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2016年12月

2016年12月29日 (木)

■【書評】『魂の退社』 稲垣えみ子。「仕事」とは何か。豊な生活が生んだ罠。

さて、今年も仕事納めである。

電通の過労自殺の話もあり、あらためて「仕事」について考えてみたいと思う。

魂の退社 

■「労働者」なんていうくらいだから、「われわれにとって仕事とは」といえば、「労働」ととらえる場面が大多数であろう。

「労働」といわれれば、対価をもとめて時間を拘束されて成果物をつくること。と、いった感じだろうか。成果物は、工業製品であったり、農作物であったり、設計図であったり、報告書であったり、雑誌の記事であったり、あるいは形のない接客サービスであったりするのだろう。

このとき、われわれは、自分の時間と肉体的、精神的疲労の対価として、賃金を受け取る。

自営業であったとしても、自分で自分を縛るという意味では同じであろう。

「同一労働同一賃金」であったり、「サービス残業」なんていう概念は、こういう「労働」の文脈の上にあるといえる。

そして、今回、厚生労働省が電通を労働基準法違反の容疑で書類送検したことは、「労働」とは「自由」の対立概念、或いはそれを制限するものであり、人権に関わる概念だということの現実としての証左である。

ここでは「自由」を引き換えに、人は生活のための金を稼ぐのだ。

■しかし、実際に仕事をしている人の大多数は、

 「自由」を引き換えに生活のための金を稼ぐ

とだけ考えて働いているわけではない。

やはり、「やりがい」というものを感じなければ、なかなか、「労働」には耐えることが出来ない。

自分が自分なりにやったことが、何かの成果を生み、それが「やりがい」を生む。

20年以上働いてきて、まあ、そういうものだろうと、だから、それを得ようと頑張ってきたし、仕事を家に持ち帰って徹夜したりしていたのも、「やらないと殺される」的ブラックな強制ではなく、自らの自由意思で己の成果をより良くしよう、とする「やりがい」に押されたものであったと思う。

しかし、それは少し違っているのではないか、と50が近いこの歳になってなんとなく感じ始め、今年の夏に、この本に出合って、それは確信に変わったのである。

■著者の稲垣えみ子さんは、その立派なアフロヘアーにちょっとびっくりするのだが、押しも押されぬ朝日新聞の敏腕女性記者だった人である。

それが、左遷ともとれる地方支局への異動を機に、気づいてしまうのだ。

仕事はやりがいでやるもので、昇進とか、高給なんて関係ない。

そう思ってきた自分が、会社という組織のなかにいる中でいつの間にか「昇進」というものにすっかり囚われてしまっていたのだ。

女性記者としての出世頭であった稲垣さんにも「ガラスの天井」があったのだろう。

なぜあいつが!!私の方がずっと出来るし、成果も出してきたのに!!

という思いは、「やりがい」の結果の対価を求める当然の気持ちである。

■しかし、40代後半になってしまうと、会社の中のポジションというものはほぼ確定してしまい、しかもそれは単純な「成果」だけで決まるものではない。

極めて理不尽なのだけれど、それが現実なのである。

そして、まったく、そっくり同じ気持ちを私自身が抱えていることを発見し、その現実を突きつけられた時の衝撃は正直、大きなものであった。

仕事とは「やりがい」を求めてやるものだと信じていた自分は、「地位」とか、「年収一千万円」とか、どうでもいいと否定していたものに、実は内心少しは気づいていたものの、すっかり囚われていたということだ。

いま自分が抱えているこのどうしようもなくツライ感情は、そのアンビバレントな内面の葛藤によるものだったのである。

周りの同期が出世していくなかで、取り残されている自分。

そこに理不尽なものを感じ、怒りを覚える。しかし、地位を求めるでも、必要以上の金を欲しいとも思わない、そういう自分でありたい、だから、その感情を認めたくない。

そういう葛藤である。

稲垣さんは、びしりとその罠を明確に書き記す。

その刃にやられたのだ。

地方支局で、中央にない地方の面白さを知った稲垣さんは、その後、地方支局発信の記事が中央にあがる仕組みを作ったり、福島第一原発事故をきっかけにした極端な節電生活をレポートしたコラムが評判になったりして、腐ることなく成果をだすのだが、50歳を機に退職をし、フリーの物書きに転身する。

もはやそこには、怒りとか、意地とかはなく、むしろやり切ったという清々しい思いがあふれている。

たぶん、「昇進」に囚われていた自分を受け入れて、それを乗り越えたのだと思う。

そういう具体的な姿で人生の選択肢を提示されることは、実際に会社をやめるかどうかによらず、かなりの救いになったのは事実である。

稲垣さんには、本当に感謝。どうもありがとう、と言いたい。

■さて、「仕事」についてである。

他の職業は実体験がないからよくわからないけれども、サラリーマンという職業にとっての仕事とは、単なる「労働」ではなく、出来得るならば「やりがい」を求めるものであり、けれども、課長になった、部長になった、役員になったと、際限のない出世を求め、年収一千万をやっと超えましたよ、とか、生活に必要な以上の高給を求めたりする。

それはすべて、単に権力や金が欲しいというのではなく、「認められたい」という狂おしいまでの思い、から発するもののような気がしている。

そこから脱するには、自分のいる場所で満足する以外にはない。

稲垣さんにしても退職したのは、「満足」のあとである。

それを引きずったまま退職したところで、同じことの繰り返しになるのは目に見えている。

「地位」や「名誉」のさらに先に進まなければ、「仕事」の新たなステージは見えてこないのではないか、と、そう思うのだ。

■「生業(なりわい)」という言葉がある。

辞書によると 

  生計をたてていくための仕事

とある。

お客さんに喜ばれればうれしいし、いいものが出来れば満足するし、それを誰かに褒められれば気分はいいだろう。

けれども、それは「生計をたてていく」という土台の上にあるものなのだ。

「仕事」とは、この「生業」そのものであり、それ以上でも、それ以下でもない。

だから、この仕事が良いとか悪いとかはなく、会社の役職にしても、それは集団の中の単なる役割に過ぎない。

 いい仕事をするねえ

なんて言われるときの仕事は決して褒められるためにやっているのではなく、目の前のやるべきことをやった、それだけのことなのである。

まだ日本が貧しい時代は、きっと「仕事」でこんなに悩むことはなかったのだろう。

なにしろ家族がちゃんと3食たべて生きていくことが最優先なのだ。

それは縄文の昔から変わることはなかったに違いない。

■「仕事」は、決して労働基準法が定めるような、人間の自由を切り売りするような代物ではない。それは、自らが生きていくために自らが行う行為だ。

それが「生計をたてていく」ということだ。

高度成長でがむしゃらに働き、余裕ができたそのときに、「生計をたてていく」以上のことを「仕事」に求めてしまったのだろう。

それが不幸の始まりなのだ。

誰が何を求めて働こうが、私自身には全く関係ない。それに気付かない人が不幸だと決めつけるつもりもない。

ただ、私が気づき始めてしまったということだ。

あと10年働くか、20年働くかわからないけれども、家族がちゃんと食べていける、そのために「働く」。

そういう人生が歩めればなあ、と、まだまだ自らのこころの奥底でうずく、「認められたい」という感情を眺めながら、この年の瀬を過ごしている。

                       <2016.12.29 記>

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2016年12月28日 (水)

■キャリー・フィッシャーさん、死去。

スター・ウォーズでレイア姫を演じたキャリー・フィッシャーさんが心臓発作で亡くなりました。享年60歳でした。
 
ご冥福をお祈りします。
 
夢をありがとう。
 
Leia
 
<2016.12.28 記>

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2016年12月21日 (水)

【社会】「同一労働同一賃金」で何が起きるのか。

■政府は20日、首相官邸で働き方改革実現系義を開き、非正規社員の処遇改善を即す「同一労働同一賃金」のガイドライン案を示した。(2016.2.21 日経一面)
 
国内の労働市場のうち非正規労働者は4割を占める。その非正規労働者の正規雇用者との格差是正が目的だ。
 
ポイントは2つ。
・基本給を能力、成果、勤続年数で評価して支給する。
・業績と成果に応じた賞与を支給する。
 
■この15年、失われた20年に沿うように派遣労働が拡大していった。わたしも機械設計の現場にいるが、その変化は目を見張るもので、今や設計担当者のうち正社員は数えるばかりだ。
 
それは新自由主義の旗印のもとグローバリズムをめざす政府と企業の連携のなかで進められた。
 
今の30代の連中は、就職氷河期のなかで能力がありながら派遣社員にならざるを得ない状況があって、一緒に仕事をしていて非常に心苦しい想いを感じていた。
 
今回の指針が法制化され、非正規であっても正社員と同じ待遇が得られるなら、それに越したことはない。
 
だが、本当にそうだろうか。
 
■以下のサイトに面白い情報がのっている。
 
 
厚生労働省『平成25年度労働者派遣事業報告書』をもとに、派遣マージンについて詳細にまとめている。
 
ざっくり言えば、
・会社は正社員と遜色のない金を派遣会社に支払っている。
・派遣社員の給与はその60%程度で、派遣会社のマージンは3~4割
・社会保険などの経費を引くと、派遣会社の粗利は2割程度
 
派遣社員を雇う会社にとって短期的にはあまりメリットはなく、労働力の調整弁としての意味が強いことがわかる一方、派遣社員の給与を搾取しているのは派遣会社であることがわかる。
 
■さて、今回の影響はどうなるか。
 
新聞の分析によれば、あまり影響はない。つまり、会社側は言うことは聞かないだろう、ということだ。
 
それはそうだ。
 
派遣先企業は今だって、それなりに支払っているのだ。
 
社員を労働コストとして扱い、調整弁を設けてモノとして扱う禁断の果実を手にした今の企業は決して正社員中心の会社には戻らないだろう。
 
そこにあるのは労働コストの上昇のみである。上がったコストは下げなければならない。
 
ならばどうなるのか。
 
短期的には、労働時間の短縮によるコスト削減で臨むだろう。残業代は過去のものとなり、でも成果は求められる。効率アップで豊かな生活といった美辞麗句の名のもと、労働者にとっては精神的にも経済的にも苦しい時代がくるだろう。
 
中長期的には、人員削減である。ますますAIによる労働市場の浸食が進むだろう。
 
■この「同一労働、同一賃金」の背景には、いっこうに収まらないデフレ経済がある。
 
一部の資産家や経営者を除き、国民の所得が上がらないこと、そこからくる現在と将来への不安が消費を抑えていて、それがデフレ脱却を阻害しているのだと政府もわかっている。
 
けれども、それが労働コストの上昇を伴うがゆえに、むしろ正社員も含めて所得は悪化し、雇用も減っていくという逆効果しか生まないだろう。
 
だから、悪いことかといえば、わたしはいいんじゃないかと思うのだ。
 
今の新市場主義社会が逃れられないものならば、早く膿を出し、そこからの構造的脱却を目指すべきなのだ。
 
個人的には、会社に頼らない生き方の確立が目指すところだと考えているのだが、まあ、この10年、波乱含みだが、変化の風が吹く、面白い世の中になるかもしれない。
 
                         <2016.12.21 記>
 
 
 
 
 

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2016年12月18日 (日)

■【社会】オスプレイが危険だという嘘の宣伝がまかり通る背景について。

沖縄、普天間米軍基地所属のオスプレイの事故をきっかけに、オスプレイ排斥の動きが加速している。

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■先日の記事でも触れたけれども、決してオスプレイの事故率は高くない。

問題の本質は住宅密集地に航空基地があること自体にあって、決してオスプレイにあるわけではない。

オスプレイ自体はとても魅力的な機体だ。

オスプレイは、ヘリコプターのように長い滑走路が無くとも離発着が出来、固定翼の飛行機のように高速移動が可能であり、また航続距離も長い。

CH-47と比較すると、1割程度積載量で劣るものの、巡航速度は2倍近くあり、航続距離も1.6倍だ。

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※Wikipediaより

■これは、何を意味するかというと、場所を選ばず、迅速に人員や物資を輸送することが出来るということだ。

そこを考慮し、自衛隊も災害援助や離島対策も視野におき、オスプレイの調達を決定した。

熊本地震での米軍のオスプレイの物資輸送が宣伝だと言われたりするけれども、まあ、そういう側面があったとしても、実際に活躍できるということを証明してみせたわけだ。

むしろ迅速性という観点からは、距離が遠く、速度と航続距離が必要となる離島への救護などでは非常に活躍するであろう。(従来はUS-1や、その後継機種であるUS-2という海上自衛隊の飛行艇で対応していたるが、やはり、物資を下ろしたり、人の搭乗などのシーンを考えれば、当然、陸上離発着の方が優れるだろう。)

■どう考えても、オスプレイの配備は良い選択であって、平和的な感じもする。

それなのに、何故、拒否されるのか?

それは、配備されると困る人(国)があるからだ。

オスプレイはあくまでも兵器である。戦争の道具である。

大量の兵士と装備を迅速に、長い距離をものともせずに運ぶことが兵器としてのオスプレイの役割だ。

例えば、沖縄に配備されたとして、沖縄の離島にある国が船で攻めてきたときに、その上陸前に、迅速に陸上部隊をその島に展開することを可能にする。

それが、今、オスプレイが沖縄にいる意味だろう。

それを苦々しく思っている国がいて、さらなる配備を阻止し、できれば追い出したい国がいるということだ。

そして、オスプレイの沖縄配備を、危険だと嘘をついてまで反対している団体や政党の思惑も、それに関連していると考えていい。

ニュースを鵜吞みにせず、自分で少し調べてみると見えてくることもあるのだ。

<関連記事>
■【社会】オスプレイ不時着。飛行機は必ず事故を起こす。統計学とひとりの人生。

                      <2016.12.18 記>

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2016年12月17日 (土)

■【映画評】『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』、「新たなる希望」へつなぐ魂の物語。

公開初日に劇場へ。

物語が終わり、エンドロールが流れ始めた途端、となりに座っていた母娘が、これって何かの話の続きなの?と会話を始めた。一方、反対側のとなりに座っていたおじさんはさめざめと泣いていた。かく言う私も隣のおじさんと同じ世代であり、左に同じ。

まあ、そういう映画なのだ。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.93  『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』
           原題: Rogue One: A Star Wars Story 
          監督: ギャレス・エドワーズ  公開:2016年12月
       出演: フェリシティ・ジョーンズ ディエゴ・ルナ 他

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■あらすじ■
天才科学者ゲイレン・アーソは帝国の眼から逃れ、家族とともに辺境の惑星ラ・ムーにひっそりと暮らしていた。だがある日、帝国軍が現れゲイレンは新兵器開発のために連れ去られてしまう。幼い娘のジンは地下の隠れ家に身を潜め難を逃れる。それから月日がたち、成長したジンはトラブルから帝国に捕らわれの身となっていた。そこに反乱軍が現れてジンを助けだす。反乱軍とたもとを分かった過激分子のソウのもとに、ゲイレンから新兵器、デス・スターの極秘情報を託された帝国の脱走兵が現れたというのだ。ジンはゲイレンの娘であり、また育ての親がソウであることを反乱軍が知り、彼女にソウへの接触を依頼したのだ。

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■いわずとしれた、スター・ウォーズ EP4 『新たなる希望』につながる物語である。ジェダイは出ない。ライトセーバーで戦ったりもしない。けれど、確実にこれはスターウオーズであり、むしろ、ほかのエピソード以上にスター・ウォーズらしいと言えるかもしれない。

こう言うとコアなファンから袋叩きに合うかもしれないが、スター・ウォーズとして圧倒的に面白いのはEP4「新たなる希望」、EP5「帝国の逆襲」までであり、3部作の最後をかざるEP6「ジェダイの帰還」や、それ以前を描いたEP1~3については、もちろん好きではあるものの、映画としては正直微妙で、NEW HOPE/EMPIRE STRIKES BACKのようなドキドキがなかったのは事実である。

そして、今回の「ローグ・ワン」は、EP4「新たなる希望」、EP5「帝国の逆襲」と同じ匂いがする映画であり、泣けるというたぐいの感動でいえば、もうダントツで「ローグ・ワン」なのである。

■この映画は二つの意味で泣ける。

ひとつは、なつかしさ。

EP4につながる登場人物やメカが登場するのはもちろん、空気感といったものがあって、たぶん、スターデストロイヤとか、X-ウイングとか、AT-ATとか、そういった特撮メカの撮り方、動かし方のディテールなんだと思うのだけど、そういった細部への愛情みたいなものがあふれていて、それがなつかしいワクワク感を加速させるのだと思う。

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■もうひとつは、絆だ。

主人公のジン、反乱軍のきたない仕事を引き受けてきたキャシアン、その相棒のドロイドK-2SO、帝国の操縦士ボーディー、盲目の戦士チアルート、速射砲の名手ベイズ、この5人と1体の絆が泣かせるのだ。

それは甘ったるい仲間意識でも、ひとつの目的に向かってというような単純なものでもない。

ならば何なのか?

それはとうてい文章で説明がつくようなものではなく、それぞれの人物造形の深さが嚙み合って、その相乗効果として生まれてくる関係性なのである。

そう、この物語は、ルーク・スカイウォーカーという新たな希望にバトンを手渡す彼ら「ローグ・ワン」と自ら名乗った5人と1体の歴史に記されない英雄たちの魂の挽歌であり、その先の物語を知るものは、その重みに涙するのである。

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■ともかくオールドファンは劇場へ行こう!

あの懐かしい世界があなたを待っている。

そして、ラストシーンは予想通りなのだけれど、それでも、「えー!!」という、うれしい驚きがのどから飛び出すことだろう。

今回、私はMX4D吹き替え版で見て十分堪能したのだけれど、被写体深度の深い広角での情感に訴える映像と英語のセリフ、特に最後の「HOSE」のセリフを聞きたくて、こんどは2D字幕で見に行きます!!

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■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■さて、先に語ったように、この映画はデス・スター秘話でありながら、焦点は「ローグ・ワン」の5人と1体に絞られている。

悲しみの科学者ゲイレンの物語や、帝国の司令官クレニックの野心の物語も、時代に押しつぶされた勇者ソウ・ゲレラの物語も、もちろん深くある。

けれども、やはり本筋はローグ・ワンの物語であり、惑星スカリフでのミッション開始から急速にその凝縮力は加速していく。

それは個の力の凝縮である。

■しかし、その中核は意外なことにジンとキャシアンではなく、人間味あふれるK-2SOと、そしてそれ以上にチアルートとベイズの東洋人コンビにある。

ジェダイではないが、いやジェダイではないがゆえにフォースを心の底から信奉するチアルート。そんなチアルートをからかいながらも実は尊敬し、信じる男ベイズ。

彼らの散り方が本当に泣ける。

 
 フォースは我と共にあり

 我はフォースと共にある

 
そう唱えながら、通信機のマスタースイッチを入れるべく、敵の銃弾の中をまっすぐ進むチアルート。

ジェダイであれば、敵の銃弾をすべてライトセーバーで叩き落したりするところだが、チアルートは生身の人間だ。

しかし、信じる力がある。

そしてマスタースイッチにたどり着きスイッチを入れることに成功するのだが、その直後にやられてしまう。

戦場で生き残ったベイズは、単身、チアルートの後を追うように彼が唱えていた言葉を重ねながら、進み続ける。

たぶん、これは「サムライ」なのだと思う。

それは外人が思うステレオタイプの「サムライ」ではなく、日本映画を愛するアメリカ人の考える「サムライ」なのだと思う。そこに美学を見ているのだ。

その美学は、黒澤というよりむしろ高倉健に近いのかもしれない。

私の世代でいえば、「野生の証明」のラストシーン。

命を落とした娘を背負い、単身、自衛隊の戦車部隊に向かっていくあの姿だ。

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■物語は彼らが命を落とした後にも進んでいくし、目的を遂げたジンとキャシアンにも絶望的な結末が待っている。

それでもなお、チアルートとベイズのシーンに固執するのは、「脇」の重要性を思うからだ。

ジンとキャシアンにはプロット上重要な役割が振られていて、いやでも、流れの中心にいる。

だが、ジンとキャシアンを描くことに全力を込めれば、脇があまくなり、薄っぺらくなってしまう。

2人の活躍は、K-2SOやチアルートとベイズのコンビの上に成り立っている。「脇」というよりも「土台」なのだ。

前半にK-2やチアルート、ベイズを描くことにどれだけ力を入れていたか。その成果が、後半の凝縮力を強固なものにすることにつながっている。

それがこの映画が単なるジンとキャシアンの物語になることを回避し、「ローグ・ワン」としての像を、見る者のこころに刻み付けるのである。

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■ラスト。

ともかく帝国の力は強大で、デス・スターがやってくれば惑星は壊滅だし、ダースベイダーがやってくれば艦隊も壊滅である。

デス・スターの設計図を手に入れたカタルシスが覚める間もなく、見るものは帝国の実力をまざまざと見せつけられる。

そう、まだNEW HOPEは現れていない。

だがキャリー・フィッシャーの若き日の姿を目にした驚愕に、観客のこころは覚め、あの日の歓喜を一瞬にして呼び覚ます。

映画は魔法なのである。

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                      <2016.12.16 記>

追記:ラストに出てきたレイア姫はCGではなく、ノルウェー人女優のイングヴィルド・デイラ(Ingvild Deila)さんなのだそうです!似すぎ!で、この人の方がきれい(笑)

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■STAFF■
監督 ギャレス・エドワーズ
脚本 ゲイリー・ウィッタ
クリス・ワイツ
原案 ジョン・ノール
原作 『スター・ウォーズ』 ジョージ・ルーカス
製作 キャスリーン・ケネディ
音楽 マイケル・ジアッチーノ
撮影 グリーグ・フレイザー
編集 ジャベス・オルセン
製作会社 ルーカスフィルム



■CAST■
ジン・アーソ - フェリシティ・ジョーンズ(渋谷はるか)
キャシアン・アンドー - ディエゴ・ルナ(加瀬康之)
オーソン・クレニック - ベン・メンデルソーン(三上哲)
チアルート・イムウェ - ドニー・イェン
ベイズ・マルバス - チアン・ウェン
ボーディー・ルック - リズ・アーメッド
ゲイレン・アーソ - マッツ・ミケルセン
ソウ・ゲレラ - フォレスト・ウィテカー(立木文彦)
K-2SO - アラン・テュディック
ジェベル議員 - ジョナサン・アリス
モン・モスマ議員 - ジュヌヴィエーヴ・オライリー
ドレイヴン将軍 - アリステア・ペトリー
ダース・ベイダー - ジェームズ・アール・ジョーンズ(声)
ベイル・オーガナ議員 - ジミー・スミッツ(てらそままさき)
デス・スター技師 - ライアン・ジョンソン、ラム・バーグマン
ライラ・アーソ - バレン・カネ
メリック将軍 - ベン・ダニエルズ

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チアルート、ホントかっこよかったです!

 

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2016年12月15日 (木)

■【社会】オスプレイ不時着。飛行機は必ず事故を起こす。統計学とひとりの人生。

ティルトローター機だから危ないと決めつけるとか、だまされやすいにも程がある。というより、その背後には、そのみんなの無知さ加減をついて煽り、政治利用する連中がいて、そいつらには本当に虫唾がはしるのだ。

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■でも、米軍は米軍で問題だ。「不時着」とか「最善の判断」とか、きわめて素直な気持ちなんだろうけど、基本的に勘違いしてる。危険回避を自画自賛する前に、機体が不安定になったなら住宅密集地の基地には向かうな、ということだし、そこに普天間の問題の本質があるのではないのか?

いや普天間だけじゃなくて、それは嘉手納も、いやいや、沖縄だけじゃなくて、厚木も、横田も、住宅密集地に近接して航空機を運用する基地すべてに対していえることなのだ。

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オスプレイ、空中給油中にプロペラ損傷 「最善の決断」

朝日新聞デジタル 2016年12月14日23時58分

沖縄県名護市沿岸で13日夜、米軍普天間飛行場(宜野湾市)所属の垂直離着陸機オスプレイが不時着を試みて浅瀬に着水し、大破したのは、空中給油の訓練中のトラブルでプロペラを損傷したためだ、と米海兵隊が14日発表した。在沖米軍トップのニコルソン四軍調整官が、記者会見して明らかにした。  

ニコルソン氏によると、事故機は沖縄本島の東方約30キロ付近を飛行しながら空中給油機から給油を受ける際、給油ホースが切れてオスプレイのプロペラが損傷した。機体は不安定な状態になり、普天間への帰還を試みたが、パイロットの判断で、目的地を、市街地に囲まれた普天間ではなく、東海岸沿いのキャンプ・シュワブ(名護市)に変更した。しかし、たどりつけず、午後9時半ごろ不時着水を試みたという。  

ニコルソン氏は県民に「謝罪します」と述べつつ「パイロットが沖縄の上空を飛ばず、沖縄の人々の多くの命を守り、乗組員を守った。最悪の事態で最善の決断をくだせたのは誇りに思う」と話した。オスプレイを当面飛行停止とする一方、事故はオスプレイの構造や設計が原因ではなく、プロペラがホースを切り、そのときに損傷した可能性が高いとの見方を示した。

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■V-22オスプレイの事故率は、アメリカ海兵隊所属のMV-22の10万時間当たりの平均事故率は1.93、同じ在日米軍のヘリコプターCH-53Dの事故率は4.15。

この数字のばらつき加減がよくわからないので、扱いには気を使うが、それでもヘリよりも【危険】ではない、ということは確かだ。

では、気にするなということか、というと断固違うと思う。

10万時間運用すれば2回事故が起きる。

20機運用していれば、5000時間だ。

仮に一日5時間運用するとして、1000日、3年に一回事故が起きてもおかしくない、

そういうオーダーの話をしている。

■大切なのは、先も見たように、ほかの航空機もそういう【平均事故率】を持っているということだ。

基地が住宅密集地近くにある限り、周辺住民は常にその【平均事故率】と付き合いながら生活を続けることになる。

そして重要なのは、1.9回/10万時間という統計学は、事故が起きてそれに誰かが巻き込まれた瞬間、その犠牲者にとっては100%に変化する、一度っきりの人生を完全に失ってしまう、ということだ。

今すぐ、基地を都市部から締め出し、離島に移せ!

なんて非現実的なことは言わない。

けれども、何か起きた時の対応については、徹底してもらいたい。

今回の件で、パイロットは一度は普天間の住宅街の上を危険な状態のまま飛ぼうとしていたわけで、そういうことを回避するマニュアルと教育について、在日米軍は徹底すべきである。

事故がゼロにならないならば、せめて、その影響が住宅密集地に及ばない、その確率を少しでも下げる努力をしてもらいたいものである。

何度もいうが、それは、オスプレイの問題でも、普天間だけの問題でもない。

                         <2016.12.15  記>

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2016年12月14日 (水)

■【映画評】『オール・ユー・ニード・イズ・キル/ALL YOU NEED IS KILL』、誰だって爽快なラストが見たいのさ!

原作の漫画化したものと比べると、もう段違いの完成度。これがハリウッドの実力なのか。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.92  『オール・ユー・ニード・イズ・キル/ALL YOU NEED IS KILL』
           原題: Edge of Tomorrow
          監督: ダグ・リーマン 公開:2014年7月
       出演: トム・クルーズ エミリー・ブラント 他

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■ストーリー■
近未来。地球は謎の異星人の侵略を受け、ヨーロッパ大陸を失った。人類は起動歩兵を中心にした部隊を組織し、反攻作戦を計画。米軍報道官のケイジ少佐はブリガム将軍から前線に立つことを命令されるが、将軍を脅す態度で拒否したため、階級をはく奪されて強制的に歩兵部隊に送り込まれる。ケイジは前線で死ぬことになるのだが、気が付くと部隊に送り込まれた日に戻っている。ケイジは戦場で死に、目覚め、再び戦場に向かうという無限のループにはまり込んでしまったのだ。

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■原作は桜坂洋のライトノベル。

原作は読んでいないけれども、小畑健が漫画化したものを読む限り、プロットと設定が面白く、またディテールまでしっかりしていて、見ている人はみているのだな、と思う。

そして、さすがハリウッドだと思うのは、少年少女向けのセンチメンタルな部分はすっかり消し去り、ハードな部分を抜き取る。そして、その特異なプロットを磨き上げ、確かに All You Need Is Kill. だという本質をしっかりと残しつつ、すっかり2時間のエンターテイメントに作り上げたことだ。

原作のやるせなさもよいのだけれど、やはりハリウッド映画は爽快でなければならない。

どっちもありだが、まずは原作漫画に目を通してみるのも悪くない。

ハリウッドが日本のコンテンツを映画化してもろくなことにならない、なんて思い込みはすっかりとぬぐい去られること請け合いだ。

■舞台設定が素晴らしいのは、原作譲りだとしても、プロットとシナリオが恐ろしいくらいにうまい。

かなり練り込んだに違いない。

主人公は若い初年兵から、中年の事務屋に大きく変更、少年の成長物語的なものを排して、現実に起きていることに観客を集中させることに成功している。

ヒロインのリタも歴戦の勇者らしい屈強さを持たせ、リアリティが増している。

彼女が使うアックスは、ヘリのブレードの改造品に変わり、そのあたりも違和感がない。

この手の世界のリアリティについてはハリウッドはお手の物、ということだろう。

3

■シナリオも、時間がループすることを最大限に利用していてかなりうまい。伏線を張り、繰り返しで強調し、だます。

くすりと笑わせ、どきりとさせ、ぐっと感動させる。

確かにループものは、やりやすいんだろうけれど、ここまで徹底的にやられると、小気味いいのである。

中でも、軍曹の口癖、

「兵士たるもの運命は自らが支配せよ」

というセリフがメッセージとして効果的で、この映画のテーマとしてうまく浮き出させることに成功している。

5

■人物造形については、まあ、トム・クルーズのうまいことうまいこと。

コミカルなダメ人間が、次第に研ぎ澄まされていき、途中、自ら運命を切り開こうと決意するシーンなんか、たまらなくかっこいい。

一方のリタは、さほど彫り込まれないのだけれど、それ故に、背景を感じさせる描き方で、全部を語ってしまう原作との対比からすると、映画的にはやはりこちらだろう。

ところで、めっぽう真面目なリタなのだが、その真面目さゆえに、何か予定外のことが起きるとすぐにリセットと称して主人公を射殺してしまう。

その、すぐリセットしたがる癖は終盤までおさまらず、ここもまたクスりとさせるところで、リタいいぞ!と応援したくなるのである。

■「ギタイ」と称するクリーチャーについては、これまた原作から修正。これまた結構いけている。

8
9
11

造形自体は獣のような頭と手足があって、まあ、あるかな、という程度のものなのだが、圧倒的に動きが速くて、かつ、トリッキー。この、よくわからない感が映像としては素晴らしく、「ギタイ」の容赦ない感じがうまく出ていたと思う。

でも、どっかでこれ見たな、という感覚もあって、あとから気づいたのだけれど、マトリクスのクリーチャーの動きだった。まあ、それは、マトリクスの悪夢世界の描き方が素晴らしすぎだった、ということだろう。

■ケイジが放り込まれる、戦場もいい。

ともかく壮大で、有無を言わさないものがある。

あんなところに突然放り込まれたら1分と生きていられない。

そういう激しさも万全である。

こういうところで手を抜かないのがポイントで、作品の深さは背景にどれだけエネルギーを投入したかで決まる、という好例である。

■先に書いたが、この映画、ラストの爽快感が半端ない。

原作を読んだ人ならば、絶対に見ておく価値がある、おすすめだ。

1

   
■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■この映画のなかで、ぐっと来たシーンがある。

ケイジとリタが何度もトライを重ね、ついに戦場を抜け出す。

追ってを振り切り、無人の小屋にたどり着く、そこにはヘリがあって、それを使ってラスボスがいるダムを目指そうとする、というシーンだ。

満身創痍にも関わらず、積極的に仕掛けようとするリタ。

けれど、ケイジは、そんなリタを必死に抑え、落ち着かせようとする。

コーヒーの砂糖は3杯だったね、

というさりげないケイジのセリフに、リタの表情が凍り付く。

戦場を抜けた時点で、繰り返しのループから抜け出したと、リタも、見るものも、勝手に解釈してしまうのだけれど、実はこの場面も繰り返し行われていて、しかも失敗しているということだ。

このときのリタの表情がいい。

分かってたはずなのに、まんまとやられた、という感覚に水をささない絶妙な演技を要求されるシーンだが、エミリー・ブラントは見事にそれを演じて見せた。

ここから物語は大きく転調していく、そのきっかけになるシーンだけにゆるがせにできない、そういうこだわりも見えてきて、たぶん、作り手のそういう姿勢が映画全体をうまく動かしているんだろうな、と感じ入るのである。

4

■さて、ラストである。

リタはアルファにやられ、ケイジも死ぬ。

けれど、ラスボスであるオメガの体液を浴びたケイジは、また時間をさかのぼる。

そこは、将軍に司令部まで呼び出され、ヘリで移動している最初の場面。

だが、その時すでに、エイリアンは謎の大爆発のあと、急速に無力化されてしまっていた。

あれ、時系列がおかしくないか???

と一瞬思うのだけれど、よく考えれば、あのエイリアンたちは時間軸を超えた存在であり、ある時間軸でオメガを破壊した瞬間に、ケイジがたどり着くすべての世界において、エイリアンは同時に消滅するのである。

という屁理屈はおいておいて、このラストによって、リタも小隊の連中も、この世界において死ぬことから逃れられる。

リタも小隊の仲間も、ケイジのことはまだ知らず、これから一緒に戦うこともないのだけれど、ケイジだけがそれを知っている。

腕立て伏せに励むリタのもとに現れるケイジ。

それはあたかも、勝利ののち、彼女を迎えにきたようで、あれ?トップガン??と、ちょっと脳内で若返ったトム・クルーズなのであった。

                      <2016.12.11 記>

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■STAFF■
監督 ダグ・リーマン 
脚本 ダンテ・W・ハーパー 他
原作 桜坂洋 『All You Need Is Kill』
製作 ジェイソン・ホッフス
グレゴリー・ジェイコブズ
トム・ラサリー
ジェフリー・シルヴァー
アーウィン・ストフ
製作総指揮 ジョビー・ハロルド 
音楽 ラミン・ジャヴァディ
撮影 ディオン・ビーブ
編集 ジェームズ・ハーバート

■CAST■
ウィリアム・ケイジ  トム・クルーズ 
リタ・ヴラタスキ    エミリー・ブラント 
ファレウ曹長     ビル・パクストン 
ブリガム将軍    ブレンダン・グリーソン 
カーター博士    ノア・テイラー 

 

 

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■【まんが評】『ぼおるぺん古事記』、こうの史代。おおらかな、それでいてわれわれと地続きの神代の物語り。

こうの史代さんは天才である。

あの何だかよくわからない古事記の世界を、コトバなしでも伝えることができるという「まんが」というメディアの力を使って、そのこころの機微をダイレクトに伝えることに成功してる。

まんがとしても、古事記伝としても、革命的な作品だとおもう。

「夕凪の街、桜の国」や、「この世界の片隅に」とはまた違う味わいの、こうの史代の世界がここにある。

■古事記は言わずと知れた日本最古の歴史書で、712年に編纂されたといわれる。天皇の存在を神話と地続きに語ることで、その権威を保証するものであるのだが、その中身のおおらかさというか、なんともいい加減なところが実に日本的で素敵なのである。

けれど、本でその物語を読もうとすると、ひたすら長ったらしい漢字の名前の神様の羅列で、中身に素直に入れず、かといって、天岩戸とか、因幡の白兎とか、ひとつひとつの物語りにフォーカスした「おはなし」だけでは、単なる昔ばなしになってしまって、何かが大きく欠落してしまう。

そこを、こうの史代は「読み下し文」で古事記のテキストを忠実に追いながら、いきいきとした神々のキャラクターを創造し、紙面のなかで彼らに息吹きを吹き込み、古事記のお話を演じさせる。

その瞬間、とっつきにくい古事記の文字の連なりに、古代に生きた人々の魂が宿り、ああ、なんだ、いまと同じじゃないか、と心から思える。

まんが?と思うなかれ、むしろ、まんがだからこそ成功したコロンブス的超絶アプローチなのである。

しかも、巻頭の写経のような原文の写しの和綴じ本的付録を見ればわかるが、こうの史代さんは、おそらく徹底的に古事記を読み込んで完全に自分のものとしている。

それを咀嚼し、まるで口嚙み酒をつくるかのように、その感情を「まんが」の画面に定着させる行為。余計なセリフや解釈を排除し、さらにボールペンのみで描くというシンプルさが、「アイデア」を「作品」へと完成させているのだ。

■古事記は神代の時代から推古天皇の時代までを描くが、本作は上つ巻と呼ばれる神話時代の巻を題材にしている。

・天の巻 天地創生 天地創生からスサノオノミコトまで

・地の巻 出雲繁栄 オオクニヌシノミコトの物語り

・海の巻 天孫降臨 ニニギノミコトの物語り

まずは、天地創生。

高天原に形もおぼろげなアメノミナカヌシノカミがあらわれ、歴史がはじまる。ここからイザナギ、イザナミまでの神世七代は、混沌から実体が像を結んでいく時代なのだけれども、この薄らぼんやりしたイメージが、イザナギ、イザナミの感情移入可能な、しっかりしたキャラクターに移っていく、その描きかたゆえに、この不可思議な世界観が、なんともすんなりと心に入ってくる。

イザナギ、イザナミの国生みでは、つい、ヒルコってなに??と思ってしまったりするのだけれど、ああ、はじめはうまくいかなかったんだな、と若い夫婦の心情に寄り添うことで、すんなりと通過する。

ともかく、原文の読み下しで進むので、原文にしか頼ることができない。それゆえに余計な途中下車での勝手な解釈に惑わされることなく、原文の本来の意図が浮かび上がるのだ。

イザナミが火の神を生むことで死んでしまう悲劇、イザナミを探しに黄泉の国を訪ねるイザナギ。

そこでイザナギが見たイザナミは!

本来のイメージであれば体中からウジが湧いていて、その姿を見られたイザナミが怒り狂うという場面なのだが、菓子をぼりぼり食いながらのごろ寝でテレビのワイドショーを見ているという描写。

恐れ入りました。

確かに原文にはない、けど、そういうことだよね!

ここがギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケの悲劇との差であって、「美化」というものがまったくもって存在しない、古事記がほかの世界の神話と一線を画している素晴らしいところなのだ。

ちょっとやりすぎ?という気もしないではないが、本質を突いた素晴らしいまなざしだと思う。

そして、この世と黄泉の世界のはざまにある黄泉比良坂。

追ってくるイザナミと、千引岩をたてに別れを告げるイザナギ。

原文の背景に、幸せであった二人の回想が流れる。

なんて切ないんだろう。

そして、コトバで語らないって、なんでこんなにも力があるんだろう!!

■時代は、イザナギが清めた体からうまれた、アマテラスとスサノオの代に引き継がれる。

このアマテラスのふくよかなキャラがまた素晴らしい。

天照大神といえば神々しい美しい姿で描かれるのが定番でしょ?

でも、これです。

それが、なんともワガママなアマテラスの性格にぴったりだということが、出雲征伐あたりになってようやく合点がいくのである。

スサノオもまたヒーローらしからぬブ男である。

たぶん戦前なら発禁処分もの。

でも、だからこそ、その情感がいきるのだ。

このあたりで素晴らしいシーンといえば、もちろん天岩戸もあるのだれど、なんといってもオホゲツヒメのお話。

お前、そんなきたねーところからひねり出したメシを食わせたのか!とスサノオに殴り殺された可哀そうなオホゲツヒメ。

原初に神であるカミムスヒが、そのオホゲツヒメの体から五穀を生み出すシーンは感動的に美しい。

人間的なものに寄り添ったこの作品のなかで、もっとも神話的な見せ場といえるだろう。

それがあって、その直後のクシナダヒメとの幸せを詠んだスサノオの和歌のあたたかさが効いてくる。

やくもたつ いづもやえがき つまごみに 

やえがきつくる そのやえがきを

■さて、そんなこんなでスサノオはたくさん子である神々をつくり、その子孫にオオクニヌシがいて、第二巻目は、彼の物語り。

ここは本当に分からない。

なにが分からないかというと、オオクニヌシはスサノオの直系であって、ともに国造りをするスクナビコなんかは原初の神のカミムスヒの実の子供だったり、それをオオクニヌシが直接カミムスヒに高天原に確かめに行ったりする。明らかに天尊族。

なのに、アマテラスの直系に領土を取られてしまうのだ。

このあたりは、種々雑多なカミを祭ったクニが、アマテラス系のカミのもので、ひとつにまとまる過程で生じる矛盾なのだろう。

で、そんな矛盾なんか、この作品はまったく気にしない。

あくまでも原文なのである。

その潔さがいいのである。

古事記のもつ、おおらかさを描こう、という強い意志をそこに感じるのである。

とらわれない、深く考えないからこそ、スセリビメの猛烈なやきもちと、メンドクセー、と思いながらも、そんなスセリビメをかわいく思うオオクニヌシのやさしさが強く押し出されるのだ。

さて、そんなオオクニヌシが治める地上の世界を、アマテラスが奪おうと試みる。

が、送り出す刺客は、オオクニヌシの世界が居心地よいのか、全然帰ってこない。

その度に、パパどうしよう、と原初の神であるタカミムスヒを引っ張り出して会議を招集、案を出すのは毎回オモヒナネ、という繰り返しが笑える。

征服者がアマテラス、被征服者がオオクニヌシ(=スサノオ)という構図で考えるならば、オオクニヌシが悪者になってしかるべき。歴史書とはそういうものである。

けれど、オオクニヌシは悪者どころか、すごくいい人。アマテラスたち天尊族も、かなり間抜け。

どこまでも、おおらかなのである。

■第三巻は、ついに天孫降臨である。

アマテラスに地上を治めよ!と命令された長男が、めんどくさいから自分の子供のニニギに任せた!って、どうにもいいかげんな感じ。この締まらない感じがほんと古事記なんだよなあ、と改めて思う。

で、なんといってもポイントはセクシー姉さんのアメノウズメの再登場!

なんだかよくわからいけど、高天原のすぐ近くに凄い顔をして立っている地元の神(国つ神)のサルタヒコに「面勝つ神」として派遣されたアメノウズメのかわいいことと言ったらない!

ニニギは完全にくわれてしまうわけだけれども、実はそこには理由がある。

ニニギは、見初めたコノハナノサクヤビメを娶るのだが、同時に嫁いできた姉のイハナガヒメはおそろしく不細工であったために恐れをなして追い返してしまう。

だが、コノハナノサクヤビメが咲けば散る花のような幸せを、イハナガヒメが永遠の命を、意味していたがゆえに、ニニギは永遠を失い、死にゆく運命を背負う。つまり、われわれ人間と同じ地平に立つことになるのだ。

ここにおいて、神話は人の物語りへと、地続きに流れていく。

ニニギの子孫であるヤマサチビコは神性をもつ最後の世代なのだろう。ラストのトヨタマビメとの悲劇は、人とカミが共存できなくなってしまった悲しみの物語りなのである。

それをカラーボールペンで美しく描く、こうの史代さんの心情がひしひしと迫ってくる。

美しい、あまりにも美しいラストなのである。

素晴らしい!

                      <2016.12.14記>

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■追記1

ボールペンで描くこのタッチ、どっかでみたなと思ったら、諸星大二郎ですね。好きなのかな?

■追記2

このブログでは、みんな呼び捨てだけど、こうの史代さんだけ、今回は’さん’付けです。実は筆者と同じ年に生まれてることに気づいてしまって、なんだか、突き放した敬称略にはできず、つい’さん’をつけてしまいました。

■追記3

第三巻、巻末にあるヤマツミ一万尺。コノハナノサクヤビメとイハナガヒメの姉妹がひたすらアルプス一万尺をやっている、という話なんだけど、もうお腹がよじれそうに笑ってしまった!絶品です!

 

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2016年12月 8日 (木)

■【絵画】ダリ展・国立新美術館。少年サルバドールの心象風景。

ダリは、どうもわざとらしくて好きになれず、いままで敬遠してたんだけど、まあ、まったく見ずに拒否るのもどうかと思い、いつものごとく展示終了間際に国立新美術館へ足を向けた。

Photo

■やはり、予想通り、ダリは私の思い込みとは異なる人のようだ。

わたしの中の勝手なイメージでは、奇をてらい、中身に乏しく、俗物的な彼の作品をシュルレアリスムなんて呼ぶのは言語道断である、というもの。

『魔術的芸術』を読んだときにでもブルトンに植え付けられたのか、とも思うが、いやいや、そもそも、やわらかい時計とか、足の長い象とか、どうでもいいでしょ的な感覚があって、もともと肌にあわない。そこにブルトンの論だったような気がする。

で、若い頃から晩年までの作品を一挙に並べた今回の展示を体感した感想はというと、なんだ「普通の人」じゃんか、というものだ。

■若い頃は印象派の流れの上で修業を積み、そこから反抗的にピカソの後追いをし、そして独自のダリ世界にたどり着く。

彼の描く情景は確かによくわからない悪夢的世界で、意識の解釈のフィルターを感じさせる「企画力」が、かえって絵画そのものへの没入を妨げるように思われる。わたしの先入観はここでは一旦肯定される。

けれども、それらのなかで時々こころをぐいとつかむ作品があって、そこにはダリのシュルレアリスム手法であるダブルイメージとか偏執狂的批判的活動とかのイメージは描かれているのだけれども、その背景には常にスペイン、カタルーニャの荒野が広がっていて、実はそれこそがダリの本質であり、やわらかい時計も、足の長い象も単なる飾りに過ぎないのではないか、或いは傷つきやすい本質を守るための鎧なのではないか、と、そこに至るのである。

つまり、ダリの心には常に少年時代の重荷として荒野が広がっていて、それを覆い隠すためのシュルレアリスムだったのではないか、ということだ。

1931
<降りてくる夜の影>1931年、ダリ27歳

31936
<オーケストラの皮を持った3人の若いシュルレアリストの女たち>1936年、ダリ32歳

遡れば、美貌であったという妹を描いた若い頃の作品は、本来は誇らしいであろうその美貌を隠して常に後ろ姿なのである。

愛するものを直接描くことを拒否しているのか、そもそも描くことができないのか。

サルバドールという死んだ兄の名を受け継いだ少年の奥底で、いつまでも自分を認めることができないような、この絵からは、そういう荒涼とした心情がただよってくるのである。

Photo_2
<巻髪の少女>1926年、ダリ22歳

■ダリは1934年に年上の人妻であったガラと結婚し、第二次大戦中にアメリカに渡る。

そして1945年、広島、長崎に原爆が投下され、科学技術が現実を追い越したことに衝撃を受ける。

それはダリにとって、シュルレアリスムの敗北であったのかもしれない。

1945
<ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌>1945年、ダリ41歳

そして、今日の一枚。

《ポルト・リガトの聖母》 1950年

キリスト教に帰依し、ガラとともにスペインに戻ったダリは、精神的支柱であるガラを中心に描いた宗教画に至る。

かつてダリを支配したギミックは影を潜め、安定と不安の精神世界が直接的に描かれている。

1950
<ポルト・リガトの聖母>1950年、ダリ46歳

この大作を、しばらくぼんやりと眺めていた。

マリア的に描かれたガラに抱かれた子供はダリ自身であるのだろう。

そしてガラの胸にも、ダリの胸にも大きく四角い窓が開いている。

これは初期の作品で背後の建物によく描き込まれていた窓と同じものなのではないか。その窓は決してぽかりと空いた穴の虚しさではなく、希望とか永遠性とか、そういう意味合いのなかでの「青空ののぞく窓」なのだ。

そうしてみたとき、ガラのこころとダリのこころは、窓を介して連続し、一体化し、永遠である。

ここにおいてやっと、われわれはダリのやすらぎを見るのだ。

                  <2016.12.8 記>

 

私が独りでいることは決してない。いつだってサルバドール・ダリといるのが習慣なんだ。信じておくれよ、それは永遠のパーティーってことなんだ ―サルバドール・ダリ

Photo_4

 

■うれしいことに、『アンダルシアの犬』も上映されていた。

中学3年の時以来かな。

目を剃刀で切り裂くファーストシーンはやはり衝撃的。

笑ったのは、主人公が女性を襲おうとして追い詰めるシーン。彼は獣の死骸を乗せたピアノを引きずっているのだけれど、引きずっているのはそれだけでなく、キリスト教の坊さんが2人、しかも生きたまま!!これは面白い。芸術ではなく、ギャグとしてだけど。

そんな感じで映画としては、やはりいまいちだと思うが、「若さ」、という点で、やはり素晴らしい作品だと思う。

Photo_3
<映画 アンダルシアの犬>1928年 
監督ルイス・ブニュエル 脚本ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ

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2016年12月 7日 (水)

■【映画評】『マダム・フローレンス! 夢見るふたり 』、魅力的な人間の魅力的な歌声は。

カーネギーホールでのクライマックスシーン。メリル・ストリープ演ずるマダム・フローレンスのあまりに破天荒な歌声に大笑いしながら、なぜか涙が頬をつたっていく。またしても、メリル・ストリープにやられてしまいました。

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No.91  『マダム・フローレンス! 夢見るふたり 』
           原題: FLORENCE FOSTER JENKINS
          監督:スティーヴン・フリアーズ 公開:2016年12月
       出演: メリル・ストリープ  ヒュー・グラント 他

1

■ストーリー■
第二次大戦中、アメリカ、ニューヨーク。音楽を愛する老齢の資産家フローレンスは著名な音楽家のパトロンを務めながらも自らクラブを主催していたが、ある日、自らの歌声をみなさんに聞かせようと思い立ち、ボイストレーニングを始める。だが実は恐ろしいほどの音痴だったのだ。評論家を買収するなどの夫の奔走によってリサイタルは無事に成功。しかし、それに気をよくしたフローレンスはカーネギーホールで歌うと言い出した。

今なおカーネギーホールのアーカイブで人気がある素敵な女性の実話に基づく物語である。

■いやー、歌のレッスンのシーンの破壊力と言ったらない。

本人は音痴なんて思っていなくて気持ちよく歌い上げていて、教師も旦那もピアニストも、本人の前では決してそれを悟られるわけにはいかない。この笑ってはいけない、という状況が笑いを猛烈に強化する。

帰りのエレベータの中でのピアニストの思い出し笑いがまた最高にいい。

けれども、この作品は決して彼女を笑いものにしようとはしない。

なにしろ、老齢であるものの、いやそれ故に、天真爛漫な彼女はとてもキュートで、そんな彼女を守り抜きたいという旦那の気持ちは、彼女のクラブのみなさんも同じであり、大笑いしていたピアニストも、いつしかそのなかに取り込まれていく。

見ているものも、しかり。

素直で純粋なものは、あたたかく見守りたくなるものなのである。

■音痴のばあさんをいかに応援したくなるようにもっていくか。

もちろん、練りに練られたシナリオの効果もあるのだけれども、ことが理屈でなく、こころの動きの問題であるがゆえに、シナリオは大前提としての背景にしかならず、下手を打てばしらけを生んでしまう。

その意味で、メリル・ストリープの演技は神業だ。

彼女の圧倒的な純粋さをみせるだけでなく、その背後にある悲しみと、長い年月を経て、その悲しみが彼女にもたらした覚悟といったようなものがあって、それをちらりと匂わせながらの豪快な演技。

メリル・ストリープでなければ、この映画は撮れなかったかもしれない。

本当にすごい人だ。

■一方のヒュー・グラントも負けずに素晴らしい。

甲斐甲斐しく妻をサポートする献身的な夫の顔と、若い女を囲ってよろしくやっている軽い調子。その矛盾が嫌味なく同居しているこれまたとてつもなく魅力的な人物をやすやすと演じてみせるのである。

それは、少しでも違和感とか反感を覚えてしまうと引いてしまうきわめて危険な役どころであって、落ち着いて考えるとこれはすごいことなのだ。

最近、アニメとかアクションばかり見ていたせいか、こういう役者が見せる映画というものがとても新鮮で、水野晴郎ではないが、映画って本当に素晴らしいものですね。と、あらためて感じ入りました。

ところで実はこの作品、てっきりアメリカ映画かと思っていたけどイギリス映画なんですね。監督は英王室の舞台裏を描いた『クイーン』(2006)を撮ったスティーヴン・フリアーズ。御年75歳。老いてもなお、このような明るく元気な作品が撮れるのって、これまた素晴らしいことです。

2

 
■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■さて、マダム・フローレンスの天真爛漫さの裏にあるものについて、である。

彼女は若いころに社交界で出会った男と結婚するのだけれど、そいつがプレイボーイの梅毒持ちで、それをうつされて彼女も梅毒を発症してしまう。

それからの50年、彼女はいつ死んでもおかしくない状況に置かれた。

いつも大事に持ち歩いている鞄には分厚い遺言書が入っていて、日々、いろいろなことが書き加えられていく。

いつ死んでも後悔はしない、後悔したくない、という決意。

その決意が彼女の天真爛漫さを支えている。

もちろん、彼女はそんなことを表立って主張したりしない。

けれども、人生に対する決意というものは、表ににじみ出てくるものなのだ。

そして、それが人に深みをもたらし、魅力を与えるのだ。

■カーネギーホール、本番。

もう旦那が手を回せるような舞台ではない。

社交界の大物や、彼女が招待した粗野な帰還兵で会場は埋め尽くされている。

マダムが歌いだす。

沸き起こる失笑、嘲笑。

だが、実業家が連れてきた到底芸術とは縁もゆかりもないセクシー姉さんの一喝で会場の雰囲気は一変する。

彼女を応援したい、という気持ちが沸き起こり、カーネギーホールは一体感に包まれる。

■モーツアルト魔笛「夜の女王のアリア」

アアアアアアアアアアアアー♪

心地よく飛び跳ねるソプラノへの期待は裏切られるが、そこにはあたたかさが満ちている。

 

音楽は単なる美しい音の組み合わせではない。

音とともに、喜びや、悲しみといった感情の場がそこにある、それが音楽なのである。

感情の場が人のこころを動かすのである。

芸術というものの形式にとらわれていて、それを理解できないニューヨークタイムズの記者はじつはとても不幸な人なのである。

なぜなら、彼はそこに生を感じ取ることができないからだ。一番大切なものを見失っているからだ。

 

人のこころは理屈じゃない。

人生に!

ブラーボー!!!

                      <2016.12.07 記>

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■STAFF■
監督 スティーヴン・フリアーズ
製作総指揮  キャメロン・マクラッケン 他
脚本 ニコラス・マーティン
音楽 アレクサンドル・デスプラ

■CAST■
フローレンス・フォスター・ジェンキンス - メリル・ストリープ
シンクレア・ベイフィールド - ヒュー・グラント
コズメ・マクムーン - サイモン・ヘルバーグ
キャサリン - レベッカ・ファーガソン
アグネス・スターク - ニナ・アリアンダ

 

 

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2016年12月 5日 (月)

■【書評】『人工知能の経済の未来 2030年雇用大崩壊』、井上智洋。来るべきユートピアの夢。

AIの発達により、近い将来雇用は激減する。その将来像は果たしてディストピアなのか、それとも?

■著者はマクロ経済学者であり、その視点でAIによって将来の世の中がどう変わっていくかを予測する。

昔から、マクロ経済学者なんてものは信用していない。勝手に世の中をモデル化、数式化して算数をもって予測する人たちであり、そんなもんでこの血の通ったわれわれの生活を予測できるはずがあるもんか!なんて思いを抱いていたのである。

実際、最近の日本経済を見ても、デフレターゲットなんてことをぶち上げて、日銀に国債を買い上げさせ金を市場にジャブジャブ投入するのだけれど、微塵もデフレが起きる様子もない。円安誘導も、ゼロ金利も、われわれの財布のひもを緩めることはできない。

なぜかならば、我々の財布のひもを支配しているのは、現在、そしてそこから思い描かれる金欠生活への不安であり、その不安が抜本的に解決されない限り、状況は変わるはずがないからだ。

そんな、われわれの心情をパラメーターとして組み込むことのない経済モデルに基づく計算事で、それがいくら権威的であっても、未来を読み解くことなんてできるはずもなく、やはりマクロ経済学なんてものは信用できない、ということの証左なのである。

■けれど、この著者の井上智洋は、そういった私の決めつけを完全に裏切ってくれる。

もちろんマクロ経済学者として、きわめて予測が困難な複雑系である経済というものを単純化モデル化し、我々が今直面している、AIを含む第4次産業革命が世の中に与える影響をメカニズムとして説明し、それなりの説得力を与えることに成功している。

しかしながら、井上さんの思考は、あくまでもそれをツールとして使っているに過ぎない。本質は、世の中が何で動いているのかという歴史観とでもいうようなものである。

われわれ人類が定住し、農耕を覚えてから、どれだけ文明が発達しようとも一人当たりのGDPは一定であった。それは耕地の面積や面積当たりの収穫が莫大に増えたとしても、豊になるのは一瞬で、それにつられて人口が増加し、一人当たりの食料はまた厳しくなっていく。それがあの『人口論』のマルサスが提示した「マルサスの罠」である。

だが、1800年頃にイギリスで発生した蒸気機関を核とする第一次産業革命は、そのマルサスの罠を超えた。機械への投資による生産性の拡大のスピードが豊かになることで発生する人口の増加を大きく引き離したのである。

これより、我々の文明は有史以来のパラダイムから抜け出し、新たなステージに躍り出た。これが資本主義の本質である。

それから1870年頃の内燃機関、モーターによる第二次産業革命、1995年頃のパソコンとインターネットによる第三次産業革命と続く。

だが、それらは社会変革を引き起こすほどの力はもたず、資本主義を加速させ、先進諸国が成長の限界のなかで低成長を余儀なくされる中で、資本を持つものと持たざる者による富の偏在を拡大させるに至った。

■さて、次なる第四次産業革命は2030年頃と著者は予測する。

これは、汎用AIの実用化に伴うものである。

現在のAIは特化型人工知能(特化型AI)と呼ばれるもので、SIRIにしろ、ペッパーにしろ、それは、目的を人間にインプットされ、その枠組みのなかで思考するAIである。

それに対して、人間の脳の仕組みを解明し、(そのままコピーするのではなく)、モデル化、モジュール化して、再構成することで、自分の頭で考えることのできる人工知能を作り出そうという動きが活発になっており、その目指すものを汎用人工知能(汎用AI)という。

この汎用AIは人間のような肉体を持たないがゆえに、人間とまったく同じように感情をもった存在にはなりえない。

しかしながら、人間と同じようにすべてのことがらを全体像としてとらえ、考えることができる。

特化型AIは、工場の組み立て作業だとか、受付のような単純な労働はできるけれども、いろいろな情報を集めて、まとめ、提案を行うというような、総合力を必要とする頭脳労働には対応できない。

それを可能にするのが汎用AIなのだ。

■2030年頃に汎用AIが実用化し、2045年頃にそれが社会にいきわたるとしたら、我々の社会はいったいどうなってしまうのか。

著者の予想では、現在人口の半分を占める労働人口が約一割に激減する。

いわゆる会社勤めなんてものはAIにとって代わられ、残るのは、作品や商品企画を生み出すようなクリエイティブな仕事、経営者のようなマネジメント、人間の機微に対応する能力が必要なホスピタリティ、しかも、その能力がAIに追いつくことができないようなトップクラスの人材だけとなる。

それはそうだろう。

一度導入すれば、文句も言わず、賃上げも要求せず、福利厚生もいらず、人間が一週間かかる情報分析業務も1分で仕上げ、しかも24時間働き続けることができるのだ。

どう考えても人間は労働市場から締め出される。

その結果、人々の収入は無くなり、市場には投資家と経営者と、生活保護で最低限の暮らししかできない市民が分断されて存在することとなる。

そこに映し出されるのは、今の格差なんてもんじゃない、完全な分断社会、ディストピアなのである。

■そこで著者が提案するのがベーシックインカム(BI)だ。

生活保護とか、そういう何かの基準で資金を分け与えるのではなく、金持ちにも、貧乏人にも、等しく資金を提供する。

それは、保護、というよりも、国民であることに対する「配当」である。

来るべき2045年に向け、インフレをコントロールしながら、徐々にBIの額を増やしていく。

最終的には、国民は別に働かなくても、それなりの生活はできるようになる。

という筋書きだ。

■実にいい、というより確かにBIしかない、という気がする。

これならば、勝ち組である投資家も才能のある高給取りも、高い税金はとられるけれども、その再配分、配当機能によって、市場が維持される。それが、自分の豊かな生活を支える大前提だというコンセンサスを得られれば、受け入れられるものだと思う。

そこに現れるのは、額に汗して働かなくてもいい社会だ。

20世紀初頭のフランスの思想家ジョルジュ・バタイユを引いて著者は言う。

資本主義社会は「有用性」つまり、「役に立つこと」にとりつかれてしまっている。

今、我々が勉強をするのも、労働をするのも、自分のため、というよりも、いつの間にか、「役に立つかどうか」という視点にすり替わってしまっている。

そのために、失われてしまっているものがあるだろう。(ここ20年の大学の変貌ぶりを見よ!!)

「至高性」とバタイユが呼ぶそれは、役に立つとか立たないとか、そういう次元ではなく、そのもの自体に価値があるもの、例えば、夕焼けが美しいとか、子供がかわいいとか、そう感じる瞬間に、そこにあるものである。(私が別のブログ「エロス的人間論」で「エロス」として定義したものに近いかもしれない)

そして、「有用性」を強要する資本主義は、労働力としての人間を手放すことによって、人間をそこから解放する。

それこそが、汎用AIによる第四次産業革命が生み出す社会変革なのだ。

著者の論の核心はここにある。

単なるAIの技術説明でも、経済動向予測でもない、骨太な思想的背景をもったその論が、マクロ経済学なんてもの、と嘲笑っていたわたしの偏見を打ち砕いてくれた。

この井上智洋という人、人間としてとても好きになってしまった。

■さて、問題は、そこから先にある。

中学生の頃に期待して読んだトマス・モアの「ユートピア」の世界。

そこで私の夢を打ち砕いたのは、その「ユートピア」を支えているのが奴隷であったという事実であった。

しかし、井上さんが提示する未来は「汎用AI」によって支えられている。

汎用AIに自我が生まれないという前提にたてば、傷つき、搾取されるもののいない、素晴らしい真のユートピアの実現ということになる。

新しい社会の幕開けである。

その時、人間はいったいどうなってしまうのか?そこに、どんな世界があらわれるのか?

映画『未来惑星ザルドス』でジョン・ブアマンが描いたような、退屈な生活に生きる意欲を失ってしまうような世界なのか、

あるいは、平安時代の貴族のような、源氏物語や枕草子のような、素直で人間くさい、愛すべき世界なのか、

2045年まであと30年弱。わたしは80歳に近い歳になる。

何とかそこまで生き延びて、その世界を、そしてそこにたどり着くまでの物語りに、社会の参加者として、しっかりと感じ、見て、行動していきたい。

そして、何よりもそれが、子供たちがにっこりと心から笑って暮らせる世の中であって欲しいと、切に、こころから願うのである。

                    <2016.12.5 記>

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2016年12月 3日 (土)

■【マンガ評】『この世界の片隅に』。こうの史代。 小さな記憶の欠片たちの物語。

今、読み終えました。

絶対に泣くと思ったのに、、、

しかし、・・・・なんだろう、このすっきりした気分は。

■とてもおおらかで、やさしく、かわいらしい物語がつづく。

天然で、一生懸命な、すず。

おとうさん、おかあさん、おばあちゃん、すみちゃん、鬼いちゃん。

周作さん、お義父さん、お義母さん、お義姉さん、晴美ちゃん。

隣組のみなさん。

リンさん。

哲さん。

■だが、呉への空襲がはじまっても、それでも続けてきた「普通」の生活も、爆撃が残した時限爆弾で晴美ちゃんと、そのやわらかくちいさな手を握っていた右手を失ったとき、すべてが狂い始める。

 
嘘だ。
  

目の前のやさしさも、笑顔も、すべてが歪んだ嘘にまみれたものに見え、でもそれは自分が歪んでいるからだとわかっていて、その宙ぶらりんな中に、すずは落下していく。

それでも、それでも、懸命に生きたのに、終戦の玉音放送ですべてが終わりになってしまう。

道に転がる死体には目をつぶりながら精一杯、普通を守ろうと頑張ってきたのに、今更何を言っているのか。

悔しさに震えながら泣き崩れる、そんなすずのあたまを、やさしい右手がなでてくれる。

それに、すずはふと我にかえるのだが、何が起きたのか、ここではまだ気が付かない。

■終戦のどたばたが少し落ち着きを取り戻し、すずは隣組の刈谷さんと衣服を食料に交換してもらうために遠出をする。

その帰り、行き倒れになった広島の被災者が自分の息子だと気づくことができなかったという、刈谷さんの壮絶なことばに触れたとき、すずは気づくのだ。

 
なんでうちが生き残ったんかわからんし

晴美さんを思うて泣く資格は うちにはない気がします

でもけっきょく うちの居場所は ここなんですよね

生きとろうが 死んどろうが 

もう会えん人が居って

うちしか持っとらん それの記憶がある

うちはその記憶の器として 

この世界に在り続けるしかないんですよね

晴美さんとは一緒に笑うた記憶しかない

じゃけえ 笑うたびに思い出します

たぶんずっと 何十年経っても
 

このシーンのすずの晴れやかな顔。

 
この世界で 普通で まともで居ってくれ

わしを笑うて思い出してくれ

それが出来んようなら忘れてくれ
 

哲が、すずに残していった記憶が、すずをそこに導いてくれる。

そこに差し込むさわやかな光に、震えるシーンだ。

■あのとき、泣き崩れるすずのあたまをやさしくなでたのは、失ってしまった彼女自身の右手だったのだ。

その右手は、これまで生きてきた彼女のたいせつな、ひとつひとつの思い出とともにあった存在なのだ。

軍艦を見に行きたいという晴美ちゃんの手をにぎり、

リンさんにすいかやハッカ飴の絵を描いてあげ、

小学校6年生の波間にはねるうさぎを描いたその右手は、もう、すずの右腕にはないけれど、

ずっと、そこにあり続けていたのだ。

■人は、記憶として生きている。

それは比喩でもなんでもなく、だれかの記憶として生きているものなのだ。

この世界の片隅で、周作にみつけてもらい、その記憶として、すずは立派に生きている。

それはちいさな、切れ切れの愛。

そのちいさな記憶の、ちいさな愛の重ね合わせで、この世界は出来ているのだ。

  

だれでも この世界で そうそう居場所は無うなりやせんよ

 

死んでしまえば記憶は消えるとリンさんは言ったけど、リンさん自身は消えたとしても、幼い頃、おじさんの家で出会った座敷わらしの記憶とごたまぜになりながら、すずに寄り添いながら生きている。

戦争で、いっぱい人が死んだけれど、何万人とか何十万人とか、そういう統計学から離れたところで、その亡くなったひとりひとりが、それぞれに関わり合った人たちの記憶の欠片となって、生き続けているのだ。

生きてる人も、死んでしまった人も、会うことがなってしまった人も、みんな。

                       <2016.12.3 記>

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2016年12月 1日 (木)

■【映画評】 『この世界の片隅に』。タンポポが、野にささやかに咲くように。

なんだろう、この、あたたかく、切なく、やりきれなく、そして大切に、いとおしく思えるこの感情は。。。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.80  『この世界の片隅に』         

原作 : こうの史代  監督・脚本 : 片渕須直
公開:2016年11月  出演: のん 他

Photo

■ストーリー■
戦争が始まる前の広島に生まれたすずは、おっとりとした、絵を書くことが好きな娘で、兄妹とともに貧しくともあたたかい家庭で育つ。そのすずも年頃になり、戦争のさなかの昭和19年。彼女を見初めたという海軍さんのもとに嫁いでいく。不器用ながらも優しい夫とその家族とともに苦しい戦時中の状況のなかで、精一杯の明るさをたもちながら暮らしていく。昭和20年になり戦局は悪化、軍港のある呉への爆撃は日増しに激しくなり、そして運命の夏がやってくる。

■こうの史代の作品は、『夕凪の街 桜の国』を読んでいて、もう映画を見る前からすずの表情をネットなどで見るだけで涙腺がつらくなってくる。

『夕凪の街』も、それに続く『桜の国』も、とてもことばにしつくせない感情をにじませる物語で、その象徴は主人公の若い女性の浮かべるやわらかい笑顔であり、『この世界の片隅に』の主人公のすずの表情に、それを見てしまう。だから、もう、見る前から泣けてしまうのだ。

そして本編を見終えたあと、やはり泣きはらした目頭を押さえながら、ああ、やはり、こうの史代の世界なのだな、と思う。

Photo_2

■幼い頃の兄妹と育った日々、18でお嫁に行き、失敗ばかりで、てへっと笑って過ごす日々。空襲が激化し、それでもやわらかい笑顔で乗り切っていく。

それは野に咲くタンポポのような、高射砲の音にも機銃照射にも関係なく、花から花に渡るモンシロチョウのような、そういう健康な笑顔だ。

戦争がいいとか、悪いとか、そういう次元ではなく。

当たり前の、ごく普通の、絵が好きで、不器用で、そんなかわいくて、いとおしくて仕方ない日常。戦争が激化しようとも、食べるものがなくても、失ってはいけない当たり前のことを忘れないように、いや、失ってしまいそうだからこそ、笑顔を、笑いを絶やさずに、すずも、すずのまわりの人たちも一日いちにちを生きていく。

この映画は、ただただ、それだけを語った映画だと言っていい。

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■126分の物語りは、その前半から中盤にかけてきわめてテンポよく、しかしおだやかに流れていく。その積み重ね。見るものが、すずとその日々をいとおしく思う至福の時間。それが、何よりもかけがえのない、何よりも大切なもののなのだ、などとこの映画は声高に叫ぶことはない。

けれども、いやがおうにも見るものは昭和20年の夏を意識してしまう。

それが分かっているから、あまりにも切ないこの至福の時間がずしりとした重みをもたざるを得ない。そういう構図になっている。

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■戦争の足音は、幼馴染の姿をとって現われる。

とてつもなく明るい水兵さんである青年は、かつての甘酸っぱい想いを漂わせながら、実は死を予期している。

彼は、すずたちがなんとか気づかずにやり過ごそうとしている何かをすでに見てしまっているからだ。

そして、彼が最期にという思いで、すずに会いに来たのだと、実は幼いはるみ以外は、みんな気づいているのである。

夫である周作は、愛するすずをその男に一晩貸すという暴挙に出るのだけれど、それはその男にとって死がもうそこまで迫っているのだということ抜きに考えることはできない。それを口に出すことはなく、ぎりぎりの、薄氷を踏むような緊迫感のなかで生まれてくる、絶望的な戦地に向かう男へのせめてもの心遣いなのだ。

それは死と遠ざかってしまった我々にとって、なかなか理解できない心情なのだけれど、あくまでも表面的に語られるのは相変わらずの日々であって、そこが、こうの史代作品の難しさなのだと思う。

彼女の作品の登場人物は本心を隠す。

うーん、とか、あれ?とか不思議で腑に落ちないところがあって、よくよく読み返してみると、ああ、そうなのか、と、そこに隠された震えるような感情に、あらためて圧倒されるのである。

たぶん、この作品も2回、3回と見ることで、その隠された感情に触れて、ますますいとおしくなっていくのだろうと思う。

そして10年後に再び見たときに、さらに何かを見つけることになるのだろう。

それは、その人が、いったい何を見て、感じて生きてきたかによって決まってくるものだからだ。

この映画を見終わったときの、こころの動きをうまく言葉にできないという、その感覚は、きっとそれによるものなのかもしれない。

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■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■昭和20年3月。ついに本格的な空襲が始まる。

たんぽぽのように、とんぼのように、モンシロチョウのように、普通でいることを奪われる。

それを象徴するのが、すずが空襲警報のなか、逃げろ!とシラサギを追いかけ、機銃照射で殺されかけるあのシーンだ。

いままで、気が付かぬふりをして押し通してきた「普通」が、ついに最期の時を迎える。それを暗示するターニングポイントである。

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■B-29から放たれる大量の爆弾が町に降り注ぐ。

そして時限爆弾という人殺しのために計算しつくされた冷徹な暴力は、その握った手のぬくもりとともに、はるみを奪い去る。

いままで過ごしてきた、つつましやかな普通の暮らし、それを奪い取る悪魔的な暴力。

右手を失うとともに、引き裂かれたすずのこころは、アメリカを恨むのではなく、その憎しみは自分に向かう。 

 
わたしは生きていてはいけない存在なのだろうか。
 

理不尽な暴力にさらされたとき、1万メートルの上空にいる顔の見えないアメリカ人から死ね!と思われていると気づいたとき、こうの史代の登場人物は、自分の存在を許してもらえていないのだと、「気づいて」しまうのだ。

B29

■だが、そんな思いを整理する時間すら与えられずに容赦なく焼夷弾が降りそそぐ。生きる、という本能が、なんとか崩壊から守ってくれる。

そして原爆が投下され、8月15日の玉音放送を迎える。

 
なんでやめるんだ。そんなことははじめからわかっていたろうに!わたしはまだ生きとるのに!
 

それは生き残ってしまったことに対する怨嗟だ。

なぜ、無垢な、はるみちゃんが死んでわたしが生きのびているのか。

はるみが死んだ、そのときの悲しみが、いままで生き延びることで精いっぱいで抑え込まれていた感情が、ここで一気にあふれ出る。

Photo_12

■終戦。町が少し落ち着きを取り戻し、周作もすずのもとに帰ってくる。

そして、やさしくすずを包むのだ。

すずは、やっとそこに「この世界の片隅で」生きていていい場所を、生きていてもいいと許してもらえる場所を見つける。

タンポポが、野の片隅でささやかに咲くように。

けれども、それはとても強い、生きる力だ。

 
人は愛されることによってはじめて地面に根をおろし、そしてはじめて、人を愛することができる。
 

そうしてふたりは、はるみの影をまとった戦災孤児を引き取り、新しい家族をこの世界の片隅で築きはじめるのだ。

 

■今に生きるわたしたちにとって、我々に死ね!と刃を向けてくる相手は、ますますその姿が見えなくなってしまっている。

けれども、それは確実に我々のささやかな生き方を圧迫しているのだ。

この映画はたしかに反戦映画であるのだけれど、もっと普遍的な大切なものについて語っているのではないだろうか。

まだまだコトバにしきれない何かがあって、きっとそれはとても大事なことなのだと思う。

読まずにいた原作を改めて読んでみよう。

そのうえで改めて考えてみたい。

Photo_8

                      <2016.12.01 記>

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というわけで、原作、読みました↓

■【マンガ評】『この世界の片隅に』。こうの史代。 小さな記憶の欠片たちの物語。

これ、原作読まないと分からないところ多過ぎです。。。。

もう一回見てこようと思います!<2016.12.3記>

■【追記】『この世界の片隅に』がキネマ旬報で1位を取りました!

キネ旬って、ちょっとひねくれてる印象があるんだけど、ここは素直に喜ぼう。

公開する劇場も拡大中なのだそうで、一人でも多くの日本人に見て欲しいと思うだけに、これが起爆剤になって、さらに評判が拡がれば、と思う。

そして、東京大空襲をはじめとした日本焦土化作戦を指揮したカーチス・ルメイ将軍や当時のアメリカ人たちが「死ねばいい」と思った相手がどんな人たちであったのか。ぜひとも今のアメリカ人たちにも見て、感じて欲しい。

その意味で、この評価が世界に広がっていくことをこころから祈ります。

                      <2017.1.13 記>

■STAFF■
原作 : こうの史代
監督・脚本 : 片渕須直
監督補・画面構成 : 浦谷千恵
キャラクターデザイン・作画監督 : 松原秀典
音楽 : コトリンゴ
企画 : 丸山正雄
プロデューサー: 真木太郎(GENCO)
アニメーション制作 : MAPPA
配給 : 東京テアトル

■CAST■
北條すず - のん
北條周作 - 細谷佳正
黒村晴美 - 稲葉菜月
水原哲 - 小野大輔
浦野すみ - 潘めぐみ
北條円太郎 - 牛山茂
北條サン - 新谷真弓
白木リン - 岩井七世
浦野十郎 - 小山剛志
浦野キセノ - 津田真澄
森田 イト - 京田尚子
小林の伯父 - 佐々木望
小林の伯母 - 塩田朋子
知多さん - 瀬田ひろ美
刈谷さん - たちばなことね
堂本さん - 世弥きくよ
澁谷天外(特別出演)

 

 

●●● もくじ 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●

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