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2007年5月12日 (土)

■『ギャップ・ライフ』について考える。「人生」の意味・・・デカルトの先にあるもの。

0101 ■茂木健一郎さんの「クオリア日記」を読んでいると、時々ハッとさせられて、つい人生について深く考えたくなってしまう文章に突き当たることがある。
今回の記事、「ギャップ・ライフ」も、その一つだ。

 
 
 
「クオリア日記」 ギャップ・ライフ 記事

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2007/05/post_8d63.html

■イギリスを中心に根付いている「ギャップ・イヤー」とは、大学入学前に一年ほど、何処にも所属せずに世界を放浪したりする習慣である。それに対して日本人には、履歴書に空白があくことを嫌うところがあって、面白くない。と茂木さんは強く主張する。
是非とも、何処にも所属しない空白の時期である「ギャップ・イヤー」を広めたい。せめて、普段と異なる文脈に自分を置く時期を、1ヶ月でも1日でもいいから持ちたいものだ、と。

その上で、哲学科の大学院終了後、定職に付かず、論文を書かず、けれども学会に出ては、鋭く深い発言を放って、確固たる存在をしめしている友人を挙げ、『ギャップ・ライフ』、一生何処にも所属しない人生もあるのだと、思い至る。

そして、その生き様は、神社の森のように世俗から離れてはいるが非常に生き生きとしたものであり、「ギャップ・ライフ」を貫くことは、何か瑞々しいものを生むのだろうと豊かな気持ちになる。
さらに、その生き方と、遠大な自然や宇宙との相似性に想いを馳せてた上で、実は「全うな生き方」を送った人の人生もまた「ギャップ・ライフ」なのではないかと、その破天荒な想像力は、リアル・ライフに帰還する。

■この記事は、不惑の歳を迎え、もやもやと人生について考え始めた私の心を刺激した。

人生は、加速する。
小学生の頃に感じた永遠とも思える夏と、日々の仕事に追われ、下手をすると四季の移り変わりにすら気付かない中年男の日常の対比。
立ち止まって思いを馳せれば明らかだ。歳を重ねるにつれ、時間の流れは速く、さらに加速していく。

その加速していく時間の中に埋没していると、ただただ流される、ということになってしまう。
「ギャップ・イヤー」は、その事に気付く大切な仕掛けなのだと思う。
さらに、時間の流れだけではなく、今自分が見ている景色があまりにも狭い世界に留まっていることにも気付く。実際の景色は、どこまでも広く、遠く続いているのだ。

落第したり、なんだりと、人生の中で何度か躓いた時があるのだけれども、最近、そういう自分の人生の『節の部分』を振り返ってみて、あながち無駄な時間でもなかったのだな、と感じ始めている。

だが、そういう『節』の時間を生きているときには、どうにも寄る辺の無い、孤独な不安感に襲われるのだ。

■『離人症』という心の状態がある。中学生くらいの頃、時折襲われた恐ろしい感覚である。それは、朝、駅に向かって自転車を漕いでいる最中とかに唐突にやってくる。

今、感じている「現在」が急速に現実感を喪失し、眼に映るもの、耳から聞こえるものと、「私」が切り離される。映画のスクリーンに映った「私で無い」自分を、観客である「私」が見ているような感覚。
それは「人生」という現実世界、時間の流れから突如放り出されて、「今まで、あなたが生きていると思っていた世界は、映画のような実態を伴わない影に過ぎない」と宣告されているようなもので、落語、『粗忽長屋』の熊さんじゃないけれど、「じゃあ、この私はナニなのだ!」という話で、非常に深刻な恐怖を伴うものなのだ。
そして、リモコン操縦のように「私」でない自分に自転車を漕がせながら、じりじりと「現実世界」に復帰するまでの時間を必死に耐えるのだ。

この不思議な感覚が現象としてあながち理屈の通らないものでもないと思わせてくれた本がある。

『マインド・タイムー脳と意識の時間ー』(ベンジャミン・リベット著)では、現実に起きている事象と「意識」がそれを認知するまでに0.5秒の時間のズレがあることを実験で明らかにしている。「意識」は、その0.5秒の遅れを「分かっていたことにする」ことで、自分の時計を0.5秒補正して現実世界とのズレを修正している。
例えば、こういうことである。
クルマを運転していて、急に子供が飛び出してきた。「危ない!」とブレーキを踏むという意思の0.5秒前に、すでに自分の足はしっかりとブレーキを踏んでいるのだ。
そして意識は、あたかもリアルタイムで「私」が対応した。と補正、敢えて言えば「騙す」のだ。

その「騙し」を、意識と脳を含めた体全体の関係に敷衍していくならば、神経科医アントニオ・R・ダマシオが『無意識の脳、自己意識の脳』で語るように、「私」という意識は、脳と体が進化の過程で作り出した実体を伴わない、「映像」なのかもしれない。

だが、仮に「私」という意識が、実体を持たない影のようなものだとしても、確実に「存在する」のだ。
そして、キリンの首の長さが、その進化的な意味合いとは関係なく、生きていく上での意味があることと同じ様に、『「私」という意識』が存在する意味はあるはずだ。

■そして、そういう文脈の中で、自分の天命は何か?ということを考え始めている。

などと、酒を呑みながら、親しい友人にその話をしたら、「それを考えるのはまだ早すぎだ」と笑われた。

けれども、天命について考えない人生とは何だろう。自分が生まれてきた意味は何だろう。父、母が、この名前を自分に授けてくれた時の想いをどう受け止めればいいのだろう。

■『ギャップ・イヤー』として人生の中で立ち止まった時に、私という個人が実は今まで生きてきた所属や社会との関係性から「自由」なのである、と理解する。
と同時に、その時に自然と湧き上がる孤独感は、何らかの社会との関係性の中でしか生きられない、いや、社会との関係性の中で生きるからこそ意味があるのだ、と教えてくれる。

一見、どこにも所属せず自由に生きているように見える人も、もちろん、その人生は空白などではないし、社会と何らかの関係性を維持している。
茂木さんの言う『ギャップ・ライフ』は、「自由」や「空白」ではなく、「自然」な生き方と捉えるべきだろう。だからこそ、『もっとも有為な人生を送ったように見える人でも、実はそれは一つのギャップ・ライフだったのだろう。』という結語にたどり着く。

大切なのは、自然に生きることなのだ。
そのまま感じること。
そのまま味わうこと。
直に生きること。
そうした瞬間、ヒトは『瑞々しい』人生を生きている、ということになるのではないだろうか?

そして、その瑞々しい人生の『結果』として、ああ、これが「天命」だったのかと悟るのかもしれない。
だとするならば、「自分の天命とは何か?」と必死に考える『私』は、熊さん八さん並みの粗忽者だということになるのだが・・・。

大抵の場合、友人の意見は正しいものである。
                       <2007.05.12 記>

■今回取り上げた書籍■

『マインド・タイムー脳と意識の時間ー』
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『無意識の脳、自己意識の脳』
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コメント

「ギャップ・ライフ」初めて聞きました。
わたしなど、大学卒業後、いったんはフツーに就職をしたものの、結局2年ほどで辞め、その後30年以上ドロップアウト(この言葉はもう死語なんでしょうね)、50代の半ばを過ぎ、辿り着いたところが富士山でした。母親からは、もう娘としては扱ってもらえないようです。高校時代の親しい友人からは、電話口で泣かれ・・・
「天命」ですか・・
結局自分で選んだ人生なのですが、あまりにも生活が苦しい時は、いったい私は何のために生まれて来たのだろうか・・と。ずいぶんと苦しい思いをしました。
子供ふたりを育てながら、それでも夫の奏でる音楽を聞くと、一瞬現実を忘れました。
きっと、人はみんな自分の役目というものがあるのでしょうね。この世に生まれてきたことへの。そのことに気付くか、気付かないかの違いかもしれませんね。

投稿: misaton | 2007年5月13日 (日) 08時30分

追伸:トラックバックさせていただきました。

投稿: misaton | 2007年5月13日 (日) 08時37分

misatonさん。
コメントありがとうございます。
この世に生まれてきた自分の役目に気付くかどうか・・・同感です。
それは自分から積極的に手にするものじゃなくて、自然と気付かされるもののような気がしております。
求めようとすれば遠ざかる・・・禅問答みたいですね。
 ところで、トラックバックなかなか届きません。システムの問題でしょうか?
こちらからも送らせていただきますね。

投稿: 電気羊 | 2007年5月14日 (月) 16時04分

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