■【映画評】シザーハンズ。純粋であることの孤独。
エドワードが雪を降らせるあのシーンが急に見たくなり、DVDを取り出してみた。
●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
No.40 『シザーハンズ』
原題: Edward Scissorhands
監督: ティム・バートン 公開:1990年12月
出演: ジョニー・デップ ウィノナ・ライダー 他
■ストーリー■
丘の上の屋敷に住んでいた発明家が作った人造人間、エドワード。だが、完成する前に発明家は死んでしまい、エドワードはハサミの手のまま取り残される。
ある日、化粧品のセールスをしているペグはこの屋敷を訪れ、エドワードを発見する。ペグは哀れと思い、彼を自宅に引き取ることにしたのだが・・・。
■ハサミの手を持つエドワードは異者である。
日々何の変化もない郊外の町に現れたエドワードに住人たちは興奮する。
庭木を剪定して芸術作品に仕上げたり、犬のトリミングや、ヘアーカット。得意のハサミ技術を駆使して、エドワードは皆を喜ばせる。
一見、住人達は彼を受け入れているかに見えるのだけれども、いくつもの誤解が、その信頼を崩していく。
結局は、異者は異者なのである。
■そんな中でペグの娘、キムは次第にエドワードの純粋さに惹かれていく。
異者であるからこそ、その純粋さはさらに際立って、キムの心を捉える。
そして、あの氷の天使の彫像のシーン。
エドワードの精一杯の愛情表現である。
その削られた氷は雪となってキムを包み込む。
この時のウィノナ・ライダーの表情がいい。
だがハサミでしかコミニュケーションのできないエドワードは、そのハサミで傷つけてしまうことを恐れて彼女を抱きしめることができない。
■結局この話は、コミュニケーションの物語なのかもしれない。
エドワードはハサミで何かを作ることでしかコミュニケーションができない。そして、その刃は触れようとするものを傷つけてしまう。
このハサミは、「言葉」によるコミュニケーションに置き換えることができるのではないか、触れるものすべてを傷つけてしまう、不器用な自己表現しか出来ない人間に置き換えることができるのではないか。
■だとするならばエドワードの孤独はもっと普遍的な問題であって、エドワードの未完成はわれわれ自身の人間としての未完成さとも捉えることができる。
そしてエドワードの純粋は、われわれの中の純粋でもある。
未完成ゆえの純粋、純粋ゆえの未完成。
未完成な少年、少女の純粋は、時が経ちわれわれが年老いてしまったとしても、常に心の中の小高い丘の上にある屋敷の中で輝きを保っているのだ。
<2010.08.07 記>
■STAFF■
監督 ティム・バートン
製作総指揮 リチャード・ハシモト
製作 デニス・ディ・ノービ / ティム・バートン
脚本 キャロライン・トンプソン
音楽 ダニー・エルフマン
撮影 ステファン・チャプスキー
編集 リチャード・ハルシー
■CAST■
エドワード・シザーハンズ:ジョニー・デップ
キム:ウィノナ・ライダー
ペグ:ダイアン・ウィースト
ジム:アンソニー・マイケル・ホール
ビル:アラン・アーキン
ジョイス:キャシー・ベイカー
ケビン:ロバート・オリヴェリ
エズメラルダ:オーラン・ジョーンズ
発明家:ヴィンセント・プライス
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