■映画 『グエムル・漢江の怪物』。必然として立ちはだかる理不尽な現実。
あんまり期待せずに見る映画には意外と当たりが多い気がする。この映画もそういった想定外の興奮を味合わせてくれた作品である。
●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
No.09 『グエムル・漢江の怪物』
監督: ポン・ジュノ 日本公開:2006年9月
出演: ソン・ガンホ コ・アソン 他
■『グエムル』という作品はモンスター・パニック映画という形式を借りてはいるが、同時に家族の結束を描いた人間ドラマであり、横暴な社会に対する体制批判であり、「生き物としての【人間】」を写し撮った擬似・ドキュメンタリーでもある。
この映画の凄いところは、それぞれのテーマが干渉しあうことにより焦点がぼやけるどころか、目に見えるカタチで現れる「グエムル(怪物)」というケタ外れの牽引力によって、ますます各々のテーマが強調される点にある。
そしてこの映画の質の高さが、グエムルの「怪物としての質の高さ」によって維持されるが故に、不朽の名作『エイリアン』と肩を並べる「モンスター映画の傑作」と呼べるだけの価値があるのだ。
■ストーリー■
ソウルの中心を流れる漢江(ハンガン)。休日の河川敷でくつろいぐ人々の前に突然正体不明の巨大怪物(グエムル)が現れ、逃げ惑う人々を殺戮、捕食していく。ついには売店ではたらく男、カンドゥの目の前でその娘を連れ去り、漢江へと消えてしまった。
だが、娘のヒョンソから携帯電話がかかってきたことで、彼女がまだ生きていることを知ったカンドゥとその家族は、怪物との接触によるウイルス感染防止の為に隔離されていた病院を抜け出し、決死の覚悟でヒョンソを救出に向かうのだが・・・。
■DVD 『グエムル-漢江の怪物-』 スタンダード・エディション
監督: ポン・ジュノ 日本公開:2006年9月
出演: ソン・ガンホ コ・アソン 他
<Amazon評価>★★★☆ (レヴュー数 51件)
■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■
■グエムルが登場し、暴れまわって去っていくまでの一連のシーンが圧倒的に素晴らしい。
公園の売店を営む老父と少しぬけた感じのする息子カンドゥ。焼きイカの足を一本くすねた、くすねないが問題となるような平和な昼下がりの場面から、突如として「訳のわからないもの」に襲われるという不自然さ。
怪物に付き物の「暗闇」とか「じめじめ」といった雰囲気とはまったく正反対の日常的な明るい日差しの中にハッキリとした存在として現れる不条理な「暴力」。
何が起こったかわからないままに殺戮されていく人々。
目の前で娘が連れ去られたという現実が認識できず、ただ呆然と座りこむカンドゥ。
その「日常生活に突如として侵入してくる意味不明の圧倒的暴力」は、9.11でニューヨークの人々が体験したこと、そのものである。
■素晴らしいのは、その舞台設定だけではない。
画面の切り取り方、音響の聞かせ方といった演出が鳥肌モノなのである。
カメラは誰かの「視覚」、「聴覚」をモニターする。
すぐそばに怪物がいるのだけれども、その人物に『それ』が認識できるまでカメラには映らず、マイクにも入らない。
その人物が実際に認識していることを映画として再生するという手法は、見ている者の中に『その人物の主観』を作り出し、観客はその人物の目で、耳で「現場」に立ち会うことになるのだ。
ヘッドフォンで音楽を聴きながらツメの手入れをしている女性のシーンが、その際立った例である。
最高のテクニックだと思う。多分よくある手法なのだろうけれども、ここまで長いシーンで、それも真昼間の公園という開かれた環境で、その異常なまでの臨場感を継続させた成功例は少ないのではないだろうか。
■一方、そのシーンの素晴らしさと同じくらい、いや、それ以上に人間の描き方の生々しさが強烈なのである。
食欲、金銭欲、睡眠。
どんなに緊迫した状況でも、どんなに悲しい状況でも、映画の登場人物たちは「人間の動物的側面」をこれでもか、これでもか、と見せつける。
大いにルール違反である。
そういった状況においては、「飲む、喰う、寝る、出す」は禁じ手であり、登場人物はそういった生理現象から全く自由でただひたすら緊張におびえ、怒りと悲しみに震える、というのが約束事なのである。
カンドゥとその父、定職の無い弟、オリンピック級のアーチェリー選手の妹。
彼らは可愛いヒョンソを救い出すという強い目的をもって行動する。だが、監督は彼らの眠気や食欲を繰り返し描写することによって、ヒーローではない、「なまの人間」であることをひたすら強調するのだ。
それは、この映画を「予定調和の作られた物語」となることを頑なに拒否する監督の強い姿勢なのである。
■汚染物質、ウイルス感染、エージェント・イエロー、悪い科学者、一方的な米軍、頼りにならない政府、反米デモ。
それらは、怪物を生み出し、怪物の恐怖を増大・拡散させる役割を担っている。
と同時に、カンドゥ一家を「怪物」との対決へと追い込む理不尽な力としてはたらいている。
そして重要なのは、怪物の存在を含めた、その「理不尽な力」は実は「必然」として展開してくるということだ。
この手の映画ではスピルバーグの映画『ジョーズ』で、たまたま酸素ボンベを傍らに見つけたロイ・シャイダーのように、「偶然」が最大の危機を乗り越える鍵となるのが「定説」である。
それは、「主人公たちは必ず助かる」と期待している観客の思いに答える約束事なのだ。
だが、それはたやすく裏切られ、怪物に単身立ち向かった老父は必然的に殺されてしまい、獰猛な怪物に狙われた者の必然としてヒョンソは助からず、秘密を知る者に対する必然としてカンドゥ兄弟の頭上で猛毒のエージェント・イエローが散布される。
何故われわれが、こんな不幸に巻き込まれたのか。
それが物語の状況から導かれる必然であるからこそ、決して逃げ切れない運命であるからこそ、やりきれない。
その矛盾、不条理に対するカンドゥ兄弟のやりきれない激しい怒りがクライマックス・シーンで怪物にぶつけられる。
■そのクライマックス・シーンと対比的なラストシーン。
そこは、しんしんと雪の降る静かな夜。
たぶん、一族で唯一生き残ったのであろうカンドゥと、娘が命がけで守った少年がメシを食べている。
テレビでは、あの事件でのウイルス騒動がウソの情報によって引き起こされた可能性があることを報じている。
けれど、そんなことはカンドゥと少年には関係のないことだ。こうして二人でメシを食っていることが、彼らにとって何よりも大切なことなのだ。
■映画の中盤、一家がちゃぶ台を囲んでカップラーメンをすすっているシーンがある。
気がつくと、まだ見つかっていないはずのヒョンソがいつの間にか一緒に食卓を囲む輪に入っている。何事もないかのようにヒョンソに食べ物を渡すカンドゥ。
家族で食卓を囲むこのシーンが、この映画の中での唯一の救いである。
たとえそれが夢の中の話であったとしても、この救いようのない物語にそれを挿入するポン・ジュノ監督のやさしさが私は好きだ。
<2007.12.09 記>
■STAFF■
監督/原案 : ポン・ジュノ
脚本 : ポン・ジュノ/ハ・ジョンウォン/パク・チョルヒン
クリーチャー・デザイン : チャン・ヒチョル
VFXスーパーバイザー : ケヴィン・ラファティ
■CAST■
パク・カンドゥ ・・・ ソン・ガンホ
パク・ヒボン(父) ・・・ ピョン・ヒボン
パク・ナミル(弟) ・・・ パク・ヘイル
パク・ナムジュ(妹) ・・・ ペ・ドゥナ
パク・ヒョンソ(娘) ・・・ コ・アソン
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