■ゴーギャン展、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」をみる。
竹橋の東京国立近代美術館へゴーギャン展を見に行った。
■ゴーギャンといえば、南国の楽園に溶け込んだ男、というシロウト的勝手なイメージをもっていたのだけれども、それを大きく裏切られた。
それは初期の作品にルノワールを思い起こさせる柔らかい光に満ち溢れた印象派の傑作(愛の森の水車小屋の水浴)があって、それに見とれてしまった、というだけではない。
印象派の画風から「色」と「カタチ」のリズムが楽しい作品たちを経て、いわゆるゴーギャンらしい作品に至るその道筋も面白いのであるが、やはりゴーギャンはタヒチを描いた作品のなかにそのエキスがある。
そこに予想と大きく異なるものを感じてしまったのだ。
■楽園に溶け込んでいるはず(と私が勝手に思い込んでいた)ゴーギャン自身がその中に入りきれない異邦人として描かれていて、その彼が感じていたであろう失意にそれはある。
それは「純潔の喪失」で故国や家族と決別し、そこまでしてたどり着いた楽園での悲しみである。
明るく強いエネルギーの満ち溢れた作品のなかで、ゴーギャン本人の移し身である黒い犬は、時に疎外され(「小屋の前の犬 タヒチ」)、時に締め付けられる(「エ・ハレ・オエ・イ・ヒア(どこへ行くの?)」)。
■その文脈で、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」をみる。
この大作は当時50歳のゴーギャンが遺書の代わりとして描いた渾身の作品である、
という説明を聞くと、故国との繋がりも消え、かといって楽園に溶け込んでしまえるわけでもない絶望が彼を突き動かしたのではないかと思えてくるのだ。
「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」(1897-98)
■絵の右手から左手へ、赤子から幼年期を経て人生を謳歌するそのすぐ傍に「老いと死」がしゃがみ込んでいる。
だが、その背景として大いなるタヒチの自然があり、月の女神「ヒナ」はその人生を見守り、死と生の輪をつなぎ、再生を約束する。
そんななか、絵の中央で知恵の実を取ろうと力強く伸び上がるエヴァは、確かに(キリスト教の)神の楽園を追放されはするのだろうが、タヒチの自然、野生はその表情に曇りを見せない。
■ここには確かに楽園が描かれている。
そして、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という問いも、言葉を経ずして自ずと観る者のこころのなかにそれぞれの答えが立ち上がってくるだろう。
■けれども、それを描くゴーギャン自身はその輪の中にはいない。
右端に座り込んだ黒い犬はこの楽園の画面から見切れていて、むしろその暗い色彩は、西洋文明を暗示して立つ陰気なふたりと斜めに共鳴しているようにさえ見える。
自らを文明から引き離し、己のなかの野生を信じてここまでやってきた。そして確かにそこには楽園があったのだが、私はそれを眺めることしか出来ない。
楽園が輝けば輝くほど、その絶望は暗く、深い。
<2009.09.01 記>
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ポール・ゴーガン 著 岩波文庫(1960/01)
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■’弐代目・青い日記帳’ さんの「ゴーギャン展」
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コメント
こんばんは。
TBありがとうございました。
楽園とは何ぞや?と考えてしまうと
一向に出口が見えなくなります。
今居る場所が「楽園」
と思えるように日々精進。
投稿: Tak | 2009年9月 1日 (火) 21時27分
Takさん
コメントどうもありがとうございます。
>今居る場所が「楽園」
そうですよね。
そうなんですよね。
「楽園」っていうものは
追えば追うほど逃げていく
青い鳥のようなものなのかもしれません。
投稿: 電気羊 | 2009年9月 2日 (水) 06時45分