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2017年3月29日 (水)

■【書評】『火山で読み解く古事記の謎』 蒲池 明弘。 古事記を単なる神話や歴史書であることから解放することで日本人の心の奥底に深く刻まれた本質が浮かび上がる。

7300年前の九州最南部における鬼界カルデラ噴火を古事記の起点に据える、目から鱗の力作である。

古事記の世界にはどうも釈然としない部分があるのだが、この説に寄ればするすると合点がいく。そして稲作を中心に据えた太陽信仰という流れで天皇の物語りをとらえていた従来の見方ががらりと音を立てて裏返り、その深い顔をのぞかせるのである。

■天岩戸の話がある。

スサノオが姉のアマテラスを訪ねて高天原に行くのだけれど、攻めに来たのだと思い込んだアマテラスと争いになる。神様を生む技比べに勝ったとはしゃぐスサノオは乱暴狼藉をし、それを恐れたアマテラスが天岩戸に隠れたので世界が暗くなってしまった、というあの話である。

従来の稲作信仰の文脈では日食への畏れの神話なのだとかいわれるが、著者は疑問を呈する。

何しろ日食は数分間の出来事で、それが大地を死滅させ、水を枯らし、「糞」をまき散らし、家の屋根に穴をあけて馬を放り込んで侍女を死に至らしめる、なんていうこととどうしてもつなげることが出来ないからである。

結論を言えばスサノオは何万年に一度の巨大噴火で、その猛烈な火砕流は九州南部を埋め尽くし不毛の地に変え、その成層圏に達する噴煙は太陽の光を何年にもわたってさえぎった。そのスサノオの「狼藉」に隠れされた太陽であるアマテラスを呼び覚ます儀式、祈りが天岩戸の話ということだ。

なるほど、と膝をたたく説明だ。

■高天原を追放されたスサノオは土地のものを苦しめるヤマタノオロチと戦い、これを退治する。

ヤマタノオロチの話の不思議さは、山をまたぐほどの巨大さなのに、甕の酒に首をつっこんで酔っ払ったところをスサノオに打たれるというスケール感のアンマッチである。

ヤマタノオロチは稲作の観点からみると荒れ狂う河川ということになるのだけれど、らんらんと赤く輝く目と、その山八つ、谷八つにわたる巨大な体には杉や檜が生えている、という記述にはどうもしっくりこない。

これが山頂から吹き出る溶岩流だとするならば、これもまた、ああなるほどな、というわけである。

山から里に攻めてくる溶岩流は、大河の氾濫とする説とは異なり、それを避ける壁を作り、そのなかで酒を奉納して祈るという姿に実にしっくりとマッチする。

スケール感の違いによる違和感が見事に解消されているのだ。

■時が下り、スサノオの子孫であるオオクニヌシの治める出雲の地を奪うべく、高天原から最後の使者であるタケミカヅチがアマテラスの命により派遣される。

ここでオオクニヌシは国を譲るかどうかを二人の息子にゆだねる。

一人はそれを受け入れるが、もうひとりの息子のタケミナカタは拒否。タケミカヅチと力比べをするのだけれど、破れ、諏訪に逃走する。

ここの謎は何故、諏訪なのか?である。

高天原の天孫族が朝鮮半島から渡ってきた人たちだとすると比較的穏やかな壱岐から山陰に渡ってくるのは分からないでもない。

でもなぜ諏訪?いきなり遠過ぎでしょう?

諏訪が縄文の中心にあり、そこまで攻め込んだ、という見方もできるが、ならばオオクニヌシは諏訪に居てもいいはずで、どうもしっくりこない。

これまでの古事記の読み方を縄文から弥生に切り替わる2300年前くらいに焦点をあてる従来のやり方で見る限り答えは出ない。

その視点を縄文時代まっさかりの一万年、いやそれにさかのぼる数万年前に置くならば、

出雲の大山も、諏訪を取り巻く八ヶ岳も、実に活発に活動してた活火山であったことが見えてくる。

■我々は縄文人を屈服させて日本を占領した弥生人の物語りとして古事記をとらえてしまうのだけれど、そうではなくて、数万年のスケールで我々日本人の記憶の中に収められた荒れ狂う火山を祈りによって治める物語りとして読み直す。

侵略と平定の物語りにしては、戦いの神が表にしゃしゃり出ることはあまりなく、先のタケミカヅチにしてもどこか牧歌的で、むしろ、そのあとの天孫降臨も含めて主人公はアマテラスであり、つねにそこにはアメノウズメが表に立っている。

アメノウズメは巫女である。

乳房と陰部をあらわにして踊るのは、隠されたものを表にだす呪術性というだけでなく、むしろ、山と熱い部分という火山との同質性にこそ意味がある。

火山を前にしたとき、武器も武人も全く役にたたない。

表に立つのは祈る人だ。

古事記とはそういう祈りの物語りなのだ。

スサノオにしても、ヤマタノオロチにしても、オオクニヌシたちにしても、さらにイザナミのイザナギからの逃走にしても、それを火山という自然の猛威ととらえると、ぎくしゃくしていた古事記の物語りがかちりと音を立ててはまり、動き出す。

それは、畏敬の念を込めて火山と付き合ってきた縄文人たちの心象風景なのである。

■そうしてみると天孫降臨がなぜ北九州ではなく、九州南部熊襲の地なのかがよくわかる。

弥生人たちが朝鮮半島から渡ってきたのだとしても、別に今の日本の国境があるわけでもなく、北九州にそれほどの意味はない。

それよりも荒ぶる火山の地である南九州こそが「祈る」人たちにとっての重要な場所だったということだ。

天孫降臨は弥生以降の渡来人と土着の縄文人を峻別するものではないのかもしれない。

ここにおいて古事記は人と人の関わりの物語りから大きく逸脱する。

降臨してきたニニギが美しく可憐なコノハナサクヤ姫と結婚するのは、コノハナサクヤ姫が薩摩富士ともいわれる開聞岳であるとするならば、人と自然との和解と読み解けるわけで、7300年前の大噴火以降、日本の火山が徐々に大人しくなっていったこと、それに合わせて縄文文化が発展していったことと無縁であるはずがない。

 

なんだろう。

この感動は。

火山国である日本の自然の荒々しさと、そこから再生される生命の美しさ、そしてそこに生きる日本人の精神的豊かさが圧倒的スケールで迫ってくる。

古事記は単なる神話でも支配者の歴史書でもない。

何万年も続く、日本人の魂の書なのである。

それは東日本大震災後の今の日本人に、深く響く。

                                           <2017.3.29 記>

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