハリソン・フォードとショーン・ヤングの組み合わせは、かなり観客を突き放した存在だったが、ライアン・ゴズリングとアナ・デ・アルマスの組み合わせは、深く我々の感情移入を許すので、そのあたりが、『ブレードランナー』と『ブレードランナー2049』の作品の方向性の大きな違いとして挙げることが出来るだろう。
『ブレードランナー』の硬質な感じはあれでいいし、今回の『ブレードランナー2049』のプロットはこれでなければ成り立たない。
■さて、天才科学者ウォレス(ジャレッド・レト)である。
今回の『ブレードランナー2049』で一番懸念していたのは、『プロメテウス』、『エイリアン:コヴェナント』という『エイリアン』前日譚でリドリー・スコットが語りだした”神”についてのテーマだ。
制作総指揮のリドリー・スコットが話をそっちに持って行ってしまうのではないか、人が個人として持つ根源的不安について語るはずのブレードランナーに、人類全体の進化とかそういうヴィジョンを持ち込んでしまうのではないか、という心配だったのである。
その役割を担うのがウォレスである。
彼は、タイレル博士の後継者でありながら、タイレル博士がロイ・バッティに見せた息子に対するような人間性は一切みせない。
生み出したレプリカントとは決して同じ地平には立とうとしないのである。
これこそが神の立ち位置だ。
彼が盲目であることは、逆説的にすべてを見通せるという印象を我々に与え、ジャレッド・レトの演技によって完成する。
腹心をつとめるラブ(なんと象徴的な名前だろう)は、最後まで決してウォレスを裏切らないが、そこにある畏れ(恐れではない)は、まさに神に対する愛。
創造主に対する、われわれが使う【愛】とはまったく異なる【Love】なのである。
しかし、見終わってみれば、神であるウォレスはKに対する対照的存在に過ぎないことがわかる。
あくまでも『ブレードランナー』は『ブレードランナー』であり続け、「リドリーさん、趣味に走らないでありがとう」と、われわれは深く胸を撫でおろす。
■では、この映画のテーマは何か。
原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で、P・K・ディックは、人間を定義づける者は何か?というテーマを提示した。
1982年の『ブレードランナー』(及び最終版、ファイナルカット)では、出来事の外側からリドリー・スコットらしい語らずの語りとして、それを描こうと試みた。
そして、今回の『ブレードランナー2049』はKの内側の物語として再び『ブレードランナー』を語ることで、われわれの心に感情としてそのテーマを忍ばせてくる。
これ以上語るとネタバレになるので言えないのだけれども、前半部分ですでにイメージとしてそれは示されている。
■Kが処分するネクサス8型アンドロイド、サッパー・モートンの農場の風景は、静謐なソ連の映像作家アンドレイ・タルコフスキーの世界そのものであり、ぽつんと立つ枯れた木と家を燃やすシーンはもう明らかに彼の遺作となった『サクリファイス』(1986)へのオマージュだ。
『ブレードランナー』から引き継いだ、人間とは何か?というテーマに対するドゥニ・ヴィルヌーブの回答は、サッパー・モートンという存在を通してしっかりと刻み込まれている。
タルコフスキーは語っている。
《この分かたれた世界で人が人といかにして理解しあえるのか? 互いにゆずりあうことでしか可能でないでしょう。自らをささげ、犠牲とすることのできない人間には、もはや何もたよるべきものがないのです。
私自身が犠牲をなしうるか?
それは答えにくい事です。私にもできないことでしょうけれども、そうなれるようにしたいと思います。それを実現できずに死を迎えるのは実に悲しい事でしょう》
以下、ネタバレに入ります。
宇宙イチかわいい、アナ・デ・アルマスちゃんの写真のあとにネタバレに入りますので、必ず鑑賞後に先へとお進みください。
ああ、アナちゃん♥
■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■
■『ブレードランナー』のディレクターズカットである最終版で示された驚愕の疑問が、「デッカードがレプリカントなのかどうか」というテーマである。
例の「ユニコーンの夢」と、ふたりの逃亡を許したガフが残す折り紙が示唆するもの。
今回その答えが示された。
Kと対峙したときにデッカードが見せる屈強な戦闘能力。
高濃度の放射能にも耐えうる肉体。
基本、レイチェルと同時に試作されたレプリカントであることは間違いないだろう。
『ブレードランナー』でタイレル博士はロイ・バッティに対し、寿命を延ばす方法はない、と断言した。それをもってデッカードがここまで長生きするはずがない、という説があるがそれは誤りだ。
それはレプリカントが生まれた後に修正できないという話であって、そもそも4年の寿命はレプリカントが自我を持つ危険にたいする単なるリミッターに過ぎなかったことを思い出そう。その後、生殖可能な究極のレプリカントとしてデッカードとレイチェルが生み出され、互いに引き合うように巧みに誘導されたとみていい。
物語上欠番に見える「ネクサス7型」こそがデッカードとレイチェルなのだ。
では、デッカードがレプリカントだった、というのが「結論」なのか?
いや、そうではない。
■この映画のテーマは「人間とは何か?」である。
単にデッカードがレプリカントであったかどうかということは問うてはいないのだ。
ポイントは、デッカードが娘に掘った動物が、何故「ユニコーン」ではなく、「馬」だったのか。という点にある。
ユニコーンは空想上の動物であり、デッカードの夢の中にしか住むことはできない。
その夢が、デッカードをして自分が人間なのか、それともレイチェルのように記憶を植え付けられたレプリカントなのかと思い悩ませたはずだ。
あたかも原作におけるフィル・レッシュのように。
では、出産でレイチェルを失ったデッカードは娘に何を見たのか。
それは目の前の現実だ。
レプリカントであろうが、人間だろうがそんなことには意味はない。
自分の生み出した一つの命がそこにある。
その「現実(real)」がデッカード自身を解放し、悪夢として自分を苦しめる一角獣からツノをもぎ取ったカタチとして、馬を彫りだしたのだ。
これから生きていく娘の記憶は現実であり、その象徴であり、賛歌ともいえる。
■ウォレスたちに捕えられたデッカードは、アイデンティティを揺さぶられつつも
I know the real....
というセリフで対抗する。
自分の記憶は模造品かもしれないが、生き生きとした現実だ。
模造だろうが、本物だろうが、そこに意味などない。
わたしの記憶こそが現実(real)なのだ。
そんなデッカードに、形ばかりのコピーのレイチェルなどまったく通用するはずがない。
レイチェルの瞳は緑だった。
現実に緑だったかどうかが問題なのではない、デッカードの記憶、思い出の中のレイチェルの瞳の色が問題なのだ。
原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』では、最後のさいごにデッカードは「生きた本物の動物」へのこだわりを捨てて機械仕掛けのヒキガエルにも愛情を覚えるようになる。
そして疲れ切った体をベッドに横たえ、情調オルガンの助けを借りずに安らかに寝息を立てる。
本物か、偽物かを決めるのは自分自身であるという地平にデッカードは、やっとたどり着いたのだ。
映画『ブレードランナー』でのデッカードは、この続編をもって、やっと原作のラストの平穏に迎えられるのである。
■Kについてはどうだろう。
レイチェルの遺体が埋めてあった木の根元に刻まれた「6 10 21」の文字。これは自分の記憶の中の木彫りの馬の裏に刻まれた日付と完全に一致する。
そのことが、レイチェルが生殖可能なレプリカントであるというこの世界を揺るがす秘密であることを超えて、K自身の存在を揺さぶるのだ。
デッカードを探すべく、かつての同僚だったガフを探し当て、話を聞き出そうとするシーンで、ガフが作った折り紙は羊であった。
単純な解釈で言えば、これは原作の電気羊を意味するものだろう。
’K’の由来は原作のフィリップ・K・ディックのミドルネームだと考えればすんなりとたどり着く。
しかし、もう一歩踏み込むならば、世界で初めてのクローン動物である羊のドリーに思い当たるだろう。
羊の折り紙が意味するものは、模造品である、と同時に、Kが(比喩的な意味での)クローンであるという示唆なのである。
■自分の記憶が作られたものなのか、本物の記憶なのかを確かめるべく、Kはレプリカントの記憶製作者であるアナ・ステリン博士のもとを訪ねる。
観ている最中はこのシーンはカットしても良くないかな、なんて考えてたんだけど、とんでもない。
Kの記憶を覗き見たアナ・ステリンの涙。
まさか、そんな伏線になっているなんて思いもしない。
Kともども完璧にやられてしまいました。
レプリカントの反抗組織のリーダーに、
「あなた、まだ自分が奇跡の子供じゃないって気づいてないの?だれでも自分がヒーローだって信じていたいもんね。」
なんて感じの極めて意地悪なセリフを吐かれる。
ここで、ああ、と絶望するのだ。
思い返せば、同じDNAの女と男。
どちらかがコピーだったということだ。(DNAが同じというのはもちろん記録上の問題で実際にアナ・ステリンとKのDNAが同じだということではない)
ここでガフが作った羊の折り紙が、コピー羊のドリーであり、Kの運命を示しているということにつながっていくのである。
ああ、なんという絶望。
■しかも最悪なことに、これまでKを支えてきたジョイはラブに踏みつぶされ、もうこの世にはいない。
データでしか存在しないジョイは、しかしながら、Kにとっては現実だ。
つねにKに寄り添い、示唆を与える存在。
作り物ではない、その自我によって、データリンクを自ら切断し、「死」の可能性を受け入れることで「自由」を手にしたジョイ。
そしてその死は、Kを本当の生へと導く。
ジョイはそういう意味で、Kの中の魂か形となって現われた存在だったのかもしれない。
■Kはラブからデッカードを守り抜き、父を娘のところへといざなう。
Kの記憶は、コピーでしかなかったけれども、だからこそ、その記憶を大切に守りたかった。
それは父と娘が静かな幸せを取り戻すことで完結する。
それを成し遂げ、満たされながら降りかかる雪のなか、静かに大地へと身をゆだねるK。
ヴァンゲリスのティアーズ・イン・レインが流れ、自然とKの姿が前作でのロイ・バッティ―が死にゆくシーンと重なって見える。
前作を愛するものは、ここで流れる涙を止めるすべはないだろう。
I've seen things you people wouldn't believe.
Attack ships on fire off the shoulder of Orion.
I've watched c-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate.
All those ... moments will be lost in time, like tears...in rain.
Time to die…
… そんな記憶もみな、時とともに消えてしまう
雨の中の涙のように…
死ぬときがきた …
ロイ・バッティは死にゆく間際に目の前の「生命」をいつくしんだ。
限られた生だからこそ、命がいとおしい。
その想いはKへと引き継がれ、ロイ・バッティと同じ祝福に包まれながら、その生を閉じるのだ。
雨の中の涙のように。。。。
手のひらに淡く溶ける雪のように。。。。
<2017.11.03 記>
■【蛇足1.】
この社会の秩序を守ろうとしたマダムは、何故かラブと知り合いのようだった。
前日譚のショートムービーをみると多少わかるのかもしれないけれど、それはあとでのお楽しみにしよう。
さて、レプリカントの反抗組織は残ったし、ウォレスは健在だ。
続編をつくる余地は完璧にある。
ウォレスの組織、反攻組織、そして秩序を維持しようとする勢力。
なんだかもう、そういうのは『ブレードランナー』ではない。
こんな難解で、しかもさらに難解な35年前の前作を見ないと深く理解できない作品は大ヒットはしないだろうから、本当にそっとしておいて欲しいものだ。
■【蛇足 2.】
小雪が降りかかる中、死にゆくKがあおむけになって何かをつぶやくよね。
このシーンを観ているときは、もうロイ・バッティばかりが頭のなかを占めていて、ぼろぼろと涙を流しながら、一緒になって
Time, to die....
って一緒になってつぶやいてたんだけど、
落ち着いて考えるとたぶん違うよね。
なんて言ってたのか気になってしょうがない。
シナリオにあったのか、ゴズリングのアドリブなのか。
たぶん後者だろうけれど、ネタバレになるからしばらくこれは明かされないんだろうな。
ブルーレイの特典映像とかまで待つのかな。。。。
うーん、もう一回観に行って確かめてこよう。たぶん分からないだろうけど(笑)。
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■【ブレードランナー】。暗闇を切り裂く光。人間らしさとは何か。
■【原作】P・K・ディック 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
【原作】アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
(ハヤカワ文庫 SF (229)) 文庫 – 1977/3/1
【DVD】『ブレードランナー』製作25周年記念
アルティメット・コレクターズ・エディション(5枚組み) [DVD]
【文庫】〈映画の見方〉がわかる本
ブレードランナーの未来世紀 (新潮文庫)
2017/10/28
町山 智浩 (著)
■STAFF■
監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ
脚本 ハンプトン・ファンチャー
マイケル・グリーン
原案 ハンプトン・ファンチャー
原作、キャラクター創造
フィリップ・K・ディック
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
製作 アンドリュー・A・コソーヴ
ブロデリック・ジョンソン
バッド・ヨーキン
シンシア・サイクスシンシア・サイクス・ヨーキン
製作総指揮 リドリー・スコット
ティム・ギャンブル
フランク・ギストラ
イェール・バディック
ヴァル・ヒル
ビル・カラッロ
音楽 ハンス・ジマー
ベンジャミン・ウォルフィッシュ
撮影 ロジャー・ディーキンス
編集 ジョー・ウォーカー
製作会社 アルコン・エンターテインメント
スコット・フリー・プロダクションズ
■CAST■
K / ジョー - ライアン・ゴズリング
リック・デッカード - ハリソン・フォード
ジョイ - アナ・デ・アルマス
ラヴ - シルヴィア・フークス
ジョシ警部補(マダム) - ロビン・ライト
マリエット - マッケンジー・デイヴィス
アナ・ステリン博士 - カーラ・ジュリ
ミスター・コットン - レニー・ジェームズ
サッパー・モートン - デイヴ・バウティスタ
ニアンダー・ウォレス - ジャレッド・レト
ココ - デヴィッド・ダストマルチャン
ドク・バジャー - バーカッド・アブディ
フレイザ - ヒアム・アッバス
ナンデス - ウッド・ハリス
ファイル係 - トーマス・レマルキス
レイチェル - ショーン・ヤング
ガフ - エドワード・ジェームズ・オルモス
■【小ネタ】Kはロボット刑事♪
Wikipediaより
企画時の作品タイトルは『ロボット刑事K2』。その後、主人公の名前が変更されて「ロボット刑事J(ジョー)」となり、最終的にタイトルは『ロボット刑事』に決定した。Kの愛車の名が「ジョーカー」なのは、その名残である。
・・・Kにジョーという名前をつけたジョイは、相当な特撮オタクと見た♪
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