■『舟越桂 ―夏の邸宅― 』。感情をカタチとして捉える試み。
目黒の東京都庭園美術館へ舟越桂の彫刻を見に行った。
■リアリスティックな彫像なのだけれど、そこに異様なデフォルメがあり、その背後にはあたかも心霊写真のように何者かの手が突き出している。
旧朝香宮邸独特の空間に配置されることにより、その強烈な存在感はむしろ物語の中に収まって、その深層にある「何か」を浮かび上がらせる。
特に「言葉をつかむ手」が配置されたバスルームから溢れ出る「場」のチカラには圧倒された。
■天童荒太の「永遠の仔」の装丁に使われている「木製彫像」。
それが舟越桂の作品だということを今日知った。
随分まえに新聞でこの展覧会の記事をみて、「スフィンクス」といわれる一連の彫刻が面白そうだと、ほんの興味本位で見に行ったワケで、実は舟越桂のふの字も知らぬニワカなのである。
それでもやはり、「本物」のチカラというのは恐るべきもので、ベタな表現で恐縮ではあるが、「ハートを鷲づかみ」にされてしまったのである。
■「遠い手のスフィンクス」(2006 楠に彩色、大理石、皮、鉄)
■最近の作品群、スフィンクス・シリーズ。
体幹から太く屹立した首と頭部は、あきらかに怒張するイチモツである。
そこに強烈なエネルギーを感じるワケだが、それはあくまで「結果」であって表現される本質ではないように思えた。
■たくましい幹の上にある頭部はむしろ冷静で、内側からはめ込まれた大理石の瞳は焦点を合わせず、それゆえにすべてを見通すような崇高さすら感じさせる。
側頭部から垂れる「革」はその肩になだらかに着座して、まるで修道女のベールのようである。
その全体が醸し出すイメージは「未来人」ともいうべきもので、男根のもつ突き抜けるエネルギーを保持したままその暴走をぐっと抑える「魔術」を見せられたような、不思議な感覚の作品なのである。
■「戦争を見るスフィンクスⅡ」(2006 楠に彩色、大理石、革)
■会場には彫刻のために描かれたスケッチも展示されていたのだけれど、それを眺めていて感じたのは「感情の表現」ということだった。
いくつもの女性の表情を描いたスケッチは、何とかそこに埋まっている感情を引きずり出そうと苦闘しているように見えたのだ。
結論を言えば、舟越桂の彫刻作品は「感情をカタチとして捉える」試みなのではないか、ということだ。
■それを実感したのが1998年の作品、<山と水の間に>だ。
■少し首は長いけれども、バランスのとれた現実的な人物像。
そのリアリティの左肩からそれを突き破って飛び出そうとしている「何か」がある。
人物は緻密なリアリズムに徹し、そこにある「感情」を肉体からはみ出す具体像として表現する。
非常に感覚的な表現なのだけれども、同時に理屈でもある。
ああ、と唸った作品である。
その延長として、「言葉をつかむ手」(2004)があり、「スフィンクス・シリーズ」(2005~)があるのだと。
■舟越桂は20年以上も楠に向き合い情感に訴えてくるリアルな人物像を彫り上げてきた。
今、自分の目の前にある「スフィンクス」は、その作品というだけでなく、そこに至るまでの「苦闘」ということばには到底収まりきらない日々が凝縮されたものなのである。
そこに「作家」というものの凄まじさを見ると同時に、新しい何かを常に求めながら造り続ける、あきらめずに継続する、そのとき初めて「神が降りてくる」のだとしみじみ実感。
まだまだ40歳では諦めるものではないな、と自分の可能性すら予感させる素晴らしい体験であった。
ああ、今日は眠れないかもしれない(笑)。
<2008.09.18 記>
■おもちゃのいいわけ
■舟越桂 著(1997/07)
■そういや、「立ったまま寝ないの!ピノッキオ!!」(2008 楠に彩色、バネ)も温かくて楽しい作品だったです。
■舟越桂 夏の邸宅
―アールデコ空間と彫刻、ドローイング、版画―
東京都庭園美術館
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■’弐代目・青い日記帳’ さんの「舟越桂 夏の邸宅」
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