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2008年5月20日 (火)

■ウルビーノのヴィーナスを見に行く。その挑発的な「まなざし」が私を揺さぶるのだ。

最終日の閉館間際、上野の西洋美術館に駆け込んだ。

やっぱり見とかにゃイカン、と思ったのである。

__1538
■ティツィアーノ・ヴェチェッリオ ≪ウルビーノのヴィーナス≫ 1538年

■誘うような「まなざし」が、私を捉えて離さない。

画面を縦に二分割することで奥の間から切り取られた空間を観客のいるところへとつなげている、というような、そういう理屈は全部素っ飛ばして、見るもののこころにグッと侵入してくる。そういう絵である。

しわの質感がリアリティを強調する白いシーツの上で、ぼやっと、やさしくやわらかく浮かび上がる裸体の美しさは思わず溜息が出るほどである。

その艶かしい存在は、まなざしをこちらに向けることで、幻影ではない確かにそこにある存在として、見るものに直接的な関係を迫ってくる。

この絵の前では「第3者」ではいられないのだ。

■同じ部屋に飾られた「ミケランジェロの下絵にもとづく、ポントルモの≪ヴィーナスとキューピッド≫」とは極めて対照的である。

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■ポントルモ ≪ヴィーナスとキューピッド≫1533年

■ヴィーナスとその息子であるキューピッドが何やらひそひそと会話をしている。ヴィーナスの右手がキューピッドの矢を抑えているところに道徳的な意図が感じられる。

そのヴィーナスの足元では悪徳の仮面が美徳の仮面を隠し、その下の薄暗い闇から「苦しみ」が顔を覗かせている。

ここには明らかに「物語」がある。

けれども、ヴィーナスもキューピッドも悪徳の仮面も「まなざし」をこちらに向けることはない。「物語」はこの絵画の枠の中で完結してしまっているのだ。

それを見る「私」は、物語を第3者として眺めている。

この物語は「私の存在」に直接挑みかかっては来ない。

■唯一、暗がりから覗く「苦しみ」の表情のみがこちらを不安に誘い込もうと試みる。

けれどその不安な感情さえも、「寓意」を理屈で捉えてしまった理性の前に「意味」として消化され、あくまでも物語の外にいる第3者である「私」を突き崩すことはない。

要するに、この絵は理屈っぽいのだ。

他のルネサンスのヴィーナス画も同様で、「物語」はその絵の中でのみ語られ、額縁の枠のなかで完結し、見るものへ挑みかかってくるようなことはない。

■その中で、ウルビーノのヴィーナスがひと際輝いて見えるのは、その「挑発」ゆえのことなのだと思う。

これは、かなり衝撃的なことであっただろう。

そしてそのスキャンダラスな血脈は、ゴヤの《裸のマハ》、マネの《オランピア》へと強く受け継がれていくのだ。

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■フランシスコ・デ・ゴヤ ≪裸のマハ≫1797_1800年

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■エドゥアール・マネ ≪オランピア≫ 1863年

■うちに帰ると、女房から「女の人の裸の絵を見てきたんでしょ?」と、からかわれたのだけれども、ある意味、それは実に正しい。

グラビアのヌード写真で一番ドキリとするのは、こちらに熱く向けられた濡れたまなざしであって、そのとき「私」は、その写真の向こうにいる「女」の存在に確かに揺さぶられている。

その「直接的な関係」こそが「エロ」の本質であって、客観的な、お行儀のいい「エロ」などというものは存在しない。

そしてウルビーノのヴィーナスこそが、陰湿な中世の暗がりを吹き飛ばす渾身の「エロ」い一撃であり、ルネサンス、つまり「人間的なものの恢復」の本質は、実はそこにあったのではないだろうか。

■美術館に展示されているからといって、必ずしも高尚なものであるとは限らない。

ウルビーノのヴィーナスの挑発は、それを見るオトコをたぶらかすという意味で、そこいらの週刊誌を彩るグラビア写真となんら変わるものではないのだ。

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■(左)≪角柱にもたれるヴィーナス≫ 紀元前1世紀頃の作品、ポンペイで出土
(右)ポンペイと同時にベスビオ火山の噴火で埋没した町、エルコラーノ出土の壁画≪ヴィーナス≫ 0050-79年頃

■それはルネサンスが志向したギリシャ、ローマ時代におけるアフロディテ/ヴィーナスの位置づけについても、やはり同じことがいえるのではないだろうか。

今回の展示でも特に目を惹かれた≪角柱にもたれるヴィーナス≫。

角柱に半身をあずけることで艶かしい曲線美が強調されている。もともとの2000年前のこの像は、腰に巻きつく布は赤く、上半身を薄く覆うベールは薄い桃色に彩られていたそうで、それは美術の教科書に載るような「彫刻」であることをキッパリと拒絶している。

そこにあるのは極めて俗物的な、「エロ」の魅力なのである。

■西洋も、東洋も、日本も無く、

古代も、近代も、現代も無く、

人間が人間として人生を愉しむ、

その最も刺激的な一面として「エロ」がある。

金持ちも、貧乏人も無く、

エリート官僚も、ネカフェ難民も無く、

いくらムッツリ隠そうが、

「エロ」に対峙するときオトコは皆おなじである。

カネも地位も名誉も、そういった社会的な「重たいもの」を全てかなぐり捨てて、没頭できる楽園がそこにある。

人のこころを動かすものを「美」というのであれば、これほどに強烈な「美」は存在しない。

だからこそ、

美の女神ヴィーナスは永遠にオトコの心を虜にするのだ。

  
ああ、来て良かった。

                           <2008.05.19 記>

Photo_3芸術新潮 2008年 04月号

Photo ヴィーナス 特別版

       
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コメント

この記事で、思い浮かんだ小説があります。
大崎善生さんの「九月の四分の一」という短編集のなかの
「報われざるエリシオンのために」

ご興味があったらぜひご一読ください

投稿: 臨床検査技師 | 2008年5月20日 (火) 17時48分

臨床検査技師さん、こんばんは。

「九月の四分の一」、面白そうですね。
ご紹介ありがとうございます。
そろそろ小説が読みたい気分になっていたところだったので
早速アマゾンで買おうかと思います。
最近「積ん読」が多いので本棚の肥やしにならないうちに
早めにページを開いたほうが良さそうですね(苦笑)。

投稿: 電気羊 | 2008年5月20日 (火) 22時26分

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