■ドガ展。切り取られた「一瞬」に込められた我々の認知の広がり。
ドガを見に横浜美術館へ行った。
何と言っても目玉はエトワール。
■左下からのフットライトを浴びて浮かび上がるエトワール(星)。
背景のパトロンだとか他のダンサーだとかがどうという論評があるのだけれども、そんなことはどうでも良くて、離れて見たときに感じる「空間」というか「広がり」のようなもの。それに惹きつけられるのだ。
構図の魔術師、とでもいうのだろうか。
■その「広がり」は、この「バレエの授業」でも別のカタチで我々を魅了する。
切り取られたその瞬間にすべてが詰まっている。
ある視点から見た光景なのだけれど、複数の角度からみた情景、さらに、光、音、匂い。といった情報が総合されて一枚の絵となっている。
それが我々の「認識」というものなのだ。
■ドガは当時普及し始めた写真に傾倒したらしいが、それは単なる写実のための道具ではなく、「事象」を客観的に分析し、理解咀嚼するための道具であって、それそのものではない「何か」、我々が認識・認知する「何か」をあぶりだすための手段に過ぎない。
「瞬間」を切り出す写真という道具。
ドガはそれと同時に、あらゆる角度から対象を認識する道具として蝋細工の彫像をいくつも作っている。
ドガが切り取る「一瞬」には我々が感じるすべての情報が織り込まれていなければならないのだ。
■写実に止まらない認知としての「一瞬」。
その意味で「印象派」そのものの人であるのだけれども、このマニアックさは一種独特のものがあって、それがドガの魅力なのだと思う。
そのドガ自身が感じていたもの、その感覚を垣間見せてくれるのが、この「14歳の小さな踊り子」だ。
■ドガが唯一一般に公開したこの彫像作品のオリジナルは、蝋細工の肉体に実際の素材の衣装を着せ、実際の毛髪を頭にかぶせてリボンで結んだものだったという。
この作品は、それをブロンズで複製し、衣装を着せたものではあるものの、それであっても息を呑む迫力を持っている。
そこには光や音、匂いだけではなく、その息遣いや感情までもが詰まっている。
これはドガの心そのものなのである。
<2010.12.04 記>
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