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2007年6月 6日 (水)

■ペンで紙に書くということ。

■最近、パソコンばかりを使っていて、いざ漢字を書こうとするとなかなか出てこなくて困る。エディターの変換機能に頼ってしまっていて脳の機能が低下しているのだろうな、としみじみ思う。
けれども一番心配なのは、創造性も低下してきているのではないか。ということだ。

■何か物事について考えるとき、使い慣れた3色ボールペンでいろいろな短文を書き散らしてみる。それを丸で囲ったり、矢印でつないだり、なんてことをしているうちに、だんだん自分がイイタイコトが見えてくる。

それは、自分から切り離された文字列と『対話』する行為なのだと思う。そこにはダイナミックな働きがあって、頭の中だけで想定していた以上のコトに気付いたりするのだ。

ノートと自分の対話。それは、パソコンのモニターと自分との対話とは根源的に違う。

ペンを握る手の感触、文字を書くときの筆圧、すべり具合。そういった感覚と『ノートとの対話』とは切り離すことが出来ない。
インクの出が悪いボールペンしかない時の悲しさは、思考のスピードだけでなく質さえも落としてしまう。
それは、目と脳と手とペンと紙が一つのシステムとして機能するかどうかの問題なのだ。

■などという持論を持っていたりするのだが、実際、この記事を書いている今も『ノートとの対話』なしに、いきなり書き込んでいるわけで、それじゃあ思考が止まっているのかい?と問われれば、俯き加減にイイエ。と、弱々しくつぶやいてしまうのだ。

最近、書くことを「めんどくさい」と感じ始めてしまっている。ノートとの対話の結果を見ながら、新たに文章として成り立たせ、入力する。それが面倒だ、というだけでなく、その行為の途中で、先ほどの『対話』で生まれた魂がどこかで抜け落ちるような感覚さえおこすのだ。それならば、初めから端末に向かうほうが効率的だ。

■ノートとの対話で生まれた「魂」を生かすには、書いては破り、書いては破りの古式ゆかしき文筆活動スタイルが最適なのだろうけれど、どうも時代にはそぐわない。
やはり、最終的にはパソコンに向かわざるを得ないのが今の時代なのだとするならば、なんだか正体は分からないのだけれど、とても大切なものを置き去りにしてきてしまっているのではないか、と何ともいえない不安感を覚える。

果たして、華麗なブラインドタッチで端末に向かう今時の青少年諸君はどうなのだろうか?彼らは既にパソコンが存在している世界に生まれてきた。もしかすると彼らの中では、柔軟な身体感覚の延長として既にパソコンが取り込まれているのではないか?
先ほどの旧人類的『紙との対話』と同等のものが、人間とパソコンのダイナミックな系として働き、豊かな創造性が展開されているのであろうか?

そこのところ、どうなの?

と聞きたいところなのだが、話が通じないことを恐れる気弱な中年男は、自分のパソコンとノートを見比べながら、ただただ悶々とするのであった。

Ds_note_03

                                               <2007.06.06 記>

■茂木健一郎さんの『クオリア日記』「あのバッターはボクにとって」にT/Bします。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/06/post_25b1.html

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