■【書評・哲学】『あなたの人生の物語』から、時間と自由意志について考えてみる。
テッド・チャンの『あなたの人生の物語』を読んだら、なんとも哲学したくなってしまったので、作品に対する書評は短編集のすべてを読み終えてからにするとして、久しぶりに思考の森に分け入ってみようと思う。
■この作品は、エイリアンであるヘプタポッドが使う言語を言語学者の主人公が学ぶうちに、時間を超越した認知を獲得する話である。大事なのは、そこで主人公が見つめる自分の「確定した未来」へのいとしさなのだけれども、それを演出するSFとしての道具立ては「時間を超越した認知を導く言語」とその背景にある「変分原理」という物理法則である。
このSF的道具立てに注目したとき、「時間」と「自由意志」についての深い思索に思わず導かれてしまうのだ。
■1.時間について
通常の我々の現在の常識では、時間は過去、現在、未来へと一方向に、しかも一定の速さで流れていくものである。
幼い頃から日々時計を見ながら育ち、学生になって物理学で初めに学ぶのは、初速50km/hで投げ上げたボールは、何秒後に同じ場所に落ちてくるか、というような「時間」を物差しとしたものの見方だ。
投げ上げたボールの初速を上げれば人工衛星になり、さらに速度を上げれば地球の重力を振り切って、太陽を中心とした楕円軌道に乗るだろう。
我々が認識する太陽系だとか、銀河系だとか、そういった宇宙の広大な世界は、高校一年生で学ぶ、「時間」を基準とした物語の上に成り立っているのだ。
アインシュタインが時間は相対的なものである、と言ったとしても、なかなか実感としてそれを認知することはできない。
■しかし、ヘプタポッドは「時間は一方向に流れる」という常識をわれわれ地球人から取り払おうとする。
ヘプタポッドが見る世界はわれわれが一般に用いる「ニュートン力学」ではなく、「変分原理」あるいは「最小作用の原理」よばれるものによって構築されているらしい。
運動の時間変化は作用積分が最小となる軌跡を選びながら進む。
なんのことやらわからないが、どうやらニュートン力学的な「初期値と時間」による世界の記述ではなく、「全体を見たときの最小値」が現れるという時間をものさしとしない世界観のようだ。
時間というものを座標軸として認識し、それを含んだ座標系を俯瞰することができれば、過去とか未来とか、そういう見方ではなく、この時間ではこう、この時間ではこう、という時間の流れの束縛から独立した見方が可能になる。
ヘプタポッドは、「過去」と、「現在」と、「未来」を同じ目線で眺めているのだ。
■時間に関する哲学的問題として、未来、および、過去はあるのか?という問いがある。
結論から言えば、我々の認知を基準に考えれば、過去も未来も、「今、ここ」にある意識に映る影に過ぎないが故に、その実在を証明することはできない。
その「影」とは「概念」であり、我々の意識が言語を道具として作り上げたものだ。
例えば、柴犬のポチは見通しのたたない明日を苦にして睡眠障害に陥るだろうか、庭の植木鉢をひっくり返した過去の失敗を悶々と悔やみ続けるだろうか。
いや、柴犬のポチにあるのは「今、ここ」だけなのだ。
たとえ、昨日の失敗を気にしているように見えたとしても、それは見ている飼い主の意識に映る幻影であって、ポチは飼い主の態度を見て反応しているだけに違いない。
なぜならば、ポチには「過去」とか「未来」という「概念」を認知する「言語」による抽象概念の構築ができないからだ。
ポチに「過去」とか「未来」が存在しないのならば、何故この世に「過去」とか「未来」が存在すると言い切れるのか。
ポチが投げたボールをジャンピングキャッチするとき、彼は運動方程式を解いているわけではない。経験から瞬時に運動を把握して落下点でジャンプする。そこに一定の速度で流れる時間(t)は必要ないのだ。
■それでも、われわれにとって「過去」も「未来」も、ありありと実在するように見える。
幻影は認知できる限りにおいて実在なのだ。
そういう意味では「過去」も「未来」も存在する。
しかしながらそれは、単にわれわれが生きていく上で「便利」だからであって、決して絶対的な真理として時間が存在しているわけではない、ということだ。
『あなたの人生の物語』でテッド・チャンが示したヴィジョンは、われわれの認知と別の認知体系においては、「時間の流れ」を絶対的なものとしなくても世界を把握できるのだ、という可能性を示して見せている。
そこがこの作品をSFとして極めて華麗なものにしているのである。
■2.自由意志について
この物語では、主人公の女性言語学者がヘプタポッドBと呼ばれる言語(文字)をマスターすることによって、未来を認識できるようになる。
そこで問題になるのは、「未来」を知ったとして、主人公がその未来につながらない行動をとる「自由意志」があるならば、「未来」は確定しない、というパラドックスだ。
この問題について、テッド・チャンは明確な回答を示すことはなく、「未来」を知ったものが使命感のようなもので突き動かされる、と今までの論理の構築に比べると拍子抜けするほどにぬるい仮説を述べるにとどまってしまう。
もしヘプタポッドたちが見ている世界が、未来と現在を区別することなく認知することで広がるものであるならば、現在の「私」は未来に縛られていて自由意志など存在しない、自由意志は錯覚で、後付けの「使命感」のようなもので片付けられる、ということになる。
それは本当だろうか。
■果たして自由意志はあるのか。
人間には?犬には?魚には?みみずには?ゾウリムシには?石には?
そう考えていくと、自由意志というものは普遍的に存在するものではないのだろう。
自由意志とは、時間感覚と同じように、人間の意識が生んだツールか、もしくは副産物、たぶんその両方なのだろう。
リベットの『マインドタイム』を読めば見えてくる話だが、人は自分の行動を時間的にさかのぼって、自分の意志で行ったと錯覚する。『マインドタイム』で実証されるのはクルマの前にボールが転がってきたときのような反射行動だが、ゆっくりと時間をかけて熟考した行動というものについても、それが後付けでないという証拠はない。
むしろ、「変分原理」、「最小作用の原理」が示しているのは、現象は因果関係とは別の原理で説明がつくということであり、自由意志があろうがなかろうが、そこで現れる現象は最小値に収まるということだ。
■これはいわゆる決定論とは違う。
決定論の文脈の中にはまだ過去から未来への流れが存在していて、私が過去にいる時点の未来がすでに決まっている、という論である限り、この話とは別なのだ。
実は未来は確定していなくてもいい。
量子論的に多数の未来を同時に抱えているといってもいい。
その中から最小値が選び出され、我々はその「最小値」が「未来」であったと、未来における「今、ここ」で認識するのだ。
その固定されるであろう「未来」があって、それを選択する行動を「今、ここ」の私がとる。
時間をリニアにとらえる世界観では、それを因果関係と呼び、そこに自由意志がある、という。
変分原理に基づく世界観では、結果と呼ばれる「未来」に向かった「今、ここ」の行動がある、という。
同じ現象の言い方を変えただけのことであり、結論を言えば、時間を軸に進む我々の認知の世界では自由意志はあるけれども、もしそれが無かったとしても世の中の説明はつく、ということだ。
■大切なのは、「今、ここ」の行動と「未来」の結果は、並列であり、セットだということだ。
「今、ここ」の行動が違えば、「未来」の結果も違うものになる。
それは常にセットで動く。
『あなたの人生の物語』では、決まった未来のヴィジョンを受け取り、主人公は意識的にそれに沿った行動をとるのだけれど、これではパラドックスを抱えたままである。実はテッド・チャンはまだ自らが否定して見せた「時間」と「因果関係」に縛られている。
だから「未来」を固定した瞬間に、自由意志が失われる矛盾に襲われるのだ。
「今、ここ」の主体の意識が「未来」を知ったとき、というのは「今、ここ」の現象に過ぎない。
ヘプタポッドの世界における「今、ここ」の主体は「未来」と同じ地平にあるのだ。
■われわれの意識は「今、ここ」でしかないのだから、ヘプタポッドの世界にわれわれの意識の入り込む余地はない。
それはどういうことか。
意識を語るために我々の「時間の一方向性」と「因果関係」が支配する世界でみるならば、100%実体のある「未来」が多数同時に存在している、とするのが量子論だ。
観測者がそれを「見る」という「今、ここ」の行動が選ばれた瞬間に「未来」の結果が一つに定まる。
「わたし」という主体が持つ意識はひとつの像しか結ぶことができない。青酸カリを仕込まれた箱の中にいる、生きているシュレディンガーの猫と死んでいるシュレディンガーの猫を同時に認知することはできないのだ。
もし、行動を起こす前の「今、ここ」の主体の意識が、「今、ここ」でないその先の「未来」にも同時に存在するのであれば、量子論的な多数の未来、多元宇宙の広がりを認知しているということになる。
そうすると、「わたし」は、「今、ここ」で感じている世界と同時に複数の宇宙に存在し、それを俯瞰しているということになり、それはもはや人間の視野などではなく、この宇宙の上位存在である「神」の視野をもつことになってしまう。
そういう意味でヘプタポッドがわれわれと同じ意味での「意識」を持つならば、われわれの世界を語る小説の作者のような意味での「神」なのだ。
■だから、ヘプタポッドBを習得したルイーズが認知する「未来」は常に一つだけであり、取り得る行動も、その「未来」とセットとなる「行動」ひとつに絞られる。
ルイーズが「未来」の量子論的広がりをありありと認知することはなく、意識は常に「今、ここ」に限定され、唯一の「未来」に向かった「最小作用」を選び取る。
それはテッド・チャンのいう「使命感」などで決まるものではなく、「最小作用の原理」に従った数学的帰着なのである。
ルイーズに「今、ここ」の意識はあったとしても、そこにはもはや「自由意志」は存在しない。
■もしかすると量子コンピューターにはそれの認知が可能なのかもしれない。
が、我々が「認知」できないものを「認知」出来ているかどうかを「認知」するというのは概念的には可能かもしれないが、それがどういうことかというのは実感としてありありと理解することは不可能だろう。
けれど、光合成のプロセスが「最小作用の原理」によってあらかじめ最適値を知っているかのようなふるまいを見せることとか、われわれの「意識」というものがシナプスのつながりという物質的なものによってつくられるのではなく、ネットワーク上のゆらぎのように立ち現れえるように見えることとかを考えてみると、実は、われわれの基盤である「生体」というものはヘプタポッド世界的存在なのかもしれない。
この物語のルイーズがもしヘプタポッドBの完全な理解に至り、「生体」の原理原則を覗き見るヘプタポッド世界に入っていくとするならばどうだろう。
その、われわれを構成する原理を理解するというその行為は、あたかも小説の中の主人公が自らを描いた小説そのものの成り立ちや構造を前にして立ちすくむような、まるで(わたしが大好きな)『ソフィーの世界』が提示した恐怖を思い起こさせる。
それはまさに人類の進化であり、人が神になる物語だ。そして、『あなたの人生の物語』の映画版である『メッセージ』で提示された3000年後の未来に向けて「ヘプタポッドが人類を進化させる」という意味も極めて明確になってくるのである。
■結論
1.時間の流れという意味で、「過去」も「未来」もわれわれが作り出した道具に過ぎず、確かに存在する、と言えるのは「わたし」という主体が認知する「今、ここ」だけである。なお「わたし」という主体がない場合は「今、ここ」も存在することはない。あるのは時間的広がりだけである。
2.自由意志はあるという言い方もできるし、ないという言い方もできる。「時間の一方向性」や「因果関係」を軸に世界を見るか、「最小作用の原理」を軸に世界を見るかの違いに過ぎず、確かな存在かどうか、という論点にはならない。
以上。
<2017.07.13記>
■<映画評>【メッセージ】「言語」の持つ力と「物語」が出会うとき。
■【マインド・タイム】身体は意識より0.5秒先行する!?B・リベット
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