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2009年12月20日 (日)

■【書評】『<意識>とは何だろうか 脳の来歴、知覚の錯誤』、下條信輔 著。境界線の無い、ゆらぎの中に浮かぶもの。

「わたし」という意識はいったいどういうものなのか、その問いに対する大きなヒントを与えてくれる本である。

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■「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤
下條信輔 著 講談社現代新書 (1999/02)

■知覚心理学、認知神経科学の大家である著者が、「意識」、「こころ」の正体に迫るその切り口として作り出した概念が「脳の来歴」、である。

「意識」というものは「これ」と指し示すことが出来るものではない。

個人の遺伝子に埋め込まれたもの、生まれ育ってきた経歴、まわりの環境、音、匂い、肌触り、ぬくもり、といった身体感覚としての記憶、それらの総体を「脳の来歴」と名付け、意識とは、そこにもたれかかるようにして立ち現れてくるものだ著者はいう。

■他者の「意識」、「こころ」は、そうやって生まれた脳の来歴によって、「自分と同じようにそこにあるもの」と想定することで認識される。

他者の意識の中に自分が入り込めない限り、そうとしか言うことができない。

それでは、自分の「意識」、「こころ」はどうやって認識できるのか。

■転んで泣いている子供のそばに寄って「痛いのかい?」と尋ねたとき、子供の中に「痛い」という「意識」が初めて生まれてくる。

その時の自分の状態を「痛い」ということばと結びつけて「認知」が生まれる。

面白いことに「認知」は自らの中からではなく、外からやってくるものなのだ。

そこには「他者」が必要なのである。

■ここに、大きなヒントがあるように思われる。

「自分」という意識は、自分の記憶や周りの世界への認識、身体感覚だけで作られるものではなく、「『他者』の存在」にも大きく依存するものなのではないか。

「意識は脳に宿る」という唯脳論から、身体感覚の積層というA・R・ダマシオ(『無意識の脳、自己意識の脳』)の考え方。

そこからさらに自分の肉体の殻をやぶって他者、環境へと広がっていくイメージ。

「自分」と「世界」は確かに違うものなのだけれども、そこにはハッキリとした境界がない、という物の見方だ。

 
「意識とは、一つの状態、機能の名称ではなく、異質なもののゆるやかなまとまり」

 
と著者は語る。

確かにそういうものなのかもしれない。

■さらに、著者は「意識」と「無意識」の違いへと踏み込んでいく。

「無意識」とは、自動的であたかも機械のようなものであって、多分動物にもあるもので、科学的に踏み込んで行きやすいもの。

「意識」は、とらえどころのない、ゆるやかなまとまり。

では、「無意識」と「意識」の境界線はあるか、というと、そこにもハッキリとした境界線があるわけではなく、ゆらいでいる。

フロイトのいう「前意識」に近いイメージで、それが「無意識」と「意識」のあいだにぼんやりと存在する。

■「意識」というのは、何かにに焦点をあてることであって、そのまわりにぼんやりと「意識されないもの」が拡がっている。

通常、我々が歩いているとき、常にそこに意識を集中しているわけではなく、何か考え事をしながら、なんとなーく無意識に周りを見ている。

その目の前に自転車がスッと現れた瞬間、そこに「意識」の焦点が移る。

  
「意識の周辺の背景(地)なしに、意識(図)は生じ得ない」
 

このあたりもナルホドと思わせる。

■ここにおいて、「意識」というものの全体像が浮かび上がってくる。

要するに自己の内と外、さらに無意識との境界線がハッキリとしない、とある瞬間の「状態」、ということである。

「<意識>とは何か」

という問いに対しては、そもそも明確な答えが出せない性質のものなのだ。

■けれども、「私」の中には確かに「意識」、「こころ」というものは確固として存在する。

そこに分け入って確かめることは出来ないけれども、他の人にも「意識」、「こころ」は存在し、犬や猫やイルカにも、その性質やレベルは違っても「こころ」のようなものがあるように見える。

では、その「意識」、「こころ」を人工的に作り出すことは出来るのであろうか。

■SF作家、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」ではアンドロイドのレイチェルに「こころ」のようなものが垣間見えるのであるが、果たしてそういうことは可能なのか。

見せかけだけでない、自我を、魂を持った機械というものを作り出せるのか。

答えはNOであり、YESであると思う。

■1+1=2の演算の集合である電子回路を基礎とした今のコンピューターでは、「そう見えるもの(シミュラクラ)」は作れても、自我そのものを作り出すことは出来ないであろう。

「意識」はあいまいで境界線のぼやけた「状態」であって、「解析」、「演算」では近づくことの出来ないものだからである。

近代から続く還元主義的科学がその頂点を極めた現在、その先に立ちはだかっているのも、同じく「複雑系」といわれる「あいまい」で「境界線」のぼやけたものたちなのだ。

地球の気象をスーパーコンピューターで解析、予測しようとしても、そこに現れるのはあくまでもシミュレーションの結果であって、「そのもの」ではない。

どこまでも近づくことはできるかも知れないが、決して到達することの出来ないものなのである。

■だがその一方で、我々に「意識」がある、という事実は、それを作ることが可能であることを示唆している。

 
だって、実際にあるんだもん。

作れねぇワケないだろ。
 

ということなのだが、その為には新しい概念のコンピューターが必要になるのだろう。

1+1の積み上げではなく、局所と全体がゆらぎながらも密接に関係し合う、というような複雑系的演算方式(?)を作り出すことが出来るならば、もしかすると、そこに「魂」が生まれる可能性があるのではないか。

■けれど、それでもなお、我々は「意識」を解明するには至らないであろう。

倫理を度外視してそこに踏み込んでみたとしても、

それは「私」にとって、新たな「他人」に過ぎないからである。

要はどうどうめぐりなのだ。

  

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■「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤
下條信輔 著 講談社現代新書 (1999/02)

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