■歌舞伎役者・坂東玉三郎。『プロフェッショナル・仕事の流儀』 明日だけを見つめ、今日を生きる。
今回のプロフェッショナルは、歌舞伎役者の坂東玉三郎さん。
■妥協なき日々に、美は宿る 歌舞伎役者・坂東玉三郎
<2008.1.15放送> (番組HPより)
■50年。
歌舞伎座にゆき、芝居をし、どこにも寄らずにまっすぐ帰る。その毎日毎日の繰り返しが、いつの間にか50年という歳月を刻んでいた。
明日を見つめ、いま出来る最善を尽くす。などといった教科書的なものではない。もっと、もっと厳しい、「明日、自分は舞台に立てるのか」というギリギリの状況の中での、『明日』。
それは、静かな笑みを漂わせるその端正な外見からは窺うことができない、地獄の縁に立つ、そんな、その日その日なのか。
■歌舞伎は型。その動き、立ち方は細部に至るまですべてが決められている。
若い女はからだをすぼめ、脳天を客席にみせるように首をかしげる。年増おんなは、重心を後ろに引いた立ち姿。
互いに魅かれ合う男女は意識的に胸を寄せ合い、深いつながりのある男女は離れているようでいて、腰がしっかりと寄り添っている。
長い年月をかけて少しずつ築き上げられてきた「文脈」には一寸の余地も無く完成されている。
■役者は、その決められた型のなかに生命を吹き込む。
「魂とか心という糸で縫い付ける。」
そう、玉三郎さんは表現した。
少しの「ほつれ」がお客さまを舞台への没入から目覚めさせてしまう。だから、どんなに細かいことにも妥協しない。
その真摯な気持ち、向上心をもって、ちゃんとしたいと思って生きている、その気持ちが、「華のある」演技を生むのだろう。
■24歳の頃。
一日に5つの舞台に立つという極限のスケジュールの中で、
突然、ポキリと折れた。
肉体も、精神も、とうの昔に限界を超えていた。
■何もすることが出来ない。立っていることすら出来ないウツの症状のなかで、それでも、踊りから離れることのできない『わたし』。
病弱で、舞台に立つべきカラダではないと小さいときから感じていた、感覚と矛盾した舞台への想いと、
その無間地獄のなかで獲得した冷静な視線。
妥協せずに明日の舞台に立つために、その一瞬一瞬の真剣勝負の中に、生真面目で熱い自分を天から見ている存在を意識する。
世阿弥のいう【離見の見】とは正にこのことか。
■無意識の美。
いま、玉三郎さんはあたらしい境地に挑もうとしているという。
海の匂いが漂ってくることで、こころから何かが「すこーん」、と抜ける感じ。
自然は、静かであるがままでそのままで美しい。
見せようと意識していない美しさ。
何だか【私】というものが無くなって溶けていく、それでいてその美しさにわくわくしている【自分】がはっきりと感じられる。
そういう感覚なのかもしれない。
その遥か高みからの景色はいったいどういったものなのだろうか。
■安心して舞台に立ったら、
それくらいつまらないものはないですよね。
という玉三郎さんの言葉がかえって安心を呼び込み、
私を現実へと落ち着かせる。
<2007.01.18 記>
■写真集 『ザ歌舞伎座』
■坂東玉三郎×篠山紀信■
<Amazon評価>★★★★☆(2件のレヴュー)
■関連記事■
世阿弥、【離見の見(りけんのけん)】について。
■「縦の笑い」と「横の笑い」。自分を縛り付けるレッテルへの反逆。
* * * * * * * * * *
■ Amazon.co.jp ■
■【書籍】 最新ベストセラー情報 (1時間ごとに更新)■
■【書籍】 ↑ 売上上昇率 ↑ 最新ランキング■
■【DVD】 最新ベストセラー情報 (1時間ごとに更新)■
■【DVD】 ↑ 売上上昇率 ↑ 最新ランキング■
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント