« ■新型 ティアナ。和風モダンな「OMOTENASHI(おもてなし)」。 | トップページ | ■カネを儲けて何が悪い!『爆笑問題のニッポンの教養』 経済学、橘木俊詔。 »

2008年6月10日 (火)

■人と世の中のつながりについて。秋葉原無差別殺傷事件におもう。

<世の中が嫌になったのならば自分ひとりが世を去ればいいものを、・・・ >

今朝の某紙一面コラムの一文である。

■文章には流れというものがあって一部だけを取り出してどうこういうのは正当ではない、というのは分かっているつもりだ。

けれど、それでもやはり、同紙社説を含めたその背後にある「空気」のようなものを感じて何か書かなければという気持ちを抑えられなかったのだ。

■「誰でもよかった」

それは自分を苦しい立場に追い込んだ具体的な人物との対峙を避けた、未成熟な存在であることを示しているようにおもう。

卑怯で、卑劣な人間だ。

そして誰よりも本人が、そうやって自分自身を貶めてきたのだと思う。

■被害にあった方々は、「お前ら」と犯人が憎む一般化された存在などではなく、たった一度の人生をそれぞれの悩みを抱えながら生きてきた、誰にも代えることの出来ない存在だ。

我々の誰もがかけがえの無い存在なのである。

誰一人として不必要な存在など無い。

彼にとって一番必要だったのは、それを気づかせてくれる人に出会うことだったのではないだろうか。

■彼が携帯サイトに犯行予告をしておきながら当局が察知できなかったことについて、何らかの対応が必要だとする意見もある。が、

「管理」・「監視」でものごとを解決しようとするその息苦しさは、自分を大切に思えずに、もがき苦しむ魂たちを更なる瀬戸際へと追い込んでいくだろう。

■自分自身の20代前半を思い返すに、やはり、未熟でわがままで、何よりもそんな自分が嫌だった。

けれど、幸いなことに家族をはじめとしたまわりにいる人たちは、そんなわたしを見限ることなく大切に思ってくれていた、そのおかげで今の自分があるのだと思う。

そういう意味でいえば、彼とわたしの人生を分けたのは、何よりもまわりの人たちとのめぐり合わせにあるのかもしれない。

■「嫌になったのなら勝手に死んでしまえ」

という感情は分からなくもない。

当事者に感情移入するならば、むしろ自然なことだとおもう。

■けれど、今、この瞬間にも「自分」を好きになることが出来ずに悩む、何百万人もの若い人たちのこころに想像力を向けたとき、

また違った感情が浮かび上がってくる。

その気持ちも大切にしたいのだ。

今の自分があるのは世の中から見捨てられることがなかったからだとするならば、未熟な若者を見捨てないのが、我々大人なりの世の中への恩返しなのだとおもう。

■完全に見捨てられた、とわかったとき

人は世の中とのつながりを自らの手で断ち切ろうとする。

その不幸を生み出すのは、我々一人ひとりの「感じ方」そのものであり、「社会」というものが客観的な「何か」などではなく、その一人ひとりの「感じ方」が寄り合ったときに生じる「空気」によって構成されるものだとするならば、いまの日本を包み込む「世知辛さ」は、実はそれは、われわれ自身が生み出したものなのだ。

だから、決してこの事件はひとごとなどではない。

改めて自分と世の中とのつながり方について、じっくりと考えたいとおもう。

                        <2008.06.10 記>

|

« ■新型 ティアナ。和風モダンな「OMOTENASHI(おもてなし)」。 | トップページ | ■カネを儲けて何が悪い!『爆笑問題のニッポンの教養』 経済学、橘木俊詔。 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/208704/41492874

この記事へのトラックバック一覧です: ■人と世の中のつながりについて。秋葉原無差別殺傷事件におもう。:

« ■新型 ティアナ。和風モダンな「OMOTENASHI(おもてなし)」。 | トップページ | ■カネを儲けて何が悪い!『爆笑問題のニッポンの教養』 経済学、橘木俊詔。 »