■地球シミュレーターと競馬の予想屋の違いって?『爆笑問題のニッポンの教養』 社会シミュレーション学、出口弘。
今回のテーマは、シミュレーション。
■『爆笑問題のニッポンの教養』(番組HPより)
FILE038:「この世はすべてお見通し?」 2008.5.27放送
東京工業大学教授 社会シミュレーション学 出口弘。
■出口先生は「シミュレーションはあくまでもニセモノ」と言い切る。
それを聞いて、そうだよねー、なんて油断していると
「そもそも我々の思考を支えている【言語】もやはりニセモノである」と
ばっさり、袈裟切りにあう。
■【シミュレーション】は数学では語りきれない不確実な事象を記述するツールである。
と同時に、脳内のシミュレーション(予想)を外在化させ、他のひとと「思考」を共有するためのツールでもある、というのだ。
ここにおいて【言語】と【シミュレーション】は、単なる比喩としてではなく、その本質において同じカテゴリーに属するものとなる。
うーむ、深い。
■シミュレーションとは実際に起こるであろうことを予測することをいう。
「知ろう」とすることが単純な場合は数学で太刀打ちできる。
この場合、だれが計算しても1+1は2である。
■けれど、構造物の強度だとか、流体の動きといった「単純ではないもの」を知ろうとするとき、細かく細かく分解していくと薄らぼんやりしてきてワケが分からなくなる。
そこで、ある「基本的な法則(簡単な計算)」でつながったいくつかの「要素」から成り立つ「モデル」を作り、それをコンピューターで計算してやる。
いくつかの、といっても実際には非常に多くの「要素」がその中にあり、その要素同士にハタラく法則の計算も莫大な量に及ぶ。
さらには、そのシミュレーションの中にハタラく「法則」の種類が増えれば増えるほど、必要となる計算の量は爆発的に増大していく。
その膨大な量の計算をコンピューターによるチカラワザでねじ伏せるのが、数値シミュレーションだ。
■そこに埋め込まれているひとつひとつの「法則」は、「1+1=2」という数学に基づいているのだけれど、面白いことに、「全体」としての振る舞いは「1に1を足した結果」が3になったり、4になったり、場合によっては100になったり、1000になったりする。
個々の要素同士が影響を与え合うことで結果として恐ろしく増幅することがあるのだ。
番組のなかでは「天然痘が発生した町」について実際にシミュレーションをまわしてみたのだけれど、ワクチンの備蓄量、接種スピード、公共の場の閉鎖などのいくつかの対応方策をばらつかせた時に出てくる結果は驚くほどの違いを見せた。
よく考えてみれば、外部からそれを見るものが事前にたてる予想とかイメージとかいったものに対して大幅に違った結果が出てくるからこそ、コンピューターをフルに活用したシミュレーションに存在意義があるのである。
■さて、そこで出口先生の
「シミュレーションはあくまでもニセモノ」
という話である。
■「ニセモノ」がニセモノとして区別がつくならば、それほど大した話ではないが、それが「ホンモノ」かどうかが分からないという場合は非常にやっかいだ。
数学で解くことが出来る予測は(数学のルールの範囲において)正しいといえる。
けれど、シミュレーションを使って予測しようとすること、例えば地球温暖化の予測、なんかでいえば、その予測が「正しい」かなんて誰にも分からない。
そもそも色々な要素が複雑に絡み合った問題で予測が立たないからこそシミュレーションを使うのだ。
■ただ、そこにあるのは「信憑性」という話で、それは何かというと、既に分かっている過去の事実をそのシミュレーションで再現できる、ということに過ぎない。
世界で屈指の計算処理能力を誇る地球シミュレーターによる計算の結果、なんていわれるとその権威にアテられて、なるほどー、などとつい納得してしまいがちだけれど、
よく考えてみれば「過去」の現象は既に結果が分かっているわけで、実は当たるのが当たり前。それが当たるように「シミュレーション」を組み立てているのだから。
そういう意味では、西船橋にいる競馬の予想屋のおっちゃんと何ら変わるものではない。
■ここに於いて、
「そもそも我々の思考を支えている【言語】もやはりニセモノであって、世の中を表現し、他の人とコミュニケートする手段である【シミュレーション】は、新しい【言語】なのである。」
という出口先生の言葉にやっとのことでたどり着く。
【シミュレーション】によって組み立てられた計算機の中のはたらきと、【言語】によって組み立てられた予想屋のおっちゃんの脳みその中のはたらきは「等価」である。
つまり、人類の英知が凝縮された「地球シミュレーター」と「田中の競馬予想」は、過去の事実から法則を見出し「未来の姿」を組み立てるという意味で、まあ、五十歩百歩、同じようなものだということだ。
■ならば我々は、シミュレーションによる結果を「神託」として恭しくいただくのではなく、「また、つまらねー予想しやがって」といいつつも、その「鉄板予想」の根拠を聞き、そこに生まれる議論を愉しむべきなのである。
人類の計り知れない神の業なんてものじゃなく、聞くものも一緒に愉しむものとして「それ」を我々の足元に引き摺り下ろし、そこに参加するべきなのだ。
だが「愉しむ」タメには、ただ口をあけてポカンとしていればいいかというと、そんなことは無く、それなりの「学習」が必要だ。
「競馬の愉しみ」と同じように、展開だとか、距離の実績だとか、血統だとか、ローテーションだとか、馬体の仕上がり具合だとか、そういった【競馬言語】を身につける必要があるのだ。
そうしたとき、そこに「ドラマ」が浮かび上がってくる。
■競馬をやる人間の話をよくよく聞いてみると、
実は、当たる、当たらないなんて大した問題ではなく、
複雑な「理屈」の上に浮かび上がった「未来の姿」そのものを愉しみ、そこに「ドラマ」とか「夢」とかいったものを重ねてみたりしながら、それがレースの瞬間に一気に凝縮される「恍惚」を味わっているのである。
■【シミュレーション】によって描かれる未来は予め定められた「結果」ではない。
【シミュレーション】は自ら「未来」を思い描くという極めて主体的な行為のためのツールなのである。
現在の地球温暖化の議論において、そのシミュレーションの信憑性をあげつらう人がいたりするけれど、それはあまりに単純な評価であって、そこからは何も生まれない。
むしろ、我々がそこにどういう「未来」を思い描くのかが問われているのであって、そのタメには我々一人ひとりが、「地球環境のメカニズム」の【言語】を学び、自らの頭で考える姿勢を身につける。
そうすることが、この暗雲垂れ込める時代において、それに疎外されることなく主体的に明るい未来を語るためのひとつの道なのだ、と思う。
<2008.06.07 記>
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コメント
>シミュレーションとは実際に起こるであろうことを予測すること
予測を超えた事件の多すぎる世の中で、
理不尽に自分の「未来」を奪われる方々がこれ以上増えないように
社会シミュレーション学を役立てていただきたいと切に願います。
家族や大切な人を思えばこそ、人事とは思えない日常の狂気を、
常に意識して生きていかなければならない現実が悲しいですが・・・
隣人による殺人事件、白昼の通り魔殺人・・・etc
お亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
投稿: 臨床検査技師 | 2008年6月 9日 (月) 09時53分
臨床検査技師さんへ。
本当に惨い事件が起きてしまいました。
被害者の方の人生って何だったんだろうと考えたとき、
もう取り返しがつかないのだという現実を改めて感じ、
重く苦しい感情に沈みます。
理不尽です。
投稿: 電気羊 | 2008年6月 9日 (月) 13時19分