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2007年6月26日 (火)

■個人の自由と国家の役割。『日本の、これから』 納得していますか?あなたの働き方。

NHKは時々、良質な討論番組を企画する。なんとなく見始めたこの番組にも、つい引き込まれてしまった。

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「納得していますか?あなたの働き方」という個人の視点から出発しているのだけれども、考え始めると、いま「日本という国の在り方そのもの」が抱える構造的な問題があぶりだされてくるところが面白い。

自分なりに感じたことを書き留めておこうと思う。
  

■派遣労働について

日々切実に感じるのは、同じような仕事をしている場合に正社員と派遣労働者の賃金が違いすぎるということだ。実際に派遣の人と働いていて非常に申し訳なく思うのである。

下手をすると正社員より成果を出していたりする場合があったりして、なんとかならんのかと思うのだけれど、賃金を上げるとか、正社員にするとかの権限もなく、「ありがとう」というくらいしか出来ない自分が不甲斐ない。

積極的に時間を区切って仕事をする派遣という働き方は、多様な生き方を選択できるという意味では、良いことだと思う。

だが、そのとき必要なのは、技能に応じた最低賃金を、労働組合に守られた正社員並みにしっかりと定義し、保証することだと思う。「技能」を自由市場化すれば、インドや中国の労働力と「派遣労働者個人」が戦うこととなり、勝ち目があるはずが無いのである。それは決して極端な話などではない。

実態として日本企業は労働コスト削減の為に、業務のマニュアル化とその海外シフトを着実に進めている。ウチの会社など、まさにそれを強力に推進していたりするワケで、その戦略を理解した上で私は、目の前で一緒に頑張って働いている仲間と一体どう接すればいいのだろうか?

自由競争の名の下に、個人をグローバルな労働市場と闘わせるような構図を作ってはならない。グローバル化による労働力の低賃金化から国民を守るのは国家の役割である。これは今すぐ必要なことだと思う。

そうはいっても中長期的に見れば、国際競争力の観点でも、少子化の観点でも、労働市場の開放は避けられないだろう。

必要なことは、日本に住む日本人だからこそ出来る、あらたな雇用を創造することであり、そのために今から準備しなければならないことは、海外の低賃金労働力と代替出来ない、その「あらたな雇用」について、イマジネーションを膨らませるような「場」を設けることではないだろうか。
 

■成果主義

「成果」ってなんだろうか。
それは測定することが出来るものなのだろうか。

「収益」は測ることは出来ても、個人がその収益にどれだけ貢献しているかということを絶対値として測ることは非常に困難なことである。「測定できないもので定量評価する」というのは論理矛盾であり、そもそもがナンセンスな話だ。その「無理」が問題を生んでいるのだと思う。

「成果主義」なんてカッコイイ名前をつけても、結局は単なる相対評価に過ぎない。ある部署の中でのパイの取り合いである。

大切なことは、そのパイを全体としてどうやったら長期的に大きくしていけるのか?ということであり、それこそが「営利企業」と「個人としての社員」が共にハッピーになる唯一のストーリーだ。

そのためには、全社員ひとりひとりが「目標の目的と意味」をしみじみと共有することが大切だと思うのだが、そうもいかないのが現実である。

実際、組織が巨大になればなるほどそれは困難になる。たとえカリスマ社長が偉大なヴィジョンを示したとしても、ピラミッドの最下層に至るまでにその「目標の目的と意味」の情報は劣化し、志高い「コミットメント(自律的約束)」は単なる「ノルマ(必達目標)」へと変容してしまう。

殺伐としたノルマ至上主義では、創造的な組織は形作れない。

組織全体で夢のある目標に向かうとき、その目標を定量化し、個人レベルに細分化する行為は、サルを解体しバラバラ死体にしておいて、「さぁ、サルらしくウッキッキと跳ねてみろ!」ということと同義で
ある。

そこにはもう、「魂」は無いのだ。
 

■長時間労働

 無理をさせ 無理をするなと 無理をいう

お気に入りのサラリーマン川柳だ。

確かに若い頃は、「早く帰れ」と言われても、時間で勝負するようなところがあり、「無理をいうな!」という強い反感を抱いていた。

管理職的傾向が大きくなってきた今では、「一旦仕事を止めて、整理整頓。効率的なやり方を考えよう」なんて正論を吐きがちなのだが、あらためて「あの頃の自分」にそれが出来たかと問われれば甚だ疑問なのである。

番組の中で、一連の業務を分解し、チームでの流れ作業にしようとして失敗した事例が紹介されたが、そこにホワイトカラー業務の本質的な特性があるように思える。

人間は、与えられた仕事を全うしようとする責任感をもっている。仕事に対する誇りはそこから生まれるとも言えるだろう。

業務内容を分断し、流れ作業化する行為が上手くいかない場合も多々あるのだと思う。後工程の流れについて、「上手くいってるのかな?」と気になってしょうがない。そうコメントしていた女性の気持ちは非常に分かる。結局、えーい、自分でやってしまえ!となってしまうのだ。

とはいえ、ねじり鉢巻のマンパワーで山のような仕事を片っ端からやっつける時代では無くなってきているのは確実だ。バブル崩壊から、その再生に至る過程で社会の質が転換してきているのは肌身に感じる事実である。それは、「働き方の多様化」とか「仕事だけが人生ではない」という流れとも連動する構造的な変化なのであろう。

だが長時間労働の問題は自分が今まさに直面している課題であり、これといった解決策が思い浮かばないのが正直なところである。

選択と集中。限られた人員、限られた時間の中で最大限のパフォーマンスを出すことを考えれば、結局はそこに行き着くのかもしれない。

言うは易し、行うは難し。

なかなか思ったようにはいかないのが現実だったりするのである。
 

■すぐやめる若者

うーん。

この「すぐやめる若者」というのには、出会ったことがないので何ともいえない。部署間移動が比較的容易な企業にいるからだろうか。

2、3年目の若手が自ら異動を希望して他部署に移って行くことは実際にそこそこあるので、若い世代が組織に「縛られなくなってきている」という傾向は存在するのだろう。

けれども、あいつらは自由だな、と羨ましく思うことはあっても、それが悪いことだとは決して思わない。そうして自らの意思で異動していくヤツらの目は常に輝いているからだ。

その輝きは、会社とか組織とかそんな小さな枠組みを守るより、人間として、よっぽど大切にしなければならないことなのだと思う。
 
 

■全体を俯瞰してみて痛切に感じるのは、「国としての進む道」をしっかり定める時期に来ているのではないか、ということだ。「グローバル化」と「成熟しつつある個人主義」。その結果生じる社会構造の歪み。

最も尊重されるべきは個人の自由と責任だと思うのだが、国家の果たすべき役割を忘れてはならない。今、求められるのは場当たり的な個別対策ではなく、そのベースとなる「基本的な考え方」の定義なのだと思う。
 

日本国憲法 第二十五条【生存権、国の生存権保障義務】
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を
  有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び
  公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

                         <2007.06.26 記>   

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