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2012年12月

2012年12月26日 (水)

■【映画評】『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』。そこに語るべきことはあるのかい?

遅ればせながら見て参りました。

問題作だというのは事前に聞いてはいたが、ここまでとは・・・。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.62  『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』
          監督: 庵野秀明 公開:2012年11月


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■ストーリー■
冒頭、アスカとマリによる初号機奪還作戦が遂行される。その初号機のエントリープラグの内容物からサルベージされたシンジだったが、前作ヱヴァンゲリヲン:破、から世界は14年の月日が流れており、そのあまりの変容ぶりに呆然とする。

 

■2作目の「破」はエンターテイメントとして優れた作品であっただけに、今回の「Q」の突き放しぶりが皆を戸惑わせる。

新劇場版は停滞した自慰的アニメーションの状況を打破するエンタメ作品なのではなかったのか。

状況説明の欠落とスノッブな専門用語の連打で観る者を突き放すのが本来のエヴァの魅力ではあるものの、そこに回帰してどうするの?

■「破」のラスト。シンジが綾波レイを救おうとして、その個人的な想いがサード・インパクトを誘発してしまう。それでも、「行きなさい、シンジ君!」と背中を押したはずのミサトの変貌。

カヲルがロンギヌスの槍(或いはカシウス?・・・どっちでもいい!)で食い止めたはずのサード・インパクトは、ニア、と呼ばれながらも世界を破滅的状況に追い込んでしまった。

すべての責任はシンジにある?

一体、どういうことなのか?

シンジでなくともその不条理に戸惑いと怒りを覚えるのである。

Photo

 

■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

   
■ニア・サード・インパクトを境にネルフの人類補完計画を阻止する組織として立ち上がったヴィレ。

その旗艦、ヴンダーは空を飛び、ネルフの送り込む疑似使徒を撃破する。

その威力たるは神殺しの字名に恥じず。

なーんて、書いているうちにバカバカしくなってしまった。

観ていてこっちが恥ずかしい。

こんなのを観に来たわけじゃないぞ!

ネルフ対ヴィレという対立のなんて、薄っぺらな構図に甚だしい違和感がこみあげてくるのである。

■そもそもエヴァという物語は、迫りくる使徒という意味のよく分からない敵と戦いながら、その裏で策謀がめぐらされていて、ネルフという組織の中でミサトや加持が密かにその謎にせまる。と簡単に言ってしまうのが憚られるくらい複雑な構図、そこに魅力があったのである。

そっれを、あろうことか巨大戦艦を擁する抵抗組織??

ばっか、じゃなかろうか。

■エヴァ、というくくりを抜いたとしても、映画としてなっていない。

初号奪還から、ヴンダー起動、シンジの離反。このあたりまではいいとして、その後のシンジとカヲルのお話のあたりの中だるみの苦しかったことといったら、ない。

ふたりが友情を温めあう、そこを描くにしてもあまりに散漫。

3代目?綾波レイにしても、自我の覚醒を描き切れていないし、冬月がシンジに母親の真実を告げるシーンの説明くささは手抜きとしか言えないし。

■映画の中盤ってのは、これからどうなるのか、はらはらどきどきさせながらも、終盤に向けての伏線がしっかり埋め込まれていく。

具体的に言えば、カヲルがゼーレに反旗を翻す(ロンギヌスとカシウスの槍をリリスから抜き取ることで、世界を修復できると考える)、その動機づけ、或いはその心理を推し量ることのできる描写、そこが欠落しているから終盤で自死するカヲルがどうしても薄っぺらくなってしまう。

確かにTV版のカヲルもすべてを語ることをしなかったし、言動も意味不明なところがあった。

けれどもそこにはリリンをみつめる優しい眼差しが描かれていて、それ故にシンジに僕を握りつぶせ、というその心理に少しは心熱い部分があったのだ。

そこを描かずして、この映画で何を語ろうというのだろう。

■映画に限らず「作品」というものは、何かを語るべくして存在するものである。そして観る者の心の中に何かを生み出すものである。

果たしてこの「Q」に、何か語るものはあったのだろうか?

変わり果てた新しい世界の提示?

それは序破急の’急’の上っ面でしかない。

■’急’が新しい価値観の創造であるとするならば、自らの軽はずみでフォース・インパクトを励起し、カヲルを自死に追いやったその絶望。そこからのシンジの通り一遍ではない立ち上がり方、そこにこそ’急’がある。

本来、3部作の構想で完結編としての’急’としたかったのだがまとまらず、「Q」という人を食った名前でその場をしのぐ。

もし、そうならば、そんな中途半端なものを世に出す作り手の気がしれない。

確かにキレイな器だが、そこに魂は、ない。

                                   <2012.12.26 記>

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併映された「巨神兵東京に現わる」。
その作品の素性ゆえ’特撮’にこだわったので見栄え上のちゃちさは拭いきれないが、それは、それ。巨神兵と炎の迫力を大画面で観るのは悪くない。

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2012年12月19日 (水)

■【映画評】『伝説巨神イデオン 発動篇 Be Invoked』。生と死、そして見上げる満天の星空。

YOUTUBEでギジェの最期のシーンにたどり着き、つい懐かしくなってTVシリーズ後半から劇場編を一気に観てしまった。

うーん、富野喜幸の最高峰はやはりイデオンなのだ。

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No.61 『伝説巨神イデオン 発動篇 Be Invoked』
          
          監督: 富野喜幸 公開:1982年07月

Dvd ■伝説巨神イデオン 接触篇/発動篇 [DVD]

■ストーリー■

植民惑星ソロ星では、第6文明人の遺跡発掘が行われていたが、そこに伝説の無限エネルギー「イデ」を捜索していた異星人「バッフ・クラン」が現れる。

この意図せぬ遭遇は戦闘という最悪の結果となり、ソロ星の避難民は突如動き出した第6文明人の遺跡である宇宙船ソロシップに乗り、バッフ・クランに追われる逃避行を続けることとなる。

だが、バッフ・クランの追撃をかわしていくソロシップと巨大メカ・イデオンは次第にその力を増大させ、制御すら効かなくなっていく・・・。

■1980年代前半、ガンダムの影に隠れるようにあり、しかしそれを知るものからは熱狂的に受け入れられた作品である。

その時期に「オタク」の前身たる「アニメファン」のど真ん中にいた私自身、その巻き込まれ組の一人なのだ。

何が凄いといえば、その圧倒的な人間描写。

出てくる人間がことごとく感情的、それでいて個が立っていて不自然さがない。

それが湖川友謙のバタ臭いキャラクター・デザインとあいまって独特の世界を形作っている。

■特に、バッフ・クランの人々が魅力的で、軍の総帥の娘で女ながらも軍を取り仕切るハルル・アジバが、ふと見せる「女」の姿とか、「イデ」に見せられてしまった男、ギジェ・ザラルの実存をかけた苦悩とか。

そういったメイン・キャラクター以外、次々とソロシップに襲い掛かるバッフ・クランの面々ひとりひとりがまたクセがある。一話で死んでしまうのは惜しいくらい味わいがある。

だからこそ、発動編のラスト、死んでいった面々が次々と現れるシーンが生きるのだし、観る者は感涙にむせぶのである。

その意味で映画としてのイデオンは0点。

何しろ、TVシリーズを観て、それらの群像に愛着のある人間のみを対象に感動が仕立て上げられていて、知らん人間は置いてけ堀なのだから。

■結局、イデオンとは、「生きた」キャラクターを作り、「殺し」ていく、その過程を繰り返していく点描画なのかもしれない。

イムホフ・カーシャのセリフじゃないけど、「皆、星になっちゃえ!」なのである。

満天の星空を見上げれば、その星のひとつひとつに物語があって、それぞれの憎しみや悔しさや悲しみがある。

ここでTVシリーズのエンディング・テーマ「コスモスに君と」がアタマの中に流れればもう、それはイデオンの世界そのものなのである。

■破局と再生という意味でエヴァンゲリオンとテーマが重なるという人もいるが、ここまで書いてきて、やはり違うな、と思う。

エヴァンゲリオンはあくまでも「人類補完計画」ありきであって、謎をはらみながらそこに向かっていく物語である。確かにシンジやアスカの内面は描かれているものの、それはメインキャラクターゆえのもの。

対して「イデの発動」はあくまでも結果であり、そこにイデの意思があるにせよ、憎しみやこだわりを捨てることの出来ない人間の「業」の連なり自体が、イデオンという物語なのだ。

そこが富野喜幸の真骨頂であり、是非ともエヴァ世代のアニメファンに見て欲しい作品なのである。スタイルは野暮であっても、そこには人として何か感じるものがある、そう信じるが故に。

                             <2012.12.19 記>

 

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