■【社会】「高度プロフェッショナル制度」という名の残業ゼロ代法案を連合が容認。資本主義の前提が崩れたいま、24時間戦う意味はあるのか?問題は残業代ではなく、われわれの生存権を脅かす「残業時間規制なし」にあるのだ。
安倍晋三首相と連合の神津里季生(こうづりきお)会長は十三日、官邸で会談し、収入が高い一部の専門職を労働時間規制の対象から外す「残業代ゼロ」制度(高度プロフェッショナル制度)の創設を柱とする労働基準法改正案を修正する方向で一致した。
連合は修正により労働者の健康を守る措置などを強化する代わりに、制度を事実上容認した。修正後も時間でなく成果で賃金を払う改正案の骨格は維持され、成果を出すまで過重労働を強いられるとの懸念は変わらない。連合が容認に転じたことには過労死遺族に加えて、連合内部からも反発が出ている。
「残業代ゼロ」制度は、年収1,075万円以上の金融ディーラーや研究開発などの専門職が対象。神津氏は首相との会談で「年間104日以上かつ4週間を通じて4日以上の休日確保」の義務化を求めた。 ―2017.07.14中日新聞朝刊
■対象となるのは、年収1000万越えの人だということだけど、なぜ1000万円かの具体的定義(上位0.5%とか、物価に対する比率とか)がないから、いつでも下げられるよね。
金融ディーラーや研究開発などの専門職といってるけど、派遣法の流れをみてみれば、拡大傾向はまぬがれないだろう。
■問題は、この法案の狙いである。
要するに、この国での働き方をどうしたいか、ということだ。
背景には残業時間上限規制があるのだろう。
その趣旨は
【働く人の心身の健康を守るために、仕事時間の効率化を図り、残業時間ゼロをめざす。】
というものであったはずだ。
そこから考えれば、今回の『「残業代ゼロ」制度(高度プロフェッショナル制度)』の狙いは、
1.「残業時間上限規制」の対象外の労働者を設けることで、不足した労働力を維持、確保し、企業の国際競争力の低下を防ぐ。
2.そのうえで、残業代の増加による経営負担の増加を防ぐ。
ということであるのは明白だ。
結局、労使、国ともに、バブル時代に流行った「24時間戦えますか」というリゲインのCMの思想から一歩も外に出ていないということだ。
■フランスやドイツの企業(自動車しか知らんけど)は6時を過ぎればほとんど誰もいなくなり、8時にはオフィスはロックされる。週末の金曜日なんかは4時には人がまばらになる。
日本でもノー残業デーなんかをやったりするけど、部課長層は「お前ら、とっとと帰りなさい」というけれど、自分はしっかり残業しているし、土曜日も当たり前のように出社している。
じゃあ、ルノーもメルセデスもフォルクスワーゲンも(最近、排ガス疑惑とかがあるにしても)企業として凋落しているかといえば、しっかりと儲けを出しているのである。
その根本的違いは、働く側のプロ意識にある、ヨーロッパにおいては働くものが自らの管理者である、というのが、彼らと一緒に仕事をして感じたことである。
日本人がなぜ残業をするかといえば、パターンは3つだろう。
・まわりが仕事しているから帰ることが出来ない。
・残業代をもらうことで今の生活を維持したい。
・仕事が山ほどあって終わらない。逆に残業すればするほど成果があがる。
みんなが残業をしなくなれば1番目は解消できるが、その「みんなが残業をしなくなる」という状態に持っていくこと自体にハードルがある。
■2番目はかなりやっかいで「給料」は「儲け」から発生するものだ、という考えがまったくなくて、本来の「労働」の意味がねじれてしまっている。
農業では、いくら働いたところで作物が出来て、それが売れないことには収入がない。
労働が「価値」を生み出すことで「利益」がもらえるのが道理なのだ。
でも、給与労働者というのは(わたしもそうだけれど)、どうしても「既得権益」という感覚にとらわれてしまう。
では農業との差は何か、と問われれば、農家は自己裁量で労働ができるが、給与労働者はその自己裁量がない、働く時間も、経営方針も自由にはならないところだ。
つまり「安定」を得るために「労働」を売り渡している。
実際、現代の「経営」と「労働者」が分離した社会においては、売り渡した「時間」の対価を「お金」で払う、というは正しく、われわれ「労働者」は、その考え方で守られている。
だから、生活のために残業をして余裕のある給料をもらうのは、ある意味うまいやり方だ。
■バブルの時代までは、誰しも働けば働くほど「商品」は売れて、経営も潤い、働いた時間だけの対価は得ることが出来た。(サービス残業があったとしても、それなりにもらえていた)
けれど、今の時代はいくら働いても「利益」が生み出しにくい状況にある。資本主義の前提が崩れたというのはそういうことだ。
蜜月の時代はとうに終わっているのだ。
業績で利益が出ないならば、「経営」は「労働」による支出を抑えるしかない。
それがブラック企業が蔓延する理由であり、それによっていまのデフレが維持されている構図だ。
社会が「払う金などない」といっているのだから、「労働者」が得る金も絞られ、こんどはその「労働者」が「消費者」という社会の構成員として、「払う金などない」という側にまわる負のスパイラルである。
そんななかで、社会構造の変化を無視した理不尽な「経営」によって、「働いても働いても成果が出ない」とプレッシャーをかけられて過労死が多発するという事態を生み、日本国憲法第25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という概念に基づき、残業時間上限上限規制が出てきたということだ。
もはや事態は生存権が侵されるレベルにまで及んでいて、「残業代をもらうことで今の生活を維持したい。」などという過去の幻想が通じる時代ではないのだ。
とはいっても、このままでは負のスパイラルが進展するばかりだから何かの逆転の機構を働かせて、ここから脱出する道を探らなければならない。
すくなくとも「時間」=「対価」という構図は壊れていくことになるだろう。
■では、3つめの
「仕事が山ほどあって終わらない。逆に残業すればするほど成果があがる。」という考え方はどうだろうか。
すでにそこそこの給料がもらえていて生活自体に問題はなく、仕事にやりがいとか認められたいとか、そういうことを求めている人がこのタイプだろう。
しばらく前の私もこのタイプであったと思う。
いわゆる猛烈というやつで、バブル最終組のくせに、バブル以前の働き方に血道をあげていたと少し恥ずかしい。
働けば働くほど利益がでる、という資本主義が機能していた時代には、かなりのパワーを発揮する姿勢だと思う。
だからこそ、日本はヨーロッパを追い抜いてアメリカに肉薄する「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代を築いたのである。
■けれど、もうそれは25年前に終わっているのだ。
それでも、われわれはその戦闘手法を変えてこなかった。
構造はとっくに変わっていたのだが、この25年のIT革命で時間を巻き上げ、スピードを格段に上げることによってしのいできた。
25年前に職場には報告書作成用マッキントッシュ・クラッシック一台だけだったものが、一人一台のウインドウズ端末が当たり前になっている。
CADもパソコンもネット環境も格段の進歩を遂げた。
私が所属していた自動車開発業界でいうならば、25年前に一週間かけてやっていた仕事は、いまや半日で出来てしまう。
けれど精密に状況が見えてきてしまう分、こなさなければならない仕事は膨大になり、つねに効率化のスピードは仕事の増加に追い越され続ける、自分の仕事をこなす時間さえままならないのに一日数百件のメールと30分刻みで放り込まれるスケジューラに追い立てられる毎日。モロボシ・ダンではないが、「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」なのである。
「仕事が山ほどあって終わらない。逆に残業すればするほど成果があがる。」
メディアに出る頭のいいIT企業の社長とかの有名人たちは、そういう仕事のやり方はセンスがない、能力がない、というけれども、こういうマラソンを続ける限りにおいて、それは真実なのである。
けれど、くやしいけれど、頭のいい人たちの言うとおり、なのだろう。このマラソンは勝ち目のない消耗戦に突入しているのだから。
■その一方で、フォルクスワーゲンをはじめとする欧州企業は息を吹き返した。
しかも、彼らは残業はしない。
「働けば働くほど利益がでる」という思想ではなく、「やるべきことをやる」というプロの姿勢をもっているのだ。
そこには「個人」があって、自分が獲得している「能力」を売る、という姿勢であり、ただ「時間」を売るというわれわれの姿勢とは根本的に異なるのである。
ヨーロッパ礼賛でもないし、彼らの姿勢がこれからの資本主義崩壊の世界で必ずしもうまく機能していくとも思えない。
けれど、少なくとも、盲目的に「時間」で解決しようとするやり方が限界に達しているのは事実であり、学ぶべきことはあるだろう。
各個人が自分の能力を自分の頭で考えて、「自分にできることをやる」という働き方である。
仕事は降ってくるものではなく、自分で選ぶという考え方だ。
これは万人に当てはまるものではないだろう。
ある一定の専門能力が要求される。
そういう意味で、今回の「残業代ゼロ」制度(高度プロフェッショナル制度)の対象となるのは、そういう仕事なのだ。
■だとすると、今回の「残業時間上限規制」と「高度プロフェッショナル制度」を2本柱とする労働基準法改正は、適切だということになる。
けれど、それは初めに考察した「高度プロフェッショナル制度」から透けて見える考えである、
1.「残業時間上限規制」の対象外の労働者を設けることで、不足した労働力を維持、確保し、企業の国際競争力の低下を防ぐ。
2.そのうえで、残業代の増加による経営負担の増加を防ぐ。
という、まだ「時間」=「価値」の概念にとどまった考え方と矛盾する。
マスコミとか、弁護士団体は「残業代ゼロ」を問題にするのだが、そこがそもそも問題の本質から外れているのだと思う。
この矛盾の本質は、「時間」=「価値」の概念にあり、マスコミも弁護士団体も、資本主義が機能していた時代のこの概念に縛られているのだ。
■労働によって「価値」を生みながら、労働者の「生存権」を保証する。
それが、今回の労働基準法改正の目指すべきところなのではないか。
だとするならば、問題は「高度プロフェッショナル制度」の対象者の「残業時間」が規制されないこと自体にある。
それなりの基本給があるならば、彼らに残業代は不要である。
それが年収1000万円でも、400万円でも、彼ら自身が自分の「能力」をその値段で売ると契約するのであれば、問題はないだろう。
けれど、日本国憲法で規定された「生存権」を侵すことは、それが市井の労働者であろうと、年収1000万円のプロフェッショナルでも、決してあってはならないことである。
日本国民だれもが等しく持っている権利なのだ。
現在、部長や課長といった管理職は、この「生存権」を侵されている。
法律上は、経営に参画する「監督管理者」にのみ適用される内容である。経営者が時間管理されないのは、農業従事者や自営業者が時間管理されないのと同じで、論理的にあたりまえのことである。
けれども、それが取締役でもない部課長層に適用されているのは実は違法なのではないか。
「生存権」を保証するための「残業時間制限」こそが、当面、打てる手だてなのではないか。
だから、「高度プロフェッショナル制度」の対象者の残業時間規制が、とても重要なことなのである。
■なんで成果を上げないんだ、という理不尽なパワハラは労働基準法にはなじまないから、継続して別の手法を考えなければならないだろう。
「修正後も時間でなく成果で賃金を払う改正案の骨格は維持され、成果を出すまで過重労働を強いられるとの懸念は変わらない。」
という声があると新聞記事は指摘しているが、ヨーロッパのように自立した個人が自分の能力を企業に売る、という姿勢であれば、そんなブラック企業はとっとと退社して、自分の能力が発揮できる会社に移ればいいのだ。
それが日本で難しいのは、終身雇用を前提とした社会の仕組みにあるわけで、社会ができることは、それを「くだらない会社にしがみついて生き残る策を講じる」ことではなく、能力のある個人が自由に働くことの出来る構造を作り上げることなのだと思う。
■この記事を書き始めたときは、安倍政権におもねった連合を批判するつもりであったが、思いかけず同じ結論にたどり着いてしまった。
連合が提示した「高度プロフェッショナル制度」の対象者の時間管理というのは、とても重要な、本質を突いた提言なのである。
なんだよ、よく考えてるじゃないか。
やっと追いついたよ。
連合の神津会長は、もっとしっかり説明するべきだ。
これじゃあ、論理的な議論ができず、「安倍政権に反対だから、反対なのだ」としか言わない連中を勢いづかせるばかりである。
創造的議論ができない彼らに、本質的対策が打てるはずもなく、だらだらと現状維持が続くだけで、不幸は一向に解消しないだろう。
それでは電通の自殺者たちも浮かばれまい。
毎日のようにどこかで電車が止まる事態も防げない。
世の中の仕組みが変わったのだから、社会も変わらなければならない。
大切なのは、ひとりひとり、全員の「生存権」を守ることだ。
それが「経済」の語源である経世済民の意味である。
<2017.07.18 記>
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