■「語座」実験劇場3。コトバのハタラキについて。
フリーアナウンサーの友人が舞台に立つというので、槇 大輔さんの『「語座」 実験劇場3』を見に行った。
■「語座(かたりざ)」というのは話すことを生業とする人たちの勉強会のようなもので、年に何度か公演というカタチでその成果を一般にお披露目する。
彼らの公演に行くのは2度目。
今回は「実験劇場」と銘打って、敢えて奇をてらい、「話す」という行為を通常とは別の角度から大胆に切り込もうという試みである。
■面白い。十分に楽しめた2時間であった。
とはいえ、やはり「実験」というだけあって安心して楽しめるというものではなく、多々気になるところがあったのも事実で、そのあたりを自分なりに整理して見たいとおもう。
うまく伝わらない、コトバが「ハタラカナイ」ところを直視することで、却って「伝える」という行為における大切なことが浮かび上がれば幸いなのだけれども、さて・・・。
■演目は3つ。
日本の主要な地方の方言で、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」をリレー方式で語るとどうなるか、という『蜘蛛の糸日本縦断』。
戦前の時代の人生相談を舞台にあげた『大正時代の身の上相談』。
最後は、向田邦子 作、「寺内貫太郎一家」第一話をあつかった『テレビドラマをラジオドラマ風にして舞台で魅せる』。
■まずは『蜘蛛の糸日本縦断』。
函館ー仙台ー東京・山の手ー名古屋ー大阪ー北九州。
それぞれの方言の味わいはとても楽しめたのだけれども、「語り」としては失敗だと思う。
話がまったく伝わってこないのだ。
それは決して方言がきつすぎて理解できないということではない。
■語り手と語り口が極端に変わってしまうことで物語の流れがブツブツに寸断されるのである。
たとえ語っている内容の筋が「意味」としてつながっていようとも、語り手の「主観」が入れ替わった瞬間に物語はリセットされてしまう。
これではカンダタも安心して蜘蛛の糸を昇っていけないというものである。
■もうひとつ。
方言で語るためには当然のことながら「蜘蛛の糸」の原文はその方言にアレンジされる。
一字一句、句読点の位置に至るまで、その文章には練りに練って練りぬいたであろう芥川龍之介のこだわりが染み渡っているはずで、果たして「方言化」されたときにそこに何が起きるのか。
残念ながら今回は先の「バラバラ」事件によって、そのあたりの化学反応を観察することは出来なかった。
「翻訳」の限界、「方言」と「標準語」の母語としての境界線。
これはこれでひとつのテーマであるとおもう。
今度はひとつの方言に限ったカタチでの原文との「語り比べ」を聞いてみたいものである。
■一方、物語りも終盤、方言でのリレーが入れ替わり立ち代りリズミカルに進む部分があったのだけれども、ここはそういった理屈を一切帳消しにする面白さがあった。
「語る」という話し手と聞き手の関係が崩壊し、「演劇的空間」が生まれたのだと思う。
この変化のダイナミックさは結構な見ものであって、
多少ガタガタ言ったけれども、終わりよければすべて良し。
「舞台」の迫力というものを久しぶりに味わえたのが収穫である。
■次は『大正時代の身の上相談』。
大正時代の人の悩みに対して当時の読売新聞の記者が回答する。という構図に現代のコメンテーターが評価を加える『大正時代の身の上相談』という本から、一字一句そのまま抜き出して、相談者ー当時の回答者ー現代の評者という3つの立場を舞台の上で語り分けてみた、という趣向である。
■見ていて正直、ちょっとキツかった。
大正時代であろうが現代であろうが、新聞紙上の「身の上相談」というものは極めて個人的な話を他人が盗み見るのであるから、多少なりとも「嫌らしさ」を含んだものである。
それをそのまま舞台仕立てにするのは、ちょっと乱暴すぎたかもしれない。
■「相談者ー回答者」という関係の外側に観察者がいる。それを「本」というカタチで個人的に愉しむのは当然「あり」だ。
けれど、その関係が舞台に上がり、前後左右に他人様がいる「公衆の面前」で、あっけらかんと演られてしまっては己の居場所に苦しむのである。
これが「恥ずかしい話」として直接客席に訴えかけるものであれば、そこに迸るであろうエネルギーが観客を包み込み、一体化を促し、その場を「劇的空間」へと変貌させることでその「居心地の悪さ」を「共感の場」へと変貌させることも可能であっただろう。
ところが「相談者ー回答者」という関係の外側に「観察者」がいて、そのまた外側に我々「観客」がいるという重層構造は、本来の生々しい「身の上」を一般化し、客観視を促進するがゆえに、唯一の突破口であろう「劇的空間」への変容の道も閉ざされてしまっているのだ。
■そんな中で横尾まりさんの背筋がすっと立った雰囲気が、
「大正時代の良識」というものに対するイメージを膨らませることに成功していて、
目のやり場に困る居心地の悪い舞台の中で唯一彼女が居る中央のそこだけが、落ち着ける、やすらぎの場所であった。
■最後は『テレビドラマをラジオドラマ風にして舞台で魅せる』。
ここで無難なドラマを避け、敢えて「寺内貫太郎一家」を選ぶところに本気を感じる。
「寺内貫太郎一家」といえば小林亜星である。
あの巨体、あの暴れっぷり。
「寺内貫太郎一家」という響きには、あの圧倒的な小林亜星の存在感がしっかりと染み付いてしまっているわけで、「語り」でそこに立ち向かうのは半端なことではない。
■観客の心にヴィヴィッドに焼きついた小林亜星のイメージを再生させるのか、はたまた、そのイメージを描きかえるのか。
あまりにも、その存在が強すぎて後者の道は絶望的である。
少なくとも、ワタクシ的には前者にしかなりえなかった。
■舞台の上で登場人物が横一列に座って並ぶ。
声を当てる場面になると、その「語り手」が前に並んだマイクの前にゆっくりと静かに立って「セリフ」を語る。
その「静」なる情景から「貫太郎」の爆発的な「動」を生み出す作業。
舞台での「語り手」の動きを視界にしている限りにおいて、なかなかその「反応」が生まれてこない。
■そうか、「ラジオドラマ風」といっていたな、
と目を閉じてみて、やっと物語りが動き出した。
けれど、それでもどこかが上手くハタライテいない。
何かが欠けている。
■高校生くらいの頃か、夜中にFMでラジオドラマを聴いていた。
そこには物語の力強い推進力が存在した。
何かが違うのだ。
■ふと、もう一度目を開けてみて、そういえばと、ナレーションの広居播さんがしゃべり通しであることに気がついた。
物語りの情景や人物像の説明を全て語りつくしていく感じ。
一時間近い長丁場をしゃべり続ける広居播さんの語り手としてのスキルは驚嘆すべきものだけれども、「ト書き」を全部語ってしまっては「作品」にはなりえない。
台本に問題あり、であったのだ。
■釈迦に説法を承知で顔を赤らめながら恥ずかしそうに書くのだけれども、
語り手と聞き手のキャッチボールがあって、そこに生まれる「場」そのものが「作品」なのだ、と思う。
隙間無くすべてを「語り手」側で埋められてしまっては、それを受けた聞き手が「何か」を想像する余地が無くなってしまう。
敢えて語らない。
それが生き生きとした作品には不可欠なものなのだ。
昔のラジオドラマにはそれがあったのだと思うし、ラジオという映像の無い「音」だけのメディアであるが故に、むしろテレビドラマよりも想像を掻き立てられ、ワクワクする何かが胸の中で動き回っていたようにも思う。
■そういう意味で、「ラジオドラマ」風に、という試みは残念ながら失敗であったのじゃないか、というのがワタクシの見方である。
とはいえ、舞台の上に10人ものプロの語り手さんを並べておいて、こっちは客席に座りながら腕組みをし目を閉じて「声」だけを味わっている。
その贅沢さ。
それだけで「木戸銭」の分は十分おつりがくるくらいであって、
その上さらにその道のプロを相手に好き勝手を書いてしまっている自分にハタと気付き、それでも、「まあ、書いちゃったんだし、しょうがないよね」などと、僭越で厚顔無恥な、どこまでも仕方の無い自分を改めて再確認するのであった。
関係者の方、もしご覧になっていたら気を悪くしないでくださいね。
<2008.07.21 記>
■蜘蛛の糸は必ず切れる<諸星大二郎・短編集>
■【書評】『蜘蛛の糸は必ず切れる』 諸星大二郎。小説です。
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