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2016年12月29日 (木)

■【書評】『魂の退社』 稲垣えみ子。「仕事」とは何か。豊な生活が生んだ罠。

さて、今年も仕事納めである。

電通の過労自殺の話もあり、あらためて「仕事」について考えてみたいと思う。

魂の退社 

■「労働者」なんていうくらいだから、「われわれにとって仕事とは」といえば、「労働」ととらえる場面が大多数であろう。

「労働」といわれれば、対価をもとめて時間を拘束されて成果物をつくること。と、いった感じだろうか。成果物は、工業製品であったり、農作物であったり、設計図であったり、報告書であったり、雑誌の記事であったり、あるいは形のない接客サービスであったりするのだろう。

このとき、われわれは、自分の時間と肉体的、精神的疲労の対価として、賃金を受け取る。

自営業であったとしても、自分で自分を縛るという意味では同じであろう。

「同一労働同一賃金」であったり、「サービス残業」なんていう概念は、こういう「労働」の文脈の上にあるといえる。

そして、今回、厚生労働省が電通を労働基準法違反の容疑で書類送検したことは、「労働」とは「自由」の対立概念、或いはそれを制限するものであり、人権に関わる概念だということの現実としての証左である。

ここでは「自由」を引き換えに、人は生活のための金を稼ぐのだ。

■しかし、実際に仕事をしている人の大多数は、

 「自由」を引き換えに生活のための金を稼ぐ

とだけ考えて働いているわけではない。

やはり、「やりがい」というものを感じなければ、なかなか、「労働」には耐えることが出来ない。

自分が自分なりにやったことが、何かの成果を生み、それが「やりがい」を生む。

20年以上働いてきて、まあ、そういうものだろうと、だから、それを得ようと頑張ってきたし、仕事を家に持ち帰って徹夜したりしていたのも、「やらないと殺される」的ブラックな強制ではなく、自らの自由意思で己の成果をより良くしよう、とする「やりがい」に押されたものであったと思う。

しかし、それは少し違っているのではないか、と50が近いこの歳になってなんとなく感じ始め、今年の夏に、この本に出合って、それは確信に変わったのである。

■著者の稲垣えみ子さんは、その立派なアフロヘアーにちょっとびっくりするのだが、押しも押されぬ朝日新聞の敏腕女性記者だった人である。

それが、左遷ともとれる地方支局への異動を機に、気づいてしまうのだ。

仕事はやりがいでやるもので、昇進とか、高給なんて関係ない。

そう思ってきた自分が、会社という組織のなかにいる中でいつの間にか「昇進」というものにすっかり囚われてしまっていたのだ。

女性記者としての出世頭であった稲垣さんにも「ガラスの天井」があったのだろう。

なぜあいつが!!私の方がずっと出来るし、成果も出してきたのに!!

という思いは、「やりがい」の結果の対価を求める当然の気持ちである。

■しかし、40代後半になってしまうと、会社の中のポジションというものはほぼ確定してしまい、しかもそれは単純な「成果」だけで決まるものではない。

極めて理不尽なのだけれど、それが現実なのである。

そして、まったく、そっくり同じ気持ちを私自身が抱えていることを発見し、その現実を突きつけられた時の衝撃は正直、大きなものであった。

仕事とは「やりがい」を求めてやるものだと信じていた自分は、「地位」とか、「年収一千万円」とか、どうでもいいと否定していたものに、実は内心少しは気づいていたものの、すっかり囚われていたということだ。

いま自分が抱えているこのどうしようもなくツライ感情は、そのアンビバレントな内面の葛藤によるものだったのである。

周りの同期が出世していくなかで、取り残されている自分。

そこに理不尽なものを感じ、怒りを覚える。しかし、地位を求めるでも、必要以上の金を欲しいとも思わない、そういう自分でありたい、だから、その感情を認めたくない。

そういう葛藤である。

稲垣さんは、びしりとその罠を明確に書き記す。

その刃にやられたのだ。

地方支局で、中央にない地方の面白さを知った稲垣さんは、その後、地方支局発信の記事が中央にあがる仕組みを作ったり、福島第一原発事故をきっかけにした極端な節電生活をレポートしたコラムが評判になったりして、腐ることなく成果をだすのだが、50歳を機に退職をし、フリーの物書きに転身する。

もはやそこには、怒りとか、意地とかはなく、むしろやり切ったという清々しい思いがあふれている。

たぶん、「昇進」に囚われていた自分を受け入れて、それを乗り越えたのだと思う。

そういう具体的な姿で人生の選択肢を提示されることは、実際に会社をやめるかどうかによらず、かなりの救いになったのは事実である。

稲垣さんには、本当に感謝。どうもありがとう、と言いたい。

■さて、「仕事」についてである。

他の職業は実体験がないからよくわからないけれども、サラリーマンという職業にとっての仕事とは、単なる「労働」ではなく、出来得るならば「やりがい」を求めるものであり、けれども、課長になった、部長になった、役員になったと、際限のない出世を求め、年収一千万をやっと超えましたよ、とか、生活に必要な以上の高給を求めたりする。

それはすべて、単に権力や金が欲しいというのではなく、「認められたい」という狂おしいまでの思い、から発するもののような気がしている。

そこから脱するには、自分のいる場所で満足する以外にはない。

稲垣さんにしても退職したのは、「満足」のあとである。

それを引きずったまま退職したところで、同じことの繰り返しになるのは目に見えている。

「地位」や「名誉」のさらに先に進まなければ、「仕事」の新たなステージは見えてこないのではないか、と、そう思うのだ。

■「生業(なりわい)」という言葉がある。

辞書によると 

  生計をたてていくための仕事

とある。

お客さんに喜ばれればうれしいし、いいものが出来れば満足するし、それを誰かに褒められれば気分はいいだろう。

けれども、それは「生計をたてていく」という土台の上にあるものなのだ。

「仕事」とは、この「生業」そのものであり、それ以上でも、それ以下でもない。

だから、この仕事が良いとか悪いとかはなく、会社の役職にしても、それは集団の中の単なる役割に過ぎない。

 いい仕事をするねえ

なんて言われるときの仕事は決して褒められるためにやっているのではなく、目の前のやるべきことをやった、それだけのことなのである。

まだ日本が貧しい時代は、きっと「仕事」でこんなに悩むことはなかったのだろう。

なにしろ家族がちゃんと3食たべて生きていくことが最優先なのだ。

それは縄文の昔から変わることはなかったに違いない。

■「仕事」は、決して労働基準法が定めるような、人間の自由を切り売りするような代物ではない。それは、自らが生きていくために自らが行う行為だ。

それが「生計をたてていく」ということだ。

高度成長でがむしゃらに働き、余裕ができたそのときに、「生計をたてていく」以上のことを「仕事」に求めてしまったのだろう。

それが不幸の始まりなのだ。

誰が何を求めて働こうが、私自身には全く関係ない。それに気付かない人が不幸だと決めつけるつもりもない。

ただ、私が気づき始めてしまったということだ。

あと10年働くか、20年働くかわからないけれども、家族がちゃんと食べていける、そのために「働く」。

そういう人生が歩めればなあ、と、まだまだ自らのこころの奥底でうずく、「認められたい」という感情を眺めながら、この年の瀬を過ごしている。

                       <2016.12.29 記>

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