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2016年11月

2016年11月27日 (日)

■横浜市福島原発避難者いじめ事件で考える、世の中の理不尽と戦う強さについて。

この事件、子供を持つ親の身として、いろいろ考えてしまった。

毎日新聞 2016年11月24日

原発事故で福島県から横浜市に自主避難した中学1年男子生徒がいじめを受け不登校になった問題で、生徒の40代の両親が23日、報道陣の取材に初めて応じた。事態を1年以上も放置した小学校や市教育委員会の対応に「すべてが遅い。訴えを聞いてもらえず、不信感ばかりが募った」と怒りをぶつけた。

    両親は「子どもは教育を受ける権利を侵害された。友達と楽しい時間を過ごすこともできず悔しい」と訴えた。いじめを受けていた当時の様子について「自殺しても仕方のない内容で、子どもはボロボロになった」と明かした。一方で「『死んだら何も言えない。助けてくれる大人が必ずいる』との子どもの言葉を伝えたい」と子の思いを代弁した。

    同級生から「(原発事故の)賠償金があるだろ」と金銭を要求され始めたのは2014年5月。父親はいじめ防止対策推進法の条文を調べ、約150万円に上る金銭授受は「重大事態」にあたるとして「法律に基づいて対応してほしい」と学校に訴えた。しかし、学校は重大とは受け止めなかった。逆に「生徒が率先して金を払っている」という前提で話をされたこともあるといい、父親は「八方ふさがり。無力感しかなかった」と悔しさをにじませた。

    「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだから、つらいけど、ぼくはいきるときめた」。公表された生徒の手記は小学6年だった15年7月、母親の目の前で書いたという。当時すでに不登校となっており、母親は「(ショックで)言葉が出なかった。最悪の事態を考え、常に一緒にいるようにした」と振り返った。机にあったノートをちぎり、気持ちをぶつけたため文字が乱れたという。

    両親によると生徒は原発事故後に性格や考え方に変化が表れた。「親に甘える普通の子だったのに、耐えるようになった。転入後もいろいろなことを言えなかったのだろう」と推し量る。自主避難した子どもたちへの学校の配慮は転入直後こそあったが、4年生以降はなくなったという。母親は「災害に遭った子どもの心理を調べたことがないのか、と担任に尋ねたら『全くしていない』と答えた」と肩を落とす。

    市教委は今もいじめの詳細を公表していない。母親は「被害者、加害者側の子の特定を避ける配慮でなく、問題を隠匿しようとする学校、市教委の自己保身にしか見えない」と言った。生徒は現在フリースクールに通い、休日には「自転車に乗りたい」などと話すようになったという。

    両親は我が子の言葉を紹介した。「自分と同じようにいじめを受けている人たちには、苦しくても生きてほしい、と話している」

    ■死のうと思っていたが、震災で亡くなった人のことを思い、生きようと思う、小学6年生にそんな思いまでさせたこの事件。

    いじめが始まったのは震災直後に移住した小学校3年生からだという。

    普通でない心の傷をかかえた少年が、こんな状況に置かれてどれだけつらかっただろうかと、その気持ちを推し量るとやるせない感情に襲われる。

    しかし、いじめ自体に問題があるのは確かだけれど、何より、事なかれ主義の学校と横浜市教育委員会にきわめて強い怒りを禁じえない。

    子供を学校が守らない。こんな理不尽なことがあるだろうか。

    たぶん、普通にあることなのだろう。

    世の中は理不尽にできている。

    この子の父親は、この理不尽と懸命に戦い、苦しい孤独な戦いをしてきたのだろう。

    それは子供を守り抜こうとする親の想いの強さであり、だから子供も懸命に生きたのだとおもう。

    ■けれども、圧倒的なケースにおいて、その孤独な戦いは出口のない、つらい戦いになることは想像に難くない。

    親子で懸命に理不尽と戦い、力尽きることもあるだろう。

    自分に置き換えて考えたなら、たぶん、その理不尽からさっさと逃げると思う。

    今回の父親の強さは世の中を動かすところにたどり着ようなレベルだけれども、それにはたぶん幸運も味方した部分もあるだろう。

    わたしには、勝つ自信はまったくない。

    勝つ見込みがないのならば、三十六計逃げるに如かず、ともかく逃げることだ。そこから立ち去ることだ。

    何も勝つ必要はない。

    その理不尽は決して許せないのだけれど、それで傷つくのは子供なのだから。

                                 <2016.11.27 記>

    【追記】

    横浜市のその学校への怒りがどうしてもおさえられず、それがどこの小学校で校長と当時の担任がどんな顔をしているのかを知りたくて、ネットを漁ったら、小学校の名前も校長も担任も即座に判明。

    状況からして、たぶん正解なのだろう。

    いつも自分自身で批判しているネット社会の下劣な部分に自分が取り込まれていることに気づき、だが、そこにカタルシスを感じていることにさらに驚いてしまう。

    ここで、その検索結果をさらしたい強い衝動に駆られるが、今その学校に通っている子供たちのことを考えると、さすがにそこは理性がはたらく。

    いや、ネットって本当にこわい。

    あとは「ヤンキー先生」こと義家弘介文科副大臣に任そう。何しろ横浜市教育委員会は彼の古巣なのだから。

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    2016年11月15日 (火)

    ■NHKスペシャル『終わらない人 宮崎駿』、素直で屈託のないこの時代に。

    Nスぺで宮崎駿のドキュメンタリーを見た。作品を生み出すことに取りつかれてしまった人間の、人生をいったん降りようと思った、だからこそのぞくことができた素顔。宮崎駿のこころに触れたと思わせる番組であった。

    Photo

    3年前、電撃的な引退宣言を行った世界的なアニメーション映画監督・宮﨑駿(75)。長編映画の現場から身を引くと宣言した宮﨑だが、その創造への意欲は実は衰えていなかった。新進気鋭の若きCGアニメーターとの出会いから、初めてCGを本格的に使い、短編アニメで新たな表現への挑戦を始めた。だが、映画作りは難航し、制作中止の危機に直面する。宮﨑アニメ初となるCG短編制作の舞台裏を、カメラが2年にわたって独占取材した。(NスぺHPより)

    ■いや、宮崎駿が映画製作から身を引いたのは知っているが、ジブリのアニメ制作現場自体も解散していたとは知らなかった。

    誰もいない事務所のなんとも寂しい光景が印象的であったが、どこか人知れぬ場所に隠居し、一人静かに暮らす宮崎駿自身の姿には、逆に、どこか安心させるものがある。

    けれども、そんな宮崎も若いCG作家たちとの交流で、アニメ作家魂に火が付いたのか、かねてから温めていた企画『毛虫のボロ』をCG短編映画として生み出そうと思い立つ。今回は、そういうお話だ。

    今風の明るく無邪気な若者たちと楽しくCGの世界に入っていく宮崎だが、次第に熱を帯びていき、冒頭のボロ誕生のシーンの生みの苦しみにまわりの若者たちを巻き込んでいく。メンバーは疲労を隠せず、ついには倒れるものも現れる。

    結果、宮崎マジックとも呼べるような全体のシーンのなかにボロの誕生を埋め込むことで、そこをのりきり、ああよかったね、やっぱり素晴らしい、となるわけだけれども、実は、そこには深い問題が横たわっている。

    その宮崎の姿は昨年問題作として話題になった映画、『セッション』の鬼指導教官とかさなるものなのだ。

    ■人間としての限界を超えて追い詰められた先に、芸術作品を生み出すカタルシスがある。

    宮崎はそのことをよく知っているし、また、その魔力から抜け出せない人なのだと思う。

    問題なのは、その作家スタイルを他人にも要求してしまうことなのだ。

      
    スタジオは若い才能を食らいつくす。

    新しい作品を作りたいなんて簡単に言ってはいけない。それは時にひとの心臓を止めてしまうことだってある。
     

    そう語る宮崎駿本人が、そのことを忸怩たる思いで受け止めていて、だからこそ、長編アニメから足を洗った、その後の静かな生活は安堵感を覚えさせるのだろう。

    だが、実際に現場に戻ってしまうと、同じことをしてしまう。もう、業としか言いようがない。

    ■一方、上場IT企業のドワンゴの川上会長が自ら宮崎に最先端のCG技術を紹介するシーンも衝撃的であった。

    川上が紹介したのは手足でなく、頭部をつかって床を這う人体のCGアニメーションであった。

    独自のAIを導入した計算で、個性的な動きを表現、ゾンビゲームなどへの応用を考えている。と、およそNHKで放送できないようなグロテスクな映像を映してみせた。

    ああ、これは、と思ったらやはり宮崎の逆鱗に触れる。

    わたしの親しい友人の身体障害者のことをどうしても思い出してしまう。およそ人の気持ちなど考えていないもので、どうぞご勝手に、とうてい私は使うことはできない。

    いや、これはひとつのツールとしての可能性で、という言い訳が火をそそぐ。

    川上は、まったくわかっていない。

    およそ作品というものは、いろいろな人の目に触れるものであって、肉体的欠損や奇形を思い起こさせる映像は、絶対に作るな!

    と、ウルトラマンを製作するときにスタッフに厳命したのは円谷英二である。

    宮崎駿も同じ思いなのだろう。

    そのような映像を作り出すものをツール、と呼んでしまう、その神経自体が宮崎の思想とは相いれないものなのだ。

    いや、だから、作品ではなく、ツールなんだって!!

    という思いがドワンゴサイドにはあるに違いないのだけれど、ツールには目的があって、そこには人の思想が色濃く表れるものなのだということを、宮崎駿は説明する気にもならなかったのだと思う。

    ■NHKも思い切ったものである。

    確かに、このシーンによって、CG=自動計算、によって欠落してしまうものがあり、作り手は、そのツールのなかで血の通うこころを維持することが、何よりも重要だ、などという気づきを与えてくれる。

    けれど、そのためにさらしものになったドワンゴのメンバーは実に気の毒だ。

    彼らは計算機の前で無邪気に喜んでいるだけなのだ。

    作品づくりに必要な思想なんて、これぽっちも考えていないし、理解すらできないかもしれない。

    だが、だれに、それを批判することができるのか。

    それは、『毛虫のボロ』の製作に加わった若いCG作家たちが、初めてボロが動いたときに見せた笑顔と同じ質のものかもしれないのだ。

    ■私自身は古い世代の技術者だから、宮崎駿の気持ちが痛いほどわかる。

    ものづくりの現場では人間としての思想を試されているのだということ。

    けれども、ここにきて、若い世代にそれは通じなくなってきているのではないか、そういう思いを抱くことがある。

    ならば、教え込もう、として現場を疲弊させてしまう、そういう失敗もした。

    だから、個人的には、もうそういうことはやめたほうがいいのかもしれないと、少しあきらめかけているのだ。

    世の中便利になって、人間はどんどん考えなくなっていく。

    それで済むなら別にいいじゃないか。

    若い、屈託のない素直な笑顔で暮らしていければ、それでいいじゃないか。

    最近こころのどこかで、そう、考えるようになってきている。

    けれど、宮崎駿は、その事件によって長編作品の企画に乗り出す決心をする。このままでは世界は滅びてしまう。そういう問題意識が彼をつきうごかすのだ。

    ■どこまでもまっすぐな人だと思う。

    だからこそ、あの漫画版のナウシカの世界を描けたのだろう。

    理屈ではない、人間の情念こそが、生きる意味なのだ。

    それが無くて、存在などなんの意味があるのか。

    そのまじめさ、一本気さが宮崎駿なのだろう。それは75歳になろうと消えることはない。

    この時代にそれを貫くことの、周りに対する過酷さを十分に理解したうえで、それを決断した宮崎駿は、やはり宮崎駿なのであって、それはそれでなにかまたほっこりした気分になってしまうのであった。

                                <2016.11.15 記>


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    2016年11月14日 (月)

    ■メタリカ、8年ぶりのニューアルバム!ハードワイアード...トゥ・セルフディストラクト、メタリカはクリフ・バートンの魂を取り戻せるか?

    ラーズ、こんどこそ本物か?


    <Amazonn>ハードワイアード...トゥ・セルフディストラクト

    メタリカが、前作『デス・マグネティック』以来8年ぶりのニュー・アルバムをリリースすることが決定した。  8月18日、ラーズ・ウルリッヒ(Ds)は、アメリカのミネアポリスのロック系ラジオ局93Xの生放送でのインタビュー中に、新曲「ハードワイアード」を初めて披露した。同曲が収録されたニュー・アルバム『ハードワイアード…トゥ・セルフディストラクト』は、11月18日にリリースされる。アルバム全体はCD2枚組というボリュームとなり、デラックス盤には収録曲の源になったギター・リフが収録されるCDがもう1枚付く。11枚目のスタジオ・アルバムとなる同作を、ラーズは「世界中の仲間に早く聴いて欲しくてたまらない」とコメントしている。 ― Japan Billboard 2016/08/26

    Laod(1996), Reload(1997)でファンを困惑させ、St.Anger(2003)で絶望の淵に叩き込んだメタリカ。

    Master of Puppets (1986)と...And Justice for All (1988)の放った最高の輝きは、なんとも切れの悪いうんちのようなうねりのなかで消え去った。

    思えば、メタリカの何が好きだったかといえば、単なるスピードとヘビーなリフだけなく、時にもの悲しい語りとプログレ的な美しさに酔わせてくれる、その情感にしびれたのだ。

    その音楽性の核はラーズ・ウルリッヒでもなく、ジェイムズ・ヘットフィールドでもなく、クリフ・バートンなのだと思う。

    その遺産を使って最高の高みに上り詰めたのが...And Justice for All (1988)であり、Oneの成功によるものか、商業主義的な香りの漂うMetallica (1991)は、キャッチーで入門しやすくはあるものの、もはやあの陶酔は失われてしまっていたのだ。

    さて、今回のHardwiredである。公開されているPVを見る限り、原点回帰的な感じはかなり色濃く漂っている。

    難しいことを考えることをやめ、気持ちのいいメタルを追求したいというジジイたちの想いが込められているようにも思える。

    むしろ、Kill 'em All (1983)的なアルバムなのかもしれない。

    まあ、聴いてみるまで分からないわけで、少し楽しみではある。

    発売予定は2016年11月18日。

                              <2016.11.14記>

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    2016年11月 8日 (火)

    ■電通:過労死事件に思う。電通鬼十則が諸悪の根源なのか?

    ■電通:社長説明に社員違和感 長時間労働、改善疑問視(毎日新聞)
     
    ・・・・
     30歳代の元社員の男性は電通勤務時代、残業時間をごまかすために本社の入退館をICチップ入り社員証で記録するゲートを「入退出が記録されないようにほふく前進でくぐり、残業をしていた」と振り返る。電通は10月24日から午後10時で全館消灯するようになったが、男性は「10時に仕事が終わるわけがない」と断言する。
     
     
    これ、ネタだろ!信じるなよwww
     
     
    けどさ、電通の鬼十則。叩かれてるけど、実にいいこと言ってるよな。
     

    1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。

    2. 仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。

    3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。

    4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。

    5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。

    6. 周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。

    7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる。

    8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらがない。

    9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービスとはそのようなものだ。

    10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練になる。

     

    ■要するに「自分」を持って仕事をしろってことでしょ?これを否定したら、「仕事」ってなんなの?って思う。これが諸悪の根源だっていう人って単純というか、バカ?

    新人女性が亡くなったのは、痛ましい「事件」だが、犯人は鬼十則ではないだろう。すり替えだよ。悪いのは絶対に上司と職場。もっといえば会社の空気だ。

    バブル時代には過酷な残業なんて腐るほどあったのだろう?バブル直後入社の自分でも、そのノリはわかるつもりだ。そういった時代の人たちに育てられたからね。

    その時代と今の時代には決定的な差があって、たぶん、07年のリーマンショック後に大きく変質したのだけれど、それは「成果主義」という化け物である。

    生身の人間が作り出す仕事を「ものさし」で測ろうという考え方だ。

    一見、えこひいきを排する公平な仕組みに見えるけれども、これがこの国の企業をダメにし、社員を精神的にたたきのめす主原因となっているのだと、わたしはにらんでいる。

    実際、成果主義を導入した企業で働いていて、しみじみ感じることだ。

    「結果にコミットする」

    ではないが、成果主義なるものでは、まず社員に約束をさせる。

    その成果が出なければ〇、できなければ×。きわめて明確だ。

    けどさ、×だって今後の仕事や個人のこやしになったりするわけだろう?それを認めない。

    きわめて短期の期限を区切り、そこまでに結果を出せなきゃ×をつける。

     

    われわれはブロイラーではない。

     

    そこに高い志は生まれるのか?

    そこに働くよろこびがあるのか?

    そこに協力し合う、助け合う風土は生まれるのか?

    電通の新入社員は、それに殺されたのだ。

    人はけっこう強いものだ。けれど、その存在を否定され、努力を否定されたとき、人は折れるのだ。

    長時間労働がいいとは言わない。けれど、長時間労働が直接の原因ではないし、そういった単純な見方こそが、成果主義の背景にある、思慮のない浅はかな「科学的」思考方法であり、今回の出来事の原因と同根となるものなのである。

    むしろ、鬼十則は、そういった単純な、ものの考え方と真っ向から対立する。

    むしろ、この成果主義社会から働くものを救う考え方なのだと、だれも気が付かないのであろうか?

    ■もし、電通鬼十則が問題の根幹にあるのだとするならば、それは運用側にあったのかもしれない。

     

    4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。

    5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。

     

    と、いうところだけを抜き取り、個人のコミットメント(主体的関与という意味もあるが、この場合は契約、約束)を盾に、無理やり業務を遂行させるような風土がもしあるとするならば、それは大いに問題だ。

    リーマンショック以降の成果主義の流れのなかで電通鬼十則がそのように変質していくのは、もしかすると必然かもしれない。

    「成果主義」は人間同士のつながりを分断する。

    「成果主義」と時期を同じくして登場してきたことばが、「自己責任」だ。

    自分でコミットしたんだから、自分で何とかしろ。部下を同僚を助けたところで、自分のコミットメントには何のメリットもない。もし、成果の取り合いがあるのならば、まわりはみんな敵になる。

    新人が、そんな冷たい海に投げ出されたらひとたまりもないだろう。

    バブル終盤入社のわたしも海に投げ出されたが、しっかり見てもらっているという安心感がそこにはあった。

    ときには戸塚ヨットスクールばりの人間もいたが、それはあくまでも異端であって、現在との大きな違いは、人のつながりが、しっかりと感じられ、そこに安心があったことだ。

    その文脈でこそ電通鬼十則は生きた、そういうことなのかもしれない。

    ■けれど、もう、社会は変質してしまった。

    これはもう、戻らないと思う。企業も生き残るために、短期的な成果を出さねばならない社会構造のなかにあるからだ。企業もまた、歯車のなかにある。

    だから、さらなる変革を目指すのが最善の策だろう。

    古く善き鬼十則に戻るのではなく、成果主義に偏るのでもない、両者をうまく組み合わせながら、個人の充実感と健康と企業のハイパフォーマンスのすべてを高次元でみたす、そういう社会を、風土を作り上げなければならない。でなければ、この日本は早晩、確実にダメになる。

    もう、すでに始まっている。犠牲になった新入社員の事件は、単独の事象ではなく、三菱自動車の事件につながる事象なのだ。

    では、どうするのか?

    まずは、その問題意識を社会で共有することだと思う。

    この記事がその意味を少しでも持つことを願うばかりだ。

    彼女の冥福を祈りつつ。

                        2016.11.08記

     

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    2016年11月 7日 (月)

    ■神宮美術イベント火災をネットに上げる神経について。

    ■木組みのジャングルジムの中のおがくずにライトアップ用の電球から引火し、子供が犠牲になったこの事故は、ニュースを見るだけでいたたまれなくなる。
     
    だが、なんとなく見過ごしてしまうところなのだけれど、このニュース映像は現場にいた人が ネットにアップしたんだよな、と考えると気持ちが悪くなる。
     
    映像には、何人かの若い男性が必死に木組みをくずして子供を救おうとしている姿が映し出されている。
     
    ニュース映像としては、ありだろう。
     
    報道カメラマンと現場との関係性は永遠の論議の的だ。
     
    だが、これを撮ったのが、たまたまそこに居合わせた人だとするならば、その神経構造を疑ってしまう。だって、目の前で悲惨なことが起きていて、消防もなにもいないなかで、それを必死になんとかしようとしている人がいるんだろう?そこいらの繁華街で火事に出くわしたというのとは話が違うのだ。普通の人間なら自分に何かできないかを考えるだろう。
     
    百歩譲って傍観者でいるとしても、いいネタとれたとネットに上げるその神経は、すでに人間ではない。それを目の当たりにした瞬間に、この撮影者は当事者なのだ。必死で子供を助けようとする人たちの悲痛な思いについて、ひとかけらでも共感するこころがあるのならば、決してネットに上げるなどという行為はできないだろう。
     
    撮影するという行為は、ときに人を現実の、リアルの世界から切り離す。
     
    悪意のない、この撮影者も、その罠にはまったのではないか。
     
    ■その意味で、今日食べたラーメンをブログやフェースブックに上げる行為もまた、その無神経さと無縁ではない。
     
    ああ、おいしかった!という感動をネットに記録するのはもちろん楽しいことだ。
     
    けれども、ネットにあげる「感動」について常に意識し、それを採集する行為にとらわれるとき、目的と手段が逆転してしまうことに気づかない。
     
    生の感動は、その採集に対する切迫感によってスポイルされてしまう。ネットに上げるという行為は、そういう危険を常にはらんでいるのだ。
     
    今、目の前にしている「わたくし」のリアルをそのままに感じ、行動する。
     
    そういう感覚を大事にしたいものである。
                                       2016.11.7 記
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

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    2016年11月 2日 (水)

    ■『ママにゲーム隠された!』。感動の最終ステージ。

    まさかスマホゲームで涙ぐむとは思わなかった。
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    ゲームのやりすぎで、ママにゲーム機を隠された小学生。
     
    この部屋のどこかにゲームは隠されている。
     
    見つけたアイテムを駆使して、ゲーム機を見つけるとんちゲーム。
     
    へたなところを開けるとママが登場してゲームオーバー。
     
    ひねりまくっていて、これがものすごく面白い。
     
    一気に最後ステージまで遊んでしまった。
     
    しかし、その最終ステージの30日目。
     
    その落ちのドラマに思わず涙ぐんでしまった。
     
     
    ああ、愛があふれている。。。。。
     
                         <2016.11.02 記>
     

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    ■【映画評】『魔法少女まどか★マギカ [新編] 叛逆の物語』 愛はかくも深く、罪深く、いとおしく。

    TVシリーズを見た衝撃の冷めやらぬまま劇場版新編を見た。

    想定内の進行は中盤までで、そこはまどマギ、やはり予測のななめ上を行ってくれる。

    なお、今回ははじめからTVシリーズのネタバレで行きます。これから見る予定の方は、見てからにしましょう。

    ●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
        
    No.89  『魔法少女まどか★マギカ [新編] 叛逆の物語』

              監督: 新房昭之 宮本幸裕 脚本:虚淵玄
          公開:2013年10月
           出演: 悠木碧   斎藤千和 他

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    ■ストーリー■

    ■(TVシリーズ)

    とある町に魔法少女がいて、人を不幸に陥れる魔女と戦っている。主人公のまどかは、君も魔法少女にならないかと不思議なかわいらしいネコのような動物のキュゥべえに誘われる。魔法少女になってくれるなら、ひとつだけ願いをかなえてあげる。

    しかし、謎の転校生ほむらは、絶対にキュゥべえのいうことに耳を傾けるなと忠告を続ける。

    魔法少女になるということは、肉体から魂を抜き取られるということ。そして、魔法少女は次第に醜いこころの汚れがたまり、最期には魔女と化してしまうこと。今まで彼女たちが戦ってきた魔女は、自分たち魔法少女の成れの果てだということ。

    キュゥべえは、清らかな魔法少女が魔女に堕ちていくその刹那に放たれる膨大なエネルギーを回収することを目的とする感情を持たない宇宙生命体で、彼女たちの命にも気持ちに対しても微塵も気にかけていないということ。

    幼馴染の少年の腕が動くようになることと引き換えに魔法少女となっていた親友のさやかは、その事実を知り、絶望の果てに魔女と化してしまう。

    そして、最強の魔女、ワルプルギスの夜が町にやってくる。

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    時間をさかのぼることの出来るほむらは、まどかの中学校に転向し、ワルプルギスの夜と戦ってまどかが死んでいくまでの一か月間を、何度も何度も繰り返し、まどかを救う道を探し続けてきたのだ。絶望のなかで魔女となることを拒んだまどかを見ているがゆえに、決してまどかを魔法少女にすることだけは阻止したかったのだ。

    そして、ワルプルギスの夜にひとり立ち向かうほむら。しかし、ワルプルギスの夜の圧倒的な力の前に力尽きてしまう。

    まどかがそこに現れ、キュゥべえに魔法少女にしてくれと頼む。対価としての願いは、過去も未来も現在も、すべての魔法少女たちが絶望の果てに魔女とならないようにすること。

    その原理原則に反した願いをかなえるということは、自らが概念としてこの宇宙の原理原則を超える存在になること。つまり、愛する家族や友達と直接関わりあうことができなくなってしまう。

    それをわかったうえで、まどかはこの世界から魔女という悲しい存在を消し去る選択をし、宇宙を作り変える。

    その宇宙に住むひとたちは、まどかの存在を知ることはない。唯一、時間を操ることの出来たほむらだけが、まどかの記憶とまどかへの思いを胸に、魔法少女が魔女になる前に絶望することなく消滅していく、まどかが作った新しい世界で生きていく。

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    ■(劇場版新編)

    ほむらは、不思議な感覚に襲われる。何かがおかしい。たぶんここは今やあるはずのない魔女の結界。なぜ、魔女であるべべがなぜこの世界に存在しているのか。なぜ、魔女のことを知るはずのないさやかが、そのことを知っているのか。

    いったい、だれがこの願望の世界を作ったのか。

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    ■序盤。魔女も、魔獣もいない、少女の悪夢を退治する。魂が穢れることもない、この平和な世界。まどかと、まみと、さやかと、杏子と、ほむらが魔法少女として仲良く過ごす日常。いつまでもこの毎日が続けばいいのに。

    なんだよ、このビューティフル・ドリーマーは!と、つい毒づきたくなってしまった。

    だが、それも作者の掌の上。中盤以降の展開は、十分引き込まれるものがある。

    問題は物語の終わらせ方だろう。

    はじめのプロットでは、あのどんでん返しの前で終わらせるものだったという。確かにそのほうがすっきりと気持ちいいが、やはり、この終わらせ方の方がまどマギらしい。

    あれがなければわざわざ映画にする必要ないだろうという作り手の思いが伝わってくる。

    詳しくは、ネタバレ欄以降で考えていくが、あれがあることで、TVシリーズではきれいにまとめすぎていた、人とは何か。という本質的問題に肉薄していくのだ。

    けれども、やはり気持ち的についていけない部分もある。

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    ■その意味で、急展開にはいる前、結界の中でほむらがまどかになぐさめられるシーン。ここが重要だ。

    この世界のまどかはただの魔法少女。そのまどかは家族も友達も大切でひとりぼっちになんてなれないよ、とほむらに語る。実際にこの世界の魔法少女たちを絶望から救ったまどかの本当の気持ちをそこに見て、ほむらは自分が救いたかったのはこの世界の少女たちではなく、まどかだったのだ、ということに気が付く。ほむらの周りに咲く花は一瞬にして枯れ、そして綿毛となって一斉に飛んでいく。

    この時点では、ほむらはまだ真実にたどり着いていないのだけれど、ここで彼女の中で大きな転換が起きているのだ。

    この一途な想いこそが、TVシリーズ終盤で見るものが目の当たりにしたほむらの神髄であったとこにあらためて思いいたる。

    唯一問題があるとすれば、どんでん返しの場面でのほむらの表情だ。そのとき、ほむらの口に浮かぶ笑みは、驚きを与える効果があるのしても、共感からは離れてしまうものだろう。

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    ■■■ 以下、劇場版 ネタバレ注意 ■■■

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    ■この世界は、インキュベーターが魔法少女の魔女化によるエネルギ供給という仮説を検証すべく、ほむらのソウルジェムをこの宇宙の原理から隔離し、そこで何が起きるかを観察する実験から生まれたものであった。

    だが、その目論見も、円環の理の一部となり、まどかと同じ世界にいた、さやかと、かつてまみを食い殺したお菓子の魔女のもとの姿であるなぎさによって導かれたまどかによって救われる。

    と、思われた瞬間、ほむらは、まどかの一部を取り込み、宇宙の原理を書き換える。救済の神であるまどかに対する悪魔として。

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    ■TVシリーズは、悲しすぎる運命に沈んでいった魔法少女たちの魂を救済する物語であった。

    最終回で、有史以来の、そして未来の魔法少女たちの魂を解放していくまどかのシーンには、震える心を抑えられない。あまりにも切ない運命への圧倒的な癒し。

    だが、結局のところ、魔法少女たちは再び自分の人生を取り戻すことないのだ。彼女たちは安らぎの表情で無の世界へと還っていく。この世界から消え去ることでしか、彼女たちを救うことができないからだ。

    これは、この世にある限り、人は負の感情から抜け出すことはできない、という世界観を語っている。

    どんなに清らかな心で世界の幸せを願っても、それ以上の負の感情があらわれ、いつか必ずそこに飲み込まれる。

    ■生命という秩序は、常にその外界にエントロピーを排泄し、いつか必ず、その海に沈み、滅びることになる。

    善きこころを思うとき、そこには悪しきこころが、対立概念として立ち現れる。善きことを求めることは悪しきことを認めることと同義なのだ。

    善し、悪し、を差別する、そのこころを批判し、この世はすべて、認知し、認知することで差別が始まる。仏教的な世界のとらえ方だ。

    まどかは、その差別されたすべての負の気持ち=エントロピー=悲しみを引き受ける。そうして宇宙全体として負の総量が飽和にいたるとき、この宇宙を終わりにし、再び初めからやりなおす。これが、円環の理、なのだろう。

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    ■そのTVシリーズの救済の物語に対する「叛逆」が、今回のテーマだ。

    負の気持ちを一手に引き受けることで、この宇宙の秩序を維持する。その意味で、まどかはインキュベーターと同じ立ち位置にいる。

    やさしさに満ちあふれたまどかだが、救済の神となることで、この世のすべてを包み込む存在となってしまった。

    ほむらには、それが受け入れられない。

    わたしは、まどかを救いたかったのだ。

    まどかに幸せになって欲しかったのだ。孤独な神の座は、まどかにはあまりにもつらすぎる。わたしがまどかの幸せを守りたい。

    そのきわめて個人的な感情が、本来の自分を突き動かしてきたものであること。それに気付いたほむらには、自らが悪魔になろうと構わない。

    望みが叶うなら。

    ■ほむらが再構築した世界。ほむらとまどかの渡り廊下での会話。

    自分の想いとこの世の秩序のどちらを選ぶか。

    まどかには安定した秩序が大切。

    ほむらとまどかの対立の構図が確立するシーンだ。

    このときの、赤いリボンをまどかに返し、それがわたしが大好きなまどかなんだよ、というあまりに人間らしいほむらの気持ちにぐっとくる。

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    ■まどかの幸せを守るために、その幸せに寄り添うために、悪魔と化し、この宇宙を再構築したほむら。

    しかし、いや、だからこそ彼女は孤独だ。

    それはこの世界を支配するものだから、というだけではなく、人は本来孤独なものなのだ。自分の見ている世界は、自分が認知し、再構築した、自分だけの世界。つまり、われわれすべては、ほむらと同じ孤独を抱えているということなのだ。ほむらはあなた自身だということを作り手は伝えたかったのかもしれない。

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    だからといって、ほむらの生き方を否定しているわけではない。

    それは、人間である限り、避けられない性(さが)なのだ。むしろ、それを認め、受け止め、孤独の中で生きていく。それが人間なのだ。

    ほむらがこの世界を、まどかのいる世界に再構築しようと決意する動機は、愛だ。

    決してインキュベーターには理解できない、人間が人間であることを支えるスペック。人間を幸せにし、悲しみを与え、孤独にする。

    人間は、あまりに悲しく、切なく、だが、それ故にいとおしい。

    劇場版新編。この作品は、TVシリーズのテーマである救済と対になるテーマとして、負の感情をも抱え込む個としての人間を描くことを選んだ。ほむらというあまりに純粋な少女の器をつかって、普遍的な人間を描く。

    人間が、そのちいさな幸せを守るために悪魔にでもなる。その切なさ、だから人間なのだ、それこそが人間らしさなのだ、という強い想い。訳知り顔の、しかし世界の実相を見切った、それ故に圧倒的な仏教的悟り=神に対する叛逆。それが、この作品の底流に流れる想いだ。

    ほむらは、われわれは、永遠にこの絶望的な叛逆を試みることになるだろう。

    インキュベーターには決して理解できない、人間の強さがそこにある。

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                          <2016.11.02 記>

    ■Blu-ray■ 劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語(完全生産限定版)

    ■STAFF■
    監督 新房昭之(総監督)
        宮本幸裕
    脚本 虚淵玄
    原作 Magica Quartet
    音楽 梶浦由記
    主題歌
     ClariS「カラフル」、Kalafina「君の銀の庭」
    撮影 江藤慎一郎(撮影監督)
    編集 松原理恵
    制作会社 シャフト


    ■CAST■
    鹿目まどか - 悠木碧
    暁美ほむら - 斎藤千和
    美樹さやか - 喜多村英梨
    巴マミ - 水橋かおり
    佐倉杏子 - 野中藍
    百江なぎさ - 阿澄佳奈
     
    志筑仁美 - 新谷良子
    鹿目詢子 - 後藤邑子
    鹿目知久 - 岩永哲哉
    早乙女和子 - 岩男潤子
    上条恭介 - 吉田聖子
    中沢 - 松岡禎丞

    <ギャラリー>

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    ●●● もくじ 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●

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