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2007年8月 6日 (月)

■北脇昇と出会う。東京国立近代美術館。

靉光(あいみつ)を直に見たいと思い立って、東京国立近代美術館に行ったのだが、残念ながら靉光(あいみつ)の作品は展示されていなかった。

その代わりに、北脇昇の『独活(うど)』という異様な作品に出会った。

__1937_12
北脇昇 『独活(うど)』 昭和12年 1937年

切り株の傍らに2本の独活が立っている。

それは立ち話をする二人の男にも見える。右手奥の壁に映る二人の影法師が、せわしない身振り手振りで会話を楽しんでいる。

だが、奥の男には首は無く、生々しい赤い絵の具が載せられている。或いは、足元に注目するならば、奥の男は逆立ちをしているのかもしれない。これで「会話」は成立するのだろうか?

日常の生活が実体の無い「影」として描かれ、実際には「会話」が成立していない可笑しさを暗喩しているようにも見える。その「伝わらない」苦悩の表情が手前の切り株に浮かんでいる。

「意味」というものを見つめてしまったが故に、「意味」自体が崩壊していく。それでいて「正気」を保っている、その悲劇が描かれた作品なのかもしれない。
  

24_1949
北脇昇 『クォ・ヴァディス』 昭和24年 1949年

「クォ・ヴァディス(Domine,)quo vadis?」とは、ラテン語で「(主よ)いずこへ行き給うぞ」の意味。死に赴くキリストに対する聖ペテロの質問なのだそうだ。

敗戦によって、現実として全ての「意味」が崩壊してしまった空白。

その遠景、右手には嵐が、左手には労働運動のデモ隊が、現実感の無い風景として描かれる。  

そのどちらかに歩を踏み出そうとしている男の傍らにはカタツムリの殻が現実感を持って存在する。この置き去りにされる殻は、敗戦という「超現実」を突きつけられて、その存在価値を失ってしまったシュルレアリスムとの決別を意味しているのかもしれない。

この絵を、戦後の再出発を描いた楽観的寓意ととる意見もあるが、右手左手いずれの道もリアリティを失ったこの旅立ちに力強い意思は感じられず、むしろ虚無を感じるのは私だけであろうか。

                        <2007.08.06 記>

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