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2015年5月

2015年5月18日 (月)

■【映画評】『セッション』。ラスト9分に行ってはいけない世界を垣間見る。

圧倒的9分間に一切の思考は停止し、ただただ打ち震えたのである。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.77  『セッション』
           原題: Whiplash
          監督: デミアン・チャゼル 公開:2015年4月
       出演: マイルズ・テラー J・K・シモンズ 他

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■ストーリー■
アメリカで最高の音楽学校、シャッファー音楽学校へと進学したドラムス奏者のアンドリュー・ネイマンは、その才能と姿勢に目を止められ、最高の指揮者として名高いテレンス・フレッチャーのスタジオ・バンドに参加することとなる。だが、そこは専制的なフレッシャーによる地獄のスパルタ教室だったのだ。

■フレッシャーは言う。

「カウント・ベイシーのバンドでチャーリー・パーカーがミスをしたとき、ドラマーのジョー・ジョーンズがパーカーの頭にシンバルを投げつけた。」

この時の屈辱をバネにチャーリー・パーカーは己の限界を超えるような特訓をし、その才能を開花させたのだ。

アメリカには最悪の言葉がある。それは、「Good Job !」だ。

そんな生ぬるい馴れ合いの言葉からは、チャーリー・パーカーは生まれないのだと。

■このフレッシャーの考え方は、現在のコーチング理論の対極に位置するものだろう。それ故に、この映画に対する反発はあるのだし、最大限に評価するひとも、このフレッシャーの立ち位置を狂気と捉えこそすれ、受け入れる者は少数だろう。

だがしかし、広くプロフェッショナルというものを考えたとき、私はそこに強い共感を覚えてしまうのである。

仕事を楽しもう、なんて10年早い。

プラクティス!プラクティス!プラクティス!

血みどろになりながら実践で鍛え上げることで、実力は積上がっていく。胃を痛め、あまりの屈辱に人前で涙を流す。そうやって土台を固めることによって、揺るぎない自信と能力を手にすることが出来るのだ。

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■だが、そのやり方は、脱落していく者を突き放す手法でもある。

事実、その思考の中で育ち、一応の自信と実力を手にしたと思い込んだ私自身、さらに自らの能力を超えようとあがく中で心を病み、ドロップアウトを味わった。

しかし、今でもなお、そのやり方が間違っていたとは思えない。おままごとのような甘っちょろい考えには虫唾が走る。

フレッシャーの、そしてそれを乗り越えようとするネイマンとまったく同じ思考形態なのだ。

それが良いことだとは決して思わない。

人をつぶし、人としてのこころを奪う、この思考が正しいとは思わない。

己を苦しめたものの正体を正当化するつもりもない。

その一方で、心をゆるめることで、余計な緊張が抜け、実力を発揮しやすくなるのも体感しており、多少は理解しているのではないかとも思う。

■音楽という文字は、音を楽しむと書く。

この映画の公開前に、ブログで激しい批判を行い世間を騒がせたジャズ・ミュージシャンの菊地成孔の論点もそこにある。

ジャズになっていない、ドラムスを根本的に間違えている。

彼は、表層的なことを言っているのではなく、要するにそこに音楽を楽しむ姿勢、愛がない。といっているのだ。

だから音楽を愛する者として、そんな映画が高く評価され、受賞する。それが耐えきれなかったのだ。

それでもなお、この道にはパワーがある。その危険が分かっているからこその激しい批判なのだ。

Whiplash1

   
■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■やっと手に入れたメインドラムの地位を奪われたくない焦る気持ちのせいでコンペティションに向かう道で事故に会い、重傷を負いながらスティックを握るも演奏できず、そのやりどころのない怒りを暴力というカタチでフレッシャーにぶつけたことですべてを失うネイマン。

一方、ネイマンの証言により、大学から追い出されてしまうフレッシャー。

その因縁はフレッシャーが仕組んだJVC音楽祭での罠によって爆発する。

■楽譜なしで新曲を叩かせられるという屈辱に対し、ネイマンはバンドの乗っ取り行為で逆襲する。

ラスト9分の始まりだ。

このシーンを「2人は音楽によって救われた」とする町山智浩はいかにも甘い。

確かに、フレッシャーはネイマンの「怒り」の言葉を受け止め、再び指導者として弟子の前に立つ。暴走する弟子をなだめ、フィニッシュに導く。そこには今まで築くことのできなかった絆が生まれている。

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■だがしかし、あの圧倒的な怒涛の9分は一体なんだったのか。

言葉にすることを拒絶する、あの体験が、音楽という枠に留まるとは思えない。それは、もっと空恐ろしいものである。

間違っていると分かっていながらも引き寄せられてしまう、現実から遊離した狂気の道である。

よし、こいこい!と手招きするフレッシャーは、言わば恍惚の死(タナトス)の世界へ若者をいざなう悪魔だ。

ネイマンを通じてそこから脱出しようとしたデミアン・チャゼルがたどり着いた先は、結局、同じ道のさらに先の世界だったのだ。

このカタルシスは極めて危険な香りがする。

だから魅力的なのだ。

                       <2015.05.18 記>

Wiplash2

■STAFF■
監督 デミアン・チャゼル
脚本 デミアン・チャゼル
製作 ジェイソン・ブラム
ヘレン・エスタブルック
ミシェル・リトヴァク
デヴィッド・ランカスター
製作総指揮 ジェイソン・ライトマン
コウパー・サミュエルソン
ゲイリー・マイケル・ウォルターズ
音楽 ジャスティン・ヒューウィッツ
撮影 シャロン・メール
編集 トム・クロス

■CAST■
マイルズ・テラー - アンドリュー・ネイマン
J・K・シモンズ - テレンス・フレッチャー
ポール・ライザー - ジム・ネイマン
メリッサ・ブノワ - ニコル
オースティン・ストウェル - ライアン

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2015年5月17日 (日)

■【映画評】『ドリームキャッチャー』。愛おしい、愛おしい、純粋無垢の魂。善が生きにくい時代に。

「見せてあげよう、見たことを後悔する恐怖を・・・。」というキャッチコピーが違う意味で機能してしまった作品。すさまじい展開の果てに観客が目にするものとは。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.76  『ドリームキャッチャー』
           原題: Dream Catcher
          監督: ローレンス・カスダン 公開:2003年4月
       出演: トーマス・ジェーン  ダミアン・ルイス モーガン・フリーマン 他

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■ストーリー■
少年時代からの仲間4人が20年来の旧交を温めるために冬の山小屋に集まるのだが、そこで奇怪な現象に巻き込まれる。事態はハイスピードで展開していき・・・。

■2ちゃんに10年以上続いているドリームキャッチャーのスレッドがあって、それに出くわしたのが久しぶりに再見したきっかけ。そこの住人達があまりにもこの映画を愛しているので、それが伝染し、どうにも無性に見たくなったのだ。

初見のイメージはとんでも映画だったのだが、改めて見直してその人物描写の描きこみにぐいぐいと引き込まれた。

ヘンリー、ジョンジー、ビーヴァー、ピートの現在。そして、彼らをつなぐ純粋無垢なダディッツとの記憶。その愛おしさ。

ホラー、SF、アクションとその姿を次々と変貌させようとも、その底流にある愛おしさは薄れることは無く、むしろこの異常体験によって強化されるのだ。

この映画の本質はそこにある。

アーイ\(゚∀゚)/ダディッツ!

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■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■とはいえ、この映画を語るうえでこの濃密なハイスピード展開をなおざりにするわけにはいかないだろう。

さりげなく語られるジョンジーたちの超能力にサイコサスペンスの予感を感じさせる導入部。冬の山小屋で彼らが目にするコズミックホラー。宇宙人の侵略を阻止しようとする軍事組織とクレージーな眉毛の指導者。感染症の脅威。ハリウッドアクション的宇宙人殲滅戦。ジョンジーの心の中での宇宙人との心理戦。そこに差し挟まれる少年期の甘酸っぱい記憶。そして、ラストの宇宙人同士の戦い。

ひとつひとつの展開だけで一本の映画が取れてしまいそうな濃密さであり、その贅沢さに乗り切れない人は不幸である。

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■なんといっても最初の山場は、ミスター・グレイの登場シーン。山小屋に招き入れたゲップ男が便所で出産。その産み落とされた何かを必死に便器に閉じ込めるビーヴァーは精神安定のための爪楊枝を拾いたくてしかたがない。その葛藤の末、ビーヴァーはうなぎのような異生物に襲われてしまう。その場に遅れて飛び込んだジョンジーの背後に佇む気配・・・。この一連のシーンはエイリアンファンとしても納得の出来栄え。クリーチャーがリアルであればあるほど、異世界感が圧倒的に強まり、特にミスター・グレイの異様さ、意味の分からなさが出色。まさに悪夢だ。

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■スタンドバイミーだと思いきや、おいおいエイリアンか?いや、サイン?と展開したところで、25年間宇宙人の侵略から地球を守ってきた軍事組織の登場。

これが初めての事態ではない、ということだ。

そして、25年間、宇宙人の侵略の魔の手から地球を守り続けた男が眉毛おやじ(モーガン・フリーマン)。

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この人がまた濃い。濃いのは眉毛だけではない。何しろこの親父のクレージーさは、自らのルールを破った部下の右手を拳銃で撃ちぬくレベルなのだ。クレージーな司令官といえば地獄の黙示録のキルゴアだが、あの明るい単純バカとは正反対の偏執狂で、部下に権限を委譲すると宣言しておきながら、まったく主導権は譲らない。異星人に汚染された住民を皆殺しにしようとする眉毛についていけなくなった部下の裏切りが許せず、終盤、こともあろうに異星人を追い詰めようとしている部下に攻撃ヘリで復讐を試みる。地球存亡の危機よりも自らの鉄のルールの厳守が大事という男で、部下だけではなく、観客にとっても理解不能。25年のプレッシャー、恐るべしなのである。

とはいえ、命乞いをし逃げ惑う難破宇宙船の異星人に容赦ない攻撃をかける眉毛のガッツがなければ、地球は守りきれなかっただろうというのもまた事実で、そのあたり、戦争が作り出した男の悲劇の物語と見てとれなくもない。

■一方、ジョンジーの体を乗っ取ったミスター・グレイとの攻防もまた見どころ。

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ミスター・グレイの体がはじけ、飛び出した赤い紛体がジョンジーの体に侵入。ジョンジーの表情がガラリと変わる。ここで、意味の分からない存在であったミスター・グレイに意思が宿る。それは、はっきりとした侵略者の顔だ。

ジョンジーは小屋に来る前にダディッツの幻によって導かれたような交通事故にあっており、その時の臨死体験によって心の座である「記憶倉庫」を強化されており、そこに立てこもることでミスター・グレイと対抗する。

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ここに来て、4人がいじめられているダディッツと出会い、交流を深めることでダディッツから超能力というギフトをもらった、その意味が浮き上がってくる。

ダディッツは地球が存亡の危機を迎えるこの日のために、すべてを準備していたのだ。

■宇宙人に体を乗っ取られたジョンジーを追うヘンリーは、ダディッツが重要な役割をになうことを直感的に気づき、大人になったダディッツを迎えに行く。

だが白血病に侵されたダディッツは余命いくばくもない状態にあった。そのダディッツを送り出す母親の姿もまた泣ける。

母親もまた、この日が来るのを薄々感づいていたのかもしれない。

知的障害をもつ子供を抱えた母親の苦労は計り知れないが、それ以上に、純粋さの結晶であるダディッツを愛し、慈しみ続けた母の愛。アイ、ダディッツ!のポーズで息子を送り出すその姿にすべてを読み取り、涙するのである。

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■ラスト。貯水池のミスター・グレイ(イスター・ゲイ)との対決の場面。

ジョンジーの体からミスター・グレイを追い出したダディッツは、ミスター・グレイの槍のような尾に腹部を突き刺され、絶対絶命のピンチ。

そこで問題の場面。

ダディッツは両手を突き出し、アーイ、ダディッツ!の掛け声とともに宇宙人に変身。ミスター・グレイを道連れに消滅する。

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え、宇宙人だったの???

誰もが椅子から転げ落ちるシーンである。

■ここですべてが台無しになったと思う人もいるだろう。

DVDに収録されている没案のラストではダディッツが宇宙人に変身することはなく、あくまでも超能力でミスター・グレイと対決する。まあ、この方が正当だろう。

けれども、一抹の物足りなさを感じるのもまた事実なのだ。

純粋無垢な絶対的善の存在、ダディッツ。

そこに、彼を地上に遣わしたであろう別の存在の意図を感じとってしまうからだ。

地球の危機を見通し、それを防ぐ種をまいた神という存在だ。

いや、そうではない。そうであってはいけない。

それでは、ヘンリー、ジョンジー、ビーヴァー、ピートとダディッツの出会いとその記憶もまた、神による筋書きだったということになってしまう。

ダディッツの変身は、ダディッツ自身を我々の理解の外に置くことによって、その純粋善の存在に、その意思に、リアリティを与えるこころみなのである。

そのことは同時に4人を神の筋書きから解放する。

■無抵抗な子供がいじめられている姿を見過ごせず、間違っている、と口に出して言える正義。

それは極めて大切なこころの働きである。そのこころは純粋無垢の絶対善と共鳴しあう。

そこに人間に対する希望があるのだ。

神なんかに押し付けられたものではなく、自然に生まれたものであるからこそ、それは光輝くのであって、悪に対抗する力となるのである。

大人になったヘンリーは人生に絶望し自殺を図る。ジョンジーもビーヴァーもピートもまた報われた人生を歩んでいるわけではない。

ダディッツもまた、病魔に侵される。

善が、純粋が、生きにくい時代なのだ。

だからこそ、ダディッツの純粋が、ヘンリー、ジョンジー、ビーヴァー、ピートの優しさが愛おしいのである。

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                      <2015.05.17 記>

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あまりにもいとおしく、手元に置いておきたい作品。私はBlue-Rayじゃなくて安価なDVDにしたけれど。。。

原作もそのうち読もうと思います。

■STAFF■
監督 ローレンス・カスダン
脚本 ウィリアム・ゴールドマン
ローレンス・カスダン
原作 スティーヴン・キング
製作 チャールズ・オークン
ローレンス・カスダン
製作総指揮 ブルース・バーマン
音楽 ジェームズ・ニュートン・ハワード
撮影 ジョン・シール
編集 キャロル・リトルトン
ラウル・ダヴァロス



■CAST■
ヘンリー・デブリン博士 トーマス・ジェーン
ビーヴァー ジェイソン・リー
ジョンジー ダミアン・ルイス
ピート ティモシー・オリファント
ダディッツ ドニー・ウォールバーグ
バリー・ネイマン C・アーネスト・ハース
アブラハム・カーティス大佐 モーガン・フリーマン
 

 

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2015年5月10日 (日)

■【映画評】『時計じかけのオレンジ』。法の役割りと私のなかの「暴力」について。

暴力とは人間にとって何なのか。ふと考えてみたくなって押入れからDVDを取り出した。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.75  『時計じかけのオレンジ』
           原題: A Clockwork Orange
          監督: スタンリー・キューブリック公開:1972年4月
       出演: マルコム・マクダウェル  パトリック・マギー 他

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■ストーリー■
仲間と徒党を組み、享楽的に暴行、強盗、強姦を繰り返す少年アレックス。だが資産家の老女の家に押し入った時に仲間に裏切られ逮捕。懲役14年の刑を受ける。

模範囚として2年を過ごしたアレックスだが、犯罪者治療という新しい政策の被験者一号として抜擢され、医療機関に送られる。暴力やセックスへの衝動と身体的嫌悪感(吐き気)を強く関連付ける洗脳を受けたアレックスは、再び社会へ戻されることになるのだが。。。。

■はじめてこの映画を観たのは中学生の頃。その時受けた衝撃と嫌悪感は未だに記憶に残っている。ジーン・ケリーの雨に唄えばを口ずさみながら、無抵抗の作家夫婦に暴力をはたらくアレックスに対する激しい嫌悪。もう見ていられない、という感覚。

今回、改めてこの映画を観て、そういった嫌悪感が一切消えていることに驚いた。40歳も半ばを超えて、魂が穢れてしまったのだろうか。

いや、現実の鬼畜的犯罪行為に対する怒りの感情はまだ健在で、それ故にこの映画を改めて見てやろうという気になったわけで、そういった感覚が消えてしまったとは思えない。

では何が変わったのかといえば、私の中にある「暴力」に対する態度なのだろう。私の中にある暴力的な衝動。アレックス的なものが、私の中にも存在することを認めてしまったことによる変化なのかもしれない。

未発達な中学生時代には、その自らの内にある暴力性は忌むべきものであり、認めたくない。それゆえのアレックスに対する嫌悪感だったのではないだろうか?

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■この映画において、アレックスの犯罪は、アレックス自身の言葉で語られている。きわめて主観的なものである。襲われる浮浪者にしても、作家夫婦にしても、その抗議はその場面では描かれない。アレックスの「あそび」の世界なのだ。

そこに一切の共感は無い。

あるのは彼らが徒党を組む、その集団の中の位置づけだけである。

それが、この若い時代に特有の思考形態であり、それ故に、我々「社会」は共感というブレーキを持たない彼らを恐れるのである。

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■そのアレックスも仲間の裏切りにより、投獄される。だが、頭脳明晰なアレックスは模範囚を演じつつ、神父に取り入り居心地のいいポジションを確保する。そこに一切の反省は無く、彼の関心は、いかに早くシャバに帰れるかだけである。

そんなアレックスの耳に犯罪者治療を受けることで社会に復帰できるかもしれないという話が入り、志願。運よく刑務所に視察に訪れた大臣の目に留まり、それは実現する。

■ここで有名な「治療」のシーン。

Photo_2

吐き気を誘発するクスリを注射されて、暴力行為やセックスシーンの映像を強制的に見させられる。アレックスの中で、吐き気と暴力、セックスが強く関連付けられ、暴力やセックスを想起するだけで、強い吐き気を覚えるからだになってしまうのだ。

それを見た神父は、共感にもとずく罪悪感による暴力の抑制ではない点で、これは根本的な解決ではないと喝破する。

だが、大臣はそれで暴力が抑制できるなら、それでいいじゃないか、と、「去勢」されたアレックスを社会に放つ指示を出す。

そこには「罪」に対する思想のかけらもない。あるのは犯罪の抑制という政治的なパフォーマンスであり、党利党略なのである。

 

 

■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■そうして「暴力」という翼をもがれた弱者として社会に放り出される。

社会はそれを見逃さない。

かつてアレックスが暴力をふるった浮浪者はそれに気づくや、集団で彼らを囲み、暴行する。

そこに通りがかった警官は、アレックスのかつての仲間で、圧政をしいていたアレックスに対する復讐と弱者をいたぶる快楽の入り混じった感情で彼をいたぶる。

ほうほうの体でたどり着いた先は、かつて押し入った作家の家で、作家は「犯罪者治療」の犠牲者と気づくや政治のコマとしてアレックスを使おうとするのだけれども、彼があの事件の犯人だと気づくや、そこに猛烈な殺意か生まれる。

■これは何を意味しているのだろうか。

暴力は若者特有の共感の欠如に基づくものではなかったのか。

いや、そうではなく、社会は犯罪者を許さない。という意味で、やはり暴力的なのである。暴力を「治療」されたとしても、社会はそれだけでは納得しない。

「犯罪」を憎むのではなく、「犯罪者」を憎むのだ。

■「女子高生コンクリート詰め殺人事件」という犯罪がある。

1989年に発覚した少年犯罪なのだが、25年が経過しても未だにネットで語られ続けている事件なのである。

これは文字にするのも嫌悪されるほどの鬼畜の所業であり、ここではその中身は語らない。だが、ネット上で語られるのは、刑期を終えた4人の犯人及び、それに関わった50人とも100人とも言われる関係者に対する「断じて許さん!お前らも地獄の苦しみを味わって死ね!」という感情である。

私自身も、この感情を共有している。犯人が生きてのうのうと暮らしていることが許せず、目の前にいたら、何をしでかしてしまうか分からないような感情だ。

だが、そこにある「暴力性」の裏に、カタルシスがあることに気付いた時、私は慄然とするのである。

犯人に地獄の苦しみを味あわせる想像をしたときに、感じてしまう悦とした感情のことである。

私のなかに「正義」の仮面をかぶった、「快楽としての暴力」が存在しているという愕然の事実なのである。

それは、この映画に描かれた浮浪者や、かつての仲間や、老作家と同じ性質の暴力であり、暴力は、常に我々の中にある。ということである。

つきつめれば、それは憎むべき犯罪者と私が同じ土俵に立っている、ということなのかもしれない。

■作家グループの策略から辛くも逃げ出すも、全身打撲を負ったアレックスは病院で治療を受けることになる。「暴力」の犠牲者となったアレックスは、「罪」から解放され、彼を苦しめる洗脳からも解放される。

そこに件の大臣が訪れ、再び政治的パフォーマンスのコマとして、アレックスに活躍してくることを求める。

もちろん、アレックスは承諾。

そして再び、暴力と享楽の世界に羽ばたいていくのであった。

■犯罪者への暴力的衝動を抑えること。これが正しいことなのか。我々が、己の中の罪について苦闘するのをゲラゲラと笑いながら、野に放たれた犯罪者は、反省することもなく暮らしている。

だから、やはり「法」なのだと思う。

我々の中の「暴力」を一身に引き受け、代替装置としてそれを実行する。

「法」の役割りは、罪を裁くだけではない。我々、社会に生きるものの「暴力」をも引き受けているのだ。

だから、法に関しては、きれいごとを言っていては始まらない。

やはり、アレックスは野に放つべきでなはい。

小説版では、アレックスは暴力と放蕩の果てに、それを「卒業」して大人になるのだという。

そんなことで、許されるべきではない、と私の中の暴力がうずくのである。

                           <2015.05.10 記>

 

■STAFF■
監督 スタンリー・キューブリック
脚本 スタンリー・キューブリック
製作 スタンリー・キューブリック
原作 アンソニー・バージェス
音楽 ウォルター・カーロス
撮影 ジョン・オルコット
編集 ビル・バトラー



■CAST■
アレックス(Alex DeLarge) 主人公の不良少年 マルコム・マクダウェル
ディム(Dim) 不良仲間“ドルーグ” ウォーレン・クラーク
ジョージー(Georgie boy) 不良仲間“ドルーグ” ジェームズ・マーカス
乞食の老人 酔っ払い冒頭で襲われる ポール・ファレル
ビリー・ボーイ(Billyboy) 主人公と敵対する不良頭 リチャード・コンノート
ミスター・フランク(Frank) 被害者の作家 パトリック・マギー
ミセス・アレクサンダー 作家の妻(赤い服) エイドリアン・コリ
キャットレディ 主人公に襲われる ミリアム・カーリン
デルトイド(Deltoid) 主人公の担任教師 オーブリー・モリス
トム(Tom) 警官 スティーヴン・バーコフ
バーンズ(Barnes) 口髭の看守長 マイケル・ベイツ
刑務所の牧師 チョイスの名演説をした ゴッドフリー・クイグリー
女医(Dr. Branom) - マッジ・ライアン
ダッド(Dad) 主人公の父親はげている フィリップ・ストーン
ママ(Mum) 派手なカツラの母親 Sheila Raynor
ジョー(Joe) 赤い服の下宿人 Clive Francis
フレデリック(Frederick) 内務大臣 アンソニー・シャープ
精神科医 - ポーリーン・テイラー

 

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