■【映画評】『ブリキの太鼓』。あの小人たちは何処へいってしまったのか。
いやーな味の映画である。
それでいて観る者をつよく惹きつけて放さない。
’毒’とは、そういうものなのだろうか。
●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
No.27 『 ブリキの太鼓 』
原題: Die Blechtrommel
監督 フォルカー・シュレンドルフ 公開:1979年5月(ドイツ)
出演: ダーフィト・ベンネント アンゲラ・ヴィンクラー 他
■いろいろと解釈が出来そうな映画なのだけれど、安易に進めば泥沼にはまってしまいそうな予感を含んでいる。
理屈ではなくて、作品そのものが放つ’毒’をそのまま満喫する、というのが無難な観かたなのかもしれない。
■ストーリー■
1899年、ポーランド・ダンツィヒ。
郊外のカシュバイの荒野で4枚のスカートをはいて芋を焼いていたアンナは、その場に逃げてきた放火魔コリャイチェクをそのスカートの中にかくまい、それが因でアンナは女の子を生んだ。
1924年、アンナの娘・アグネスは成長し、ドイツ人のアルフレートと結婚するが、従兄のポーランド人ヤンと愛し合いオスカルを生む。
3歳の誕生日を迎えたオスカルは母アグネスからブリキの太鼓を買い与えられるが、その晩、大人たちの醜い世界を覗き見て嫌気がさし、階段から落ちることで自らの成長を止める。それとともに彼は太鼓を叩きながら奇声を発することで周囲のガラスを破壊する能力を得る。
ナチスの台頭が町を脅かす中、密会を重ねるアグネスは再びヤンの子どもを身ごもり、自殺。16歳を迎えるも幼い容姿のままのオスカルは、家にやってきた同じ年齢の使用人のマリアを愛するが、父アルフレートの後妻に納まってしまい息子を身ごもる。
失意のオスカルは、かつて友情を育んだ小人症のサーカス団長ペプラの一座と一緒にさすらいの旅に出るのだが・・・。
■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■
■解釈をするな、
といわれても、どうしてもいろいろと考えてしまう。
見た直後には、どこかドライな関係を残した欧米の親子関係に感じる、違和感のようなものについてぼんやりと考えていた。
けれども、記事を書くにあたってもう一度じっくり咀嚼してみると、そんなことよりもずっと「際どい」ものがそこに横たわっているのではないかという気もして、改めてそういう視点から眺めてみようと思う。
■この映画から強く受け止めたイメージは、
・祖母のスカートの中に始まるエロティシズム
・オスカルが発する奇声と割れるガラス
・サーカス団のフリークスたちの異形
といったところだろうか。
そして、その背景にナチスの台頭と崩壊という時代のうねりがある。
■このナチス(と、それに続く旧ソ連?)の抑圧を抜きにして、この物語を語るのは憚られるような気がするのだが、ポーランド人でもドイツ人でもユダヤ人でもスラブ系少数民族のカシュバイ人でもない自分が、そこに流れる何かをつかめるとは到底おもえない。
けれども、放浪者の血、という文脈でなら、この日本においても何かが見えてくる可能性はある。
■’異者’の物語といってもいい。
母と叔父から放浪者である祖母の血を強く受け継いだオスカルは明らかに’異者’である。
彼はそれを否定すべく成長を拒絶するのだが、結局、’異者’である彼が落ち着く場所は小人症の男を団長とする旅のサーカス団以外にはない。
しかも皮肉なことに、戦時下においてそのサーカスは慰問団として、本来は’異者’を排除する立場のナチスの部隊をめぐることになる。
■連合軍の侵攻から逃れ、小人の麗人ロスヴィーダの死に打ちひしがれて故郷に帰るとことなったオスカルは、そこに自らの場所を見出せない。
そして血のつながらぬ父親を罠に嵌めて殺してしまうことで、群れのなかのオスとしての地位を得ようとする。
そこで、放浪のあいだに成長し、3歳を迎えた息子(だとオスカルが信じる)の投げた石で気絶し、アタマを打ったオスカルは再び身体的な成長を始める。
■このとき、オスカルの実年齢は20歳前後。
’大人’になるにはちょうどいい頃合いだ。
祖母アンナからカシュバイ人としての生き方を聞かされたオスカルは、後を息子のクルトに託して再び放浪の旅に出るのであった・・・。
■さて、われわれの世界に目を戻そう。
われわれにとっての’異者’とは何か、という問題である。
そこでふと思うのは、かつてテレビで良く目にした小人症の俳優さんたちのことだ。
最近、すっかり目にすることがなくなってしまったのは気のせいか?
■それだけでなく、ピグミーとかホッテントットとかの’異様な’民族の映像もテレビから消えて久しい。
世の中から’異者’が消されている。
そういう印象を抱いてしまうのである。
■故郷に戻ったオスカルは、結局、再び放浪の旅に出る。
それが’異者’の定めであるかのように。
テレビの画面から消えうせた小人症の役者やプロレスラーたちも、きっとどこかで元気に暮らしているに違いない。
ただ、「テレビ」という舞台が日常の色に染まりすぎて彼らの「存在感」の強さに耐えられなくなってしまったのである。
■世はダイバーシティ(多様性)だ、なんだというけれど、所詮は日常で受け入れることが難しい’異者’は清潔なテーブルクロスの向こうにしまわれたままだ。
けれど、
そこの議論を抜きにして先に進めてはならない、
なんて優等生的なことは考えるのは止した方がいいだろう。
なぜなら、ここでかくいう私自身が’差別’に関して余りにも無知であって、実際’清潔なテーブルクロス’のこちら側しか認識できなくなってしまっているからだ。
要は、そういう自分も同じ穴のムジナだということだ。
■この映画を見たときに覚える違和感は、あえて’毒’という表現をしたが、そのテーブルクロスの向こうに追いやったものに対する感覚なのかもしれない。
今、私が感じることができるのはここまで。
あとはただ、この映画が提示してくれた’毒’に軽い酔いを覚えてその’存在’にこころを向けるだけである。
そしてオスカルは今日も放浪の空の下。
行く先は見えない。
<2008.05.29 記>
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■[原作] ブリキの太鼓 第1部
ギュンター・グラス 著 (集英社文庫)
■STAFF■
監督 フォルカー・シュレンドルフ
製作 アナトール・ドーマン、フランツ・ザイツ
脚本 ジャン=クロード・カリエール
ギュンター・グラス
フォルカー・シュレンドルフ
フランツ・ザイツ
音楽 モーリス・ジャール
撮影 イゴール・ルター
編集 スザンネ・バロン
■CAST■
オスカル・マツェラート : ダーフィト・ベンネント
アルフレート (父) : マリオ・アドルフ
アグネス (母) : アンゲラ・ヴィンクラー
* * *
ヤン (アグネスの従兄弟): ダニエル・オルブリフスキ
マリア (後妻) : カタリーナ・タールバッハ
アンナ (祖母) : ティーナ・エンゲル、ベルタ・ドレーフス
ヨーゼフ (祖父、放火魔) : ローラント・トイプナー
* * *
ベブラ (サーカス団の団長) : フリッツ・ハックル
ロスヴィーダ (サーカス団のヒロイン) : マリエラ・オリヴェリ
マルクス (おもちゃ屋主人、ユダヤ人) : シャルル・アズナヴール
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