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2008年3月 5日 (水)

■そしてお早うの朝はくる。『爆笑問題のニッポンの教養』 宗教学、カール・ベッカー。

今回のテーマは、宗教学。

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■『爆笑問題のニッポンの教養』(番組HPより)
FILE029:人生を振り返る  夜  2008.2.26放送
京都大学こころの未来研究センター
教授 宗教学 カール・ベッカー。

■門松は冥土の旅の一里塚

      めでたくもあり めでたくもなし

                        一休

この歌を知っているかどうかは分からないけれども、ベッカー先生は世の中を相対的に捉える日本人の世界観とか死生観といったものに魅かれて日本に渡ってきたのだそうだ。34年前のことである。

日本に来たベッカー先生は病院やホスピスで末期患者と対話することで思索を深め、医療現場におけるこころのケアについて提言をおこなってきた。

そういう背景を知るとベッカー先生のことばの背後に「生」を打ち切られそうになっている人たちの思いが累々と重なっているように思えて、自然と居住いを正している自分がいる。

■しかしながら、ベッカー先生のことばは何故かこころに響かない。

「人間は意味を求める存在である」

というのはその通りだと思うのだけれど、「自分が疑えない、信じざるを得ないもの」を宗教の定義とするその根本的な部分で、ものの捉え方に乖離があるようだ。

■たぶんそれは34年間日本に住んで日本人と生活していても変わることのない根底の部分での差異なのだろう。

太田も、そしてたぶん田中もそれを感じていて、いや、むしろ、ふたりがそう感じたことがテレビのこちら側に伝わってきたのかもしれない。

ベッカー先生が、「幸、不幸のある世の中の不公平さ」と「人生の意味」を重ねようとするとき、太田は、ひとりとして同じ人生は無いわけで、そこで(他の人と比べて)一緒にする意味が分からない。不幸なやつは不幸な人生だし、幸福なやつは幸福な人生って、それだけの話じゃあないですか、と若干べらんめぇ調で反論するその表情は、あたかも立川談志師匠がのり移ったかのような風で、なるほどと正鵠を射ているように感じられた。

もちろん、どうしても他人様と自分とを比べてしまうのが人間なのだけれども、と同時に、こころのどこかで、まあしょうがないや、と受け流してしまうところが日本人なのだと思う。

■旧約聖書の中で、律法のままに正しく生きてきた鏡のように曇りの一点も無い男が不幸のどん底に落ちる話がある。

その男のもとに賢者が訪れ、お前は正しく生きたように見えるが、今、不幸に堕ちているからには何か原因があるに違いない、という。

「正しく」生きてきたのに、これ以上どうすればいいのだろうか。と、男は救いようの無い苦悩を抱えるのだ。

■神は何故そのようなことをなさるのか。

いや、人間にはどうにもならない矛盾があるからこそ、唯一絶対の神なのである。

「自分が疑えない、信じざるを得ないもの」とベッカー先生がいう、その定義そのものが唯一絶対神を前提にしたものではないのか。

爆笑問題のふたりとベッカー先生の会話は、分かり合えているようでどこか違和感がある。

■番組も終盤でそれがあらわになった。

ベッカー先生は「死」が怖くない、というのだ。

瞬間、その意味が分からない。その意図を探ろうとするのだけれど、どうやら本当にそう思っているらしい。

この番組の収録にも終わりとなる時間がある。その時間を意識したときに、今のこの一分、一秒が貴重でとても大切なものと思えてくる。

それと同じように、「死」を意識して、自分の人生にも「終わり」があるのだと理解したその瞬間に、そのひとの生き方は懸命なものになる。

そのベッカー先生の考えは、黒澤明監督が『生きる』で描きだしたテーマとして我々に重く深いものを投げかけてくるものだし、ベッカー先生と語り合ったであろう何十人何百人の末期患者たちを想起するに、それが『現実』としてさらに深く、突きつけられる。

『死』を前にして多くの日本人は自分の根底を語り出す。

実際の体験に裏打ちされたベッカー先生のその言葉は確かに真実なのであろう。

■それでも私には分からない。

自分が死ぬと確信する場面に出くわしたことがないから『自分の死』というものにリアリティーが圧倒的に欠けているのである。

分からない。

だから、『死』は怖いし、恐ろしい。

■いつかは確実に私は、死ぬ。

そんなことは誰でも知っている。

けれど、それを受け入れ、ましてやそれによって人生の有限性に気付き、懸命に生きるようになるなんてことが、実際の死に直面せずに可能であるのか。

■死が怖くはないのか?という田中の問いかけに、ベッカー先生はこう答えた。

「死では終わらないと思っているから」

それは、苦しんでいた患者さんが、死に際にふっと穏やかな表情になって虚空の何かを見つめていた、といった体験によって補強されたにせよ、先生の心の本当の奥底で「絶対的な存在」を信じているからこそ、そう思えるのではないか。

人の道から外れてしまったこと、人の気持ちを傷つけたこと、そして、自分が生きているというだけで知らず知らずに犯してしまっている幾多の罪。

正しく生きようとしても人間である限り逃れることのできないそれらの罪を、死の場面において、不条理や矛盾を遥かに超えた存在である「唯一絶対の神」に許されること。

むしろ、末期患者が見せる表情の穏やかさにそれを見たのはベッカー先生、あなた自身ではななかったのか。

■冒頭に紹介した一休さんの歌は、死はすぐそこにあるのだよ、あなたは否応なく確実に一歩一歩そこに向かって進んでいるのだよ。と、正月の浮かれた気分に水を差すものだ。

けれど、その一休さんをもってしても死の間際に至って、「死にとうない!」といったという。

その真偽はわからないけれども、「死」というのはあくまでも受け入れがたいものなのだという意味でこころにストンと落ちる話である。

四季のある、豊かな自然のもとで八百万の神とともに生きてきた我々日本人にとっての「死」とは、あたかも花が散っていくように、消えてなくなってしまうものなのではないだろうか。

我々はそこに無常をみる。

だからこそ、生きていることは美しく、素晴らしい。

そこに絶対的神を畏れ、許しを請う西洋人と、自然の流れの中に自分自身をみる日本人との決定的な違いがあるのだとおもう。

■もちろん、30年以上も「死」の現場に立会い、深く思索を続けてきたベッカー先生をつかまえて、こともあろうに「典型的な西洋人」という単純な枠組みで捉えようとする私の見方は極めて不遜であり、むしろ、ベッカー先生がその体験による深い思索の果てにたどりついた領域の影すら見ることの出来ない、そんな己の未熟さを露呈しているだけなのかもしれない。

けれども、自分なりに「死」について考える切っ掛けを持つことが出来たことは無意味ではないだろう。

ベッカー先生も言っていたが、一般論を扱う哲学とは違って、死生学というものに一般的な答えなどなく、それはあくまでも、それぞれ個人の「生き方」そのものであり、さらにその個人も、その毎日に新しい自分を発見することさえあるのだ。

その新鮮さをそのまま味わうことが、「生きる」ということなのかもしれない。

                           <2008.03.05 記>

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■あっかんべェ一休 <上巻> <下巻> [講談社漫画文庫]
■人間・一休宗純の生涯を描く、漫画家・坂口尚の絶筆。
■名作と思う漫画は多いけれど人生観への影響の大きさでは、未だ、この作品が一番です。
★★★★★(6件のレヴューあり)
※上巻は一休さんが悟りに至るまでの物語で感動ものなのだけれど、「生きる」ということに深く迫った下巻はさらにグゥーっと沁みる。でも下巻だけ在庫なしってのも変な話だ。古書で2点ほどでているようだけど・・・。
    

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コメント

2002年の3月18日、最愛の愛犬を亡くし、その後ペットロスの喪失感から立ち直れずに3ヶ月あまりをすごしました。
皮肉なことにその間だけは、子供の頃から変わることなく、ずーっと持ち続けてきた「死」への恐怖が「死んだらこの子の元へ行ける」という安堵のような想いに変わっていたのです。
もうすぐ、廻ってくる6回目の命日に、私はどんな想いを発見できるのかな・・・

投稿: 臨床検査技師 | 2008年3月 7日 (金) 00時05分

トラックバック、ありがとうございました。
記事の方も大変興味深く読ませていただきました。
「死生学」確かに答えはないものだと思います。
でもそれを意識するかしないかで、生き方が大きく変わってくるというベッカー教授の言葉に私は激しく同意しました。

投稿: ピノコ | 2008年3月 7日 (金) 01時06分

臨床検査技師さん

おはようございます。
愛している者を失うことは言葉では言いあらわせない辛さがあります。分かります。
その辛さが、残された者のこころの中で懐かしさとか感謝とか、そういった気持ちに変わっていくことが「成仏する」ということなのかもしれません。

投稿: 電気羊 | 2008年3月 7日 (金) 08時53分

ピノコさん

コメント&トラックバックありがとうございます。
たしかに死を意識することで、漫然として生きてきた自分の人生がとても、いとおしく、大切なものに思えてくるのかもしれませんね。
なかなか「死」を怖くないと思えるほどには達観できないのですけど・・・。

投稿: 電気羊 | 2008年3月 7日 (金) 09時00分

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