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2016年11月 7日 (月)

■神宮美術イベント火災をネットに上げる神経について。

■木組みのジャングルジムの中のおがくずにライトアップ用の電球から引火し、子供が犠牲になったこの事故は、ニュースを見るだけでいたたまれなくなる。
 
だが、なんとなく見過ごしてしまうところなのだけれど、このニュース映像は現場にいた人が ネットにアップしたんだよな、と考えると気持ちが悪くなる。
 
映像には、何人かの若い男性が必死に木組みをくずして子供を救おうとしている姿が映し出されている。
 
ニュース映像としては、ありだろう。
 
報道カメラマンと現場との関係性は永遠の論議の的だ。
 
だが、これを撮ったのが、たまたまそこに居合わせた人だとするならば、その神経構造を疑ってしまう。だって、目の前で悲惨なことが起きていて、消防もなにもいないなかで、それを必死になんとかしようとしている人がいるんだろう?そこいらの繁華街で火事に出くわしたというのとは話が違うのだ。普通の人間なら自分に何かできないかを考えるだろう。
 
百歩譲って傍観者でいるとしても、いいネタとれたとネットに上げるその神経は、すでに人間ではない。それを目の当たりにした瞬間に、この撮影者は当事者なのだ。必死で子供を助けようとする人たちの悲痛な思いについて、ひとかけらでも共感するこころがあるのならば、決してネットに上げるなどという行為はできないだろう。
 
撮影するという行為は、ときに人を現実の、リアルの世界から切り離す。
 
悪意のない、この撮影者も、その罠にはまったのではないか。
 
■その意味で、今日食べたラーメンをブログやフェースブックに上げる行為もまた、その無神経さと無縁ではない。
 
ああ、おいしかった!という感動をネットに記録するのはもちろん楽しいことだ。
 
けれども、ネットにあげる「感動」について常に意識し、それを採集する行為にとらわれるとき、目的と手段が逆転してしまうことに気づかない。
 
生の感動は、その採集に対する切迫感によってスポイルされてしまう。ネットに上げるという行為は、そういう危険を常にはらんでいるのだ。
 
今、目の前にしている「わたくし」のリアルをそのままに感じ、行動する。
 
そういう感覚を大事にしたいものである。
                                   2016.11.7 記
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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