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2017年4月11日 (火)

■【書評】『げんきな日本論』。橋爪大二郎×大澤真幸。日本の本当が浮かび上がると共に。

社会学者二人が日本の歴史をたどりながら日本という国の本質を探っていく。そこから立ち上がるのは、過去ではなく、これからの日本の姿だ。

■なぜ徳川幕府は世界にも類を見ない260年の平和な時代を作りだすことが出来たのか。東南アジアや中国がヨーロッパ諸国の侵略を許す中で日本だけが独立を維持できたのか。現存する最長の王朝である天皇家とは何なのか。

縄文時代から明治維新までをたどる中でその答えが見えてくる。

キーになるのは天皇だ。

天皇の威信は低下し、各地域で独自の政府機能が立ち上がった戦国時代。

織田信長はその中で日本的な価値観からぶっ飛んだ思考により、天下統一の一歩手前まで上り詰める。彼が目指したのは天皇すら超える’王’である。

けれどもその価値観は受け入れられず、地縁にこだわる明智光秀に殺されることとなる。

弥生時代、さらにはその魂は縄文の昔から連なる日本の’カミ’の概念と、その中心として営々と連なってきた天皇というもの。

それは弱々しく見えつつも日本の統治の背後に常に流れ続ける根幹なのだ。

天皇は神ではない。

どろどろの政略にまみれる現実の人間である。

こんなものを崇めるのはばかげているという信長の考えは実に合理的だ。

けれども、論理ではない何かが日本人を支配していて、信長の論理は受け入れられなかった、明智光秀が本能寺の変を起こさなかったとしても、どのみち破綻していただろうという本書の論はこころにストンと落ちるものがある。

■だから人の心を読むのに長けた豊臣秀吉は天皇の威を借りる。決して天皇を崇拝しているとは思えないが、関白という権威で日本の統一をほぼ完成させる。

けれども、戦国大名たちは戦争によって領地を広げ俸禄を大きくすることがモチベーションとなっていて、日本統一の完了はその終わりという意味で、これまでのやりやり方は通じなくなってしまう。朝鮮出兵はその結果とも思えるが、あまりにも無謀であり、徳川の勢力を強くする結果となってしまう。

徳川家康はそこで戦争の放棄を決める。

それは拡大による成長をやめる、ということで武士にとっては根本的なパラダイムチェンジだ。

ここで現状維持を目的とする260年の平和が開始されるのだけれども、その駆動力は「イエ」を維持するという概念だ。

武家の一族としての「イエ」、その武家が仕官する藩の「イエ」、それを統括する幕府という「イエ」、といった重層的な「イエ」の構造。

戦って勝つ、という武士の目的は、「イエ」を維持するという目的に変換され、260年間それが続いていくのだ。

■重要なのは、一族とかそういう小さな単位が基礎にあって、それが大きな組織につなっていくという構造だ。

本書の論では「イエ」は江戸時代に始まった概念とされるが、本書の論理を追っていくと、実はその「イエ」の根幹は平安のさらに前にさかのぼることが理解できる。

我々は天皇だとか幕府だとか、そういう最高権力に意識がいってしまいがちなのだけれど、常に「ムラ」というものがあって、最高権力と同時にそれら個別の権力が併存している。

古事記の時代にしても、アマテラスの使者は出雲を支配することに成功するが、滅ぼすことはしない。出雲大社はいまだに健在だ。

日本人は征服はしても、同じ輪に加えるだけで、決して虐殺も文化の根絶やしも行わない。(対外的に中央集権と同質化が可及的速やかに行われなければ国が亡びるという状況の明治時代はその意味で異質であり、アイヌと琉球の併合は例外である)

ではなぜ日本人は敵を根絶やしにしないかというと、それは、日本が山と川と海によって豊かな自然に満ちた国であり、12000年前の縄文時代から土地の奪い合いを行わなくても生きていけた、ということと無縁ではないだろう。

■本書では権力の正当性というものを一つの軸として歴史を点検していく。

中国でいえば「天」という絶対的なものがあり、皇帝は、「天」に認められることで権威を正当化させる。

ヨーロッパでは、キリスト教の神であり、それが王の権威の理由となる。

けれど日本において天皇は絶対的な神ではない。

神とは違う、たぶん縄文の昔からの土着の「カミ」のなかで、日本の中枢を押さえる勢力が持っていた「カミ」が、それらを統合する形で高天原の神々の原型となり、その末裔として「人間」となって今に続くのが天皇である。

豊かな風土の豊かな多様性が育んだ価値観は、支配者の価値以外は許さないという絶対的ものではなく、それ以外の価値観を許容し、ゆるく、ぬるく、包み込み同化していく価値観だ。

AとBは異なる。

とするのではなく、AとBを違和感なく受け入れる。異なるかどうかなんていうことは気にしない。

「ムラ」の氏神を祭りつつ、天皇にもそれなりの(おそらくは祭祀の親玉としての)敬意をはらう。

支配者である天皇にしても、無理に「ムラ」の氏神を消し去ろうとはしない、多様性を維持したい、という思いがあるわけではなく、下手に扱えば祟りや触りがあるからだ。

自然と同義である日本の「カミ」は豊な実りを与えると同時に厳しい自然災害をもたらす裏腹な存在である。

下手に扱えば大変なことになるという意識は日本人の深層心理に埋め込まれているのだ。

だから天皇はいらっしゃるだけで意味のある存在であり、それぞれの「ムラ」の存在は担保される。

確かに重層的な「イエ」の概念は徳川からかもしれないが、「ムラ」と「天皇」との関係を考えてみれば、日本人の根っこにずっとそれはあったのだ。

天皇自体は、それほどのカリスマがなく、むしろ政争の道具と化し、ぞんざいな扱いを受けだ時代があったにしても、それが弥生時代にクニが生まれたころから数えて2600年以上も存続しえたのは、各地方の「カミ」と共存し、それぞれの存在を担保しながらも、同時に同化するという不思議な構図があって、日本人が自己を維持しようとする限り、天皇も維持されていくという構造があるのだろう。

■江戸時代。

徳川家康は自らの幕府が日本を支配する論理として中国から朱子学を移植する。

上の権力は絶対である。それに忠たれ。

けれど、その権力の正当性は、朱子学にとっては「天」から与えられた正義に基づく絶対的なものであり、皇室と幕府の二重性の説明にはならない。

そこで儒学が起こり、朱子学のもとになった孔子のテキストに戻ることでその謎に迫ろうとする。

さらに本居宣長は国学で、日本の本来の姿を探求し、中国からの影響をすべて拭い去り、古事記に至る。

そこで得た結論は、天皇はカミの子孫である。したがって議論の余地なく正当性がある。その天皇から征夷大将軍という役割を与えられた将軍、そして幕府にも正当性がある、ということだ。

この概念が水戸学を経由して、尊王攘夷に至り、ペリー来航以来の国難にあたって明治維新につながっていくのだ。

■権威の正当性を中心に据えた本書だが、もう一つ大きな内容を解き明かしている。

それは江戸時代の儒学や国学が発展していく中で、ニュートラルにテキストを読み込んで評価するという手法が確立されたことの重要性だ。

日本はアジアが列強の植民地とされていく時代に西洋の技術、情報を貪欲に取り入れ、うまく立ち回りながら急速に(いわゆる)文明国になっていく。

和魂洋才などというが、輸入される技術や情報を、その背景にある哲学のようなものを排して自らの魂を維持しながら吸収し、成長させていく力が日本にはある。

それがアジアの諸外国との違いだ。

それは明治維新の時代だけではなく、飛鳥時代にも見ることが出来る。当時の日本人は技術、情報のキャッチアップを図るために仏教をいれる決意をしながらも、日本古来の「カミ」を捨てることはしなかった。

それが矛盾なくできるのは、八百万の多様な「自然」=「カミガミ」が矛盾なく存在し得る日本人の特性にあるのだけれど、その一方で、文字の重要性を著者たちは強調する。

仮名の発明である。

■「拒絶的受容」と著者は名づける。

外部のものを受け入れるのだけれど、完全には受け入れない。自分たちの価値観の外側に置いて明確に分ける。

それが漢字と仮名の機能なのだというのだ。

中国の文化は常に漢字である。それに対し古来から続く日本人のことばは平仮名で表現する。

日本人のことばを漢字で書くにしても漢字仮名混じりの訓読みとする。

音読みの漢字は、外来のものとして明確に分けられ、常に外在化している。

それは文明開化の時代においても西洋の言葉を、その背景にある思想を抜きにして、音読みの漢字として輸入する。

自由とか、人権とか、科学とか、そういう言葉である。

それらはどことなくよそよそしい言葉であって、きれい、とか、うれしい、とか、そういう大和ことばとは本質的に異なる言葉なのである。

一方、片仮名は仏典を読み解くときに補助的に使われたという経緯から、常に宗教的な香りをまとっていて、カタカナを使うとなにか呪術的な意味を背後に感じるものである。

たましい と タマシイ

おまえ と オマエ

何か、恐ろしさを含むのは常にカタカナなのである。

それは外来語、たとえばシンギュラリティとかホメオタシスとかいう言葉を漢字に訳することなく使うときに含む意味合いを考えると実に深い。

■ここまでの論で見えてくるのは日本というクニの正体である。

曖昧で定まることなくゆらぎながら、それでいて一つのシステムとしてまとまっている。

個々の局所的な「ムラ」とか「イエ」とかいうものの総体としてクニがある。

天皇は古くから各地の村々にいるカミを包み込むオオキミとして存在し、2600年の間、支配することなく続いていく。

それは多様で豊かで時に恐ろしい自然と共に暮らしてきた日本人のたましいに深く由来している。天皇はその日本の国土全体(カミガミ)を総体として祭る存在であり、日本の国土そのものの象徴と言ってもいいのかもしてない。

アニミズム的精神を維持するその一方で、日本人は外来の技術を自らのたましいの外に置きながら、客観的に扱い、その利を手にし発展させて自らのものにする。

それが揺らぎながらも唯一無二の独自の存在であることを守りながら、大きく発展していく力を持った日本の秘密なのである。

■しかし幕末から明治において、西洋の列強の脅威に対し、日本は中央集権的な体制を取らざるを得なかった。

その中心には現人神としての天皇が据えられた。

諸国の帝国主義に対して生き残るためにはこれしかなかったのだ。

いま問題となっている教育勅語は、本来の日本人のメンタリティを廃して、中央集権のための新たな価値観を植え付けるために作られたものである。

その意味をしっかりと理解しなければいけない。

しかし日露戦争をなんとかしのいだ日本は、軍部を中心に「イエ」の概念に蝕まれていく。日本が亡びるのを決死の覚悟で阻止するという幕末の志士たちの想いはここにおいて自らの組織を維持、成長させることが自己目的化することに変質していき、ついには破局を迎えることになる。

徳川260年を支えたのは「イエ」という組織を自己保存させようとする「空気」であり、昭和において日本を戦争拡大の道に引き込んだのもまた組織を自己保存させようとする「空気」であった。

江戸時代は日本の自己保存という特性が良い方に現れ、昭和では結局自らを滅ぼす方向にそれが働いた。

その違いは多様性を維持したか、一つの価値観に押し込めたか、にある気がしてならない。

「空気」は決して悪い方向に働くのではなく、どういう組織を維持しようとするかに関わってくる、ということだ。

■敗戦によって明治に始まった価値観は破壊された。けれども、戦後の発展は決して多様な価値観に基づくものだとは思えない。

帝国主義が資本主義に変わっただけだ。

確かに戦後からの復興の場面においては、中小の企業が成長していくなかで本来の日本的な多様性は維持されていた。

けれども、バブルの崩壊によって論理よりも個々の多様性を許容することによる活性は阻害され、外在化されているべき西洋合理主義的価値観に魂を売り渡し、グローバルスタンダードという名の市場資本主義に侵されていったのだ。

バブル以降、日本に活力がないのは当たり前だし、その処方箋を諸外国の制度や論理に求めてもうまくいかないのも当たり前のことなのだ。

最近、戦後の日本はGHQによって洗脳されている、いまこそ本来の日本を取り戻せ、などと叫ぶ人がいるが、笑止千万。

彼らがいう「本来」とは明治以降の日本であり、確かに明治以降の価値観は粉砕されたけれども、単一の価値観に基づく中央集権という意味では本質的に全く変わっていない。

それは本来の日本ではないのだ。

日本が日本らしく発展するには、多様性が不可欠だ。

矛盾を矛盾とせず、あいまいに、なんとなく、受け入れる。自然=カミガミに論理が通用しないように、日本人のこころにも論理はなじまない。

その一方で、論理を魂の外に外在化し、その技術の実をいただく、というのが日本人の特性なのだ。

単一性や論理を嫌うこころと、論理をうまく使いこなす技術。

その両輪が日本なのだ。

それを取り戻さなければならない。

■いま、資本主義は黄昏を迎えている。

拡大を前提とした自転車操業の資本主義は、最後の巨大市場である中国の低成長化によって崩れ去る運命にあるのは火を見るよりも明らかだ。

東南アジアやアフリカに期待を寄せるにしても、中国の発展と失速までのスピード感を考えれば、その有効期限はたかが知れている。

ITなどの新しい産業にしても、初期の高い価値は低開発国のリバースエンジニアリングですぐに低下価格化し、市場にいきわたってしまってこちらの寿命も短命化が加速してしまうのはITバブルの経緯で証明済。

あと10年もつのか、30年もつのかは分からないけれども、確かなのは今の世界を覆う市場経済優先の単一の価値観ではもうにっちもさっちもいかなくなっているということだ。

想えば、戦国時代から徳川幕府の時代に変化するときも、拡大志向から成長を否定した安定志向への社会変革が行われた。

今、日本に必要なのはそのメカニズムを明らかにし、今の状況にうまく転用して生き残りを図ることだ。

それは鎖国なんて馬鹿なことではなく、多様性とか、小さな組織とか、そういうことのような気がしている。

日本の人口は2065年には8808万人になると今朝の新聞に載っていた。

単一市場が自立できるのは一億人が必要と言われているから、これは由々しき事態だ。

けれどもマイナス成長でも、幸せを享受する仕組み、社会は必ずある。

日本はほんの150年前にそれを経験しているのだ。

アメリカへのご機嫌取りで時間を稼ぎながら、その道をすばやく探さなければならない。

もう、それほど時間はないのだ。

                   <2017.04.11 記>

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