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2009年6月15日 (月)

■【書評】『名前と人間』、田中克彦。名前という多様性の花。

さまざまな例をひいて「名前」は生きていると実感させる面白い本である。

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■名前と人間 田中 克彦 著、岩波新書 (1996/11)

■ここでいう名前とは固有名詞のことである。

赤とか、花とか、山とか、そういった一般に通用し生活していくうえで必要な普通名詞に対して、ここでは固有名詞は峻厳に区別される。

何故ならば、著者の田中先生は固有名詞を(半ば面白おかしく、半ば真剣に)憎悪しているようなのだ。

■歴史の本を開けば、そこには固有名詞の雨あられであり、教科書においては「それを記憶せよ」という暴力的権威主義に満ち満ちている。

そこには数学や哲学の本のような普通名詞で語られる学問の爽やかさがなく、ケガレているのだという。

■だがその一方で、固有名詞には極めて人間的な要素がこびりついていて、好むと好まざるとに関わらずその言葉固有の物語をその内に含んでいる。

そのことが、固有名詞に対する想いをさらに複雑にさせているように見える。

■19世紀半ば、J・S・ミルは論理学のはなしの中で、固有名詞は普通名詞から意味を取り去ることで成るとした。

「ベイカー」さんという苗字に「パン屋」という意味がくっついていては調子が悪い、ということである。

それはなるほどその通り。

けれども、ベイカーさんという人を知ったときに我々は
 

あ、この人の先祖はパン屋さんだったのかもしれないな、

 
なんていう想像をしてしまい、ベイカーさんはパン屋から自由になることは難しい。

その意味で現実の固有名詞はJ・S・ミルの愛する論理学の世界のようには爽やかにはいかず、どうしても何らかの意味を引きずってしまうのだ。

■「千と千尋の神隠し」において、湯バア婆が千尋(ちひろ)の名を千(せん)に変えてしまう話がある。

ここで興味深いのは、異界で生きるための名前、千(せん)と呼ばれ続けた彼女が、いつの間にか自分自身も本当の名前を忘れかけてしまうことで、もとの世界での自分自身(存在)も同時に消えかけてしまう、そういう恐ろしさが暗示される場面だ。

この神話的なエピソードが我々をひきつけるのは、「名前には意味がある」というだけでなく、「名付けられる対象が名前の通りになっていく」というイメージを心のどこかで了解しているからなのではないだろうか。

■それはサッポロ、メマンベツ、オビヒロというアイヌ語を入植者が札幌、女満別、帯広と表記したときに消え去ってしまったものである。

そこで失われるのは意味だけではなく、これまで引き継がれ息づいていた固有の文化なのだ。

名前とは、歴史の教科書という標本箱の中に収めるものではなくて、今、この生において声に出して呼びかけることではじめて在るものなのかもしれない。
  

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                           <2009.06.15 記>

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■名前と人間 田中 克彦 著、岩波新書 (1996/11)
   

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■ことばと国家  田中 克彦 著、岩波新書 (1981/11)
■母語、という概念をこの本で学びました。
昔、教科書で読んだ「最後の授業」についてフランス人の独善が暴かれる話も小気味良かったです。

   
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