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2008年7月23日 (水)

■「伝わる」の前にある大切なこと。『爆笑問題のニッポンの教養』 芸術、宮田亮平。

今回のテーマは「芸術」。

なのだけれど、「芸術」そのものではなく、【伝える】というとても普遍的で深い内容に話が入り込んでいった。

前編の最後に太田が、

「あなたのメッセージは全然伝わらない、感じない」

と藝大の学長から強烈なパンチをくらって、【作り手】同士のなかなかにスリリングな展開となったのだが果たして・・・。

Photo
■『爆笑問題のニッポンの教養』(番組HPより)
FILE043:「アートのハート ~伝えること 伝わること~」 2008.7.08、15放送
東京藝術大学学長、宮田亮平。

■そもそもの発端は、

「今の時代の(藝大の)学生って、社会に居場所があるんだろうか?」

という太田の問いかけである。

ダビンチの時代ならいざ知らず、【藝術作品】を作ったところでほんの一部の人にしか見てもらえない。どれだけ素晴らしい作品であっても、社会的な意味はほとんど無くなってしまっていて、今、藝術で食っていこうとする若者は将来の自分のイメージが描けないのじゃないか。

そういう意味では、お笑い芸人の方がまだ希望が持てるんじゃないか、というのだ。

■それに対して学長の宮田さんは、

いかにピュアな自分を出せるか。

「今」をキッチリ生きるためにはどうしたらいいか、ということだ。

■そりゃ、キレイゴトでしょ、

食えるか、食えないかの問題なんだから。

と、太田が負けじと反撃する。

■このやりとりの時点で、すでに学長と太田の見ている風景が大きくずれている。

自分のなかにある「何か」をどうやったら表現することができるのか、という「己の主観」にどっかりと腰を据える学長と、「社会との関係の中での『自分』」にこだわる太田。

『伝える』、

といった時、この立ち位置の違いがさらに明らかになっていく。

■太田は【A】という自分の表現したいことがあって、それをコトバにしたときに相手が【A】と受け止めずに【A’】とか、下手をすると【B】とか【C】とかになってしまう、そのことがツラくて、相手に伝わった!と確信できないことに煩悶するのである。

そこには常に「相手」がいるのだ。

■学長は、【B】とか【C】とかでいいじゃん。

そういう時代もあるもんなんだよ。

という。

ここで太田は「中島みゆき」じゃないんだから、と茶化して逃げたが、学長は自らの過去に於いてやはり太田と同じ煩悶をしていたようで、その「気付き」を太田に伝えたかったようにも思える。

そして太田自身も、そのことが痛いほど分かっていたに違いない。

けれど、こればっかりは「アタマ」で理解したら解決できるという問題じゃない。

だから、つらいのだし、話を茶化して逃げざるを得なかったのだろう。

■宮田さんは、【伝える】ことについて苦しんで苦しんで苦しみ抜いた結果、同じ苦しみを背負った芸術家の卵たちを見守る役割として日本における藝術の最高学府の学長になるほどの人である。

その宮田学長が何度も何度も繰り返し言っていたのが、

いかに自分に正直に、ピュアになれるか。

なのである。

■「伝えたい」。

と思う前に、自分をちゃんと出せているかい?

それは本当に純粋な「自分」なのかい?

と問われているのである。

「太田のメッセージは全然伝わらない、感じない」と言っていたのは断定、ではなく問いかけであり、「作り手」の先輩としての指導だったんじゃないだろうか。

■何もそれは太田だけの話ではなくて、

「伝えたい」

という想いは誰もが抱く希望であり、それが出来ない苦しみを誰もが抱えているのだとおもう。

自分自身にとっても、このブログを立ち上げた理由はそこにあるのだし、「伝える技術」を磨きたいとヌルいなりにも努力をしているつもりである。

■けれど、「伝えたい」の前に

何を?

という問いに答えなければならない。

そしてそれはそれほど単純な話ではなくて、駿台・藤田の現代文のように「イイタイコト」を明確にする、なんていうことでは決してない。

そもそも、<【A】という伝えたいことがあって、>

という仮定自体に落とし穴があるのじゃないか、

今回の前後編を消化していくなかで、そういうことを感じ始めている。

それは【A】とか、そういうふうに「あるもの」として定義することが出来ない性質のものなのじゃないだろうかとおもうのだ。

■何か作品を作っているとき、はじめから設計図があって、その通りに出来上がるとおもって作る芸術家はいないだろう。

今、自分の目の前にある「対象」が、自分自身ですら意識していなかった何かを引き出して立ち上がっていく。それを目の当たりにしたときに胸に込みあげてくるもの。

コトバにすることが出来ないその「感覚・状況」が、『伝えるべきこと、そのもの』なのではないだろうか。

而して、その「感覚・状況」の結果生まれた作品に他人が向き合い、その人の胸に何らかの「感覚・状況」が再生されたとき、

それが『伝わった』、ということなのじゃないだろうか。

■今、この文章を書いている瞬間にわたしが感じていること。

そしてこの文章を読んでいるあなたが今この瞬間に感じていること。

         

それは生きてきた背景も違えば、今、置かれている状況も違うわけで決して「同じ」ものには成り得ない。

けれど、太田が9.11の直後に司馬遼太郎の『二十一世紀に生きる君たちへ』を読んだときに彼の中で生まれたもの、その後に司馬さんを良く知る人と話をした後に彼の胸の中で反芻され、そこで起きた化学反応。

それこそが、『伝わった』、ということなのだとおもう。

何かを生み出そう、という気持ちがある限り結論は無く、伝えることの苦しみから解放されることはないのだろうけれど、

それが今回の番組を見て立ち上がった、

ワタシのモノの見方である。

                          <2008.07.23 記>

21
■二十一世紀に生きる君たちへ 司馬遼太郎・著

      

■宮田亮平さんの作品

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