■【書評】『悪の正体 修羅場からのサバイバル護身論』、佐藤優。「悪」に名前をつけることの危うさについて。
ロシア連邦初代大統領エリツィン。その腹心を務めたブルブリスとの逸話を語ったプロローグに引き込まれた。実際に歴史に立ち会った人間の話は迫力が違う。
■1993年。エリツィン大統領派と最高会議派との対立は、最高会議派の武装反乱に至り、エリツィンはこれを武力を持って鎮圧する。分裂と内乱がロシア全土に拡大するのを阻止するためとはいえ、そのためには何百人もの同胞の血を必要とした。
エリツィンも、実際にこの鎮圧の指揮を執ったであろうブルブリスも、そこに「罪」を意識する。
これもまた、佐藤優の言う「悪」のカタチだ。
プロテスタントは(ロシア人はプロテスタントではないけれど)、その罪によって楽園を追い出された人間は原理的に過ちしか「悪」しか為すことができないと考える。
では佐藤の言う「悪」とはいったい何なのか。
■悪は直接に体験されるものである。と佐藤はラッセルの『悪魔の系譜』を引用する。
娘が殴られ、老人が襲われ、子供が犯される一方、テロリストは飛行中のジェット機を爆破し、偉大な国家は一般市民の居住地に爆弾を投下する。個人的にも社会的にも狂気にとらわれていない者なら、こうした行為に対して、すぐさま正当な怒りをつのらせるだろう。赤ん坊が打ちすえられるのを目にして、倫理観につらつら思いをはせたりはしない。もっとも根本的なレヴェルにおいて、悪は抽象的なものではないのだ。現実的かつ具体的なものにほかならない。
ラッセルはその上で、世の中には3つの種類の悪があるという。
一つは、人が故意に他者を苦しめるときに発生する悪。
一つは、自然が人にもたらす悪。
もう一つは、完全性が欠如している(神=善が損なわれている)という悪。
最後のひとつは明らかにキリスト教的な考え方であるけれども、自然災害がもたらす悲劇もまた「悪」だとする観点は、すべてを創造した神にとって人間はやはり特別な存在であるという意識を内在しており、これもまたキリスト教的で、「怒り」と「実り」の両方をもたらしてくれる自然という感覚をもった日本人とはやはり違うのだな、と思う。
佐藤はキリスト教徒であると同時にもちろん日本人であり、本書もその心情にそった展開をする。
人が他人を苦しめる悪はもちろん取り上げるのだが、自然がもたらす悪についても、そこから展開する人災(原発事故)や、社会に関わる悪(いじめ)へと転換していく。
その意味で、この本で扱う「悪」とは、人によってなされ相手に苦痛をもたらす具体的な行為を伴う悪、ということができる。
■佐藤優は国際政治のスペシャリスト。
外務省のロシアの専門家であり、その後、鈴木宗男議員事件に連座する形で512日の拘留、執行猶予付きの有罪判決を受けた人物である。
その罪とは国後島ディーゼル発電施設の入札に関与した罪、イスラエル学会に支援を行った罪であり、極めて政治的な色が濃いものである。
日頃の著作ではあまり強くは語らないけれども、佐藤はプロテスタント神学を学んだキリスト教徒だ。
国家公務員として国益に反することを行ったと二年近い期間拘留されるその彼の胸中で何かが育ったのは間違いないだろう。
けれどもそれは社会への復讐ではなく、啓蒙という形となった。
受けるより与える方が幸いである (使徒言行録、第20章35節)
「知る」ことの強さを語る、その背後には、「知って欲しい」という祈りが込められているようにも思える。
■その佐藤はなぜ今、「悪」を取り上げたのか。
それは今の日本人が「悪に鈍感になっている」という危機意識である。
悪に鈍感な人間は、人に対して悪をおこなっているのにその意識がない。
自分の行為が相手を苦しめていてもその自覚がない。それは、個人的な行為についてもいえるのだけれども、社会として集合的に行われる行為、たとえば沖縄・辺野古の基地移設問題についての我々の鈍感さとして表れてくる。
SNSの無責任な投稿から始まり、弱者への社会的圧力への無関心に至る「悪」の蔓延に、強い憂いをもったのだろうと想像するに難くない。
■具体的な「悪」への処方箋が示されるわけではない。
大事なのは「知る」ことである。
「知る」とは「カタチ」を認識することである。
失楽園でのアダムやイヴのついた嘘や責任転嫁から始まり、資本主義とその究極のカタチである新自由主義が構造的に内包する「悪」に至る、具体的な「悪」の物語は、「悪」に対して感度が低くなってしまった我々に対して、「悪」がどういうカタチを伴って我々の周りに、そして我々のなかに立ち現れてくるのかを教えてくれる。
それを直ちに消し去ることはできないにしても、「知る」ことは重要なことなのである。
■しかしながら逆の言い方をするならば、むしろ、それが「悪」を生む、ということもできるかもしれない。
自らの外に「悪」を認識することは、「憎しみ」を生じさせる。
自らの中に「悪」を認識することは、「苦しみ」を生じさせる。
諸刃の剣だ。
そこにキリスト教的なキマジメさが感じ取れる。
プロローグで語られたブルブリスにしても、自らの行為が悪であると認識していようがしていまいが、人を殺めるという行為には変わりはない。
悪に自覚的であるならば、それは却って手加減のないものになってしまうかもしれない。
十字軍にせよ、原爆投下にせよ、IS掃討にせよ、キリスト教徒による自覚的「悪」ほど恐ろしいものはない。
佐藤優が生きてきた西洋のパワーポリティクスの世界は、確かにそういう原理で動いているのだろう。
■他人の悲しみや苦しみに感度を高めるということに対してはまったく異論はない。
人の痛みを感じる共感こそが、人間の人間たるゆえんである。
けれども、そこに「悪」や、より具体的なカタチの「悪魔」を見出すことは果たして我々に幸福をもたらすのであろうか。
仏教では、すべてを因果のなせる業であると説く。
他人から与えられる理不尽な行為も、 人知を超えた天災も、そこでは等価であり、天を恨むことが無駄であるように、人を恨んでも仕方がない。
いやいや、そんなに人間は割り切れるものではない。
相手が人間であると認識した瞬間、他人の「悪意」を感じたとき、我々の心は激烈な恨みにさらされる。
しかし、その自分の復讐心のなかに、なにかカタルシスのようなものを覚えたとき、相手に報復している自分の姿に喜びを感じてしまったとき、底知れぬ恐怖を感じるのである。
私のなかにこそ悪魔がいるのだと。
■それもこれも、「悪」を認識するというところから始まっているのではないか。
すべての苦しみは、怒り、妬み、悲しみ、そういったものは、不公平だとかも含んだ「悪」によって成り立っているのではないか。
怒りや、妬み、悲しみは自然な感情である。
けれども、そこに火をつけて燃え下がらせるものがあるとするならば、それは「悪」の定義づけなのではないか。それは、「悪」の対極である「善」を正当化させることによって激しく燃え盛る性質をもっているからだ。
■人が生き物である限り、日々何かを犠牲にして生きている。
それは食料となる生き物なしには生きていけない(ベジタリアン諸君!植物ももちろん生物だよ!)。生き物は生まれながらにして生きていくことを目的として生きている。それは植物にしても、動物にしても、もちろんわれわれ人間にしても同じである。
その「生きるべくして」生まれた生命の犠牲の上に我々は生きている。
そして社会という仕組みを動かすなかでは、不公平な苦労を背負わされる人が出てくるのも必定で、不公平なんてのは当然にしてあるものである。
もちろん、不公平は決してあってはならない、なんて声高に正論を述べる人もいるだろうが、本当にそう信じているのであれば極めておめでたい人なのだろう。ある意味幸せなひとだ。その人たちは自分たちだけで幸せな原始の森に帰ればいい。(いや、戻れるものなら私も縄文時代に戻りたいのだが!)
■言いたいことは、図らずもプロテスタントと同じ答えで、我々は生まれながらにして「悪」を抱えて生きているということだ。
問題なのは、それを忌むべき「悪」ととらえるか、われわれの「性質」ととらえるかの違いなのだ。
「悪」は対局となる「善」を生み、対立と争いの種となる。
「性質」は、分析を可能にし、それをコントロールする科学を生む。
ならば、われわれが進むべき道は明らかだろう。
「悪」に悪魔の名前をつけてはいけない。
その瞬間に、我々は「善」や「神」に呪われるからだ。
怒りや、妬み、悲しみを生む「それ」を、それとしてそのまま理解すること。
それが、人が幸福の道を歩む方向性なのではないか、
この本で「悪」について、つらつらと考えた結果たどりついた仮説は、いまのところそういうところだ。
結論は永遠に出ないのだろうけれど。
<2017.07.02 記>
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