« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月

2010年8月29日 (日)

■混迷の次期主力戦闘機、F-X。一体、いつまで引っ張るつもり?

■今朝の読売朝刊にF-Xの記事が載っていた。

内容は、F-4後継の次期主力戦闘機(F-X)の導入のタイムリミットが2016年なのに対し、11年度予算では調査費しか盛り込めない状況で立ち往生している、というもの。(2010.08.29(日))

■対象機種としては、F-35、ユーロファイター、F/A-18の3つを挙げてる。

が、F-35は日程とライセンス生産不可、ユーロファイターはアメリカさんの顔が立たない、F-18はロシア、中国が第5世代に移りつつあり、性能が古い。というなかで、F-2を追加調達してF-Xを先延ばしする案も出てきている、とのこと。

■面白いのは、さんざ防衛省が欲しがっていたF-22が外れているところ。

生産中止の話もあり、かつ輸出仕様を作るなら一機250億円、なんて話もあって、さすがの防衛省もあきらめたのかな。

その代わりのオモチャがF-35というわけか。

■本ブログでこの話題を書いたのが1年ちょっと前。

ラプターが欲しい!!って声が消えただけで、状況はあまり変わっていない様子。

普天間飛行場問題でぎくしゃくするのも分かるけど、対中関係がきな臭くなってきている状況のなかで日本の国防に対する意識を問われているということ、釈迦の耳に念仏、とは思うけれども、もっとシャンとしてほしい。

ところでF-15SE(サイレント・イーグル)はどうなったのか?

あれこそ、中継ぎとしては渡りに船だと思うんだがな。

                         <2010.08.29記>

 
■過去の記事■ 飛行機、宇宙の話など  
    

■ Amazon.co.jp ■
■【書籍】 最新ベストセラー情報 (1時間ごとに更新)■
■【書籍】 ↑ 売上上昇率 ↑ 最新ランキング■

■【DVD】 最新ベストセラー情報 (1時間ごとに更新)■
■【DVD】 ↑ 売上上昇率 ↑ 最新ランキング■

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月28日 (土)

■【書評】『アメリカから<自由>が消える』、堤 未果。自由は与えられるものではなく。

自由の国アメリカ。

その根幹を揺るがす事態が静かに進行しているようだ。

Photo_2
■アメリカから<自由>が消える (扶桑社新書)

   
■すべての発端は2001.9.11の同時多発テロである。

「テロとの戦い」は姿なき敵との戦いであるが故にその戦線はアメリカを起点とする全世界に拡散してしまった。

それ自体がひとつの恐怖であるわけだが、実はそれと並行してもうひとつの<恐怖>が生み出されている。

本書はその実態を丹念な取材によって描き出している。

そのもうひとつの<恐怖>とは、自分の発言や行動が誰かに監視されている。そして、知らない間に、テロなどとは無縁であるはずの自分が「リスト」に載ってしまっている、そういう恐怖なのである。

■「テロとの戦い」という錦の御旗のもと、「管理」する側の権限がどこまでも拡大していく。

テロの実行を阻止する、という本来の目的からはずれ、「危険思想」、「反社会」という価値観によってどうとでもとれる不確かなものへと焦点がずれていく。

「管理社会」というのは旧ソ連を思い出すまでもなくそういう性質のものであり、ジョージ・オーウェルが描いた「1984年」のディストピアに向かうのは必然である。

管理という権限を与えられればその実行がエスカレートしていくのが人間というものだからだ。

■そのエスカレートする動きを押しとどめるのが、合衆国憲法修正第一条<言論の自由>を守り抜こうとするアメリカ人のアメリカ人たる背骨の部分である。

あなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は死んでも守る。

そういう、主義主張の垣根を越えた思想、哲学である。

著者はアメリカの現状にかなり悲観的ではあるものの、その思想を実行する勇気ある人たちを締め括りの部分で紹介しており、そこに希望の光を見出しているようだ。

■あとがきにいう。

    

「反対意見をいう余地や、市民の自由・選択肢が以前よりも制限されている」と、私たちが少しでも感じるかどうか。

それを感じ取るアンテナの精度は、与えられた情報量とその質に比例する。劇場型のメディアだけにしか触れないのならば、社会で起きていることは皮膚感覚でしか受け止められなくなるだろう。本当に知る必要のあるニュースの大半は、視界から姿を消している。自らの頭で考え、検証し、疑問を持つことをやめてしまえば、真実とそうでないものを選り分けることはとても難しい。

<恐怖>に打ち勝つ一番の方法は、何が起きているかを正確に知ることだ。

  

■それは何もアメリカに限った話ではない。

自分の頭で考えるのやめたとき、それはいつの間にかカタチを変えて、すぐそこまで忍び寄ってくる、そういう性質のものなのだと思う。

社会全体がひとつのことを連呼しはじめたとき、それが注意信号だ。

                         <2010.08.28記>

■関連記事■
■【書評】『 ルポ 貧困大国アメリカ 』。国家の病理は個人的つぶやきに現れる。

■過去記事■
■【書評】ひつじの本棚 <バックナンバー>
 

*********************************************

■ Amazon.co.jp ■
■【書籍】 最新ベストセラー情報 (1時間ごとに更新)■
■【書籍】 ↑ 売上上昇率 ↑ 最新ランキング■

■【DVD】 最新ベストセラー情報 (1時間ごとに更新)■
■【DVD】 ↑ 売上上昇率 ↑ 最新ランキング■

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月26日 (木)

■新型エルグランド。腰の低い王者は新しい道を切り拓く。

日産エルグランド、実に8年ぶりのフルモデルチェンジだ。

2010_2

■これは挑戦である。

何がって、全高を100mmも落としたことである。

その影響は甚大で、E50、E51が築き上げたエルグランドらしさはフロントマスクに面影を残すのみ、というのは言い過ぎかもしれないが、まあ、それくらいのインパクトの強さだ。

もはや、同じクルマではない。

■それを悲しく思う人はいるだろう。

エルグランドも元をたどればキャラバン・ホーミーで、ワンボックスの延長線上に位置したクルマであった。

要は「箱」。

背が高く、視界が開けていて運転しやすく、それに何でも載せられる、実に便利で心強いヤツなのである。

それを高級化路線に乗せた初代E50は成功を収め、エルグランドの名前を不動にする。

■が、いつのまにやら、FF軽量低燃費のアルファード、ヴェルファイアにお株を奪われ、今に至る。

当然、満を持してFF化した新型エルグランドはこの強敵に真っ向勝負!と誰もが思ったに違いない。

だからこそ、今回のモデルチェンジには、うーむ、と唸る人が多いはずなのである。

■で、実車を見てきました。

結論から言えば、これもありでは、と。

これは高級車なのである。

夏休みに子供を連れて荷物満載でキャンプに行く、そういうクルマではない。

いや、もちろん居室も荷室もそれなりに広いので、キャンプに出かけてもまったく問題ないのだけれども、何となーく、そういう感じじゃないよなー、というオーラをまとっているのだ。

キャンプ、というよりは家族で高級リゾートホテルへ乗り付ける感じなのである。

■それでいいんじゃないか、と思う。

時代は変わる、人も変わる、クルマも変わる。

背が高いことのメリットは敢えて切り捨て、必要なものは残す。進化させる。

何に感動したか、といって、2列目シートの居心地の良さ。

いい感じでふくらはぎをサポートしてくれるオットマンと、自然な姿勢でもたれかかることのできる中折れシート。

これが実にいい。

そのまま居眠りしたくなる、そういうシートでありました。

このあたりが、今回のエルグランドを象徴的にあらわしているのかもしれない。

                          <2010.08.26記>

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

■以下、諸元比較。

E52の全長はやけに長いが、フーガの全長4945を考えれば許容範囲か。

スペックで目立つのは最小回転半径で、16インチタイヤの仕様で実に5.4m。このホイールベースでこの数値は凄い。外寸のデカさを補って余りあるメリットだ。

E51の弱点であった燃費もアルファードを凌駕している。

そして何より全高の低下。

それによって重心が低くなり、リバウンドスプリングの効果もあいまって乗用車ライクな安定した乗り味が実現出来ているらしい(試乗はしていないので伝聞ですが)。

     エルグランド(E52) エルグランド(E51)  アルファード   

全長            4915     4835     4865          

全幅       1850     1795      1840

全高       1815     1910      1915

ホイールベース 3000     2950      2950

最小回転半径 5.4(16”)  5.7(16”) 5.7(16”)

         5.7(18”)  5.7(17”)  5.9(18”)

車両重量(V6 4WD)      2060  2140  2040

10・15モード燃費(V6 4WD)  9.3   8.0  9.1

Photo
■新型エルグランドのすべて (モーターファン別冊 ニューモデル速報)

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *    
   
モーターファン別冊 「新型車のすべて」 シリーズ

■Motor Fan illustrated ― 図解・自動車のテクノロジー シリーズ

 
■過去の記事■ 自動車よもやま話  

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

■ Amazon.co.jp ■
■【書籍】 最新ベストセラー情報 (1時間ごとに更新)■
■【書籍】 ↑ 売上上昇率 ↑ 最新ランキング■

■【DVD】 最新ベストセラー情報 (1時間ごとに更新)■
■【DVD】 ↑ 売上上昇率 ↑ 最新ランキング■

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月21日 (土)

■【書評】『人を動かす』、D・カーネギー。人間関係の原理原則。誰しも重要な存在だと認められることがモチベーション向上への第一歩なのだ。

自己啓発書の古典なのだけれども、いかに相手のモチベーションを高めるか。という視点ではまったく古びていないどころか、そのエッセンスはすべてここに収められているように思える。

Photo_2 ■ 人を動かす 新装版

■本書の初版が発行されたのが1936年。実に74年前の本なのだ。それでいて読むもの心にしみじみと訴えかけてくるのは、この本が一本の原理原則に基づいているからだ。

それは、万民が皆持っていて、かつ、なかなか満たされることのない”自己の重要感”である。

その欲求、願望を尊重する真摯な態度が「人を動かし」、「人に好かれ」、「人を説得し」、「人を変え」、「幸福な家庭をつくる」のである。

■実際にしみじみした部分を切り出してみよう。

●人に好かれる六原則―誠実な関心を寄せる

  友を得るには、相手の関心を引こうとするよりも、相手に純粋な関心を寄せることだ。

●人を説得する十二の法則―誤りを指摘しない

  人から誤りを指摘されると、腹を立てて、意地を張る。

●人を説得する十二の法則―しゃべらせる

  相手のいうことに異議をはさみたくなっても、我慢しなければいけない。相手がまだいいたいことをまだ持っていているかぎり、こちらが何を言ってもむだだ。大きな気持ちで辛抱強く、しかも、誠意をもって聞いてやる。そして、心おきなくしゃべらせるのだ。

●人を説得する十二の法則―思いつかせる

  要するに、ルーズヴェルトのやり方は、相手に相談を持ちかけ、出来る限りその意見を採り入れて、それが自分の発案だと相手に思わせて協力させるのだ。

●人を変える九原則―命令をしない。

  命令を質問のかたちに変えると、気持ちよく受け入れられるばかりか、相手に創造性を発揮させることもある。命令が出される過程に何らかの形で参画すれば、だれでもその命令を守る気になる。

●人を変える九原則―顔をつぶさない。

  相手の自己評価を傷つけ、自己嫌悪におちいらせるようなことをいったり、したりする権利はわたしにはない、。たいせつなことは、相手がわたしをどう評価するかではなくて、相手が自分自身をどう評価するかである。相手の人間としての尊厳を傷つけることは犯罪なのだ。―サンテクジュペリ

■つまりは、自分のことよりもまず、相手を尊重すること。主役の立場を相手にゆだねる、ということだ。

そのためには冷静に自分をコントロールする必要がある。何しろ、我々はつい自分の関心事に固執してしまいがちであり、それを一旦断ち切らねばならないのだ。

これはなかなかに難しい。

だから、この本を読んだだけでは何も変わらない。

「人は誰しも尊重されたい」、という原理原則をしっかりと胸に叩き込んだうえで、日々意識的に訓練を重ね、自らを変えていくことでそのスキルを身につけていくということだ。

■最後にもう一つ引用しよう。

●人を変える九原則―わずかなことでもほめる

  われわれには、他人に評価され、認められたい願望があり、そのためにはどんなことでもする。だが、心のこもらないうわべだけのお世辞には、反発を覚える。

 重ねていう、本書の原則は、それが心の底から出る場合にかぎって効果をあげる。小手先の社交術を説いているのではない。新しい人生のあり方を述べているのである。

■この本は単純なノウハウ本ではない。一種の人生哲学の本なのである。

それ故に70年経とうが、100年経とうが、人が人である限り、決して朽ち果てることがないのだ。

                        <2010.08.21記>

   
■過去記事■
■【書評】ひつじの本棚 <バックナンバー>
 

*********************************************

■ Amazon.co.jp ■
■【書籍】 最新ベストセラー情報 (1時間ごとに更新)■
■【書籍】 ↑ 売上上昇率 ↑ 最新ランキング■

■【DVD】 最新ベストセラー情報 (1時間ごとに更新)■
■【DVD】 ↑ 売上上昇率 ↑ 最新ランキング■

| | コメント (2) | トラックバック (0)

■【書評】『二酸化炭素温暖化説の崩壊』、広瀬隆。自分の頭で考えれ!

広瀬隆の名前が懐かしくて、つい手が出てしまった。

Photo
■ 二酸化炭素温暖化説の崩壊 (集英社新書)

■広瀬隆といえば、最近はどうだかしれないのだけれど、やっぱり高校時代に読んだ『東京に原発を!』だ。

当時の純粋無垢(単純?)なハートは、その過激な論調にすっかりやられてしまい、原発はイカンのだ!!と鼻息を荒くしたものである。

あれから25年くらいの月日が経つが、いやいや広瀬隆節はまったく衰えておりません。

前半で「CO2増加による地球温暖化」説を粉砕し、後半では「原発はエコ」説を滅多切りなのである。

■まず前半。

2009年11月に起きた「クライメートゲート事件」なるスキャンダルがあって、まったく初耳ではあったのだけれども、要するに「CO2が地球温暖化の原因」というその根拠になっていたデータがでっち上げだった、とする証拠(?)が漏えいした事件らしい。

話はそこから始まって、IPCCを中心とするCO2原因説の根拠がいかに巧妙に編集、演出されているかを山盛りのデータで実証してみせる。

CO2の排出量は第二次世界大戦以降、急激に伸びていくのだが、実際は、そのはるか前の1800年頃から地球温暖化は始まっていた、というのだ。

そして、地球の気温は太陽の活動や地球の公転軌道、地軸の向きといったいくつもの要素が絡み合って上下するものであって、決してCO2の濃度だけで決まるようなものでないと論じる。

■ここで、広瀬隆が批判しているのは、もちろんCO2温暖化説を唱える学者たちなのだけれども、その一方で、それを鵜呑みにして信じてしまうマスコミや、さらにそれを単純に受け入れてしまう我々をも痛烈に批判しているのだ。

ちゃんと自分の頭で考えて、自分でデータを調べたのか、と。

実に耳が痛い話である。

確かに情報過多な状況の中で、情報の質も低下しているだろうし、それを受ける我々のオツムも空洞化していってるのかもしれない。

■そして後半。

CO2を排出しない原発は「エコ」な発電であって、これからのエネルギー供給として原発が見直されている、という一般的な理解にNO、を突きつける。

そもそもCO2が悪者だ、というのは幻想だし、原発のエネルギー効率は30%程度でとても効率が悪く、大量消費地から離れた過疎地域に建てられているから送電ロスも大きい上に、夜間などの需要が少ない時間帯でも出力調整が出来ず、揚水ダムなるバカげたことも必要になってくる。

どこがエコなのか、という話だ。

■うーん、やっぱり原発は嫌いなのね。

じゃあ、原子力でなければ何かというと火力発電の効率は近年向上していて40~50%。

天然ガスコンバインドサイクルなら60%。

それより家庭用燃料電池がエネルギー効率80%と図抜けていて、さらに送電ロスがないから素晴らしいと絶賛する。

■ホントにそんなバラ色だったらもっと普及してもいいと思うのだが、一般的に聞こえてくるのは風力とか地熱だとか、そういうものばかり。

やっぱり、大規模投資を必要とする産業界の陰謀なのだろうか(笑)。

まあ、茶化すのはそれくらいにして、本書の後半部分は今まで知らなかったことばかり。

実に勉強になりました。

もちろん、鵜呑みにはしませんが・・・。

                        <2010.08.20記>

■関連記事■

■『不都合な真実』 アル・ゴア<地球温暖化>CO2削減が「目的化」することを憂う。

■『古代文明と気候大変動―人類の運命を変えた二万年史 』 ブライアン・フェイガン。巨大なシステムが崩壊するとき。

■過去記事■
■【書評】ひつじの本棚 <バックナンバー>
 

*********************************************

■ Amazon.co.jp ■
■【書籍】 最新ベストセラー情報 (1時間ごとに更新)■
■【書籍】 ↑ 売上上昇率 ↑ 最新ランキング■

■【DVD】 最新ベストセラー情報 (1時間ごとに更新)■
■【DVD】 ↑ 売上上昇率 ↑ 最新ランキング■

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月16日 (月)

■TBS終戦ドラマスペシャル、歸國(きこく)。生々しい苦しみがあってこその本当の人生であり、そこに本当の幸せがあるのだ。

平和に暮らす今の日本人は果たして幸せなのだろうか、という倉本 聰の問いかけが強く響く作品であった。

Photo

■ストーリー■
8月15日、終戦記念日の深夜。静まり返った東京駅のホームに、ダイヤには記されていない1台の軍用列車が到着した。そこに乗っていたのは、60余年前のあの戦争中、南の海で玉砕し、そのまま海に沈んだ英霊たちだった。彼らの目的は、平和になった故郷を目撃すること。そして、かの海にまだ漂う数多の魂に、その現状を伝えることだ。永年夢見た帰国の時。故郷のために死んだ彼らは、今の日本に何を見たのか……。(番組HPより)

■今では盲目の老人となってしまったかつての恋人(八千草薫)と再会する木谷少尉(小栗旬)、102歳まで生き延びてしまったかつての上官の悔恨の念をただただ聞く秋吉部隊長(長渕剛)、検閲係として周囲から憎まれ精神的に追い詰められ自殺、英霊となれず靖国を徘徊する志村伍長(ARATA)。

オムニバス的に展開していく、それぞれの物語がそれぞれに面白く、深く、沁みてくる。

そのなかでも、やはり大宮上等兵(ビートたけし)の話が一番ぐっときた。

■幼いうちに両親を亡くし、田舎から逃げるように浅草にやってきた兄と妹。兄はテキヤに、妹は浅草のトップダンサーに。

兄にとっては自慢の妹だったが、兄が出征して以降、戦中戦後と苦労の連続、その苦労の中で育て上げた一人息子(石坂浩二)は経済アナリストとして大成したが、年老いて人工心肺で強制的に生かされている状態の母親を顧みない。

意識のあるときに、「植物状態になったら機械を止めてく入れ」と頼まれた余命短い少女が約束を果たすシーン、ありがとうと涙する大宮上等兵。

■ここは泣ける。

英霊となって、天国へもいけず、ただただ魂となってさまよう身となった大宮上等兵と、機械につながれて死ぬこともできない老婆が重なり合い、けれど、霊魂であるがゆえに自分の妹を楽にしてあげることのできない歯がゆさ、それが解放されたときに一気に泣き崩れる男の姿。

死期が来ても、静かに息を引き取ることさえ許されない現代医療の矛盾をうまく切り出している。

■一方、経済アナリストとして夜を徹して働く一人息子は、母親の死を知り、やっと肩の荷が下りたと安堵する。

その自分の甥にあたる男のあまりにも冷たい態度に激した大宮上等兵は銃剣でその心臓を一突きし、殺害してしまう。

現世に関与しないという掟をやぶり、仲間とともに南方の海に帰ることもできず靖国にたたずむ大宮上等兵のもとに、その甥っ子が亡霊となって現れる。

■叔父さん教えてくれ、僕はどこで間違ってしまったんだろう。

そういう甥を何度もぶん殴り、可哀そうに、殴ってくれる奴もいなかったんだな、という大宮上等兵。

殴られて目が覚めたような気がするよ、という甥っ子。

このあたり、倉本聰の現代人に対する感情がそのまま表れているシーンで、直接的過ぎるのでは、という気がしないでもないが、そこをぼやかさずにそのまままっすぐ表現することが大切なのだ、という表現者としてのメッセージのような気もする。

■英霊たちが南方へ帰るシーンで長渕剛の演じる秋吉部隊長がいう。

今の日本人は幸せを追求したのではない。便利を追い求めたのだ。便利とはすなわち「楽」をすることである。

その通りだな、と思う。

「楽」になることは、苦労をしないということで、その分ヴィヴィッドで生々しい体験から遠ざかる、ということだ。

そういった生々しさがあってこそ人生は輝くということだ。

そこに現代日本が失ってしまった本当の人生、本当の幸せを取り戻すヒントがある。

つまりは、正面から向き合え、ということだ。

                         <2010.08.16記>

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

■STAFF■
原案 : 棟田博 『サイパンから来た列車』
脚本 : 倉本聰
音楽 : 島健
演出 : 鴨下信一


  
■CAST■
大宮上等兵 : ビートたけし
木谷少尉 : 小栗旬

河西洋子(当時) : 堀北真希
日下少尉 : 向井理
竹下中尉 : 塚本高史
志村伍長 : ARATA
水間上等兵 : 遠藤雄弥
坂本上等兵 : 温水洋一
立花報道官 : 生瀬勝久
河西洋子(現在) : 八千草薫
大宮健一 : 石坂浩二
秋吉部隊長 : 長渕剛

補足)同じ原作で「姿なき一○八部隊」(1956)という笠智衆主演の映画もあったようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月13日 (金)

■NHKスペシャル 玉砕 隠された真実。戦意高揚のために殺されてたまるか。

■昭和18年5月、アリューシャン列島アッツ島守備隊2600余名が、上陸するアメリカ軍に対し玉砕した。

番組では、日本軍初めての「玉砕」としてアッツ島の戦いをクローズアップ。

勝ちの見込みがなく孤立した部隊を「敗残兵」として冷酷に切り捨て、それを隠す一方で彼らを’潔く「玉砕」した軍神’として宣伝に利用した当時の大本営を糾弾する。

■そこには東條英機が軍人の行動規範として示した『戦陣訓』のなかの「生きて虜囚の辱めを受けず」という考え方があって、「玉砕」の基盤となっていたという。

実際、アッツ島の数少ない生還者の言葉の端はしに、「生き残ってしまった」という後ろめたさ、戦友たちに対する申し訳なさが垣間見え、その方々の65年以上にわたる苦悩を思うと心が痛む。

■アッツ島が米軍に奪還されたことにより孤立してしまった隣のキスカ島では濃霧を利用した奇跡的な撤退作戦に成功しているわけだが、それはレアケース。

撤退作戦というのは状況劣勢な中で行われるわけであるから、基本的に非常に困難な作戦であると思われるし、物量に劣る当時の日本軍にとっては尚更であったろう。

けれども、残された兵にとってしてみればあまりにも酷い話である。

それを戦意高揚に利用されるなんて尚更だ。

■「生きて虜囚の辱めを受けず」、「玉砕」。

撤退に次ぐ撤退はそれに拍車をかけ、ついには民間人にまで適用されていく。

その道筋が太平洋戦争310万人の犠牲者につながったと番組は結んでいる。

■自らの意思に反して亡くなっていったひと、一人ひとりを想うことが大切で、この夏の季節にはやはり欠かせないことだと思う。

その一方で、それを過去のことだと考えず、今、自分の生きる立場に移し替えていくことが大切ではないかと思う。

■大本営も戦陣訓もない今の日本では強制的に死に向かわされるということはない。が、年間3万人もの自殺者を出し、うつ病100万人という現在のこの状況である。

戦前のように否応なくひとつの色に染められるということはないけれども、もしかすると、こころのどこかで周りの人たちと同じ色でなければならない、という思考で自分を縛ってはいないだろうか。

そして、周りと同じ色でないこと、出世できないとか、就職できないとか、結婚できないとか、そういうことで自分にダメ出しをして自信を失っていたりしていないだろうか。

■その思考は、程度は違えど「生きて虜囚の辱めを受けず」と同類の極端な思考であって、それでいいのだ、仕方あるまい、それでも生きていられるんだからイイじゃないか、というしぶとさの欠如である。

65年前に亡くなった人たちと違って、我々はそれを選択できる。

そのことを忘れてはいけない。

                        <2010.08.12記>

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月12日 (木)

■【映画評】ラストエンペラー。時代に翻弄されるかごの鳥は何と鳴く。

中国の近代史をもうちょっと勉強しておくべきだったか。そうしたら見方が少し変わったかもしれない。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.41  『ラストエンペラー
           原題: The Last Emperor
          監督: ベルナルド・ベルトルッチ 公開:1987年11月
       出演: ジョン・ローン ピーター・オトゥール 他

Photo_2 ■ラストエンペラー [DVD]

■ストーリー■
1950年、満州国戦犯として中国本土に護送された元満州国皇帝・溥儀は、両手首の血管を切って自殺を図る。薄れゆく意識のうちに、まざまざと過去の情景がよみがえる。

■恐ろしげな西太后が3歳の溥儀を皇帝に指名するシーンから、即位のシーンまで。

時代考証はちゃんとやっているのだろうかと疑問を抱かせるような、やりすぎ感漂う圧倒的エキゾチズムに少し引き気味。

■けれども、紫禁城の中に閉じ込められた溥儀の少年時代を描くあたりからぐいぐいと引き寄せられる。

特に、紫禁城の中での皇帝の地位が城の外では通用しないという現実。そして、自分は紫禁城のなかに囚われたかごの鳥であること。母の死にさえ立ちえない悲しみ、苦悩。

家庭教師の英国人、レジナルド・ジョンストンの目を通すことで、その不条理がさらに際立つ。

実際の紫禁城で撮影された、というのがまた効いていて青年期までの皇帝時代は文句なしにいい。

■それに比べると、天津の日本租界の時代、満州国皇帝の時代が少し地味で迫力にかける。

川島芳子だとか、甘粕大尉にスポットが当たりすぎの印象。

このあたり、219分のフルバージョンだとしっくりくるのかもしれない。

■さて、戦争が終わり、中華人民共和国の体制下で戦犯として裁かれる溥儀。

その後、釈放され一市民となるわけだが、彼の一生はいったいなんだったのだろうか。

というところで、コオロギの伏線が効いてくる。

邯鄲の夢、とでもいうのだろうか。

しみじみとする、いいラストである。

一般に言われるほど名作だとは思わないが、一つの旅を終えたような後味の良さがある。

                         <2010.08.12 記>

■STAFF■
監督・脚本:ベルナルド・ベルトルッチ
脚本:マーク・ペプロー
プロデューサー:ジェレミー・トーマス
音楽:デイヴィッド・バーン、坂本龍一、コン・スー
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
美術:フェルディナンド・スカルフィオッティ
衣装:ジェームス・アシュソン



■CAST■
ジョン・ローン:愛新覚羅溥儀
ジョアン・チェン:婉容
ウー・ジュン・メイ(ヴィヴィアン・ウー):文繍
ピーター・オトゥール:レジナルド・ジョンストン
イェード・ゴー:アーモ(溥儀の乳母)
ケイリー=ヒロユキ・タガワ:張謙和(宦官)
英若誠(イン・ルオ・チェン):戦犯収容所長
マギー・ハン:川島芳子(通称:イースタン・ジュエル)
リサ・ルー:西太后
坂本龍一:甘粕正彦

 

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年8月11日 (水)

■【書評】『ゲゲゲの女房』、武良布枝。やっぱり水木サンは努力の人なのだ。

遅ればせながらゲゲゲの女房を読んでみた。

Photo ■ ゲゲゲの女房 武良布枝 著

■水木しげるさんの名言集、「がんばるなかれ」なる本があって、とても勇気づけられるいい本なのだけれども、その言葉の背景をもっと知りたくて、いや、『水木しげる伝』なんかの自伝的マンガは読んだのだけれどもそこに描かれていない部分があるはずだと思って、本書を手にした次第。

結論からいえば大正解。

水木サン独特の表現では出てこない常人の視点が、最後の妖怪(?)水木しげること武良茂の本当の姿を照らし出してくれるのだ。

■極貧の紙芝居、貸本まんが家時代。

超売れっ子の激務の時代。

そして、妖怪研究家、「水木サン」の時代。

ともすると我々は現在のひょうひょうとした「水木サン」のことばをそのまま受け止めてしまうのだけれども、実はその「なまけ者になりなさい」という言葉の裏には、「なまけもの」になれるように努力すべきときにはうんと努力しなさい、という気持ちがあって、そのとき、水木さんの30年、40年に渡る極貧時代、売れっ子時代の苦労が大きな意味をもってくる。

■水木ほど努力に努力を重ねたひとはそういない、

という布枝夫人の確信は、水木しげるを支えてきた彼女の人生そのものであって、それ故にその素直なメッセージは読むものに強固に伝わってくる。

その上で改めて水木サンの人生論に触れるとき、厳しい現実世界をいかに地に足をつけて生きていくのか、というリアリティをもった言葉としてそれが浮き上がってくるのだ。

                     <2010.08.11記>

■水木しげるの作品・著作

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 7日 (土)

■【映画評】シザーハンズ。純粋であることの孤独。

エドワードが雪を降らせるあのシーンが急に見たくなり、DVDを取り出してみた。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.40  『シザーハンズ
           原題: Edward Scissorhands
          監督: ティム・バートン 公開:1990年12月
       出演: ジョニー・デップ  ウィノナ・ライダー 他

Dvd ■シザーハンズ〈特別編〉 [DVD]

■ストーリー■
丘の上の屋敷に住んでいた発明家が作った人造人間、エドワード。だが、完成する前に発明家は死んでしまい、エドワードはハサミの手のまま取り残される。

ある日、化粧品のセールスをしているペグはこの屋敷を訪れ、エドワードを発見する。ペグは哀れと思い、彼を自宅に引き取ることにしたのだが・・・。

■ハサミの手を持つエドワードは異者である。

日々何の変化もない郊外の町に現れたエドワードに住人たちは興奮する。

庭木を剪定して芸術作品に仕上げたり、犬のトリミングや、ヘアーカット。得意のハサミ技術を駆使して、エドワードは皆を喜ばせる。

一見、住人達は彼を受け入れているかに見えるのだけれども、いくつもの誤解が、その信頼を崩していく。

結局は、異者は異者なのである。

■そんな中でペグの娘、キムは次第にエドワードの純粋さに惹かれていく。

異者であるからこそ、その純粋さはさらに際立って、キムの心を捉える。

そして、あの氷の天使の彫像のシーン。

エドワードの精一杯の愛情表現である。

その削られた氷は雪となってキムを包み込む。

この時のウィノナ・ライダーの表情がいい。

だがハサミでしかコミニュケーションのできないエドワードは、そのハサミで傷つけてしまうことを恐れて彼女を抱きしめることができない。

■結局この話は、コミュニケーションの物語なのかもしれない。

エドワードはハサミで何かを作ることでしかコミュニケーションができない。そして、その刃は触れようとするものを傷つけてしまう。

このハサミは、「言葉」によるコミュニケーションに置き換えることができるのではないか、触れるものすべてを傷つけてしまう、不器用な自己表現しか出来ない人間に置き換えることができるのではないか。

■だとするならばエドワードの孤独はもっと普遍的な問題であって、エドワードの未完成はわれわれ自身の人間としての未完成さとも捉えることができる。

そしてエドワードの純粋は、われわれの中の純粋でもある。

未完成ゆえの純粋、純粋ゆえの未完成。

未完成な少年、少女の純粋は、時が経ちわれわれが年老いてしまったとしても、常に心の中の小高い丘の上にある屋敷の中で輝きを保っているのだ。

                      <2010.08.07 記>

■STAFF■
監督 ティム・バートン
製作総指揮 リチャード・ハシモト
製作 デニス・ディ・ノービ / ティム・バートン
脚本 キャロライン・トンプソン
音楽 ダニー・エルフマン
撮影 ステファン・チャプスキー
編集 リチャード・ハルシー



■CAST■
エドワード・シザーハンズ:ジョニー・デップ
キム:ウィノナ・ライダー
ペグ:ダイアン・ウィースト
ジム:アンソニー・マイケル・ホール
ビル:アラン・アーキン
ジョイス:キャシー・ベイカー
ケビン:ロバート・オリヴェリ
エズメラルダ:オーラン・ジョーンズ
発明家:ヴィンセント・プライス

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 6日 (金)

■【書評】『 夕凪の街 桜の国 』 こうの史代。普通な、あまりに普通な幸せに。

たった35ページ。

だが、当たり前の幸せについて考えるとき、こころに深く突き刺さる物語なのだ。

Photo ■ 夕凪の街桜の国 こうの史代

■なぜ、生き残ったものが不幸を背負いこまねばならぬのか。

生き延びてしまった、という負い目を重く内に秘めながら、幸せを避けて歩かねばならないのか。

あの日から十年経った平和な日常のなかで、ごく普通の幸せを感じようとするとき、するすると形容のしようもない黒い影がまた忍び込んできては、再びこころをくもらせる。

そんな毎日を七波は生きている。

■「死ねばいい」、

と誰かに思われたと七波は考えるのだが、

原爆を投下したエノラ・ゲイの搭乗員たち、いや、それを指示したアメリカ指導部の者たちに果たしてそういうメンタリティがあったのか。

ひとつ、ひとつの命に対して、そういう思いがあったのか。

十年経ったこの日に、

「やった! またひとり殺せた」

と、誰かが思ってくれるのか。

物語全体のトーンがやわらかいだけに、その強いメッセージがさらに鋭く迫ってくる。

■65年目の夏。

「死ねばいい」と思われた人たちの存在がゆっくりと薄らいでいくなかで、やはり、その思いを風化させてはいけないのだと思う。

その意味で、「夕凪の街」は市井の人たちの思いを語り継ぐということに成功した、われわれ日本人にとって大切な物語なのである。

                        <2010.08.06 記>

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 5日 (木)

■【書評】 『 子供の「脳」は肌にある 』 山口創。私とあなたの境界線。

肌は、体の内部と外部を隔てていると同時に、自我というものの内部と外部をも隔てている。

その「自」と「他」とが触れ合う場所、そこが肌なのである。

Photo_2
■ 子供の「脳」は肌にある 山口創 (光文社新書)

■著者は、思いやりのある人間に育つのために大切なのは幼児期のスキンシップである、と説く。

十分なスキンシップは安心感を生み、自らが「受け入れられている」と感じることで、健全な自我が育つ。

その自尊感情が、他者を尊重する心を育て、共感能力を育む。

■まったく、その通りだと思う。

幼児教育もいいけれど、そのまえに、しっかりと抱きしめてあげること。

その大切さは、子を持つ親ならばしみじみと分かるだろう。

そして、その効果は子供にとって重要なのと同じくらいに親自身にも大切で、親が子をいつくしむ感情も、そのふれあいによって倍化されるのだ。

■秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤被告は、母親からの愛情を受けることなく育ったと供述しているが、想像するに、そこには「安心」を生む肌の触れ合いは極めて希薄で、それ故に自らを尊重し、他者を受け入れ思いやる、そういう感情が育たなかったのだろう。

程度の差こそあれ、私自身も自尊感情が希薄な方で、それ故に他者とのコミュニケーションが未だに苦手なのである。

きっと、そういう「不安」を抱えて生きている人は日本中にごまんといるだろう。

■だが、あきらめてはいけない。

大人であっても、ふれあいによる癒しはあるのだ。

欧米人のように、いきなりハグというわけにはいかないけれど、ポン、と肩をたたくくらいのことは出来るかもしれない。

そうすれば、きっと明日からのコミュニケーションは劇的に変わるだろう。

ポン、と肩をたたく、たたかれる感覚が、「私」と「あなた」のあいだにそびえる壁の高さを下げるに違いないからだ。

でも・・・、

やっぱムリかな、柄じゃないし。

                        <2010.08.05記>

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年8月 4日 (水)

■15453粒の砂山。

一日、一日生きている。

その日に生きた証しをひとつの砂粒として数えたならば、

ここに15453粒からなる砂山がある。

 

とても小さな砂山だ。

ひと粒、またひと粒と、

変わらぬ毎日の分だけ。

ちいとも変わらないつまらん砂山。

 

けれど、ある日、ある一粒が、

小さな雪崩を引き起こす。

少し頂きの高さは減っただろうか。

もとの高さに戻るまで

あと幾にち砂粒を数えなければならんのか。

 

けれどその時、

その小さな砂山のすそ野は確実に広がっている。

気づかない程わずかではあるが確かに広がっている。

 

それは

この後の千粒、万粒が頂きを高くする、

その準備なのである。

                     <2010.08.04記>

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »