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2015年7月 8日 (水)

■『ダナエ』、クリムト。恍惚としてエロスに浸る幸福。欲望も悟りをも越えた、人間が最後にたどり着く楽園。

圧倒的なエロスに酔いしれるのである。

Photo

クリムト作、『ダナエ』(1907-08)。

ダナエは、ギリシャ神話の人物。孫に殺されるという神託を信じ、ダナエの父親は男が近寄らないように娘を塔に閉じ込めるが、その美しさを見染めたゼウスが金の雨になって塔に流れ込み、ダナエと交わる。そのシーンである。

 

余計な解説や感想などはいらない。

ただ、ただ、恍惚と、ダナエとの世界に没入する。

それが幸せなのである。

エロスは、人間がたどりつく最後の楽園なのだと思う。

ここでは、一旦『ダナエ』を離れ、エロスについて語ってみよう。

■ここでいうエロスとは、もちろん愛におぼれるエロスを多分に含むが、人間の心の動きとして大きくとらえたとき、すべてを忘れ、恍惚とその世界に浸る幸福という意味で、さらに広い枠組みとして現れる。

それは、娘の寝顔を眺めているときであったり、刻々と変わる夕焼けの空の色彩に引き込まれているときであったり、どんな高級イタリアンレストランでも食べることのできない青春を過ごした喫茶店のペペロンチーノの味を思い出しているときに、私をとらえているものなのだ。

そこでは、社会のしがらみも、欲も、苦悩もすべて消え去り、ただただ、恍惚の世界がある。

それは、株でうまくやって一億円も儲けたり、会社で抜擢され同期の誰よりも早く昇進したことによって得られる幸福感とはまったく性格の異なるものである。

何かを得れば、さらに欲しくなるのが、我々の欲望の本質であり、満足のすぐそばには、強い不満が常に寄りそっている。

そういう、何かを得る、というものではなくて、目の前のもの、そのものを、そのものとして味わい、愛おしみ、恍惚として没入する。それがエロスだ。

そこに幸せの秘密が隠されているのだと、私は確信する。だから、エロスにこだわるのだ。

■今、私たちは、資本主義社会に暮らしている。

資本主義の駆動力は欲望である。もっとお金を稼いで、もっと良い暮らしをしよう。その為にお金を稼ぎ、それを消費する。

貧しい人は、もっと「幸せ」であるべきだ、と資本主義社会にどんどんと組み込まれ、もっと、もっと、幸せに、もっと、もっと、お金を稼ぎ、もっと、もっと消費をしよう。

そうして消費のパイの大きさが、日々成長することを前提に、資本主義社会の「幸せ」は約束されている。

かつて、マルクスは、資本家というものがいて、労働者を搾取するのが、資本主義の本性だ、と批判したが、結局のところ、労働者たちも、もっともっとお金を、もっともっと幸福を、という世界観を選び、組み込まれることから逃れることは出来ず、共産主義の実験は完全に失敗した。

すべての人々が、その欲望の仕組みに取り込まれ、その幸せを維持していくために、さらにその欲望を膨らませていかなければならない。

そこには、資本家も労働者もなく、あるのは、欲望によって駆動される圧倒的に強固なシステムなのである。

■だが、資本主義が欲望のシステムである限り、その欲望が満たされることは無い。

金が欲しい。地位が欲しい。愛が欲しい。

欲しい、欲しい、欲しい。

それが、本当に幸福な世の中ではないと、誰もが薄々感じているのであるのだけれど、今の豊かな生活が、資本主義の仕組みに支えられているのも現実で、それを手放す勇気もない。

だから、常に満たされない欲求を抱えながら、我々は生きていかざるを得ない。

それが、資本主義社会に暮らすものの悲劇である。

■わたしを苦しめる欲なんてものは、幻に過ぎない。

仏教は、そう教える。

目も鼻も口も耳も、

見えるものも、匂うものも、味わうものも、聞こえるものも、

こころに浮かぶものも、感じるものも、

すべては幻、実体のないものである。

「空」という、この仏教の概念は、それらの感覚や感情を徹底的に洗い流そうとする。

欲望、怒り、悲しみ、苦しみ、といったものは「私」から生まれ出たものに過ぎない。「私」がいない世界では、そんな感情や、苦しみは存在しえないのだから。

欲望、怒り、悲しみ、苦しみ、は「私」という洞窟のなかで空しく響く、「こだま」なのである。

だから、その洞穴から去れ、「私」というコダワリから去れ。

というのが仏教の神髄なのだと、私はとらえている。

■だがしかし、そうして何者でもない真っ白な紙のような私は、本当にそうなりたかったのか。

実は、悟りとは、そういうものではないのかもしれない。

一休宗純が、夜のしじまに浮かぶ小舟の中の静寂にいて、それをカラスの声が切り裂いた。

その瞬間、一休を苦しめてきた「私」が消え去り、世界がありありと、その目の前に現れてきたのだという。

真っ白な紙となりたい、という思いもまた、一休の欲であり、「私」そのものであった。

それが木端微塵に打ち砕かれ、「私」というメガネを通さずに、世界が世界としてありのままのものとして、ある。

■そうして、真に「私」を去り、ありありと世界を感じることが出来たとき、アリジゴクのように引き込んで離さない、資本主義の魔の手から、我々は逃れることができるのかもしれない。

それは、ひとつの方法なのだと思う。

爽やかな一陣の風のような、そんな生き方は、極めて、かっこいいと思う。

けれども、それが幸せかと問われれば、何か違うような気もするのである。

人生に対して、どこか一歩引いた、よそよそしさを感じてしまうのだ。

 

目の前にある、そのものをそのものとして、「私」そのものが愛している。

愛おしい、と感じるのは「私」。

そうして、その愛に没入していく過程で、時間も空間も消えていき、「私」が溶けていく感覚。

それがエロスであり、悟りの先にあるものなのではないか、と強く提起したいのだ。

それは、「私」と、それを包み込む「世界」への強い肯定であり、愛である。

エロスは決して、虚無でも、逃避でもなく、

世界に対する、明るく、前向きな姿勢なのである。

この閉塞した、出口の見えない資本主義の地獄のなかで、一条の光を見出す試み、態度こそが、エロスなのだ。

 

改めて、『ダナエ』を見る。

すべてが消え去り、ただ胸をつく感情が漂う。

その瞬間に、幸せがあるのだ。

 

                         <2015.07.08記>

 

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