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2017年8月 3日 (木)

■【書評】『いま世界の哲学者が考えていること』 岡本裕一郎著。【哲学】は最早、現代には通用しないのか。

現代において、いろいろな局面で構造的変化が起きようとしている。それを今の哲学者たちがどう読み解いているのか、それを俯瞰することで時代を読み解く頭を整理する。そういう本である。


【単行本】いま世界の哲学者が考えていること 岡本 裕一朗 (著)

■ポスト構造主義以降の哲学については、日本では断片的にしか情報が入ってこないし、残念ながら日本を舞台に最先端の哲学が展開していく状況にないからとてもありがたい本だ。

ヨーロッパのポスト構造主義とアメリカ、イギリスの分析主義を超えて、カントから始まる従来の相対主義を克服する「実在論的転回」、ポスト構造主義の根幹である言語論的転回をツールに拡大する「メディア・技術論的転回」、科学的視座から神経学、物理学の延長として心を取り扱う「自然主義的転回」。この3つの軸で現在の哲学が進んでいるのだという。

「実在論的転回」には仏教的な、もっというと禅の思想を感じるし、「メディア・技術論的転回」は意識が肉体から道具に延長されることは日々の実感であるし、「自然主義的転回」はまさにこのブログでも追及していることだからその流れは体感している。思想のための思想から、実学としての哲学が帰ってきたような印象であり、わくわくする。

■さて、現代の哲学の概観をなでる第一章に続いて、本論に入る。

以下章立てで、「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」、「資本主義」、「宗教」、「環境問題」についての具体的状況を語っていく。

あとがきにもあるが、著者は結論を導くのではなく、そこで繰り広げられる思想的アプローチを多面的に紹介し、それぞれに対する疑問をなげかけるにとどめる。

それは読み手の思索を励起し、読んでいてとても楽しい。

ただ、ITとかバイオテクノロジーとか地球温暖化とかいったときに、著者が先の宣言に反してレイ・カーツワイルの幾何級数的技術の進化や環境問題に対する「コペンハーゲン・コンセンサス」をそのまま取り上げていて、そこに本書の限界も感じられる。

著者は思想史の専門家であって、科学的思考には少し疎いように見受けられる。だから権威の言うことに、しかもそこにそれらしいデータとかグラフをつけられれば信じるしかない。

■さらに言うならば、著者は【哲学者】でもない。

哲学者は真理の探究者である。その基本スタンスは疑うことだ。

われわれが信じていることを解体し、論理的に再構築して、この世界を説明する。それが哲学者、というのがわたしの理解だ。

この本で、「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」、「資本主義」、「宗教」、「環境問題」にかかわる【思想】をなでるわけだが、ニュースになるような表層的問題にとらわれていて、【本質】には触れることはない。

例えば、「ITと人工知能」ならば、機械とそこに流されるソフトウエアに【わたし】という自我が生じるのか、という問題から、【自我】に関する21世紀の哲学を語らねばならないし、ネットとビッグデータによる管理、監視社会の問題なら、【社会】とはなにか、についての本質論が今どうなっているかを語らねばならない。

しかし、語られるのは、技術論であったり、脳科学であったり、社会問題について、つまり具体的で個別の問題なのである。

果たしてこれは【哲学】なのだろうか。

著者は日本の大学の哲学科で学ぶのはデカルトの何々論についての研究とかばかりで、自分の哲学を構築しないと批判しながら、哲学とはそもそも何なのか、何を語るものなのかという根本が決定的にずれているように思えるのだ。
 
第一章の21世紀の哲学の現状での新しい切り口で、現代の課題の論点の奥にある真理を浮かび上がらせる、そういう展開を期待したのだけれど、残念ながら、そういう深みにはほぼ踏み込めていない。

■【社会思想】と【哲学】はあきらかに違う。

前者は、【その社会において何を信じるか】を問うものであり、後者は、【そんな社会、うそだから】と嘲笑うものだからだ。

もっというと、前者は【ある価値観】を前提にしており、後者は【その前提を覆す】ことに意味を置く。

前者は、ある前提の地平のなかでの議論だが、後者は、その前提となる地平から離れた次元からの視点で物事を眺めようとする。

この宇宙を知るためには、この宇宙を抜け出してメタ的な視点から見るしかない。

それが哲学なのであって、第二章以降の各論において決定的に欠落しているのはそこなのだ。

いくら多面的な思想を提示したところで、この大地を離れない限りコペルニクスにはなれないのである。

■第一章でわくわくしたのは、著者が「実在論的転回」、「メディア・技術論的転回」、「自然主義的転回」という3つの切り口を提示して、ならば世界はどう変わるか、最先端の哲学者たちはどういう世界を、どういう宇宙を見ているのか、というそこなのだ。

デカルトが「わたし」という主観しか信じられない!といって、そこからスタートしたのに対し、その主観から始まる世界があるのと同時に絶対的な世界も実在するのだというのが「実在論的転回」ならば、それが示すのは【わたし】がいない世界だ。

禅語に【山是山水是水】ということばがある。

悟りに至らない段階では、山は山としか、水は水にしか見えない。 しかし、本来無一物の境地に至ると、一切が無差別平等となり、山は山でなく、水も水でなくなってしまう。 さらに修行が深まって悟りの心さえも消え去ってしまうと、山が山として水が水として新鮮に蘇ってくる。

我々は【山】という言葉、概念で山を見る。

けれどそこには現実の【山】はない。

現実の【山】は、【わたし】の外にあるからだ。

【山】という言葉が、概念が、われわれを縛るならば、インターネットという新しい【言語】を得たわれわれが見ている【山】は、【世界】はどう変容したのか。

「メディア・技術論的転回」という切り口が示すのは、そこである。

「自然主義的転回」が示すのは、ニュートン的物理学で宇宙は整然と説明できるという【幻想】の打破である。従来の、要素を分解してその関係性を記述するやり方では【生命】や【心】などの複雑系は記述できない。

だからこそ量子論とかネットワーク論とか、そういう関係性そのものに注目する最近の科学があたらしい【世界】を見せるツールになるのだ。

■そういう視点で各論を見ていこう。

「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」については、究極を言えば、【どこまでが’わたし’なのか】、という問い立てを避けられないはずだ。

ネットワークで世界に広がった【わたし】、ソフトウエアの中に発生した【わたし】、細胞から再生されたわたしの外の【わたし】。

そういった規格外の【わたし】が現実となった現在、世界の哲学者は【わたし】をどう再定義しているのか。

フーコー、ドゥルーズの視点は示され、社会から監視、監禁される人間から、データとして分解され管理される人間への変容、概念としての従来的「人間の終わり」について語られる。

あとは、あれはいいこと、これは悪いことという価値観のはなしで、ハーバマスの自然発生と人為が混乱することで起きる「自己」への影響、その前提となるハンナ・アレントの「出生性」が面白いくらい。

確かに善悪とか道徳というのが論点になるのだけど、これがいい、いやだめだ、という論争はすでに社会的前提によって支配されているわけで、そこが【思想】的であって、【哲学】的でないのだ。

結局、このあたりの話題はまだ整理されていない、ということなのだろうか。

■「資本主義」、「宗教」については、文系的概念の話題だからか、【常識】を疑い、再定義するという意味で哲学的であり、そこそこに議論が整理されている。

【格差】が問題だというけれど、本当?それって【不平等はいかん】という価値観に縛られてるだけでしょ?実は、お金なんて生きていくのに十分にあればいいんでしょ。というフランクファートの「十分性の学説」。

個々の意志を尊重したときに発生する矛盾から、自由主義は原理的に成り立たないことを示したアマルティア・センの「自由主義のパラドクス」。

「ハイパーグローバリゼーション」と「民主政治」と「国民国家」が同時には成り立たない。取り得る道は、①「ハイパーグローバリゼーション」と「民主政治」による【世界連邦制】、②「ハイパーグローバリゼーション」と「国民国家」による【ネオリベラリズム】、③「民主政治」と「国民国家」による【賢いグローバリゼーション】の3つしかないと喝破したダニ・ロドニック。

西洋近代が合理主義による【世界の脱魔術化】だと説いたマックス・ウェーバー。実際にわれわれは近代を「脱宗教」、「世俗化」の過程だと思っている。

それを「第一の近代化」として、現代を「第二の近代化」つまり、<「自分自身の神」をもつ宗教の個人化><多様な宗教に寛容なコスモポリタン化>による【世界の再魔術化】の過程として定義したウルリッヒ・ベック。

【宗教】と【科学】の機能は重ならないとしたグールドと、それを批判して【神】を妄想だと反証したドーキンス。

【宗教】を自然現象ととらえ、科学的解析の対象としてそこから生まれる「陶酔、呪縛」から逃れる方法を探ろうとするダニエル・デネット。

それに対し、【国家】が存在することを科学で説明できないからといって超自然現象といえるのか?として、すべてを自然科学で説明することはできないと反論したマルクス・ガブリエル。

やはり、この手の概念的話には【哲学】は親和性があるようで、いい悪いの価値観を超えた論理展開に、こちらの思索もずんずん励起されて面白い。

■で、一番がっかりするのが最終章の「環境問題」だ。

どうもこの章は、そもそもの【地球環境問題】というテーマを幻想だと退けようとする意図が見えてしまう。

中立であろうとするこれまでの著者の立場が突然崩れるのだ。

環境問題についての立場は【キリスト教的人間中心主義】と【環境的価値に重きを置く生態系主義】の対立として捉えられる。まずは問題をそこに据える。

けれど、そこでの対立を別の次元で統合しようとして環境を経済的貨幣価値に変換したロバート・コスタンザにしても、それは経済という一元論だとして「リスク評価」で考えるべきだとしたウルリッヒ・ベックにしても、やっていることは【哲学】ではなく、【最適化】論であるがゆえに、根本的転換には至らない。

ベアード・キャリコットの近代科学を前提とした人間中心主義からポストモダンの科学(相対性理論、量子論、進化論、生態学)に基づく環境倫理への転換も紹介されるが(私は発想自体には違和感を感じないのだが)著者はポストモダンは時代遅れで説得力がないと自ら退ける。

で、そもそも【地球環境問題】という【終末論】は幻想である、という逃げに走るのだ。

しかもビョルン・ロンボルグの「コペンハーゲン・コンセンサス」なる政策の優先順位で環境問題の評価が低いと、これはノーベル経済学賞をうけた一流の研究者たちがまとめた内容であると鼻を膨らませる。

いやいや、IPCCも国連も手放しに信じるべきではないけれど、同じように「コペンハーゲン・コンセンサス」も手放しで信じるべきではないだろう。

言いたいのは「疑うこと」だというのは分かるけれども、あまりにも論理がお粗末で、それが最終章だというところに悲しさすら感じてしまった。

■結局のところ「何がいいのか」、「何が大切なのか」という【価値観】という物差しを棄てない限り新しい地平は開けない。

「実在論的転回」、「メディア・技術論的転回」、「自然主義的転回」というツールを整備しておきながらも、「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」、「環境問題」という人類が直面している重要課題については【哲学】は何も語ることができないのかと暗澹たる気分になる。

著者はこれだけの膨大な世界の最新の思想を読み込んでいて、それでもなお、【哲学】をもってそれらを切り裂くことができないのだ。

やはり、【哲学】の世界は閉塞してしまっているのだろうか。

あるいは、【科学】と【哲学】があまりにも乖離してしまったことが不幸なのか。

【科学】と【哲学】が同じ地平にいたギリシャの時代の素朴さに一旦帰ってもいいのかもしれない。

                         <2017.08.03 記>

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