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2017年7月

2017年7月21日 (金)

■【社会】上西小百合議員と笹原雄一秘書がTBSのビビット生出演。これって炎上商法に対する便乗商法だよねえ。

っていっても、見ちゃうんだけどね。

もう、

キタワァ*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!  って感じ。

20170721uenishi

■とりあえず、今回はこのツイートで炎上商法みたいだね。

浦和酷い負けかた。親善試合は遊びなのかな。
2017年Jul15日 21:01

サッカーの応援しているだけのくせに、なんかやった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ。
2017年Jul16日 20:02

■ツマンネ。

と思って、この人あんまり気にしてなかったんだけど、朝からテリー伊藤が吠えてたから、つい見ちまった。

途中から、アクシデントっぽく笹原秘書も参加して、台本通りなんだろうけど、もう二人の関係が面白くてチャンネル変えられなくなっちゃった。

TBSの思うつぼ。。。(泣)。・゚・(ノД`)

■でもやっぱ、「アホの子をみんなでいじめるの図」って楽しいよね。

まだ現役議員だから「水に落ちた犬」ではないからね。

僕らの税金で暮らしてるんだし、もともと当選2回とも比例復活だから、だれも直接上西議員を選んだわけでもない。

本来なら比例当選なんだから維新の会を除名された時点で議員辞職すべき人なんだけど、本人はまだまだ政治家気どりだからね、こういう厚顔無恥な人間をイジメるのって、ほんとに楽しい。

それをうまくショウアップしたTBSがうまい。

品性は下劣だけど。

テリー伊藤も、上西議員の品格を云々いってたけど、こんな番組で「いじめゲーム」に参加してるあなたの品性も相当に下劣だよ。それを見てこんなくだらない記事を書いてる僕もそう(笑)。

まあ、上西議員が当選しようが、落選しようが、国政には全く影響がないから、安心してみてられるし、まじめに考える話じゃない。

安心して下品を楽しめる話ではある。

みんなわかっててやってるからなあ、やっぱり日本は平和だよねえ。

 

いや、でもさ、国民ファーストの会なんてのが出来て、来年の総選挙で候補議員をかき集めるとしたら、こういう「アホの子」が山ほど当選するんだろうね。

そっちの方がこわいな。。。((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

                   <2017.07.21 記>

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2017年7月19日 (水)

■【航空機】第5世代戦闘機T-50/PAK FA。ロシアの戦闘機って、やっぱりかっこいい!戦闘機の正義って「かっこよさ」なんだよなあ。

18日、航空ショー「国際航空宇宙サロン」がモスクワ郊外のジュコフスキーの飛行場で始まった。第5世代戦闘機T-50/PAK FAも出てますよー!

というわけで、改めてPAK FAを見ていきたいと思う。

20170719pakfatenji

■T-50/PAK FAはロシアのスホーイが開発中のステルス戦闘機。ステルス性能はもちろん、スーパークルーズ能力、アクティブ電子走査アレイ(AESA)レーダーと人工知能システム、ヘルメットマウントディスプレイを装備する。ノズルもSu-37でも採用された推力偏向式(スラストベクタリング)。まさに最新鋭の戦闘機だ。

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上面から見ると、機首からエアインテーク上面にかけてのシルエットがF-22みたいだけど、角度を変えるとずいぶんと印象が違う。

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コクピットは上にせり出し、インテーク上面にはLEVCON(Leading Edge Vortex CONtroller:前縁渦流制御装置)と呼ばれるストレーキが設定されている。

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一方のF-22は極限のステルス性能を目指したのだろう、極めてのっぺりとした印象だ。

この違いはどこから来るのかといえば、PAK FAはあきらかに近接格闘戦を意識しているということなのだろう。

Su-27フランカー、Mig-35ファルクラムMは鶴首が特徴的で、PAK FAもステルスとしてそこまでの鶴首はないにせよ、パイロットの視界はかなり良さそうだ。

ヘルメットマウントディスプレイなら、そんなのいらんだろ、という気もするが、それでも直接視界にこだわる頑固な姿勢が、なんともこころを揺さぶるのである。

■そして、なんといってもエアインテーク前のストレーキである。

インテグレートされたカナード翼にも見えてかっこいいのだけれど、機能としてはもちろん、機動時にエンジンへの流入空気が前縁で剥離して推力が低下することを防止するものだ。

スラストベクトリングと合わせて高機動をかなり意識しているのだろう。

現代の空戦は艦船も含めたレーダーシステムと複数の航空機による大規模なデータリンクをもとに、目視圏外からの長距離ミサイルで決まるといわれている。

そういう意味では、近接空戦能力にこだわってどうするんだ、という気もする。

■けれど、それって寂しいよね。

戦闘機はドックファイトをやってこそ、「かっこいい」のである。

いやいや、F-22もなかなかのもんだよ、ということなのかもしれないが、それが「カタチ」に現れていないから、物足りないのだ。

PAK FAの「カタチ」をみていると、プガチョフ・コブラやクルビットが出来なきゃいかんよね、というある種のバカバカしささえ感じてしまう。

そこがいいのだ。

兵器としての「強さ」はある意味どうでもいい。

兵器の「かっこよさ」は、その合理性にあるとは思うのだけれど、こと戦闘機に関しては「戦争に勝つ」ことよりも、すごいマニューバーに「かっこいい」がある。

プガチョフ・コブラとか、そんなに速度落としたら、敵の僚機がいたならば「カモ」になるんじゃないか、という心配をしてしまうのだけれど、面白ければそんなことはどうでもいいのである。

ロシア人とは一度しか会話したことがないからよくわからないのだけれど、イギリス人に言わせると、奴らの運転をみてるとホントにクレイジーだぜ、ということらしく、ロシアの戦闘機のかっこよさって、そういうクレイジーがカタチに現れてるからなんだろうな、と思う。

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うーん、やっぱ、これが戦闘機だよね!

                       <2017.07.19 記>

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■【映画評】『楽園追放』 アンジェラ・バルザックはロイ・バッティである。結局、人のこころを動かすのは、人のこころの動きなのだ。

80年代のSF映画ファンにはたまらない映画である。これは、おっぱい美少女電脳ロボットアニメのフォーマットを使った古き良きSF映画であり、人のこころに響く人間賛歌なのである。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.109  『楽園追放 -Expelled from Paradise-』
          公開:2014年11月
      製作 野口光一 監督 水島精二  脚本  虚淵玄 
       出演: 釘宮理恵 三木眞一郎 神谷浩史 他

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■あらすじ■
ナノハザードにより廃墟となった地球を棄てて人類の多くは、データとなって電脳世界ディーヴァで暮らすようになっていた。 そのディーヴァが地上世界からの謎のハッキングを受ける。その主は、フロンティア・セッターと名乗った。ディーヴァの捜査官アンジェラは、生身の体・マテリアルボディを身にまとって地上世界へと降り立ち、地上調査員ディンゴと共にフロンティア・セッターの捜索を開始する。

■「全身の骨で感じるんだよ。ビートをさ」

  お尻を露出したおっぱい美少女が聞く。

 「それって、そんなにも凄いこと?」

 「古い人類のあなたがわたしを怖がらないのは、音楽を骨で感じることが出来るから?」

   
そういう映画だ。

もう少し分かりやすく言うと、こういうことだ。

電脳美少女と泥臭い人の仁義とが出会うことによって、人間とは何か、自由とは何か、というテーマを浮かび上がらせる。

それはかつて、『ブレードランナー』でロイ・バッティが見せた一瞬の輝きであり、『未来惑星ザルドス』のラストシーンに漂う懐かしさなのである。

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■この映画は、プロデューサーでCGクリエーターの野口光一が中心となって企画を立ち上げたオリジナル作品で、脚本は『魔法少女まどか☆マギカ』の虚淵 玄、監督は『鋼の錬金術師(第一期)』の水島精二、CGモーションアドバイザーとして板野一郎を迎えている。

これはきわめて贅沢な布陣であり、 面白くないわけがない。

予想にたがわず、虚淵 玄の紡ぎだすテンポのいい展開やこころを貫くセリフ、水島精二による情感あふれる人物描写、表情、フルCGとして後進に確実に受け継がれている板野サーカスも最高に素晴らしい。

けれど、それよりもなによりも、この作品にはどこか落ち着きのある独特の空気感があって、お尻むき出しの美少女を中心に据えながらも、大人の映画にとどまっているという曲芸にひたすら感心するばかりなのだ。

作り手たちが、ぶれずに守り通したコアの部分はそこにあるのだと思う。

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■人類が電子化された存在として電脳空間で暮らしている、という設定は特に目新しいものではない。サイバーパンクの世界を映画に持ち込んだ『マトリックス』の一歩先を進んでいるだけで、本質的には変わりはない。

また、電脳空間「ディーヴァ」がユートピアの顔をしたディストピアであり、そこを脱出する物語というのもまたしかりである。

神の顔をした保安局高官たちの存在が面白く、彼らがAIなのか、人間なのかは興味深いところだが、その設定自体は「よくある」話だ。

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■けれど、そういう設定の目新しさは、この作品にとってはどうでもいいことだ。

『マトリックス』にとっては、その世界観の設定がすべてだけれど、『楽園追放』にとっての設定は単なる「ガジェット」に過ぎない。

『楽園追放』が描くのは、その「ガジェット」の中で人間が何を感じ、何を思うか、ということなのだ。

それはまさに、『ブレードランナー』や『未来惑星ザルドス』といった80年代のSF映画が描こうとしていたことであり、野口光一や虚淵 玄が目指したところもそこにある。同時代の人間として、もう痛いほどわかる。

『楽園追放』は、今ではすっかり廃れてしまった古き良きSF映画の正式な継承者なのである。

そしてそれが、『楽園追放』が、おっぱい美少女を全面に押し出しながらも大人の映画たり得ている秘密なのだ。


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■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■アンジェラ・バルザックはロイ・バッティである。

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ロイ・バッティとは映画『ブレードランナー』に登場する逃亡アンドロイドのボス。

主人公のリック・デッカード(ハリソン・フォード)に仲間を殺され、ロイ・バッティは超人的身体能力でその復讐をする、しかし、リック・デッカードをしとめようとしながらも自らのアンドロイドとして定められた命が今まさに燃え尽きようとしていることを理解していて、最後の瞬間、リックの命を愛おしむように救うのだ。

『ブレードランナー』という映画はこのシーンがすべてである。

ロイ・バッティを演じたルドガー・ハウアーは監督のリドリー・スコット以上にそのことを理解していて、彼抜きにはこの映画は成り立たなかったであろう。

彼によって、アンドロイドのことばに表すことのできない感情が痛いほど胸に伝わってくるのだ。

人間とは何か、という問いを理屈ではなく感情として、確かな感覚を生み出すことに成功している珠玉の名シーンだ。

■プロデューサーの野口光一とシナリオの虚淵 玄は、確実にこのシーンを意識している。

ディーバにハッキングをかけたフロンティア・セッターが意識を自己生成させたAIであり、相棒で肉体をもつ地上人のディンゴがフロンティア・セッターと人間のように触れ合うさまに、アンジェラは混乱してしまう。

「フロンティア・セッターは人間なの?」

「人間かどうかなんて、どうでもいいじゃないか。」

そんなことを考え始めたら、むしろ肉体を持たないアンジェラも、人間かプログラムかどうかなんて区別できなくなってしまう。

アンジェラは、その感覚の無限の延長によって百億光年先のガンマバーストの音を聞いたり、素粒子に触れることすらできる。

けれど、骨で音を感じることはできない。

人間とはなにか、という問いが彼女の中で生まれ、育ち始める。

それはロイ・バッティが過酷な宇宙のかなたで感じ、死を前にしてその心に芽生えた感情そのものなのである。

■終盤、フロンティア・セッターの旅立ちを守るために戦うその最中、一緒に大宇宙への旅に行かないかとフロンティア・セッターに問いかけられた瞬間、アンジェラの前に世界が開ける。

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目の前に広がるそこにはないはずの緑の地平。

ああ、まだ知らないことがある。

その瞬間、彼女は自由だ。

人間とはそういうことなのだ。

■さて、災厄の後に人間が大気圏外に脱出して以降も100年以上の歳月をかけて、外宇宙への人類移住計画を遂行し続けてきたプログラム「フロンティア・セッター」。

映画『スタートレック』の「ヴィジャー」を思い起こさせる存在だが、むしろ同じ作家による『魔法少女まどか☆マギカ』の宇宙生命体キュゥべえとの対比が面白い。

どちらも客観的、論理的思考と語り口なのだけれども、キュゥべえが最後まで「わけが分からないよ」と人間のこころを理解できなかったのに対し、フロンティア・セッターは本人も良く分からないながらも、極めて人間くさい。

その人間臭さが、アンジェラをして人間としての生を取り戻させる。

『まどかマギカ』における絶望から解放は宇宙を作り変えるほどの転換を必要としたが、『楽園追放』の解放はひとりの人間のこころのレベルでの転換によって成し遂げられる。

このあたりがこの作品が「大人」だと思うところだ。

■そして、フロンティア・セッターの旅立ちの場面。

  
歌を歌って、仁義を通して、星空に夢を見たあんたなら、

もう、人間でいいんじゃないか
 

もう、このディンゴのセリフにやられてしまいました。

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死とか、愛とか、そういう「泣かせ」じゃない。

「真実」に触れたときに感じる震えるような感動。

もう、このシーンだけでこの映画は満点だ。

結局、人のこころを動かすのは、人のこころなんだよね。

 

                      <2017.07.18 記>

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■STAFF■
原作 - ニトロプラス、東映アニメーション
脚本 - 虚淵玄(ニトロプラス)
監督 - 水島精二
キャラクターデザイン - 齋藤将嗣
プロダクションデザイン - 上津康義
メカニックデザイン(フロンティアセッター) - 石垣純哉
メカニックデザイン - 齋藤将嗣、柳瀬敬之、石渡マコト(ニトロプラス)
スカルプチャーデザイン - 浅井真紀
グラフィックデザイン - 草野剛
3Dメカデザイナー - 池田幸雄
設定考証・コンセプトデザイン - 小倉信也
演出 - 京田知己
絵コンテ - 水島精二、京田知己、角田一樹、黒川智之
CG監督 - 阿尾直樹
作画監督 - 郷津春奈
デジタル作画監督 - 山崎真央
造形ディレクター - 横川和政
モーション監督 - 柏倉晴樹
色彩設定 - 村田恵里子
モニターグラフィックス - 宮原洋平(カプセル)、佐藤菜津子
美術監督 - 野村正信(美峰)
撮影監督 - 林コージロー(グラフィニカ)
編集 - 吉武将人(エディッツ)
音響監督 - 三間雅文(テクノサウンド)
音響効果 - 倉橋静男(サウンドボックス)
音楽 - NARASAKI
音楽プロデューサー - 島谷浩作、小西岳夫
モーションアドバイザー - 板野一郎
アニメーションプロデューサー - 森口博史
チーフアニメーションプロデューサー - 吉岡宏起
プロデューサー - 野口光一
アニメーション制作 - グラフィニカ
企画・製作 - 東映アニメーション


■CAST■
アンジェラ・バルザック -  釘宮理恵
ディンゴ  - 三木眞一郎
フロンティアセッター - 神谷浩史
ディーヴァ保安局高官 - 稲葉実、江川央生、上村典子
ディーヴァ女性エージェント  - 林原めぐみ、高山みなみ、三石琴乃

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2017年7月18日 (火)

■【社会】「高度プロフェッショナル制度」という名の残業ゼロ代法案を連合が容認。資本主義の前提が崩れたいま、24時間戦う意味はあるのか?問題は残業代ではなく、われわれの生存権を脅かす「残業時間規制なし」にあるのだ。

 安倍晋三首相と連合の神津里季生(こうづりきお)会長は十三日、官邸で会談し、収入が高い一部の専門職を労働時間規制の対象から外す「残業代ゼロ」制度(高度プロフェッショナル制度)の創設を柱とする労働基準法改正案を修正する方向で一致した。

連合は修正により労働者の健康を守る措置などを強化する代わりに、制度を事実上容認した。修正後も時間でなく成果で賃金を払う改正案の骨格は維持され、成果を出すまで過重労働を強いられるとの懸念は変わらない。連合が容認に転じたことには過労死遺族に加えて、連合内部からも反発が出ている。  

「残業代ゼロ」制度は、年収1,075万円以上の金融ディーラーや研究開発などの専門職が対象。神津氏は首相との会談で「年間104日以上かつ4週間を通じて4日以上の休日確保」の義務化を求めた。  ―2017.07.14中日新聞朝刊

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■対象となるのは、年収1000万越えの人だということだけど、なぜ1000万円かの具体的定義(上位0.5%とか、物価に対する比率とか)がないから、いつでも下げられるよね。

金融ディーラーや研究開発などの専門職といってるけど、派遣法の流れをみてみれば、拡大傾向はまぬがれないだろう。

■問題は、この法案の狙いである。

要するに、この国での働き方をどうしたいか、ということだ。

背景には残業時間上限規制があるのだろう。

その趣旨は

【働く人の心身の健康を守るために、仕事時間の効率化を図り、残業時間ゼロをめざす。】

というものであったはずだ。

そこから考えれば、今回の『「残業代ゼロ」制度(高度プロフェッショナル制度)』の狙いは、

1.「残業時間上限規制」の対象外の労働者を設けることで、不足した労働力を維持、確保し、企業の国際競争力の低下を防ぐ。

2.そのうえで、残業代の増加による経営負担の増加を防ぐ。

ということであるのは明白だ。

結局、労使、国ともに、バブル時代に流行った「24時間戦えますか」というリゲインのCMの思想から一歩も外に出ていないということだ。

■フランスやドイツの企業(自動車しか知らんけど)は6時を過ぎればほとんど誰もいなくなり、8時にはオフィスはロックされる。週末の金曜日なんかは4時には人がまばらになる。

日本でもノー残業デーなんかをやったりするけど、部課長層は「お前ら、とっとと帰りなさい」というけれど、自分はしっかり残業しているし、土曜日も当たり前のように出社している。

じゃあ、ルノーもメルセデスもフォルクスワーゲンも(最近、排ガス疑惑とかがあるにしても)企業として凋落しているかといえば、しっかりと儲けを出しているのである。

その根本的違いは、働く側のプロ意識にある、ヨーロッパにおいては働くものが自らの管理者である、というのが、彼らと一緒に仕事をして感じたことである。

日本人がなぜ残業をするかといえば、パターンは3つだろう。

・まわりが仕事しているから帰ることが出来ない。

・残業代をもらうことで今の生活を維持したい。

・仕事が山ほどあって終わらない。逆に残業すればするほど成果があがる。

みんなが残業をしなくなれば1番目は解消できるが、その「みんなが残業をしなくなる」という状態に持っていくこと自体にハードルがある。

■2番目はかなりやっかいで「給料」は「儲け」から発生するものだ、という考えがまったくなくて、本来の「労働」の意味がねじれてしまっている。

農業では、いくら働いたところで作物が出来て、それが売れないことには収入がない。

労働が「価値」を生み出すことで「利益」がもらえるのが道理なのだ。

でも、給与労働者というのは(わたしもそうだけれど)、どうしても「既得権益」という感覚にとらわれてしまう。

では農業との差は何か、と問われれば、農家は自己裁量で労働ができるが、給与労働者はその自己裁量がない、働く時間も、経営方針も自由にはならないところだ。

つまり「安定」を得るために「労働」を売り渡している。

実際、現代の「経営」と「労働者」が分離した社会においては、売り渡した「時間」の対価を「お金」で払う、というは正しく、われわれ「労働者」は、その考え方で守られている。

だから、生活のために残業をして余裕のある給料をもらうのは、ある意味うまいやり方だ。

■バブルの時代までは、誰しも働けば働くほど「商品」は売れて、経営も潤い、働いた時間だけの対価は得ることが出来た。(サービス残業があったとしても、それなりにもらえていた)

けれど、今の時代はいくら働いても「利益」が生み出しにくい状況にある。資本主義の前提が崩れたというのはそういうことだ。

蜜月の時代はとうに終わっているのだ。

業績で利益が出ないならば、「経営」は「労働」による支出を抑えるしかない。

それがブラック企業が蔓延する理由であり、それによっていまのデフレが維持されている構図だ。

社会が「払う金などない」といっているのだから、「労働者」が得る金も絞られ、こんどはその「労働者」が「消費者」という社会の構成員として、「払う金などない」という側にまわる負のスパイラルである。

そんななかで、社会構造の変化を無視した理不尽な「経営」によって、「働いても働いても成果が出ない」とプレッシャーをかけられて過労死が多発するという事態を生み、日本国憲法第25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という概念に基づき、残業時間上限上限規制が出てきたということだ。

もはや事態は生存権が侵されるレベルにまで及んでいて、「残業代をもらうことで今の生活を維持したい。」などという過去の幻想が通じる時代ではないのだ。

とはいっても、このままでは負のスパイラルが進展するばかりだから何かの逆転の機構を働かせて、ここから脱出する道を探らなければならない。

すくなくとも「時間」=「対価」という構図は壊れていくことになるだろう。

■では、3つめの

「仕事が山ほどあって終わらない。逆に残業すればするほど成果があがる。」という考え方はどうだろうか。

すでにそこそこの給料がもらえていて生活自体に問題はなく、仕事にやりがいとか認められたいとか、そういうことを求めている人がこのタイプだろう。

しばらく前の私もこのタイプであったと思う。

いわゆる猛烈というやつで、バブル最終組のくせに、バブル以前の働き方に血道をあげていたと少し恥ずかしい。

働けば働くほど利益がでる、という資本主義が機能していた時代には、かなりのパワーを発揮する姿勢だと思う。

だからこそ、日本はヨーロッパを追い抜いてアメリカに肉薄する「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代を築いたのである。

■けれど、もうそれは25年前に終わっているのだ。

それでも、われわれはその戦闘手法を変えてこなかった。

構造はとっくに変わっていたのだが、この25年のIT革命で時間を巻き上げ、スピードを格段に上げることによってしのいできた。

25年前に職場には報告書作成用マッキントッシュ・クラッシック一台だけだったものが、一人一台のウインドウズ端末が当たり前になっている。

CADもパソコンもネット環境も格段の進歩を遂げた。

私が所属していた自動車開発業界でいうならば、25年前に一週間かけてやっていた仕事は、いまや半日で出来てしまう。

けれど精密に状況が見えてきてしまう分、こなさなければならない仕事は膨大になり、つねに効率化のスピードは仕事の増加に追い越され続ける、自分の仕事をこなす時間さえままならないのに一日数百件のメールと30分刻みで放り込まれるスケジューラに追い立てられる毎日。モロボシ・ダンではないが、「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」なのである。

「仕事が山ほどあって終わらない。逆に残業すればするほど成果があがる。」

メディアに出る頭のいいIT企業の社長とかの有名人たちは、そういう仕事のやり方はセンスがない、能力がない、というけれども、こういうマラソンを続ける限りにおいて、それは真実なのである。

けれど、くやしいけれど、頭のいい人たちの言うとおり、なのだろう。このマラソンは勝ち目のない消耗戦に突入しているのだから。

■その一方で、フォルクスワーゲンをはじめとする欧州企業は息を吹き返した。

しかも、彼らは残業はしない。

「働けば働くほど利益がでる」という思想ではなく、「やるべきことをやる」というプロの姿勢をもっているのだ。

そこには「個人」があって、自分が獲得している「能力」を売る、という姿勢であり、ただ「時間」を売るというわれわれの姿勢とは根本的に異なるのである。

ヨーロッパ礼賛でもないし、彼らの姿勢がこれからの資本主義崩壊の世界で必ずしもうまく機能していくとも思えない。

けれど、少なくとも、盲目的に「時間」で解決しようとするやり方が限界に達しているのは事実であり、学ぶべきことはあるだろう。

各個人が自分の能力を自分の頭で考えて、「自分にできることをやる」という働き方である。

仕事は降ってくるものではなく、自分で選ぶという考え方だ。

これは万人に当てはまるものではないだろう。

ある一定の専門能力が要求される。

そういう意味で、今回の「残業代ゼロ」制度(高度プロフェッショナル制度)の対象となるのは、そういう仕事なのだ。

■だとすると、今回の「残業時間上限規制」と「高度プロフェッショナル制度」を2本柱とする労働基準法改正は、適切だということになる。

けれど、それは初めに考察した「高度プロフェッショナル制度」から透けて見える考えである、

1.「残業時間上限規制」の対象外の労働者を設けることで、不足した労働力を維持、確保し、企業の国際競争力の低下を防ぐ。

2.そのうえで、残業代の増加による経営負担の増加を防ぐ。

という、まだ「時間」=「価値」の概念にとどまった考え方と矛盾する。

マスコミとか、弁護士団体は「残業代ゼロ」を問題にするのだが、そこがそもそも問題の本質から外れているのだと思う。

この矛盾の本質は、「時間」=「価値」の概念にあり、マスコミも弁護士団体も、資本主義が機能していた時代のこの概念に縛られているのだ。

■労働によって「価値」を生みながら、労働者の「生存権」を保証する。

それが、今回の労働基準法改正の目指すべきところなのではないか。

だとするならば、問題は「高度プロフェッショナル制度」の対象者の「残業時間」が規制されないこと自体にある。

それなりの基本給があるならば、彼らに残業代は不要である。

それが年収1000万円でも、400万円でも、彼ら自身が自分の「能力」をその値段で売ると契約するのであれば、問題はないだろう。

けれど、日本国憲法で規定された「生存権」を侵すことは、それが市井の労働者であろうと、年収1000万円のプロフェッショナルでも、決してあってはならないことである。

日本国民だれもが等しく持っている権利なのだ。

現在、部長や課長といった管理職は、この「生存権」を侵されている。

法律上は、経営に参画する「監督管理者」にのみ適用される内容である。経営者が時間管理されないのは、農業従事者や自営業者が時間管理されないのと同じで、論理的にあたりまえのことである。

けれども、それが取締役でもない部課長層に適用されているのは実は違法なのではないか。

「生存権」を保証するための「残業時間制限」こそが、当面、打てる手だてなのではないか。

だから、「高度プロフェッショナル制度」の対象者の残業時間規制が、とても重要なことなのである。

■なんで成果を上げないんだ、という理不尽なパワハラは労働基準法にはなじまないから、継続して別の手法を考えなければならないだろう。

「修正後も時間でなく成果で賃金を払う改正案の骨格は維持され、成果を出すまで過重労働を強いられるとの懸念は変わらない。」

という声があると新聞記事は指摘しているが、ヨーロッパのように自立した個人が自分の能力を企業に売る、という姿勢であれば、そんなブラック企業はとっとと退社して、自分の能力が発揮できる会社に移ればいいのだ。

それが日本で難しいのは、終身雇用を前提とした社会の仕組みにあるわけで、社会ができることは、それを「くだらない会社にしがみついて生き残る策を講じる」ことではなく、能力のある個人が自由に働くことの出来る構造を作り上げることなのだと思う。

■この記事を書き始めたときは、安倍政権におもねった連合を批判するつもりであったが、思いかけず同じ結論にたどり着いてしまった。

連合が提示した「高度プロフェッショナル制度」の対象者の時間管理というのは、とても重要な、本質を突いた提言なのである。

なんだよ、よく考えてるじゃないか。

やっと追いついたよ。

連合の神津会長は、もっとしっかり説明するべきだ。

これじゃあ、論理的な議論ができず、「安倍政権に反対だから、反対なのだ」としか言わない連中を勢いづかせるばかりである。

創造的議論ができない彼らに、本質的対策が打てるはずもなく、だらだらと現状維持が続くだけで、不幸は一向に解消しないだろう。

それでは電通の自殺者たちも浮かばれまい。

毎日のようにどこかで電車が止まる事態も防げない。

世の中の仕組みが変わったのだから、社会も変わらなければならない。

大切なのは、ひとりひとり、全員の「生存権」を守ることだ。

それが「経済」の語源である経世済民の意味である。

                    <2017.07.18 記>

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■NHK海洋アドベンチャー タラ号の大冒険2「太平洋横断 サンゴの危機を救え!」、せっかくの素材が台無し。地球温暖化の恐怖を煽るNHKの品の無さにあきれる。

海洋アドベンチャー タラ号の大冒険2「太平洋横断 サンゴの危機を救え!」
NHK総合 2017年7月17日(月) 午後10時00分放送

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■2003年以来、10年以上世界の海をめぐりながら地球温暖化の調査を進めてきたアルミ合金製船体を持つ帆船タラ号。

この番組は今回タラ号がサンゴ礁の生物多様性調査を行うべく日本に訪れたその記録である。

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■タラ号による地球温暖化調査はファッションブランドを率いるアニエス・ベーが起こしたプロジェクトなのだそうで、地球温暖化についての意識を高める上でも素晴らしいことだと思うし、こういう番組でその活動を紹介することはとても有意義だ。

実際、日本近海で起きているサンゴの白化現象や、生物相の変化の現状が紹介されて入て、あらためて問題の根深さに気づかされる。

けれども、そういった事実をダイレクトに伝えるだけでいいものを、NHKはどうも過剰な演出をしたくて仕方ないらしい。

■一番問題なのは、海底からCO2が噴出してPHが6を割って酸性になっている海域を映し、そこが魚が一匹も生息しない死の海になっていると強調する。

なるほど、通常の海域のPHが8近くで、0.1のPH変化が海洋の生物相に影響を与える、というのは大きな問題であり、我々人類が排出するCO2の4割を海洋が吸収しているらしいということから考えれば、我々自身の問題として提起されるべきものである。

けれど、海底からのCO2噴出に我々はまったく関係ない。また海底からのCO2噴出が地球温暖化の主要要因でもないだろうし、影響は周辺数百メートルに領域にとどまっている。

たしかに番組のナレーションで明確に言っているわけではない。

しかしこの編集の仕方は、我々が化石燃料を使い続けることによって、日本の海もこういう死の海になってしまうんだよ。という暗黙のメッセージを伝えているのである。

言葉を追えばうそをついていないだけに極めて悪質なミスリードだ。

■さらに、2億5000年前に起きた生物種の9割が死に絶えたとされるペルム紀末の大量絶滅の原因としてシベリアの火山噴火による地球温暖化という説があると紹介した上で、現在のCO2排出量はこの時を上回ると言われている。なんて脅しをかけてくる。

いやいや、原因は特定されていないようだし、百歩譲ってCO2の排出量が原因だとして、地球の気候システムに与える要素が全く異なるのだから猛烈で大規模な火山活動とわれわれの排出ガスを単純に比べても意味はないだろう。

海底からのCO2噴出による死の世界のあとに、これを持ってきて畳みかける演出は、極めて恣意的で、吐き気すら覚えるものである。

まじめにサンゴの死滅と取り組んでる人たちや、科学的にものごとをとらえようとしているタラ号のメンバーに対して、とても失礼な態度だと思う。

■NHKは一体、何を伝えたかったのか。

結局、このままでは地球は大変なことになりますよ、というメッセージを伝えるために無理な演出を付け足したようにしか見えないのだ。

それに比べて、7/16(日)放送のNHKスペシャル 「シリーズ ディープ・オーシャン 南極 深海に巨大生物を見た」の徹底的に事実を並べようとする科学的態度は、同じ演出をするにしても、なるほど凄いなと素直に受け入れられるものであった。

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この番組でも地球温暖化の影響は話題になっていて、南極の深海で生物が巨大化する理由の一つに、氷点下の海流に取り囲まれているのでサイズの大きな捕食生物の侵入を防いでいる、ということを上げ、それに対して南極の深海にいままで住むことのなかったタラバガニが侵入していて、さらにそのカニ(タラバはヤドカリの仲間だけど。。)が海底生物を捕食するシーンまで映してみせる。

こういう、「いままでに起きていなかったことが起きていて、それはこれまでの自然のおおきな仕組みやメカニズムに変動が起きている証拠なのだ」的なアプローチは、IPCCのような、「このままCO2排出を続ければ2100年に平均気温が何度上昇」などといった単なるデータの羅列よりもずっと効果的に問題意識を励起するのである。

「タラ号」も確かにデータの羅列ではない演出手法ではある。けれど論理の筋が通っているか、という意味で、「タラ号」と「深海」は似ているようで180度異なる姿勢であるといえるだろう。

■先日の北九州の継続的集中豪雨の被害といい、ここ数年の異常気象はあまりにも度を越している。

日本近海の海水温の上昇がどうやら影響しているようである。

きっと、今年も超大型の台風に注意しなければならないだろう。

その原因が地球温暖化なのかどうかは、わたしには分からない。

けれども、北極圏の氷が溶けだす量が増えて、冷たい海水の塩分濃度が減ることにより、太平洋や大西洋の深層海流の駆動力が落ちているという説が本当ならば、こういうことも起きるだろう。

知りたいのはそういうことなのだ。

何もNHKに難癖をつけて、地球温暖化の影響はない、なんて主張したいわけではない。

問題が深刻なだけに、実際に起きている小さな事実、現実の積み重ねと、それを説明できる大きなシステムの解明が重要なのであり、今回のえせドキュメンタリのような恣意的に心配を煽るだけの番組は害でしかない、と言いたいだけなのだ。

事実を自分の目で確かめるという「タラ号」の志がまぶしいくらいに素晴らしいだけに、本当に残念な番組であった。

                      <2017.07.18記>

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2017年7月17日 (月)

■【演劇評】『ウエスト・サイド・ストーリー』@東急シアターオーブ。アメリカの虚構と矛盾と、そして生きる力。

うーん、映画より数段感動した。想像の遥か上!

音楽も、ダンスも、照明と美術の演出も最高!

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
番外編 ブロードウエイ・ミュージカル
      『ウエスト・サイド・ストーリー』
           原題: WEST SIDE STORY
          音楽: レナード・バーンスタイン  初演:1957年
      2017年7月公演 渋谷ヒカリエ・東急シアターオーブ
       出演: ケヴィン・ハック(トニー)、 ジェナ・バーンズ(マリア) 他

Title

■あらすじ■
ニューヨーク、ダウンタウン。 ポーランド系移民の少年グループ、ジェット団と、プエルトリコ移民の少年グループ、シャーク団の縄張り争いの緊張が張り詰めている。そんな中、ダンスパーティーで元ジェット団のトニーとシャーク団リーダー・ベルナルドの妹・マリアは出会い、一瞬にして恋におちる。

■まず度肝を抜かれたのが、演者の肉体。

ダンスとかバレエってほとんど見ないので、ああ肉体って迫力あるなあ、というのが第一印象。ミュージカルって歌だけじゃないんだね。

この強靭でしなやかな肉体群が生み出すキレッキレが最高に『クール』なのである。

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けれどそのダンスは、もちろん、音楽も歌も最高に素晴らしいんだけど、何よりも引き込まれたのは美術と照明が作り出す美しさ。情感あふれる演出だ。

『トゥナイト』のシーン。

夢のような美しさ。音楽と歌声と溶け合って、ああ、と没入する。

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■『ロミオとジュリエット』を下敷きとした物語構成はとてもシンプルでわかりやすいものなのだけれど、シーンのひとつひとつがヴィヴィッドで、物語よりも場面そのものに意味がある。舞台ってそういうものだよね。観ているその瞬間がすべて。

そういう意味で度肝を抜かれたのは『サムウェア』。

リフとベルナルドが死んだあと、急に差しはさまれる白い場面だ。

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背景は取り払われ、白いホリゾントの前でポーランド移民とプエルトリコ移民が和解のダンスを繰り広げる。

その希望も夢でしかないのだけれど、

このシーンで浮かび上がる希望は確かなものであって、このあとの悲劇的結末も、この希望ひとつによって救われる。

こういう構造を持ち込むことが可能なところが舞台の素晴らしさなのだと改めて思う。

■この物語を眺めるとき、どうもトニーに没入することができない。マリアもしかり。純粋なのだろうけれど、どうしても人物像が浅く感じてしまう。それが若者ということなのかもしれない。

その一方でアニタを始めとするプエルトリコの女たちは、そのスパニッシュ訛りの英語もあいまって、とてもリアルだ。

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『アメリカ』。

希望に夢ふくらませ、不安を国において渡ってきた憧れのアメリカ。

実際にはあとから入ってきた移民に対する偏見や差別という現実に直面するわけで、この『アメリカ』という楽曲がきわめて皮肉に用いられている。

トランプ大統領下の不寛容なアメリカ。

『ロミオとジュリエット』の許されざる恋の物語の姿を借りて、自由を標榜しながらも、その社会構造のなかに不寛容が入り混じるアメリカの矛盾。

それは初演の1957年から60年経った今日においても根深く横たわっている、というよりもより一層色濃く表れているのだ。

だからこそ、その回復不可能とも思われる矛盾のなかで、アニタたちの生きる力強さがより前面に押し出される。

それが、アニタ達に感じる奥深さの源泉なのである。

物語はバッドエンドではあるし、現実世界もうまくはないだろう。

けれども、それでも、希望を胸に強く生きるアニタ達にわれわれは希望を見るのだ。

たぶん、それは『サムウェア』で提示される「白い希望」よりも強いリアリティをもって僕らの背中を押してくれる。

そう、そういうことなのだ。

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                      <2017.07.17 記>

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【DVD】<映画>ウエスト・サイド物語 

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うーん、正直なところ映画には途中までまったく乗れなかった。

ジェット団の子供的な部分と俳優たちがどうもかみ合わない。

ところが、リフが死んで浮足立つジェット団のなかで頭角をあらわしたアイスが『クール』を歌いだすシーンに少年たち独特の狂気を感じ、そこから急に面白くなった。

ここ、凄かったなああ。

うつらうつら観てたんだけど、ここで一気に目が覚めた。

アイスを演じるタッカー・スミスが一瞬見せる悪魔のような瞳のぎらつき。

この一瞬だけで価値があると思います。

 

 

■STAFF■
原案・演出・振付  ジェローム・ロビンス
音楽  レナード・バーンスタイン
脚本  アーサー・ロレンツ
  
音楽監督・指揮 ドナルド・ウイング・チャン
演出・振付  ジョーイ・マクニ―リー


■CAST■
ケヴィン・ハック(トニー)
ジェナ・バーンズ(マリア)
キーリー・バーン (アニタ)
ランス・ヘイス(リフ)
ヴァルドマー・キニョーナース-ヴィアノエヴァ(ベルナルド)

 

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2017年7月15日 (土)

■【芸術】『ジャコメッティ展』@国立新美術館。見えるものを、見えるままに。今、ありありと感じる「わたし」の奥底に居を定めた男はわれわれの原初を呼び起こす。

しびれました。3次元の造形物って絵画とはまた違う、身体の内部に直接響く何かを持ってるんだよね。

Title

Photo

■ジャコメッティといえば、なんだか細っこい人物の彫像っていうイメージで、どうも奇をてらってんじゃないの、なんて思い込みがあったんだけれど、うーん、ごめんなさい、眺めているうちに体の奥から湧き出てくる感情がしみじみと広がって、小難しい理屈は抜きに、ほっこりとしてしまいました。

アルベルト・ジャコメッティ(Alberto Giacometti, 1901年10月10日 - 1966年1月11日)は、イタリア国境近くのスイスの谷の村に、印象派の画家を父として生まれた。

画家としてのスタートの時期から「見えるものを、見えるままに」描くことにこだわり、それを死ぬまで追い続けた男である。

人体のデッサンを徹底的に行ったのち、その時代の最先端であるキュビズム、シュルレアレリスムの世界へと分け入っていく。

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女=スプーン 1926/27年 145× 51 × 21 cm

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キューブ 1934/35年 93_5cm × 58_5cm × 58cm

この時期の作品で心を奪うのは、アフリカ民族美術に大きく影響を受けた【女=スプーン】の力強さと美しさ、【キューブ】の幾何学的に見えながらも極めて強い生命力を感じさせる面の「ハリ」である。

この「力」の均衡は、もう完成形といってもおかしくない。ほれぼれするほど美しく、かっこいい!

しかしながら、ジャコメッティはキュビズムとかシュルレアリスムにその身を沈めることはなかった。

■認めてくれたシュルレアリスムの巨匠アンドレ・ブルトンを振り切り、ジャコメッティはこの「質量による力の均衡」とでもいえるような高みから、一気に駆け降りる。

そして「見えるものを、見えるままに」を突き詰めた結果、

 
「もの」に近づけば近づくほど 「もの」が遠ざかる

 
という境地にいたり、彫像は極小まで小さくなっていく。

_1934_33cm_1cm_11cm

小像(女) 1934年 3.3 × 1 × 1.1cm

■高さ1cmの女。

もはやこの老眼の目では太刀打ちできず、眼鏡を外してガラスケースに顔をこすりつけなければ像を結ばない。

これは一体何なのか?

大きさは細部を生み、細部は目に見える表層を追ってしまう。

たぶん、そこに嘘を感じてしまうのだ。

目の前の女のモデルの像は水晶体というレンズを通して網膜に像を結ぶ。ものを見るとはそういうことだ。

だが、ジャコメッティにとっての「見えるまま」とは、そういうことではなくて、彼が追い求めるのは心に結ぶ像なのだ。

■写実は真実を映さない。

それに共鳴し、シュルレアリスムに参加したものの、ブルトンや、マグリッドが意識のさらに先の世界に踏み込んだのに対し、ジャコメッティは意識の中に踏みとどまり、「見る私」にこだわり続けたのだ。

女=スプーンも、キューブも、改めて見てみれば意識のその先にある「超現実」をカタチに写し取ったものではなく、原初から連なる「こころ」の像を起こしたものであり、立ち上がるのはそういう「生」の感情だ。そこにはシュルレアリスムのような「よそよそしさ」は欠片もない。

アフリカの民族美術のような、敢えて言えばわれわれの土偶のような、写実ではないが、それなのに「こころ」を、「魂」を揺さぶる、それがジャコメッティの「見る」世界なのだ。

しかし、そういった「生」を宿した造形作品もまた、ジャコメッティにとってはそこにまとわりつく「作品性」のような主張がうるさかったのだろう。

だから作品を遠ざけ、凝視を許さず、遠景にぼんやり浮かぶ、その姿にやっと安心したのではないか。

だが、それでは「作品」にならない。

だから1メートルという寸法を自分に課した。

■その結果が、大きな像(女:レオーニ)として結実する。

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大きな像(女:レオーニ) 1947_58年 167 × 19.5 × 41 cm

細長く、薄ぺらい女の像。

素描や習作が山のようにあり、ようやくたどり着いた先は、一見まったく違うように見えて、実は【女=スプーン】への回帰である。

斜め横から眺めれば、極めて微かな抑揚があって、それはまさに【女=スプーン】のそれである。

自分のこころの目に鋭敏になりすぎたジャコメッティにとっては、【女=スプーン】の落ち着く先がこういう像であったということだ。

ここにようやくジャコメッティは居を定め、そこから世界を眺め始めるのだ。

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3人の男のグループ(3人の歩く男たち) 1948 _ 49年 72 × 32 × 31.5 cm

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林間の空地、広場、9人の人物 1950年 65 × 52 × 60 cm

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ヴェネツィアの女 1956年

■それでもなお、ジャコメッティは満足しない。

自らの魂に映る「ヴィジョン」を求め続ける。

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ディエゴの胸像 1954年 39.5 × 33 × 19 cm

1900年以降、フッサールからハイデガーにつながる現象学は、我々が当たり前として受け入れている世界を疑い、概念とかそういう上っ面の議論を排した上で再構築する手法を模索した。

そこで個別の「わたし」がありありと生きる今に焦点を当てたのが実存主義で、1950年代にそれを受け継ぎ、人と人との関係性のなかに「神」を失った人間の寄る辺を探したサルトルによって、その思想が拡がっていく。

ジャコメッティが「ヴィジョン」を求めた1945年から50年代の思想は、そういう状況であった。

サルトルのいう、「わたし」がありありと生きる今、それこそがジャコメッティの「ヴィジョン」であり、彼が作品を通してカタチ作りたいものだったのではないだろうか。

その意識を深いレベルで共有できた真の友が日本人の哲学者、矢内原伊作であった。

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■矢内原と知り合ったジャコメッティは、彼にモデルを依頼するようになる。

 
「ほとんど真剣勝負といってもいいものだった。僕は勝ちもしなかったが、負けもしなかった。あるいは、ふたりとも勝ったのである。」

「ちょっと僕が身動きすると、一心に僕を注視し仕事をつづけていたジャコメッティは大事故に遭遇したかのようにアッと絶望的な声を出すのである。」
 

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ヤナイハラの頭部、落書き 1956-61年

ジャコメッティは矢内原をよほど好きだったようで、紙ナプキンにいたずら書きされた矢内原を描く鉛筆やボールペンの線には迷いがなく、うきうきと楽しそうに走るさまがそこに見て取れることから実感覚として、ジャコメッティのルンルンとした気分がこちらに伝わってくる。

たぶん、それはモデルを務める矢内原が、実存主義の哲学者として【「わたし」がありありと生きる今】を生きていて、そこに【見るもの】と【見られるもの】の間の共鳴があったからなのだろう。

それはジャコメッティにとって至福の時間であったに違いない。

■「わたし」がありありと生きる今

それは、動物に託されるとき、当時のジャコメッティの「今、ここ」がストレートに伝わってくる。

ジャコメッティは人間を相手にして苦闘を続けてきたのだけれども、人は人を見るときに、どうしてもそこに相手の複雑な思考に想いを馳せてしまう。その相互作用が、純粋な「見る」の邪魔をする。

けれど「今、ここ」に生きる「猫」や「犬」には、それを見るジャコメッティの純粋な感情が素直に現れてくるのだ。

実際に【猫】を見た瞬間、わたしは思わず吹き出してしまった。

あまりにも楽しい感情があふれている。

いらぬ思考が無いと、こうも素直になれるのか。

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猫 1951年 32 × 82 × 13cm

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犬 1951年 47 × 100 × 15 cm

そして、この【犬】の悲しみ。

決して犬が悲しんでいるのではない。人がそこに悲しみを見るのだ。

この作品を通して描かれているのは犬ではなく、ジャコメッティの【こころ】そのものなのである。

■さて、最後の部屋には1960年にニューヨークのチェース・マンハッタン銀行のためのモニュメントとして制作された大物の作品群が並ぶ。

_1960_95cm_30cm_30cm
大きな頭部1960年95 × 30 × 30cm

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歩く男Ⅰ 1960年 183 × 26  × 95.5cm

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大きな女性立像Ⅱ 1960年 276 × 31 × 58cm

【大きな頭部】は【キューブ】であり、【大きな女性立像Ⅱ】は【女=スプーン】である。

30年の月日はジャコメッティを還暦の年に押し流したが、結局その魂は何も変わらなかった。ただただ、「見えるものを、見えるままに」を追い求め続けた男なのである。

その純粋さが、われわれの原初を呼び起こすのかもしれない。

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                      <2017.07.15 記>


【単行本】ジャコメッティ/エクリ

 

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2017年7月13日 (木)

■【書評・哲学】『あなたの人生の物語』から、時間と自由意志について考えてみる。

テッド・チャンの『あなたの人生の物語』を読んだら、なんとも哲学したくなってしまったので、作品に対する書評は短編集のすべてを読み終えてからにするとして、久しぶりに思考の森に分け入ってみようと思う。

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■この作品は、エイリアンであるヘプタポッドが使う言語を言語学者の主人公が学ぶうちに、時間を超越した認知を獲得する話である。大事なのは、そこで主人公が見つめる自分の「確定した未来」へのいとしさなのだけれども、それを演出するSFとしての道具立ては「時間を超越した認知を導く言語」とその背景にある「変分原理」という物理法則である。

このSF的道具立てに注目したとき、「時間」と「自由意志」についての深い思索に思わず導かれてしまうのだ。

■1.時間について

通常の我々の現在の常識では、時間は過去、現在、未来へと一方向に、しかも一定の速さで流れていくものである。

幼い頃から日々時計を見ながら育ち、学生になって物理学で初めに学ぶのは、初速50km/hで投げ上げたボールは、何秒後に同じ場所に落ちてくるか、というような「時間」を物差しとしたものの見方だ。

投げ上げたボールの初速を上げれば人工衛星になり、さらに速度を上げれば地球の重力を振り切って、太陽を中心とした楕円軌道に乗るだろう。

我々が認識する太陽系だとか、銀河系だとか、そういった宇宙の広大な世界は、高校一年生で学ぶ、「時間」を基準とした物語の上に成り立っているのだ。

アインシュタインが時間は相対的なものである、と言ったとしても、なかなか実感としてそれを認知することはできない。

■しかし、ヘプタポッドは「時間は一方向に流れる」という常識をわれわれ地球人から取り払おうとする。

ヘプタポッドが見る世界はわれわれが一般に用いる「ニュートン力学」ではなく、「変分原理」あるいは「最小作用の原理」よばれるものによって構築されているらしい。

運動の時間変化は作用積分が最小となる軌跡を選びながら進む。

なんのことやらわからないが、どうやらニュートン力学的な「初期値と時間」による世界の記述ではなく、「全体を見たときの最小値」が現れるという時間をものさしとしない世界観のようだ。

時間というものを座標軸として認識し、それを含んだ座標系を俯瞰することができれば、過去とか未来とか、そういう見方ではなく、この時間ではこう、この時間ではこう、という時間の流れの束縛から独立した見方が可能になる。

ヘプタポッドは、「過去」と、「現在」と、「未来」を同じ目線で眺めているのだ。

■時間に関する哲学的問題として、未来、および、過去はあるのか?という問いがある。

結論から言えば、我々の認知を基準に考えれば、過去も未来も、「今、ここ」にある意識に映る影に過ぎないが故に、その実在を証明することはできない。

その「影」とは「概念」であり、我々の意識が言語を道具として作り上げたものだ。

例えば、柴犬のポチは見通しのたたない明日を苦にして睡眠障害に陥るだろうか、庭の植木鉢をひっくり返した過去の失敗を悶々と悔やみ続けるだろうか。

いや、柴犬のポチにあるのは「今、ここ」だけなのだ。

たとえ、昨日の失敗を気にしているように見えたとしても、それは見ている飼い主の意識に映る幻影であって、ポチは飼い主の態度を見て反応しているだけに違いない。

なぜならば、ポチには「過去」とか「未来」という「概念」を認知する「言語」による抽象概念の構築ができないからだ。

ポチに「過去」とか「未来」が存在しないのならば、何故この世に「過去」とか「未来」が存在すると言い切れるのか。

ポチが投げたボールをジャンピングキャッチするとき、彼は運動方程式を解いているわけではない。経験から瞬時に運動を把握して落下点でジャンプする。そこに一定の速度で流れる時間(t)は必要ないのだ。

■それでも、われわれにとって「過去」も「未来」も、ありありと実在するように見える。

幻影は認知できる限りにおいて実在なのだ。

そういう意味では「過去」も「未来」も存在する。

しかしながらそれは、単にわれわれが生きていく上で「便利」だからであって、決して絶対的な真理として時間が存在しているわけではない、ということだ。

『あなたの人生の物語』でテッド・チャンが示したヴィジョンは、われわれの認知と別の認知体系においては、「時間の流れ」を絶対的なものとしなくても世界を把握できるのだ、という可能性を示して見せている。

そこがこの作品をSFとして極めて華麗なものにしているのである。

■2.自由意志について

この物語では、主人公の女性言語学者がヘプタポッドBと呼ばれる言語(文字)をマスターすることによって、未来を認識できるようになる。

そこで問題になるのは、「未来」を知ったとして、主人公がその未来につながらない行動をとる「自由意志」があるならば、「未来」は確定しない、というパラドックスだ。

この問題について、テッド・チャンは明確な回答を示すことはなく、「未来」を知ったものが使命感のようなもので突き動かされる、と今までの論理の構築に比べると拍子抜けするほどにぬるい仮説を述べるにとどまってしまう。

もしヘプタポッドたちが見ている世界が、未来と現在を区別することなく認知することで広がるものであるならば、現在の「私」は未来に縛られていて自由意志など存在しない、自由意志は錯覚で、後付けの「使命感」のようなもので片付けられる、ということになる。

それは本当だろうか。

■果たして自由意志はあるのか。

人間には?犬には?魚には?みみずには?ゾウリムシには?石には?

そう考えていくと、自由意志というものは普遍的に存在するものではないのだろう。

自由意志とは、時間感覚と同じように、人間の意識が生んだツールか、もしくは副産物、たぶんその両方なのだろう。

リベットの『マインドタイム』を読めば見えてくる話だが、人は自分の行動を時間的にさかのぼって、自分の意志で行ったと錯覚する。『マインドタイム』で実証されるのはクルマの前にボールが転がってきたときのような反射行動だが、ゆっくりと時間をかけて熟考した行動というものについても、それが後付けでないという証拠はない。

むしろ、「変分原理」、「最小作用の原理」が示しているのは、現象は因果関係とは別の原理で説明がつくということであり、自由意志があろうがなかろうが、そこで現れる現象は最小値に収まるということだ。

■これはいわゆる決定論とは違う。

決定論の文脈の中にはまだ過去から未来への流れが存在していて、私が過去にいる時点の未来がすでに決まっている、という論である限り、この話とは別なのだ。

実は未来は確定していなくてもいい。

量子論的に多数の未来を同時に抱えているといってもいい。

その中から最小値が選び出され、我々はその「最小値」が「未来」であったと、未来における「今、ここ」で認識するのだ。

その固定されるであろう「未来」があって、それを選択する行動を「今、ここ」の私がとる。

時間をリニアにとらえる世界観では、それを因果関係と呼び、そこに自由意志がある、という。

変分原理に基づく世界観では、結果と呼ばれる「未来」に向かった「今、ここ」の行動がある、という。

同じ現象の言い方を変えただけのことであり、結論を言えば、時間を軸に進む我々の認知の世界では自由意志はあるけれども、もしそれが無かったとしても世の中の説明はつく、ということだ。

■大切なのは、「今、ここ」の行動と「未来」の結果は、並列であり、セットだということだ。

「今、ここ」の行動が違えば、「未来」の結果も違うものになる。

それは常にセットで動く。

『あなたの人生の物語』では、決まった未来のヴィジョンを受け取り、主人公は意識的にそれに沿った行動をとるのだけれど、これではパラドックスを抱えたままである。実はテッド・チャンはまだ自らが否定して見せた「時間」と「因果関係」に縛られている。

だから「未来」を固定した瞬間に、自由意志が失われる矛盾に襲われるのだ。

「今、ここ」の主体の意識が「未来」を知ったとき、というのは「今、ここ」の現象に過ぎない。

ヘプタポッドの世界における「今、ここ」の主体は「未来」と同じ地平にあるのだ。

■われわれの意識は「今、ここ」でしかないのだから、ヘプタポッドの世界にわれわれの意識の入り込む余地はない。

それはどういうことか。

意識を語るために我々の「時間の一方向性」と「因果関係」が支配する世界でみるならば、100%実体のある「未来」が多数同時に存在している、とするのが量子論だ。

観測者がそれを「見る」という「今、ここ」の行動が選ばれた瞬間に「未来」の結果が一つに定まる。

「わたし」という主体が持つ意識はひとつの像しか結ぶことができない。青酸カリを仕込まれた箱の中にいる、生きているシュレディンガーの猫と死んでいるシュレディンガーの猫を同時に認知することはできないのだ。

もし、行動を起こす前の「今、ここ」の主体の意識が、「今、ここ」でないその先の「未来」にも同時に存在するのであれば、量子論的な多数の未来、多元宇宙の広がりを認知しているということになる。

そうすると、「わたし」は、「今、ここ」で感じている世界と同時に複数の宇宙に存在し、それを俯瞰しているということになり、それはもはや人間の視野などではなく、この宇宙の上位存在である「神」の視野をもつことになってしまう。

そういう意味でヘプタポッドがわれわれと同じ意味での「意識」を持つならば、われわれの世界を語る小説の作者のような意味での「神」なのだ。

■だから、ヘプタポッドBを習得したルイーズが認知する「未来」は常に一つだけであり、取り得る行動も、その「未来」とセットとなる「行動」ひとつに絞られる。

ルイーズが「未来」の量子論的広がりをありありと認知することはなく、意識は常に「今、ここ」に限定され、唯一の「未来」に向かった「最小作用」を選び取る。

それはテッド・チャンのいう「使命感」などで決まるものではなく、「最小作用の原理」に従った数学的帰着なのである。

ルイーズに「今、ここ」の意識はあったとしても、そこにはもはや「自由意志」は存在しない。

■もしかすると量子コンピューターにはそれの認知が可能なのかもしれない。

が、我々が「認知」できないものを「認知」出来ているかどうかを「認知」するというのは概念的には可能かもしれないが、それがどういうことかというのは実感としてありありと理解することは不可能だろう。

けれど、光合成のプロセスが「最小作用の原理」によってあらかじめ最適値を知っているかのようなふるまいを見せることとか、われわれの「意識」というものがシナプスのつながりという物質的なものによってつくられるのではなく、ネットワーク上のゆらぎのように立ち現れえるように見えることとかを考えてみると、実は、われわれの基盤である「生体」というものはヘプタポッド世界的存在なのかもしれない。

この物語のルイーズがもしヘプタポッドBの完全な理解に至り、「生体」の原理原則を覗き見るヘプタポッド世界に入っていくとするならばどうだろう。

その、われわれを構成する原理を理解するというその行為は、あたかも小説の中の主人公が自らを描いた小説そのものの成り立ちや構造を前にして立ちすくむような、まるで(わたしが大好きな)『ソフィーの世界』が提示した恐怖を思い起こさせる。

それはまさに人類の進化であり、人が神になる物語だ。そして、『あなたの人生の物語』の映画版である『メッセージ』で提示された3000年後の未来に向けて「ヘプタポッドが人類を進化させる」という意味も極めて明確になってくるのである。

■結論

1.時間の流れという意味で、「過去」も「未来」もわれわれが作り出した道具に過ぎず、確かに存在する、と言えるのは「わたし」という主体が認知する「今、ここ」だけである。なお「わたし」という主体がない場合は「今、ここ」も存在することはない。あるのは時間的広がりだけである。

2.自由意志はあるという言い方もできるし、ないという言い方もできる。「時間の一方向性」や「因果関係」を軸に世界を見るか、「最小作用の原理」を軸に世界を見るかの違いに過ぎず、確かな存在かどうか、という論点にはならない。

以上。

                     <2017.07.13記>

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【文庫】あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

<映画評>【メッセージ】「言語」の持つ力と「物語」が出会うとき。


【単行本】マインド・タイム 脳と意識の時間

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【単行本】ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

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2017年7月11日 (火)

■【書評】『閉じていく帝国と逆説の21世紀経済』 水野和夫 画期的社会変革論から導かれるのは、実は個人レベルでの価値観の大転換、要するに金持ちや成長志向からの脱却なのだ。

低金利を切り口に資本主義の本質とその終焉を説いた『資本主義の終焉と歴史の危機』の続編。終わりを迎えた資本主義のその先の世界を読み解くスリリングさだけでなく、我々が信じる「金持ち」=「幸せ」という価値観を打ち崩す衝撃がそこにある。


[新書] 閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済

■要約してしまうならば、民主主義と資本主義の蜜月は、資本主義が地理的拡大により周辺国から「徴収」することが出来た1970年代までで終了した。パイがでかくなることがなければ、ゼロサムゲームになるわけで、企業の利益拡大は国民国家の利益と両立はしない、むしろ国民国家の利益を吸い上げる形となる、ということだ。

それが具体的に進行した形が新自由主義、グローバリゼーションであり、今、アメリカやイギリスやフランスで見られる反グローバリゼーションは、国民国家の危機に対する反動である、と見る。

つまり、1990年代のグローバリゼーションは、その発生からすでに反国民国家であることが構造的に決定づけられていたということになる。

■アメリカは、地理的拡大の完了後もパイを拡大するために、IT革命にのって金融市場で世界のカネを「徴収」した。スピードを上げ、ネット空間で高速に時間を切り刻むことによって、カネを増殖させては取り込んでいく。

けれども、ゼロ金利とはそもそも、カネを持っていても、それが価値を生まない、ということを意味しているのだから、その行為には全く意味がない、ということになる。

資本主義とは、資金を投入することで、財が増えるその効率を上げていく仕組みである。

しかしながら、われわれが直面しているゼロ金利とは、資金を投入してもリターンがゼロである、つまり、効率はもはや上がらない、投資するカネを持っていても意味がない。要するに資本主義という仕組みが終了した、ということなのだ。

■そう考えれば、最近の大企業が最高の利益を出しながら再投資をしないで内部留保ばかりを蓄えるというのも当たり前のことだ。

給与を上げるということについても、企業にとってそれは投資の一形態なのだから、人材が頑張って効率を上げようとしても限界が見えているならば、その投資はしないと判断するのもまた道理なのである。

日本やドイツが到達したゼロ金利とは、つまりそういう世界のことなのだ。

水野和夫氏は、三菱UFJモルガンスタンレー証券のチーフエコノミストだった人だから、まさにその「マネー」の世界の当事者であり、

お前が「徴収」する側だったんだろ!カネ返せ!!

という突っ込みをしたくもなるが、まあそれだけに説得力もある。

■水野氏は、理論値とそのデータで資本主義が行き詰まっていることを説明し、その上で、「長い16世紀」というイタリア、スペインの陸の閉じた時代から、イギリス、オランダの拡大していく資本主義への転換がはじまり、それが今、再び「長い21世紀」において終焉を迎えているという歴史観を唱える。

確かに、中国が余剰生産力を持て余している時点で、世界の生産能力的には終わりだろう。国家の保護によりで急激なクラッシュはないにしても、減速方向に向かうのは確実だ。

マネーが膨らまないということはインフレにはならないわけで、例えばクルマがすべてEVに置き換わっていくとかいうことが起きたとしても、効率がよく、コストコストパフォーマンスが良いものに置き換わるというだけで、デフレが収まるわけではない。購入者の収入が限られているのだから、買い替えも徐々に進行するだけで猛烈な特需が起きるわけでもないだろう。

イノベーションも、商品の革新も、資本主義の終焉を止めることはできない。

構造的にもう終わりなのだと理解するしかないのだ。

■言い方を変えるならば、ゼロ金利の日本とドイツは、資本主義のゴールにいち早くたどり着いた、ということだ。

それは悪いことでもない。

給与は上がらない。正規雇用は減ってしまい、むしろ押しなべて見ると給与は下がっているだろう。これからも上がる見込みはないし、年金だってもらえるかどうか定かではない。

とても不安だ。

けれど、不況下のインフレであるスタグフレーションに襲われているわけではない。

米の値段が何倍にもなって、10万円払わないと5kgが手に入らないというわけではないのだ。

浮浪者や餓死者が道に溢れているわけではない。

デフレが続いているおかげで、たいていの人は、贅沢さえ望まなければそこそこの生活は維持できるのだ。

ほとんどの人が、そこそこの生活を安定して過ごすことができる。

これって、戦争直後の日本人が切望した未来じゃないのか。

日本に限って言えば、今は決して悪い時代じゃない。

■一握りの金持ちが世界の富を独占している。

ピケティはそれを悪だと糾弾する。

けれど、それは本当に悪いことなのか。

もし、ゼロ金利で、投資が富を生むこともなくて、お金をため込むことに意味がなくなってしまっているならば、世界の富を独占することに何の意味があるのか。

誰が、どれだけため込んでいようが、どうでもいい。

この本を読んでいて衝撃を受けたのは、そこに気づいてしまったからだ。

カルロス・ゴーンが年収20億円だろうが、そんなことは私には関係ない。お金が好きならば勝手にすればいい。

自分の家族が暮らしていけるだけの、そこそこの収入があれば幸せに生きていけるのだ。

あとは老後の問題だけだ。

それは、社会全体の問題であって、富が増えない時代なのであれば、自分の老後を保証するカネを蓄えるということは、誰かの老後のカネを奪うということであり、本質的な問題解決にはならない。

金持ちからカネを奪ってそこにあてたところで、いつかはそれも尽きてしまう。

成長のない定常社会を前提とした仕組みを作り出す、それ以外に道はないのだ。

今の日本は悪い時代じゃないと先に書いたが、グローバリズム志向の現状のまま放置してしまうと、さらに国民国家の搾取が進み、大変なことになる。

それは国民生活の完全な破綻か、それに対する猛烈な反動による社会不安だ。

今のアメリカがまさにそれだ。

では、どうすればいいのか。

■著者がこの本で前著から踏み出しているのは、資本主義が終焉を迎えた後に国家がどうあるべきかの方向を指し示しているという点だ。

それは「閉じた帝国」だと水野和夫氏はいう。

EUが一番近い。

欧州というエリアを囲い、その領域のなかで統治をおこなう。

バブル崩壊後の円高の時代に、それでも日本はアメリカに縋りついたが、ドイツはたもとを分かち、フランスと共にEUを立ち上げた。

電子空間上のマネーの増殖に走ったアメリカを尻目に、EUは域内の実体経済を重んじた。

EUは今もグーグルやアップルと戦い、ドイツ銀行がアメリカ金融資本にはめられても、新自由主義とグローバリズムに抗し続けている。

そこが水野氏の心を突くのだろう。

■けれど、その「帝国」は中央集権的であるがゆえに、それを構成する国の主権は奪われていく。EU=ドイツにヨーロッパ諸国は牛耳られていく。

その不満がイギリスを離脱させ、フランスを不安定にさせているのだ。

国民国家どうこう、民主主義どうこう、という割に、「帝国」下での自由についてあまりに無頓着だ。

いやいや、「帝国の統治」と「地域社会の自立」の二本立ての構造だろう、というだろうけれども、逆に言えばその中間に位置する「国家」はいらない、ということだ。

けれど、国家ってそんなに簡単なものではないだろう。

言葉があり、文化があり、そのまとまりが国境を定めている。

田中克彦の『ことばと国家』を読めば、ドイツとフランスの国境の抱える深さが分かるし、言語が思考方法を規定していることを考えれば、国家と言語が結びつく国では、帝国の統治に対する反発は必至だろうと想像はつく。

■どうも水野氏の頭の中では経済が定常状態でまとまっていた中世回帰という発想があるようで、そこが違和感の源泉なのだと思う。

歴史とはアウフヘーベンによって進化していくものである。

マルクスはその最終形を共産主義としたが、真の共産主義は実現することはなく、共産主義の実験は、人は欲望に突き動かされるものである、と証明することで終わった。

しかしながら歴史は輪のように回帰するのではなく、やはり同じことを繰り返すように見えても、実は進化しながら「らせん」に進んでいく。

キリスト教の神は死に、個人は自由の刑に処せられた。

その対価である個人の尊厳や自由は、中世以降の発明品であって、それは現代科学の物理理論と同じように手放すことはできないのだ。

「帝国」がもたらすのは、パンと安心であり、その対価は統制である。それがゆるやかな統制であっても、そこには自由も独立もなく、あるのは従属なのである。

EU諸国が内包する不満はまさにそこにあるに違いない

大きな地域統合と域内最小単位の自立というイメージは悪くはないのだけど、統合は安全とルールを与える「帝国」ではなく、シンプルな「理想」のもとに集まる「連邦」によるべきなのだろうとおもう。

■日本が生きる道については、アジア諸国と帝国を組むことを想定しつつ、今は無理なのでその機会をうかがうように立ち振る舞っていく、という道筋を描く。

わたしが想像していたのは日本だけで閉じた国をつくり、その中で江戸時代的安定を目指す、というイメージだったのだが、一億人の人口を養うだけの食料とエネルギーをどうするか、という問題に解答を見出すことが出来ないでいた。

確かに、海洋アジア帝国で、インドネシアやオーストラリアを仲間にすれば、食料とエネルギーに目途を立てる道筋は見えてくる。

でもやはり中央集権的な帝国ではなく、ゆるく価値観を同じくする連邦制なのだろうな、と思う。

TPPが母体になるのだろうけれど、中国との軍事的関係性、アメリカとの対立回避が問題になるのは明らかで、戦略的にうまく進めないといけない。

連邦の旗印となる「理想」も描かねばならない。

そのためには50年、100年の、かなりの大戦略を描いてそれを実行できる、相当な人物が必要になってくるだろう。

たぶん、個人では成し遂げることはできなくて、まずはそういう人材が育つ場所が必要になるのだろう。

今後の日本の政界再編で、そういった「人物」が育つインキュベーター(孵卵器)が出来ることを期待したい。

まあ、そのためにはまず日本人が成長にこだわらない大人の思想に気づくことが第一歩なのだけれど。

                        <2017.07.10  記>

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2017年7月10日 (月)

■【社会】安倍内閣支持率急落。日本の政治に民主主義の根幹である創造的議論は復活するのか。

まだ日本って健全なのだと少しホッとするニュースである。安保関連法のときは「反対派もうさんくせーよな」と半信半疑だった国民の判断が、今回は確信に変わったとみていいのではないだろうか。

20170710

読売新聞社は7~9日、全国世論調査を実施した。安倍内閣の支持率は36%で、前回調査(6月17~18日)の49%から13ポイント下落し、2012年12月の第2次安倍内閣発足以降で最低となった。 不支持率は52%(前回41%)で最高となった。支持率は2か月で25ポイントの大幅下落となり、安倍首相は厳しい政権運営を強いられそうだ。 7/9(日) 22:02読売新聞配信

■いままで安保法制やテロ等準備罪では危険を煽ることで国民を納得させてきた安倍政権が、国民にもわかりやすい加計学園問題でその強引なやり口を暴かれて、強い反感を買ったということだ。

安倍内閣はその発足以来、選挙の公認を人質にするかたちで自民党内の自由な議論を封殺し、人事権を武器に各省庁の官僚の意見をつぶして強引に自らの描いたシナリオを押し付けてきた。マスコミ幹部との会食で癒着し、報道すらコントロールしようとしてきたのだ。

「決められる政治」の名のもとに、権力が首相官邸に集中していて、私の言うとおりにやりなさい、議論なんていりません、という流れが出来てしまっていたのだ。

その政策が正しいかどうかは問題ではなく、権力の集中は必ず腐敗する、ということが問題であり、森友学園問題にしろ、加計学園問題にしろ、それは単なるスキャンダルではなく、もっと政治としての本質的な問題なのだ。

■議論が封殺され、権力が集中したとき、多様な視点を失ってまわりの状況が見えにくくなり、それは独善に至る。さらに、その独善が認められ続ければ何でも自分の想い通りになるという錯覚に陥り、逆に思い通りにならないことに反発を覚え、さらに議論の封殺が進む。歴史はそれを独裁と呼ぶ。

森友はどうかしらないが、加計学園問題が示しているのは、理屈が通らないものが通ってしまう構造が、戦略特区という「法律の外」の場所で成立してしまおうとしていることだ。

このことをもっと深く理解したほうがいいと思う。

法律は、もっと言えば憲法は、権力を縛るものである。

いま安倍政権が進めていることは、その法を合法的に超えたところで、やりたいようにやらせろ、ということなのだ。その思想の根幹が現れているのが憲法解釈上どうなのかと思われるような昨今の立法であり、それが如実に現れているのが憲法改正そのものを目的とした憲法改正論である。

■もちろん、従来の規制で身動きが取れないものを変えてみたらどうなるか、という実験の意味での特区は別に悪いことではない。

問題なのは、そこに議論がないことだ。

文科省が、「獣医師の新しい需要があるなら、それを農水省に示してほしい」というのは極めて当たり前の要求であり、議論である。

それに対して官邸は、なにをうだうだ言っているんだ、これは決まっていることなんだ、と突っぱねる。

そこに議論を経た確固たる論理があるのならば、官邸サイドはそれを説明すればいいだけなのである。

けれど、官邸サイドは「記憶にありません」「記録は残っていません」って、どういうことか。

半年前の記憶すらないのならば、そういう人たちに国の舵取りは任せられない。全員辞めてもらった方がいい。

「言えません」

が正解なんだろう、と国民はみんな気が付いているのが分からないのか。みんなそんなにバカじゃない。

■ここで何度も書いているけれど

民主主義とは多数決のことではない、

民主主義とは創造的議論によって出来上がるものなのだ。

ひとつのテーマに対して、多様な側面からの視点での意見を出し合って、その意見の意図や新しい情報を共有しながら、最適な道を探っていく、そういう創造的議論によってA案、B案が出来上がる過程が大切なのであって、多数決をとるのはその前提あってこそなのである。

安倍政権はそこを全く理解していないし、反対一辺倒の民進党も、同じく絶望的にそれを理解していない。

だからこそ、今回の支持率の調査でも、民進党の支持率は上がらず底を這うばかりなのである。

そこをちゃんと理解しているという意味で世論というものはまだまだ健全だな、と思う。

■安倍政権を支えていたものが支持率なのだから、これが続けば政権はもたないだろう。

自民党内でじっと息を殺していた面々も、これでは自民党自体が危ういとばかりに、(自らの次期総裁の目をこズルくにらみながら)、自らの意見を発信しはじめた。

前回の総裁選で何故言わなかった!

というのは酷なことで、政治家とは機をみるものなのである。

逆に言えば、今がチャンスと踏んでいるということだ。

ようやく自民党にも健全な空気が戻ってきたと喜ぶべきところなのだろう。

■この後の国政はどうなるのか。

現状、反安倍政権の受け皿は存在しない。それが作れなければまたずるずると元の木阿弥である。

小池都知事が風穴を開けた都民ファーストの会の流れが、国政にも波及するのか。

自民党の中の安倍政権派と反主流派(旧宏池会?)が二大派閥としてバランスを取りながら政権を担っていくのか。

前者は、国家全体を見据えた論と、国民ひとりひとりの生活に根差した論に分かれた議論となるだろう。

後者であれば、自民党が分裂するかどうかは分からないけれども、アメリカに寄り添っていく従来志向を推し進める論と、アジアをも見据えながら日本独自の道を模索していく論に分かれていくことだろう。

どちらが最適なのかは分からないけれども、対立軸として

・全体、企業 ― 地方、国民

・アメリカ一極主義 ― 多極外交

の二つの軸で議論を深めていけるのならば、言うことはない。

何がいいかなんてわからない。

大切なのは健全な議論なのだから。

                       <2017.07.10 記>

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2017年7月 8日 (土)

■【マンガ評】『エースをねらえ!』 だから、きらめくような生命をこめて。

ウインブルドンが盛り上がっているからではないが、急に猛烈に読みたくなって大人買いして読みふけってしまった。

Photo_2

■1995年ウインブルドンで松岡修造が故障からの軌跡の復活の末ベスト8に勝ち進んだ試合、「この一球は絶対無二の一球なり」という庭球訓を自分に言い聞かせるシーンあったと知り、そしてそれまでの苦難に満ちた彼のテニス人生は『エースをねらえ!』によって支えられてきたのだと知ったとき、ああ、これはしっかり読んでおかねばなと思ってはいたのだ。

しかし、これほどまでに魂に響く物語だとは思わなかった。

TVアニメの『エースをねらえ!』(古い方)は大好きで再放送を何度も見たし、『新・エースをねらえ!』も見てはいた。

けれど、ここまで感動した記憶はない。

岡ひろみの頑張りや成長も、お蝶夫人の精神性の高さも、藤堂さんの強さややさしさも、もちろん素晴らしいのだけれども、結局のところ、それらはすべて宗方仁の生きざまに集約される。

その意味で、『エースをねらえ!』は宗方仁の物語だと言えるだろう。

■その宗方仁の生き方を提示し、かつ、この作品の核となるシーンがある。テーマとしては、ここがすべてだといってもいい。

林の中で倒れてしまった宗方を岡が見つけ出し、自分がもうテニスが出来ない体であると岡に知られたことを悟り、宗方が岡に語り掛けるシーンだ。
  

  この一球は絶対無二の一球なり

  されば心身をあげて一打すべし

              ― 福田雅之助

あのことばが好きで 

かならず暗唱してからプレイした

  
だがそのことばが心底骨身にしみたのは

テニス生命を絶たれてからだった

  
この世のすべてに終わりがあって

人生にも試合にも終わりがあって

いつと知ることはできなくても

一日一日

一球一球

かならず確実にその終わりに近づいているのだと

   
だからきらめくような生命をこめて

ほんとうに二度とないこの一球を

精いっぱい打たねばならないのだと

Photo

■岡に出合い、苦しかったそれまでの人生を

彼女にすべてを託すためのものとして受け入れ、

それからの生の一瞬一瞬のすべてを

全身全霊をもって、子を思う親の無償の愛をもって、

岡に注ぎ込んでいく

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「この27年が人の80年に劣るとは思わない」

と言い切るほどに最期の瞬間まで熱く生きた男。

その生きざまが、お蝶夫人を、藤堂を巻き込み

宗方仁の想いは継承されていく。

宗方は死んでも、宗方は常に岡と共にある。
  

  岡、エースをねらえ

 
その最期の言葉がいつまでもどこまでも広がっていく。  

生きる、ということの意味を改めて教えてくれる『エースをねらえ!』というマンガは、確かに少女漫画というよりも、人生に向き合うための教科書なのかもしれない。

Photo_4

                   <2017.07.08 記>

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2017年7月 6日 (木)

■【映画評】『魔界転生』 深作欣二監督。強烈で、獰猛で、そういうことが許された時代の息吹は、未だ色あせることはないのだ。

これは単なる伝奇ものではない。人の業についての物語りだ。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.108  『魔界転生』
          監督: 深作欣二 公開:1981年6月
        出演: 沢田研二  千葉真一 他

001

■あらすじ■
島原の乱で一揆勢を率いて戦うも夢破れ自害した天草四郎時貞は、3万余もの同胞の亡骸を前に、救いの手を差し伸べなかった神とたもとを分かち、悪魔に魂を明け渡してその恨みを晴らすために蘇る。

夫の愛を得られなかった細川ガラシャ、柳生との勝負に強い心残りを抱たまま老いてしまった宮本武蔵、女への煩悩を捨てきれなかった槍の使い手、宝蔵院胤舜、伊賀の里を幕府に不意打ちされ皆殺しにされた忍者霧丸。天草四郎は彼らの未練、怨念を救い取り魔界へと誘い込み、現世へと復活させる。

彼らの目的は徳川幕府を崩壊させ、日本全土を焼き尽くすこと。その動きを知った柳生但馬守とその息子、十兵衛は彼らの目論見を止めることが出来るのか。

023

■エロイムエッサイム、我は求め訴えたり

現在でもアニメの世界ではファンタジー全盛だけれども、かつての時代にも「伝奇もの」と呼ばれる独特のファンタジー世界があった。

『魔界転生』はその代表格ともいえるものだろう。

しかし、ファンタジー或いは伝奇というものが本筋ではない。

深作欣二と角川春樹が描きたかったのは人の業だ。

愛する人に自分だけを愛して欲しいという想い、押さえつければ押さえつけるほど狂おしく迫ってくる性衝動、自分が一番強い剣術使いであることを確かめたいという情念。

魔道に堕ちる登場人物たちは、我々のこころの鏡である。

この『魔界転生』は、それをストレートに描くことが出来た時代の作品であり、だからこそ、古臭さも感じることなく、いまだに強いインパクトを我々に与えることができるのだ。

025

■現在の日本ではたぶんこの作品を作ることは無理だろう。

「恨み」や「未練」というものは、この時代においてはあまりにも「ベタ」過ぎてそのまま語ることが出来なくなってしまっている。

生々しい「情念」は、気の利いた設定にラッピングされ、きれいな映像や音楽によって飾り付けられた流行りのスタイルの映像作品として商品棚に並べられる。

「情念」をそのままカタチにしたような若山富三郎、室田日出男、成田三樹夫、丹波哲郎、千葉真一というあまりにも濃い昭和の漢(おこと)たちは過去の作品でしか輝くことはできない。

直球というものが成り立たなくなっているのだ。

■それは社会そのものについても言える。

実際の生活の中から情念や怨念は注意深く掃き清められ、(この二人を同列に並べるのはどうかとは思うけれども)応援団長の熱すぎる男、松岡修造や、森友学園の籠池氏のような、情念や怨念をむき出しにする人間は、「ネタ」化という加工を経ることで初めてネットやテレビで消費される。まともに取り合うものはもはやいないのである。

けれど、あの昭和の時代。こういう「むき出し」の人は世の中に溢れていて、さて彼らはどこへ行ってしまったのか。と、ふと思うのだ。

だがしかし、ひとの業というものはそう簡単に消えるものではない。

世の中から隠されてしまっているからこそ、逆にそれは陰湿に内にこもり、うねり、取り返しのつかないことになる前に健全に昇華される機会を心待ちにしているのだ。

こういう、「情念」をストレートに描き、それが作品として成立している過去の作品は、まさにその「内にこもった情念」に強く響くのだ。

■1981年といえば、まだバブルさえ始まっていない時代である。文化的には昭和元禄の始まりというところか。

その文化の始まりにおいて眩い輝きを放ったのが角川映画だ。

  読んでから見るか、見てから読むか

1976年の『犬神家の一族』から始まり、『人間の証明』(1977)、『野生の証明』(1978)、『白昼の死角』(1979)、『戦国自衛隊』(1979)、『復活の日』(1980)、『野獣死すべし』(1980)ときて、本作、『魔界転生』(1981)とくる。

これでもか、というほどの骨太の作品群だ。

その後、『セーラー服と機関銃』(1981)で大作路線からアイドル系へと大きく舵をきるわけで、『魔界転生』は第一期角川映画の最後の輝きともいえるだろう。

もちろん、『時をかける少女』(1983)や『蒲田行進曲』(1982)、『麻雀放浪記』(1984)を生み出した第二期も素晴らしいんだけど、「作品」の素晴らしさ、という冷静さを蹴散らすパワーを秘めた、それ故にダイレクトな「情念」を許容させた猛烈さ、というものはもうそこからは消え失せてしまったのだ。

018

■その猛烈さが爆発する本編終盤、炎上する江戸城の中での若山富三郎のキレッキレの殺陣と、そのあとの千葉真一との立ち合いは最高に素晴らしい。演じる者が実際に火の中にあってこその鬼気迫るものというものがやはりあって、こういう迫力はなかなか現代風のCGでは得られない。

最近のアニメの描写力も、そこから引き出される感情も素晴らしいものがあるのだけれど、やはりCGに頼らない実写の迫力というものは別格であって、日本映画にこういう時代があったのだと知らない若い世代は是非にでも見ておくべきだと思う。「情念」の映像表現の極北がここにあるのだから。


■Amazon ビデオ 『魔界転生』

   
■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■深作欣二演出による個々人が生きている群衆シーンも凄いのだけれど、やはり綺羅星のような役者たちが素晴らしく、それをひとりひとり見ていこう。

002

まず、柳生十兵衛を演じた千葉真一。柳生十兵衛といえば、この人しかいないだろう。

主要登場人物で唯一魔界に堕ちることを拒んだ人物を演じた千葉真一の気迫は猛烈だ。

この圧力に対抗できる役者は藤岡弘くらいだろう。

でも藤岡弘のような狂気を感じさせないところが柳生十兵衛たる所以なのだろう。

003_3

ジュリーである。

天草四郎時貞という屈折したキャラクターに沢田研二はとても似合う。

天草四郎の恨みは3万人の民草の恨みである。

その恨みを背負っていながら、飢饉を生み出して罪のない民衆を苦しめお上に対する暴動を煽るという矛盾をはらんだ存在。

もはや恨みはそれ自体が目的化してしまっていて、それは悪魔に魂を売ったことによってもたらされた人格によるものなのかもしれない。

ジュリーといえば『太陽を盗んだ男』だけれども、この世のすべてを巻き込むような大きな狂気がとても個人的な情動と共存する、そういう危うさが、まさにジュリーなのだ。

004_3

柳生但馬守宗矩を演ずるは若山富三郎。

迫力のある人である。そういう演技は知っていたのだけれども、殺陣がこれほど凄いひとだとは知らなかった。こんなにキレのある殺陣は見たことがない。

子連れ狼だとか、若山富三郎の全盛期は世代が上になるので新たな発見であった。(私にとっての拝一刀は萬屋錦之介だもんね)

但馬守は、息子であり、後継者である十兵衛に対し、剣の道を究める上で雌雄を決しておきたいという願望を捨てきれない、その一点で魔道に入るのだが、いまいちそこがピンと来ない。それでもラストの立ち合いは、まさに若山富三郎と千葉真一という師弟の仕合いであって、その炎のなかでの鎬の削り合いに理屈は不要なのである。

005

宮本武蔵は緒形拳。

太い木刀で撲殺しまくる。あまりにも強い。二刀流もさまになっていてかなり稽古をつけたのだろう。

剣の道に生き、自らを慕った女の気持ちを知りながらそれを棄てた宮本武蔵。

その女の姪を登場に人の心を取り戻しかけるシーン。

そして巌流島を思い起こさせる十兵衛との決闘で、額を割られて倒れるシーン。

ともに緒形拳は派手な演技は行わないし、カットもロングショットで表情すら分からない。けれども観る者には武蔵の心情が十分に伝わるのだから、やはり役者としての緒形拳は尋常ではない。

濃密な昭和の俳優たちの中にあって、その微妙で奥深い演技が実に味わい深く、心に響くのである。

006

佳奈晃子さんという女優はあまり意識したことがないのだけれど、恐ろしく妖艶な人である。

もともと原作には細川ガラシャは登場しないようなのだが、そこに「女」という業を組み入れた角川春樹と深作欣二には脱帽なのだが、それを演じきった佳奈晃子さんもあっぱれである。

将軍様でも、これでは参ってしまいます。

015

007

さて、室田日出夫である。

胤舜は宝蔵院槍術の完成者。僧侶として女を遠ざけて生きているのに性的な衝動を抑えられない。

そのタガが外れて魔道に堕ちた胤舜はまさにセックスアンドバイオレンスの塊。そこに室田日出夫の獣性がきらめく。

『野獣死すべし』のリップ・ヴァン・ウインクルのシーンもいいけど、魔道に堕ちる前に女を襲う妄想に取りつかれる胤舜のシーンもまた素晴らしい。

狂気とは正気とのはざまにあるときに一番恐ろしい姿を現すのである。

026

伊賀の影丸は真田広之。

まだまだ若い。

魔道に堕ちた連中のなかにあって、天草四郎を信じる素直さと父を亡くした少女を思う人間性との間に揺れ動く。

若いということは「業」が浅いということ。

逆に年をとればとるほどに、人は抱えるものが増えていき、背負う「業」も深くなる。

しかし、業が深ければ深いほどに、人としても深くなる。

真田広之は今では深みのあるハリウッドスターだが、本作の真田広之にはそれは感じない。

今の真田広之はどんな業を背負っているのだろう。

いまだにさわやかさを失っていないのだけれど。

009

「神に会うては神を斬り、魔物に会うては魔物を斬る。これが村正にございます。」

このセリフがすべてである。

鍛冶師村正を演じる丹波哲郎。

「死んだら驚いた」

みたいな霊界の使者になって以降、すっかり印象が狂ってしまったけれど、よく思い出せばもともとそういう言い切り型の感じの人ではあった。

それゆえ、こういう「口上」が実に決まる。

本気なのか演技なのか分からない。

この人もまた「はざま」に漂う人なのであった。

 

こうして眺めてみると本当に濃い映画だ。

何だか『仁義なき戦い』が見たくなってきたぞ!

                      <2017.07.06 記>

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020

■STAFF■
製作 : 角川春樹
原作 : 山田風太郎
企画 : 角川春樹事務所
プロデューサー : 佐藤雅夫・本田達男・稲葉清治
脚本 : 野上龍雄・石川孝人・深作欣二
監督 : 深作欣二
撮影 : 長谷川清
録音 : 中山茂二
照明 : 増田悦章
美術 : 井川徳道・佐野義和
編集 : 市田勇
助監督 : 土橋亨
進行主任 : 長岡功
スチール : 遠藤功成
音楽 : 山本邦山・菅野光亮
衣裳アドバイス : 辻村ジュサブロー
協力 - 矢島特撮研究所、デン・フィルム・エフェクト
東映京都作品



■CAST■
千葉真一 : 柳生十兵衛光厳
沢田研二 : 天草四郎時貞
佳那晃子 : 細川ガラシャ
緒形拳 : 宮本武蔵
室田日出男 : 宝蔵院胤舜
真田広之 : 伊賀の霧丸
松橋登 : 徳川家綱
成田三樹夫 : 松平伊豆守
神崎愛 : おつう
菊地優子 : お光
丹波哲郎 : 村正
若山富三郎 : 柳生但馬守宗矩
  
大場順 : 柳生左門友矩
島英津夫 : 柳生又十郎宗冬
久保菜穂子 : 矢島局
成瀬正 : 甲賀玄十郎
中村錦司 : 石田上総守
河合絃司 : 神尾備前守
川浪公次郎 : 松平隼人正
鈴木康弘 : 富田主膳
有川正治 : 伊崎平内
岩尾正隆 : 安井藤兵衛
内田朝雄 : 酒井雅楽頭
相馬剛三 : 阿部豊後守
丘路千 : 堀田備中守
角川春樹 : 板倉内膳正
中江英生 : 細川忠利
林三郎 : 水野勝成
小林将孝 : 戸田氏鉄
飛鳥裕子 : 甲賀くノ一
鈴木瑞穂 : 小笠原少斎
浜村純 : 茂左衛門
東龍子 : 茂左衛門妻女
梅沢昇 : 伊賀の長老
犬塚弘 : 宗五郎
秋山勝俊 : 与平
野口貴史 : 彦作
白川浩二郎 : 米十
高月忠 : 百姓
中島茂樹 : 百姓
赤羽明 : 百姓
吉沢高明 : 百姓
鄭美玲 : 百姓
丸平峯子 : 百姓
白石加代子 : 声
カルロッタ池田 : 霊
畑中猛重 : 侍
中島葵 : 百姓女
三谷昇 : 旅僧
味方健 : 能シテ
味方団 : 能子方
谷田宗二郎 : 能ワキ
茂山あきら : 能アイ

 

 

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2017年7月 3日 (月)

■【映画評】『ハクソー・リッジ』、なすべきことは何か。戦争の狂気に打ち勝つ信念の物語。

容赦なく米兵の頭や体を打ち抜く弾丸。迫撃砲によって飛び散る手足。火炎放射器で火だるまになる日本兵。自動小銃の銃弾の雨をものともしない銃剣突撃に崩壊する大隊。

その凄惨さに目を伏せることはできない。目をそらせばスクリーンのこちらにいるはずの自分がやられる。そう思わせるほどの力がある戦場シーンだ。

しかし、本当の衝撃はそのあとにある。

これが真実の物語であることが何よりも強く響く、そういう映画である。

●●● 名画座『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.107  『ハクソー・リッジ』
           原題: Hacksaw Ridge
          監督: メル・ギブソン 公開:2017年7月
       出演: アンドリュー・ガーフィールド    ヴィンス・ヴォーン  サム・ワーシントン 他

Title

■あらすじ■
第二次世界大戦、デズモンド・ドスは人を殺さないという頑なな意思を持ちながら衛生兵として陸軍に志願する。銃を持つことを拒否したことにより軍のなかで孤立し、軍法会議にかけられるが、ある人物の助力により、銃を持たずに戦争に参加することを許される。

彼の大隊が派遣されたのは沖縄上陸戦。だが、そこにはハクソー・リッジと名付けられた難攻不落の日本軍の拠点が立ちはだかっていた。

005_1
005_2

■「敵が攻めてきてお前の大事なものに襲い掛かってきたら、お前はどうするんだ。」

頑なに銃をとることを拒否するデズモンドに軍曹が詰め寄る。

「分からない」

「でも、今、僕の大切なものが危機にさらされている」

戦争において、良心は判断の迷いを生み、それは本人だけでなく、小隊全体を危機に陥れる。

だから軍曹は徹底的にデズモンドを追い込み、心変わりをさせようとするが、決してデズモンドはくじけない。

彼の婚約者は軍の中で追い込まれたデズモンドを救うために

「撃たなくてもいい、銃を手に取って撃つふりをすればいいの」

と助け船を出すのだが、それはデズモンドの信念に反することであり、決して受け入れることは出ない提案だ。

008

婚約者でさえ、彼の信念がわからない。

誰もデズモンドのこだわりが理解できないのだ。

しかし、デズモンド自身もどうやって銃を持たずに、相手を殺すことをせずに、自らの大切なものを守るのかという軍曹の問いには答えることができないのである。

003

■地獄の戦場、ひたすら、ただひたすら、戦場の地獄が延々と続く。アメリカ兵も日本兵も、そして何より観ている私自身が、とても生き残れるとは思えない。そんな地獄だ。

夜が明け、地下壕から湧き出てきた日本軍の攻勢に一気に追い込まれるアメリカ軍。

デズモンドは敗走するアメリカ軍の中で必死に友軍兵士の救助を試みる。

009

アメリカの戦艦の猛烈な艦砲射撃の中、ハグソーリッジの瀬戸際で呆然とするデズモンドは天を仰ぎ、神に問う。

 
私は何をすればよいのか。
  

その目に取り残されている負傷兵が映る。そうか、そうなんだ。と、目の前の息も絶え絶えの、内臓をえぐられ、手足を吹き飛ばされた血みどろの友軍兵を死体の山の中から探し出し、ひとり、またひとりと崖まで運び、ロープで下していく。

006

■やがて艦砲射撃が止み、日本兵が敗残兵狩りに現れる

その目を盗みながらすすめる気の遠くなるような作業

  
神様、あと一人救わせてください

もうひとり、あとひとりだけ
   

そう祈りながら、デズモンドは過酷な救出作業を続けていく

その中には日本の負傷兵までも含まれる

目の前に敵が現れ、お前の大事なものに襲い掛かってきたら、お前はどうするのか

という軍曹の問いが改めてよみがえる。

それが、デズモンドのたどり着いた答えだ。

■まさに、この神々しいシーンのために、あの延々と続く地獄の描写が必要であったのだ。

殺さない、という戦場における消極的な決意は、

ひとつひとつ、目の前の命を救っていくという信念に昇華し、恐怖にも、絶望にも打ち勝って、まっすぐに強く前進する。

ハグソーリッジの第二次攻撃にあたり、隊長はデズモンドにお前が必要なんだと懇願する

誰もがみな、あの地獄に戻る恐怖には耐えられない。

殺さないことを貫き、命を救うことでそれに打ち勝ったデズモンドの強さを突入部隊は必要としたのだ。

それは、敵兵である日本人を殺すという矛盾をはらんだものであるものの、戦争という狂気に、その場に居合わせたアメリカ兵たちの心に、強い楔を打ち込んだのだ。

■エンディングで、実際のデズモンドや隊長たちのインタビューが流れる。

ここがこの映画の最大のメッセージだろう。

これは虚構じゃない。

確かに、戦争という狂気に打ち勝った男がいたのだと、

この映画を見終わったわれわれの心にも、強い楔を打ち込んでくるのだ。

集団の狂気に抗い、自らの魂に従い信念を貫き通すことは可能なのだ。

それは奇跡かもしれないけれども、われわれと同じ血の通った人間がそれを成し遂げたのだと。

012

                      <2017.07.03 記>

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■STAFF■
監督      メル・ギブソン
脚本      アンドリュー・ナイト
            ロバート・シェンカン
             ランダル・ウォレス
原案      グレゴリー・クロスビー
音楽      ルパート・グレグソン=ウィリアムズ
撮影      サイモン・ダガン
編集      ジョン・ギルバート



■CAST■
アンドリュー・ガーフィールド - デズモンド・T・ドス
リス・ベラミー          - 若年期のデズモンド・T・ドス
ヴィンス・ヴォーン       - ハウエル軍曹
サム・ワーシントン       - グローヴァー大尉
ルーク・ブレイシー       - スミッティ
ヒューゴ・ウィーヴィング    - トム・ドス
ライアン・コア          - マンヴィル中尉
テリーサ・パーマー       - ドロシー・シュッテ
レイチェル・グリフィス      - ベルサ・ドス
リチャード・ロクスバーグ    - ステルツァー大佐
ルーク・ペグラー         - ミルト・"ハリウッド"・ゼーン
リチャード・パイロス       - ランダル・"ティーチ"・フューラー
ベン・ミンゲイ           - グリース・ノーラン
フィラス・ディラーニ        - ヴィート・リンネリ

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■【社会】都議選、小池百合子、都民ファーストの会 圧勝。風は吹いた。問題はこれからだ。私は堀潤に期待します!

自民惨敗、都民ファーストの会、圧勝である。

過半数64に対し、自民23、都民ファースト49、公明を含めた小池勢力79となった。

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■安倍政権の落城で雪崩を打って票が流れたという見方もできるが、本質的にはマクロ視点の従来の自民党政治に対する、都民の個人の生活に根差した視点にアピールした都民ファーストの会の勝利という見方になるのだろう。

問題は小池百合子が国政に対する視線がある限り、住民個人の視点に立脚した今回の都民ファーストの会の当選者の思いとのかい離が広がっていくことが予想されることだ。

■いろいろな選挙速報番組があるなかで俄然面白かったのがMXだ。

やはり堀潤はいいねえ。

言いたいこと、言うべきことを言う。でも相手の話もしっかり聞いて論点に対していろいろな側面から光をあてて、議論を高めていく。

民主主義の根幹が議論なんだというしっかりした思想が態度に出ている、そこが素敵なのだ。

やはりNHKに収まる器ではない。

■今回の都民ファーストの圧勝に対しても、小池百合子に対して造反があったらどうするのかと鋭く切り込む。(何を言っているのか分からないと煙に巻かれてしまったが。。。)

当選した議員に対しても意見が合わなかったら造反するのか、と煽る。

これは寄せ集めの新人都民ファースト議員に対する明らかな誘導だ。

都民ファースト圧勝で小池百合子独裁体制を心配する評論家的意見を披露するつまらん他の報道番組とは一味違う、かなり踏み込んだ報道姿勢である。

報道って、ニュースを選んで、インタビューする人間を選んで、質問を選んだ時点で中立なんてことはあり得ない。

報道対象に対して、影響を与えないなんてこともあり得ない。

それを十分わかった上での振る舞いであって、そこが小気味いいのだ。

だから最近、朝はモーニングクロスがお気に入り。踏み込みが鋭いから。

これはMXという弱小だから出来ることだし、だからこそ堀潤はここを選んだのだろう。

■目指すべきはオープンな議論だ。

築地の豊洲移転問題で示された両方残すという方針は、その論理の流れが示されずオープンとは程遠いトップダウンであり、民主主義的には明らかな後退である。

それを受けての堀潤の「造反」の煽りだと思う。

その狙いは本当の「造反」ではなく、自由闊達な議論が都民ファーストの中で醸成されるための援護射撃にあるのだろう。

このまま不透明な「党首判断」に従う流れになったならば、既存勢力と入れ替わっただけのことであり、マクロ視点での政治という従来の流れを断ち切って政治を住民に取り戻す芽を摘むことになるからだ。

■それは小池百合子が国政に関与していく姿勢にも影響を与えるだろう。

民進党は完全にNOを出された。

批判政党に存在意義をだれも認めなくなったのだ。国民は馬鹿ではないのである。

二大政党制を担うのは、自民党のマクロの視点に対抗する住民視点のミクロの勢力になるだろう。

都議選を皮切りに、日本の各地でこの動きが進めば面白いだろう。

■防衛や外交といったマクロ視点も大事だけれど、少なくとも経済のマクロ志向は完全に立ちいかなくなってきている。

企業は投資も再配分もせず内部留保で守りを固め、日経平均がいくら上がろうが手取りが減っていく家計の縮小は止まらない。

それぞれの個々の物語に寄り添った政策がなければ、日本の回復は見込めない。

マクロとミクロのせめぎ合い、議論こそがこれからの日本に必須の構造なのである。

これは本格的な革命の始まりなのかもしれない。

小池百合子がマクロ視点にこだわるならば、その時は造反もありだろう。革命の主役が交代するのはよくある歴史なのだから。

これからの東京は注目だ。

堀潤、しっかり見ていこうな!

20170702horijyunn

                  <2017.07.03 記>

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2017年7月 2日 (日)

■【書評】『悪の正体 修羅場からのサバイバル護身論』、佐藤優。「悪」に名前をつけることの危うさについて。

ロシア連邦初代大統領エリツィン。その腹心を務めたブルブリスとの逸話を語ったプロローグに引き込まれた。実際に歴史に立ち会った人間の話は迫力が違う。

■1993年。エリツィン大統領派と最高会議派との対立は、最高会議派の武装反乱に至り、エリツィンはこれを武力を持って鎮圧する。分裂と内乱がロシア全土に拡大するのを阻止するためとはいえ、そのためには何百人もの同胞の血を必要とした。

エリツィンも、実際にこの鎮圧の指揮を執ったであろうブルブリスも、そこに「罪」を意識する。

これもまた、佐藤優の言う「悪」のカタチだ。

プロテスタントは(ロシア人はプロテスタントではないけれど)、その罪によって楽園を追い出された人間は原理的に過ちしか「悪」しか為すことができないと考える。

では佐藤の言う「悪」とはいったい何なのか。

■悪は直接に体験されるものである。と佐藤はラッセルの『悪魔の系譜』を引用する。

娘が殴られ、老人が襲われ、子供が犯される一方、テロリストは飛行中のジェット機を爆破し、偉大な国家は一般市民の居住地に爆弾を投下する。個人的にも社会的にも狂気にとらわれていない者なら、こうした行為に対して、すぐさま正当な怒りをつのらせるだろう。赤ん坊が打ちすえられるのを目にして、倫理観につらつら思いをはせたりはしない。もっとも根本的なレヴェルにおいて、悪は抽象的なものではないのだ。現実的かつ具体的なものにほかならない。

ラッセルはその上で、世の中には3つの種類の悪があるという。

一つは、人が故意に他者を苦しめるときに発生する悪。

一つは、自然が人にもたらす悪。

もう一つは、完全性が欠如している(神=善が損なわれている)という悪。

最後のひとつは明らかにキリスト教的な考え方であるけれども、自然災害がもたらす悲劇もまた「悪」だとする観点は、すべてを創造した神にとって人間はやはり特別な存在であるという意識を内在しており、これもまたキリスト教的で、「怒り」と「実り」の両方をもたらしてくれる自然という感覚をもった日本人とはやはり違うのだな、と思う。

佐藤はキリスト教徒であると同時にもちろん日本人であり、本書もその心情にそった展開をする。

人が他人を苦しめる悪はもちろん取り上げるのだが、自然がもたらす悪についても、そこから展開する人災(原発事故)や、社会に関わる悪(いじめ)へと転換していく。

その意味で、この本で扱う「悪」とは、人によってなされ相手に苦痛をもたらす具体的な行為を伴う悪、ということができる。

■佐藤優は国際政治のスペシャリスト。

外務省のロシアの専門家であり、その後、鈴木宗男議員事件に連座する形で512日の拘留、執行猶予付きの有罪判決を受けた人物である。

その罪とは国後島ディーゼル発電施設の入札に関与した罪、イスラエル学会に支援を行った罪であり、極めて政治的な色が濃いものである。

日頃の著作ではあまり強くは語らないけれども、佐藤はプロテスタント神学を学んだキリスト教徒だ。

国家公務員として国益に反することを行ったと二年近い期間拘留されるその彼の胸中で何かが育ったのは間違いないだろう。

けれどもそれは社会への復讐ではなく、啓蒙という形となった。


 受けるより与える方が幸いである (使徒言行録、第20章35節)
  

「知る」ことの強さを語る、その背後には、「知って欲しい」という祈りが込められているようにも思える。

■その佐藤はなぜ今、「悪」を取り上げたのか。

それは今の日本人が「悪に鈍感になっている」という危機意識である。

悪に鈍感な人間は、人に対して悪をおこなっているのにその意識がない。

自分の行為が相手を苦しめていてもその自覚がない。それは、個人的な行為についてもいえるのだけれども、社会として集合的に行われる行為、たとえば沖縄・辺野古の基地移設問題についての我々の鈍感さとして表れてくる。

SNSの無責任な投稿から始まり、弱者への社会的圧力への無関心に至る「悪」の蔓延に、強い憂いをもったのだろうと想像するに難くない。

■具体的な「悪」への処方箋が示されるわけではない。

大事なのは「知る」ことである。

「知る」とは「カタチ」を認識することである。

失楽園でのアダムやイヴのついた嘘や責任転嫁から始まり、資本主義とその究極のカタチである新自由主義が構造的に内包する「悪」に至る、具体的な「悪」の物語は、「悪」に対して感度が低くなってしまった我々に対して、「悪」がどういうカタチを伴って我々の周りに、そして我々のなかに立ち現れてくるのかを教えてくれる。

それを直ちに消し去ることはできないにしても、「知る」ことは重要なことなのである。

■しかしながら逆の言い方をするならば、むしろ、それが「悪」を生む、ということもできるかもしれない。

自らの外に「悪」を認識することは、「憎しみ」を生じさせる。

自らの中に「悪」を認識することは、「苦しみ」を生じさせる。

諸刃の剣だ。

そこにキリスト教的なキマジメさが感じ取れる。

プロローグで語られたブルブリスにしても、自らの行為が悪であると認識していようがしていまいが、人を殺めるという行為には変わりはない。

悪に自覚的であるならば、それは却って手加減のないものになってしまうかもしれない。

十字軍にせよ、原爆投下にせよ、IS掃討にせよ、キリスト教徒による自覚的「悪」ほど恐ろしいものはない。

佐藤優が生きてきた西洋のパワーポリティクスの世界は、確かにそういう原理で動いているのだろう。

■他人の悲しみや苦しみに感度を高めるということに対してはまったく異論はない。

人の痛みを感じる共感こそが、人間の人間たるゆえんである。

けれども、そこに「悪」や、より具体的なカタチの「悪魔」を見出すことは果たして我々に幸福をもたらすのであろうか。

仏教では、すべてを因果のなせる業であると説く。

他人から与えられる理不尽な行為も、 人知を超えた天災も、そこでは等価であり、天を恨むことが無駄であるように、人を恨んでも仕方がない。

いやいや、そんなに人間は割り切れるものではない。

相手が人間であると認識した瞬間、他人の「悪意」を感じたとき、我々の心は激烈な恨みにさらされる。

しかし、その自分の復讐心のなかに、なにかカタルシスのようなものを覚えたとき、相手に報復している自分の姿に喜びを感じてしまったとき、底知れぬ恐怖を感じるのである。

私のなかにこそ悪魔がいるのだと。

■それもこれも、「悪」を認識するというところから始まっているのではないか。

すべての苦しみは、怒り、妬み、悲しみ、そういったものは、不公平だとかも含んだ「悪」によって成り立っているのではないか。

怒りや、妬み、悲しみは自然な感情である。

けれども、そこに火をつけて燃え下がらせるものがあるとするならば、それは「悪」の定義づけなのではないか。それは、「悪」の対極である「善」を正当化させることによって激しく燃え盛る性質をもっているからだ。

■人が生き物である限り、日々何かを犠牲にして生きている。

それは食料となる生き物なしには生きていけない(ベジタリアン諸君!植物ももちろん生物だよ!)。生き物は生まれながらにして生きていくことを目的として生きている。それは植物にしても、動物にしても、もちろんわれわれ人間にしても同じである。

その「生きるべくして」生まれた生命の犠牲の上に我々は生きている。

そして社会という仕組みを動かすなかでは、不公平な苦労を背負わされる人が出てくるのも必定で、不公平なんてのは当然にしてあるものである。

もちろん、不公平は決してあってはならない、なんて声高に正論を述べる人もいるだろうが、本当にそう信じているのであれば極めておめでたい人なのだろう。ある意味幸せなひとだ。その人たちは自分たちだけで幸せな原始の森に帰ればいい。(いや、戻れるものなら私も縄文時代に戻りたいのだが!)

■言いたいことは、図らずもプロテスタントと同じ答えで、我々は生まれながらにして「悪」を抱えて生きているということだ。

問題なのは、それを忌むべき「悪」ととらえるか、われわれの「性質」ととらえるかの違いなのだ。

「悪」は対局となる「善」を生み、対立と争いの種となる。

「性質」は、分析を可能にし、それをコントロールする科学を生む。

ならば、われわれが進むべき道は明らかだろう。

「悪」に悪魔の名前をつけてはいけない。

その瞬間に、我々は「善」や「神」に呪われるからだ。

怒りや、妬み、悲しみを生む「それ」を、それとしてそのまま理解すること。

それが、人が幸福の道を歩む方向性なのではないか、

この本で「悪」について、つらつらと考えた結果たどりついた仮説は、いまのところそういうところだ。

結論は永遠に出ないのだろうけれど。

 

                    <2017.07.02 記>


■悪魔の系譜  ジェフリー・B. ラッセル

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2017年7月 1日 (土)

■【アニメ評】『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第二章「発進篇」』、沖田の子供たちが行く・・・。

待ちに待った第二章。

吹奏楽のヤマトのテーマが震えるほどかっこいい!!

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●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
番外編  『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第二章「発進篇」』
          監督: 羽原信義 公開:2017年6月
    

■今回は仕込みの話だから、強烈な盛り上がりはない。けれど、それでも綺羅星のような名セリフ、名シーンがあって、もうたまらんのです。

司令部の妨害を排して発進するヤマトを見送る藤堂長官、

「沖田の子供たちが行く・・・」

司令長官の立場では見せることができないその心情の吐露である。この人物造形の奥深さがヤマトなんだよなあ。

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それに対して芹沢の悪役ぶり(笑)。

波動砲艦隊が象徴する今の地球の矛盾の権化。アンドロメダ艦隊が全滅して芹沢が呆然とする姿が目に浮かぶ。

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■「攻撃目標ヤマト!」

アンドロメダ艦長の山南。彼もまた沖田の教え子であり、ヤマトの理解者。

ヤマト追撃をアンドロメダ単艦であたらせた司令部に本気で止める気はないし、山南も十分それを承知している。

大人なんだよなあ。

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007

「衝撃に備え!!」

アンドロメダの最新装備の攻撃をアステロイドリングでかわしたヤマト。新旧二艦が鎬を削る。

この後の山南の表情がまたたまらない。

ヤマトクルーは本当に愛されています。

こういう地球の大人たちの想いを描くのが今回のテーマなのだと思う。

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009

■今回のもう一つのポイントは、コスモリバースシステムの副作用で生じた時間断層。外界よりも時間の流れが速く、3年の期間で波動砲艦隊が完成したのはこの時間断層のなかで建造されたからだと説明される。

いままでの設定のおかしいところを修正していく作業もぬかりない。まあ、ワープだとか使ってる時点でもうなんでもありなんだけど。

010

■テレサについても過去の超文明の成れの果て、超次元意識生命体であると説明がなされる。

この宇宙の初めから終わりまでを見通すことができ、その歴史の中の人間の精神に干渉し、導く。

何だか神様になっちゃいましたね。

もはや反物質どころの話じゃないです。

でも落ちはどうするんだろうね。

「わたしのこの反物質の体がお役に立つと思います」

って、テレサだけが突っ込めばいいのでは?

という「さらば」最大の突っ込みどころをどう回避するのか。このあたりも気になります。

012

■一方、軌道面を異にする太陽系第11番惑星。

空間騎兵隊の斉藤と永倉が駐屯している。

波動砲艦隊構想に反対した土方も左遷されてこちらに。で、古代アケーリアス遺跡の発掘プロジェクトの陳情を受けたりとさりげなく、「2202」の後の展開も示唆される。

うーん、やっぱり古代は死なないんだね。

この時代、やはり「さらば」の

「お前にはまだ命があるじゃないか」

は、無理だよね。

あれを特攻の思想だとか言う人がいるけど、そういう人はちゃんと見てない。

■戦って、戦い尽くして、刀は折れ矢も尽きて、しかし目の前の敵はまったくの無傷。

冥王星会戦での沖田はそういう絶望の淵において、それでもガミラス艦に食らいつこうとする古代守に語り掛ける。

「明日のために、今日の屈辱に耐えるんだ。それが男だ」

さらばでは、その沖田をして古代進にその命を投げ出せと言わせる。

冥王星会戦の沖田は松本零士的であり、

さらばの沖田は西崎的と言えなくもない。

けれども、もう「人類の最後の希望」すら力尽きる、その状況の中で初めて見えてくるものがあって、「あきらめない」ことこそが唯一の突破口であること、それがテレサの心を動かしたということだ。

そこが「さらば」の神髄であって、決して特攻礼賛ではなく、あきらめないという意味で正反対の思想なのだ。

2202では特攻はないのだろうが、ではその神髄をどう描くのか、そこが「さらば」でヤマトシリーズは終了している、と考えるファンの最大の関心事なのである。

005

■さて、第11番惑星である。

ガトランティスの攻撃に斉藤達の守備隊は歯が立たず、最後の希望を託して永倉を乗せた連絡艇が打ち上げられる。仁王立ちでそれを護衛する斉藤。

「頼んだぞ!永倉あああ!!」

かっこいいねえ。。。

で、斉藤のピンチにヤマト登場。

いい調子、と思ったらカラクルム級戦闘艦の群れ。

一隻であの威力だったカラクルム級・・・

ヤマトの運命は!

というラストなんだけど、予告を見る限り、そのカラクルム級が何万隻も!!

いやあ、どうするんだろう。

■次のポイントは波動砲の封印をどう解くのかというところだ。

波動砲艦隊も来るだろうし、真田さんの「こういうこともあろうかと思って」もあるだろう。

さらにその先の波動砲解禁のドラマ。

10月14日の第三章「純愛篇」公開、楽しみです。

003

                    <2017.07.01記>

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[Blu-ray]  宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 2

■STAFF■
製作総指揮:西﨑彰司
原作:西﨑義展
監督:羽原信義
シリーズ構成:福井晴敏
副監督:小林誠
キャラクターデザイン:結城信輝
ゲストキャラクター・プロップデザイン:山岡信一
メカニカルデザイン:玉盛順一朗・石津泰志
美術監督:谷岡善王
色彩設計:福谷直樹
撮影監督:堀野大輔
編集:小野寺絵美
音楽:宮川彬良・宮川泰
音響監督:吉田知弘
音響効果:西村睦弘
オリジナルサウンドエフェクト:柏原満
CGディレクター:木村太一
アニメーション制作:XEBEC


■CAST■
古代進:小野大輔
森雪:桑島法子
島大介:鈴村健一
真田志郎:大塚芳忠
徳川彦左衛門:麦人
佐渡酒造:千葉繁
山本玲:田中理恵
新見薫:久川綾
南部康雄:赤羽根健治
相原義一:國分和人
太田健二郎:千葉優輝
岬百合亜:内田彩
桐生美影:中村繪里子
西条未来:森谷里美
榎本勇:津田健次郎
山崎奨:土田大
土方竜:石塚運昇
斉藤始:東地宏樹
永倉志織:雨谷和砂
藤堂平九郎:小島敏彦
芹沢虎鉄:玄田哲章
山南修:江原正士
ローレン・バレル:てらそままさき
クラウス・キーマン:神谷浩史
沖田十三:菅生隆之

 

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