2017年8月 4日 (金)

■【社会】戦前の人の寿命って45歳って本当なのか?平均寿命のトリックと人間の寿命について考える。

現在の我々の寿命は80歳で、戦前は50歳以下だった。なんてよく聞くけど本当なんだろうか?だって、昔話だっておじいさん、おばあさんが平気で出てくるじゃん。おかしいよね?と思って厚生労働省の資料をグラフ化してみた。

20170804

■結果、想像以上に面白いことがわかった。

平均寿命の定義は、0歳平均余命。つまり、おぎゃあと生まれた赤ん坊が平均であとどれくらい生きるのか?という平均値なのだ。

当然、抗生物質のない戦前の乳児死亡率は高いわけで、平均寿命は乳児の死亡率に思いっきり引っ張られる。

だから、20歳とか40歳の平均余命の推移が分かれば、無事に成人した人が何歳くらいまで生きたのかがわかるだろう、そう思ってグラフを作成してみたのである。

■上のグラフは明治24年以降の0歳、20歳、40歳、65歳、80歳それぞれが平均で何歳まで生きたか(年齢+平均余命)を示したものである。(男性)

予想通り、20歳まで生き残った人は明治時代においても60歳、40歳まで生き残った人は65歳くらいまで生きている。

つまり無事に成人した人は還暦まで生きるのが普通だったということだ。

思い出してみよう。平均寿命の定義は、0歳平均余命。上のグラフで言うと一番下の青い折れ線だ。確かに戦前の平均寿命は50歳以下で、戦後にぐいぐいと上昇していく。

僕らはこれを見せられていたのだ。。。

うーん、やっぱそうだよね。ここまでは想定内。

だが、びっくりしたのは80歳まで生きた人の寿命である。

■再び上のグラフの一番上の80歳の水色の折れ線を見てみよう。

なんと明治時代から85~90歳と安定して推移しているじゃないですか!

つまり、大きな病気をしないで80歳まで生きた人は85歳まで普通に生きていた。しかも、それは平成の世になっても90歳以上には伸びない、ということだ。

で、江戸時代の有名人をしらべてみたら、葛飾北斎は90才、杉田玄白85才、貝原益軒85才、滝沢馬琴82才、上田秋成76才、良寛74才、伊能忠敬74才、徳川光圀73才、近松門左衛門72才なのだそうで、やっぱり江戸時代でも80歳まで平気で生きていらっしゃる。

平均寿命=0歳平均余命ってことを意識していないと、江戸時代も明治の人も50歳でなくなっていた、だって織田信長も人生50年ってうたってたもんね。なんていうとんでもない勘違いをしてしまうのだ。

昔は病気も治らなかったし、栄養状態も悪かったからね、現代は圧倒的に健康になって、老人の寿命もどんどん延びていくんだね。

という理解は、全体としては正しいのだけれど、【寿命】というものを「人間は健康であれば何歳まで生きるのか?」と定義するならば、それは大きな間違いだ、ということだ。

僕らの寿命は、明治も今も90歳弱。(ちなみに女性の80歳平均余命は今回グラフ化した男性の場合の+0~2歳)

【結論】 大きな病気にかからず健康に老いた場合の人間の寿命は90歳くらい。それは明治時代も今もさほど変わらない。どれだけ医療や栄養状態が良くなっても90歳程度で老いて死ぬ。人間って、そういう風にできているのだ。

 

だから、娘よ。

ずいぶん先の話ではあるけれど、

ぼくが90歳になって死にそうになったとしても、無理な延命処置で管とか突っ込んだりしないで静かに枯れるように死なせてね。

自然がいちばんなんだから。

                        <2017.08.04記>

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2017年8月 3日 (木)

■【書評】『いま世界の哲学者が考えていること』 岡本裕一郎著。【哲学】は最早、現代には通用しないのか。

現代において、いろいろな局面で構造的変化が起きようとしている。それを今の哲学者たちがどう読み解いているのか、それを俯瞰することで時代を読み解く頭を整理する。そういう本である。


【単行本】いま世界の哲学者が考えていること 岡本 裕一朗 (著)

■ポスト構造主義以降の哲学については、日本では断片的にしか情報が入ってこないし、残念ながら日本を舞台に最先端の哲学が展開していく状況にないからとてもありがたい本だ。

ヨーロッパのポスト構造主義とアメリカ、イギリスの分析主義を超えて、カントから始まる従来の相対主義を克服する「実在論的転回」、ポスト構造主義の根幹である言語論的転回をツールに拡大する「メディア・技術論的転回」、科学的視座から神経学、物理学の延長として心を取り扱う「自然主義的転回」。この3つの軸で現在の哲学が進んでいるのだという。

「実在論的転回」には仏教的な、もっというと禅の思想を感じるし、「メディア・技術論的転回」は意識が肉体から道具に延長されることは日々の実感であるし、「自然主義的転回」はまさにこのブログでも追及していることだからその流れは体感している。思想のための思想から、実学としての哲学が帰ってきたような印象であり、わくわくする。

■さて、現代の哲学の概観をなでる第一章に続いて、本論に入る。

以下章立てで、「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」、「資本主義」、「宗教」、「環境問題」についての具体的状況を語っていく。

あとがきにもあるが、著者は結論を導くのではなく、そこで繰り広げられる思想的アプローチを多面的に紹介し、それぞれに対する疑問をなげかけるにとどめる。

それは読み手の思索を励起し、読んでいてとても楽しい。

ただ、ITとかバイオテクノロジーとか地球温暖化とかいったときに、著者が先の宣言に反してレイ・カーツワイルの幾何級数的技術の進化や環境問題に対する「コペンハーゲン・コンセンサス」をそのまま取り上げていて、そこに本書の限界も感じられる。

著者は思想史の専門家であって、科学的思考には少し疎いように見受けられる。だから権威の言うことに、しかもそこにそれらしいデータとかグラフをつけられれば信じるしかない。

■さらに言うならば、著者は【哲学者】でもない。

哲学者は真理の探究者である。その基本スタンスは疑うことだ。

われわれが信じていることを解体し、論理的に再構築して、この世界を説明する。それが哲学者、というのがわたしの理解だ。

この本で、「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」、「資本主義」、「宗教」、「環境問題」にかかわる【思想】をなでるわけだが、ニュースになるような表層的問題にとらわれていて、【本質】には触れることはない。

例えば、「ITと人工知能」ならば、機械とそこに流されるソフトウエアに【わたし】という自我が生じるのか、という問題から、【自我】に関する21世紀の哲学を語らねばならないし、ネットとビッグデータによる管理、監視社会の問題なら、【社会】とはなにか、についての本質論が今どうなっているかを語らねばならない。

しかし、語られるのは、技術論であったり、脳科学であったり、社会問題について、つまり具体的で個別の問題なのである。

果たしてこれは【哲学】なのだろうか。

著者は日本の大学の哲学科で学ぶのはデカルトの何々論についての研究とかばかりで、自分の哲学を構築しないと批判しながら、哲学とはそもそも何なのか、何を語るものなのかという根本が決定的にずれているように思えるのだ。
 
第一章の21世紀の哲学の現状での新しい切り口で、現代の課題の論点の奥にある真理を浮かび上がらせる、そういう展開を期待したのだけれど、残念ながら、そういう深みにはほぼ踏み込めていない。

■【社会思想】と【哲学】はあきらかに違う。

前者は、【その社会において何を信じるか】を問うものであり、後者は、【そんな社会、うそだから】と嘲笑うものだからだ。

もっというと、前者は【ある価値観】を前提にしており、後者は【その前提を覆す】ことに意味を置く。

前者は、ある前提の地平のなかでの議論だが、後者は、その前提となる地平から離れた次元からの視点で物事を眺めようとする。

この宇宙を知るためには、この宇宙を抜け出してメタ的な視点から見るしかない。

それが哲学なのであって、第二章以降の各論において決定的に欠落しているのはそこなのだ。

いくら多面的な思想を提示したところで、この大地を離れない限りコペルニクスにはなれないのである。

■第一章でわくわくしたのは、著者が「実在論的転回」、「メディア・技術論的転回」、「自然主義的転回」という3つの切り口を提示して、ならば世界はどう変わるか、最先端の哲学者たちはどういう世界を、どういう宇宙を見ているのか、というそこなのだ。

デカルトが「わたし」という主観しか信じられない!といって、そこからスタートしたのに対し、その主観から始まる世界があるのと同時に絶対的な世界も実在するのだというのが「実在論的転回」ならば、それが示すのは【わたし】がいない世界だ。

禅語に【山是山水是水】ということばがある。

悟りに至らない段階では、山は山としか、水は水にしか見えない。 しかし、本来無一物の境地に至ると、一切が無差別平等となり、山は山でなく、水も水でなくなってしまう。 さらに修行が深まって悟りの心さえも消え去ってしまうと、山が山として水が水として新鮮に蘇ってくる。

我々は【山】という言葉、概念で山を見る。

けれどそこには現実の【山】はない。

現実の【山】は、【わたし】の外にあるからだ。

【山】という言葉が、概念が、われわれを縛るならば、インターネットという新しい【言語】を得たわれわれが見ている【山】は、【世界】はどう変容したのか。

「メディア・技術論的転回」という切り口が示すのは、そこである。

「自然主義的転回」が示すのは、ニュートン的物理学で宇宙は整然と説明できるという【幻想】の打破である。従来の、要素を分解してその関係性を記述するやり方では【生命】や【心】などの複雑系は記述できない。

だからこそ量子論とかネットワーク論とか、そういう関係性そのものに注目する最近の科学があたらしい【世界】を見せるツールになるのだ。

■そういう視点で各論を見ていこう。

「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」については、究極を言えば、【どこまでが’わたし’なのか】、という問い立てを避けられないはずだ。

ネットワークで世界に広がった【わたし】、ソフトウエアの中に発生した【わたし】、細胞から再生されたわたしの外の【わたし】。

そういった規格外の【わたし】が現実となった現在、世界の哲学者は【わたし】をどう再定義しているのか。

フーコー、ドゥルーズの視点は示され、社会から監視、監禁される人間から、データとして分解され管理される人間への変容、概念としての従来的「人間の終わり」について語られる。

あとは、あれはいいこと、これは悪いことという価値観のはなしで、ハーバマスの自然発生と人為が混乱することで起きる「自己」への影響、その前提となるハンナ・アレントの「出生性」が面白いくらい。

確かに善悪とか道徳というのが論点になるのだけど、これがいい、いやだめだ、という論争はすでに社会的前提によって支配されているわけで、そこが【思想】的であって、【哲学】的でないのだ。

結局、このあたりの話題はまだ整理されていない、ということなのだろうか。

■「資本主義」、「宗教」については、文系的概念の話題だからか、【常識】を疑い、再定義するという意味で哲学的であり、そこそこに議論が整理されている。

【格差】が問題だというけれど、本当?それって【不平等はいかん】という価値観に縛られてるだけでしょ?実は、お金なんて生きていくのに十分にあればいいんでしょ。というフランクファートの「十分性の学説」。

個々の意志を尊重したときに発生する矛盾から、自由主義は原理的に成り立たないことを示したアマルティア・センの「自由主義のパラドクス」。

「ハイパーグローバリゼーション」と「民主政治」と「国民国家」が同時には成り立たない。取り得る道は、①「ハイパーグローバリゼーション」と「民主政治」による【世界連邦制】、②「ハイパーグローバリゼーション」と「国民国家」による【ネオリベラリズム】、③「民主政治」と「国民国家」による【賢いグローバリゼーション】の3つしかないと喝破したダニ・ロドニック。

西洋近代が合理主義による【世界の脱魔術化】だと説いたマックス・ウェーバー。実際にわれわれは近代を「脱宗教」、「世俗化」の過程だと思っている。

それを「第一の近代化」として、現代を「第二の近代化」つまり、<「自分自身の神」をもつ宗教の個人化><多様な宗教に寛容なコスモポリタン化>による【世界の再魔術化】の過程として定義したウルリッヒ・ベック。

【宗教】と【科学】の機能は重ならないとしたグールドと、それを批判して【神】を妄想だと反証したドーキンス。

【宗教】を自然現象ととらえ、科学的解析の対象としてそこから生まれる「陶酔、呪縛」から逃れる方法を探ろうとするダニエル・デネット。

それに対し、【国家】が存在することを科学で説明できないからといって超自然現象といえるのか?として、すべてを自然科学で説明することはできないと反論したマルクス・ガブリエル。

やはり、この手の概念的話には【哲学】は親和性があるようで、いい悪いの価値観を超えた論理展開に、こちらの思索もずんずん励起されて面白い。

■で、一番がっかりするのが最終章の「環境問題」だ。

どうもこの章は、そもそもの【地球環境問題】というテーマを幻想だと退けようとする意図が見えてしまう。

中立であろうとするこれまでの著者の立場が突然崩れるのだ。

環境問題についての立場は【キリスト教的人間中心主義】と【環境的価値に重きを置く生態系主義】の対立として捉えられる。まずは問題をそこに据える。

けれど、そこでの対立を別の次元で統合しようとして環境を経済的貨幣価値に変換したロバート・コスタンザにしても、それは経済という一元論だとして「リスク評価」で考えるべきだとしたウルリッヒ・ベックにしても、やっていることは【哲学】ではなく、【最適化】論であるがゆえに、根本的転換には至らない。

ベアード・キャリコットの近代科学を前提とした人間中心主義からポストモダンの科学(相対性理論、量子論、進化論、生態学)に基づく環境倫理への転換も紹介されるが(私は発想自体には違和感を感じないのだが)著者はポストモダンは時代遅れで説得力がないと自ら退ける。

で、そもそも【地球環境問題】という【終末論】は幻想である、という逃げに走るのだ。

しかもビョルン・ロンボルグの「コペンハーゲン・コンセンサス」なる政策の優先順位で環境問題の評価が低いと、これはノーベル経済学賞をうけた一流の研究者たちがまとめた内容であると鼻を膨らませる。

いやいや、IPCCも国連も手放しに信じるべきではないけれど、同じように「コペンハーゲン・コンセンサス」も手放しで信じるべきではないだろう。

言いたいのは「疑うこと」だというのは分かるけれども、あまりにも論理がお粗末で、それが最終章だというところに悲しさすら感じてしまった。

■結局のところ「何がいいのか」、「何が大切なのか」という【価値観】という物差しを棄てない限り新しい地平は開けない。

「実在論的転回」、「メディア・技術論的転回」、「自然主義的転回」というツールを整備しておきながらも、「ITと人工知能」、「バイオテクノロジー」、「環境問題」という人類が直面している重要課題については【哲学】は何も語ることができないのかと暗澹たる気分になる。

著者はこれだけの膨大な世界の最新の思想を読み込んでいて、それでもなお、【哲学】をもってそれらを切り裂くことができないのだ。

やはり、【哲学】の世界は閉塞してしまっているのだろうか。

あるいは、【科学】と【哲学】があまりにも乖離してしまったことが不幸なのか。

【科学】と【哲学】が同じ地平にいたギリシャの時代の素朴さに一旦帰ってもいいのかもしれない。

                         <2017.08.03 記>

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2017年7月25日 (火)

■【映画評】『64-ロクヨン- 前編/後編』、映画はきらめくようなシーンの連なりで魂を揺さぶるものなのだ。

圧倒的迫力で、テンポもいい。

前後編、一気にいけるのは、映画としての集中力と規格外の役者の演技によるものだ。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.110  『64-ロクヨン- 前編/後編』
          監督: 瀬々敬久 公開:2016年5月/6月
       出演: 佐藤浩市  永瀬正敏 他

Title

■あらすじ■
一週間しか無かった昭和64年。昭和天皇崩御に揺れるそのなかで少女誘拐事件が発生した。少女は遺体で発見され、犯人の手がかりさえつかめないまま、14年の月日が流れ去り、「ロクヨン」と呼称された事件の時効まであと一年となる。

当時捜査員であった三上は、今では刑事部から異動になり広報官として記者クラブの対応に追われている。公安員会のメンバーの娘が起こした交通事故を県警が匿名としたことで、県警広報部と記者クラブの間に亀裂がはいる。そんなとき、未解決重大事件の解決を鼓舞する名目で警察庁長官の視察が予定される。そのセレモニーを成功させるためにも記者クラブとの関係改善に奔走する三上たち。だが、長官視察の前日に、ある事件が発生する。

■原作は読んでいない。

原作を忠実に再現したと評価されるNHKのドラマの評価が高い一方で、この作品に対する原作ファンの評価はあまり高くないようだ。

原作と比べてしまうとたぶん、そうなのだろう。

けれど、映画というのは小説とは違うものだし、連続テレビドラマとも違うものである。

映画は観る者の自由な思考を制限する。その映像の展開で観る者の意識を吸い上げ、その世界に没入させる。

その時、観る者は自分が体験したことのない世界を味わっていることに、そこに投げだされていることに満足を覚えるものなのだと思う。

2時間という比較的長い時間、それを維持することは難しい。

だから、ストーリーの軸が大事だし、テンポがとても大事になる。

小説や、連続テレビドラマにおいて、背景となる人物群の細かい心理描写や、設定のディテールの積み重ねが物語を盛り上げていく。魂は細部に宿る。

けれど、映画でその手法を使うならば、観る者の思考は乱され、没入を拒絶する。

たぶん、監督、脚本の瀬々敬久はそこをかなり意識したのだろう。この映画はエンターテイメントとしての映画を意識した造りをしているし、かなりの高いレベルでそれを成功させていると思う。

■県警に不信感をもつ記者クラブと広報の対立、県警上層部と理想主義者の三上の対立、本庁の方を向いて仕事をする上層部と現場の刑事部との対立、三上と娘との溝、ロクヨンで人生を狂わされた捜査員、事件解決よりも組織の維持が大切な警察、そして、昭和64年に取り残されたまま生きている被害者の父親。

この細密で複雑な群像が、ロクヨンという忘れ去られた事件に引きずられるように収斂していく物語である。

当然、枝葉を切れば、そこから見えてくる景色も変わってしまうだろう。

けれど、それが映画だ。

そこを補うのは濃密であまりにも強烈な俳優陣の演技力である。

それが、思い切った剪定によるテンポの良さとあいまって、この映画を高みにへと押し上げている。

003

うっとおしい瑛太をはじめとする記者クラブの面々によるアナクロ学生闘争のような群像劇、滝藤賢一による80年代社会派映画的わかりやすい陰険さ全開のキャリア官僚、保身を強権で隠す奥田英二の刑事部長、説明すら拒む芳根 京子の親と自分への憎しみ、背中で引きこもる窪田 正孝、気弱さの演技だけで理不尽さへの反抗を読み取らせる吉岡 秀隆、ネタバレで書けないけど超絶演技を見せる緒形 直人、セリフひとつで観客を射抜く永瀬 正敏、ともかく熱いことはよくわかる佐藤 浩市。

ディテールを描かない、語らないけれども、役者の目で、魂で語らせる。

論理とか整合性とか、そういうのは成り立たないにしても、それだけで物語は説得力を持って進んでいくのだ。

001

   
■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■さて、物語である。

あの昭和64年に取り残された人がいる。

天皇崩御と大喪の礼で日本が覆われている中、あがき、もがいた過去に取らわれ続ける人がいる。

この映画が目指すのは、それをすべて清算し、その魂を救うことである。

原作では、被害者の父である雨宮とかって捜査員だった幸田が狂言誘拐をして、犯人の目崎をおびき出し、警察に容疑者として確保させるところで終わったようだ。

映画を見ていても、ああ、ここで終幕か、と確かに思った。

けれど、映画ではさらに踏み込んでいく。

組織と自分の保身に走った刑事部長によって目崎は釈放される。

ああ、よくある「世の中の不条理は変わることなく続いていく」というよくあるやつかと思いきや、第二の誘拐事件を思わせる事態になり、三上が先頭に立って事件を解決する。

ミスから事件解決の糸口を失わせ責任をなすりつけられ引きこもってしまった日吉も失った月日を取り戻し、幸田も胸を張って生きていく決意をするし、雨宮も昭和64年の呪縛から解き放たれる。三上の娘が帰ってくることはないが、夫婦のこころには希望の灯がともっている。

006

■まさに大団円、まさにカタルシス。

確かに、ベタだけれど、わたしは嫌いじゃない。

映画は、言うほどには観る者に自由を与えない。ならば、最後まで連れて行ってあげよう、という姿勢はエンターテイメントの作り手としては真摯な姿勢だと思うのだ。

しっかりと「落ち」をつくるのは、大事なことである。

けれど終盤、三上が「小さな棺」の罠で目崎をおびき出す、そのあとのシーンがいただけない。

目崎が放置されたクルマのトランクに手をかけたところで、「なぜ、トランクだとわかった?」と目崎を追求するところでカットして、捜査員たちが駆け付け、記者の秋川と目崎の娘がその後ろでたたずむシーンで終わらせるべきだった。

008

三上が目崎と乱闘になり、殴りつける、川に頭を押し付ける。

それを目崎の娘に見せつけ、目崎が逮捕される姿に悲鳴を上げさせる。

そこに何を求めるのか。

007

それは凶悪犯罪を行った鬼畜のような犯罪者に対して我々が抱く猛烈な怒り、そんな奴は殺してしまえ、その娘もひどい目に合わせてしまえ、という感情だ。

けれど、それは被害者の気持ちじゃない、われわれの心が求める制裁によるカタルシスだ。その暴力的感情は犯罪者のそれと何が違うのか。

シナリオ上、三上がわざとそれをやってしまったという悔恨を述べるシーンがあるが、この暴力シーンをカットしても話はつながるし、三上のセリフにそこまでの意識は感じられない。

人としての尊厳の一線を越えてしまう、それくらいの意味をもつシーンなのだ。

この痛快時代劇的無邪気さによって、ここまで積み上げてきた群像劇の深さが損なわれてしまう。

その意味で監督、脚本の瀬々敬久は致命的に浅い。

或いは観客をバカにしている。

「子を愛する親のお前がなぜ他人の子供を殺せるのか」

という問いに拳を使ってはいけないし、ましてやその子供を傷つけては本末転倒の自己矛盾だ。

■それでも、この映画が素晴らしい位置に保つのは何度も書くけれど役者の演技だ。

なかでも犯人の目崎を演じた緒方直人に愕然とした。

009

娘を誘拐されたと思い込み、なんとかその命を救おうと必死になる父親の顔。けれど、相手が自分の過去の犯罪に気が付いていると知ったときの目。

あの演技は異常だ。

娘を愛する心を持ちながら、他人の娘を殺してしまえる矛盾、その異常性。

あの「目」が無ければ、物語がつながらない。

観る者は、あの演技によって一瞬にして、こいつは「おかしい」と了解する。

「子を愛する親のお前がなぜ他人の子供を殺せるのか」

という問いの答えは実はすでにここで出されているのだ。

緒方直人、いかんよ、これは凄すぎる。。。

■そして主演の佐藤浩市。

「子供がいなくなる、それが親にとってどういうことか、お前ら刑事にはそんなこともわかんないのか!」

やっぱり、ここのシーンだよね。

004

前篇。

三上が雨宮宅で警察庁長官の訪問を受け入れて欲しいと依頼するシーン。

仏壇で手を合わせ、雨宮に向き直った三上が感極まって泣き崩れる。

その意味が、この後編の佐藤浩市の演技によって一気に深まる。

その後、長官訪問がキャンセルになったと伝えに来た時、雨宮は三上に「あなたは大丈夫ですか」と問う。

三上の自宅にかかってきた無言電話の主が実は雨宮で、だから三上の娘が失踪していることを知っているとにおわせるシーンだ。

そして二人でベンチに座って三上は逆に雨宮に問う。あなたはどうやって14年を過ごしてきたのか。

雨宮が脅迫電話の声の記憶を頼りに、電話帳の1ページ1ページ、1行1行をつぶしていきながら気の遠くなるような作業を続けてきたこと。

それらすべてが

「子供がいなくなる、それが親にとってどういうことか、お前ら刑事にはそんなこともわかんないのか!」

という佐藤浩市の演技に集約される。

見終わったあとに胸に残るのは、それら「親のこころ」の連なりによるなんともいえない熱いものだ。

映画は、ちょっとこれはな、という部分が例えあったとしても、いくつかのキラメくシーンがあって、その記憶がつながることで猛烈な感動を生み出すことがある。

だから、この映画はかなりの難があるけれど、凄いと言おう。

いい映画だ。

                      <2017.07.25 記>

002

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【Blu-ray】<映画>64-ロクヨン-前編/後編 豪華版Blu-rayセット


【原作】64(ロクヨン) 上下 (文春文庫)


【Blu-ray】<ドラマ>64 ロクヨン ブルーレイBOX
ピエール瀧、木村佳乃 

■STAFF■
監督  瀬々敬久
脚本  久松真一 瀬々敬久
原作  横山秀夫
音楽   村松崇継
主題歌  小田和正「風は止んだ」
撮影   斉藤幸一
美術 - 磯見俊裕
照明 - 豊見山明長
録音 - 高田伸也
編集   早野亮
制作会社  コブラピクチャーズ


■CAST■
三上家
 三上 義信 - 佐藤浩市
 三上 美那子 - 夏川結衣
 三上 あゆみ - 芳根京子
広報室
 諏訪 - 綾野剛
 蔵前 - 金井勇太
 美雲 - 榮倉奈々
ロクヨン捜査班
 松岡 勝俊 - 三浦友和
 望月 - 赤井英和
 漆原 - 菅田俊
 柿沼 - 筒井道隆
 幸田 一樹 - 吉岡秀隆
 日吉 浩一郎 - 窪田正孝
 村串 みずき - 鶴田真由
県警本部警務部
 辻内 欣司 - 椎名桔平
 赤間 - 滝藤賢一
 石井 - 菅原大吉
 二渡 真治 - 仲村トオル
県警本部刑事部
 荒木田 - 奥田瑛二
 落合 - 柄本佑
 御倉 - 小澤征悦
芦田 - 三浦誠己
 雨宮家
 雨宮 芳男 - 永瀬正敏
 雨宮 敏子 - 小橋めぐみ
 雨宮 翔子 - 平田風果
目崎家
 目崎 正人 - 緒形直人
 目崎 睦子 - 渡辺真起子
 目崎 歌澄 - 萩原みのり
 目崎 早紀 - 渡邉空美
ロクヨン捜査員の家族
 幸田 麻美 - 黒川芽以
 幸田 カイト - 佐藤優太郎
 日吉 雅恵 - 烏丸せつこ
記者クラブ
 秋川 - 瑛太
 手嶋 - 坂口健太郎
 掛井 - 坂口辰平
 髙木 まどか - 菜葉菜
その他の記者
 梓 - 嶋田久作
 山下 - 緋田康人
 佐伯 - 矢柴俊博
 宮本 - 加藤虎ノ介

 

 

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2017年7月24日 (月)

■【マンガ評】『大純情くん』、おおらかで希望に満ちた、懐かしき松本零士の世界。

『銀河鉄道999』のエッセンスはすべてここにあるんだよねえ。


大純情くん (1) (講談社漫画文庫)

■松本零士といえば、『銀河鉄道999』と『戦場まんがシリーズ』が大好きだった。

でも、小学校6年生くらいのころかな、大純情くんのなぜか3巻だけを持ってて、何度も何度も読んでた記憶があって、特に、学校で物野けじめを待っている先生の話が好きだったなあ。

いま改めて全3巻通して読んでみると、なんだろう、あんまりカッコつけていない素直な松本零士がにじみ出ていて、なんともしみじみする。

未来都市のビル群のなかで取り残されたような古い町並みが残った地域のなかの、そのなかでもさらにボロいアパートの四畳半に住む一人暮らしの中学生、物野けじめ。

そこに突如として姿を現し、金言がつまった『古代催眠術大辞典』のページを開いたまま去っていく謎の美女、島岡さん。

『大純情くん』に登場する、けじめと島岡さんは、明らかに鉄郎とメーテルだ。

この作品が書かれたのが1977年、『銀河鉄道999』と同じ年に連載開始。

どちらの構想が先なのかは知らない。

でも、話がシンプルなだけに、『大純情くん』は実に素直にぐっとくる。

後半、けじめが住む四畳半のある世界が、どういう世界の上に存在しているのかが次第に明らかになっていくのだけれど、ああ『銀河鉄道999』の構想はすでに出来上がっていたのだな、と今にして思う。

そこのスリルもいいのだけれど、一番いいのは、けじめがいろいろな不思議に遭遇しながらも、まだ世界に疑いを持っていない一巻目。

こういう昭和の心情的懐かしさにしみじみしてしまうのは、年を取った証拠かな。

■そして何より、島岡さんが開いてくれている『古代催眠術大辞典』のページにかかれている心に染みる言葉たち。

夢、人生、友情、男ということ。

これが松本零士だよね。

 

できると信じていることは

ときとしてできることがある 

できないと信じていることは

絶対にできはしない

(ナピカ・マナムーメ)

 

食えるときに 食え

なぐれるときに なぐれ

これが満足して 生涯を

終えるための基本だ

(メキシコの大山賊 エルブラント クエス クワントス 1822年没)

 

なにもせず笑う者よりも

なにかをして笑われる者のほうに

いつの日か 勝利はおとずれるものだ

これが 万世万物の真理というものだ

(藤原明衡 治歴二年 (1066)没)

 

だれにも手出しのできないところがこの世にはひとつだけある

それは人の心のなかだ 

そこはその心の持ち主の自由の天地だ

(ヘルマン・ヘッケラー/自由詩人/1774)

 

人の涙を見て わらう者は

いつか地獄で なく日がくる

人の涙を見て 心で涙をながす者は

人の涙に おくられて

やすらかに この世をさる

(B.C.1020 バクダードにておもう アラメド・アブドゥラ)

 

悔しさが男を作る 

悲しさが男を作る 

みじめさが男を作る 

復讐心が偉大な男を作り上げる 

強大な敵がお前を真の男に作り上げる

(三葉機と共に散った大ドイツ帝国不滅の飛行軍人 マンフレッド・フライヘル・フォン・リヒトホーフェン)

 

男の友情はお金では買えないものだ

男が男の血と汗と心で戦いとるものだ

そういう友情こそ 

命にもまさる とうといものであると

わたしは信ずる

わたしはそのためになら

死んでもよい

(ハンニバルとともに アルプスをこえるとちゅう死んだ勇士 レオヌス・プラクトゥルスの日記より)

 

この世に痕跡をのこして死ぬとき

人は満足して眠りにつく

しかし人生という目に見えない足跡が

いちばん とうといものだ

(即身仏となった名僧 深海山)

 

そして、

とおく 時の輪の接するところで

けじめと島岡さんは汽車に乗る。

01

            <2017.07.24記>

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KC版、3巻目巻末に収録されている短編、『秘蝶の谷』も、希望に満ちていて素晴らしくいいです。

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■【社会】『AIに聞いてみた。どうすんのよ!?ニッポン』 AIのヒントでたどり着く以外な事実。調べてみると常識が覆されて面白いね。なんか、今のニッポンって実はそんなに悪くもないのでは?

社会に関連する膨大なデータの相関をAIが分析した結果をながめる番組。

アプローチも結果も面白く、思い込みによる硬直した議論を打破する上で画期的ツールになりそうだ。

特にNHKの誘導をかわすマツコの冷静な分析が素晴らしかったけど、バナナにこだわるのはまずいって(笑) (注:バナナについては一番最後に!)

20170723hinkon14

■AIの提言がなかなか面白い。

1.健康になりたければ病院を減らせ

2.少子化を食い止めるには結婚よりもクルマを買え

3.ラブホテルが多いと女性が活躍する

4.男の人生のカギは女子中学生のぽっちゃり度

5.40代ひとり暮らしが日本を滅ぼす

それぞれに、ああそういう見方があるんだね。どうも背景にはこういうことがあって、だからこういうことの影響が大きいのか、なんて気付きがあって、あたらしい視点が誘発される。

■具体的にどういうアウトプットが見られるかといえば、下図のとおり。

例えば、「健康になりたければ病院を減らせ」というのは【病院数】が減少すると連動して変化する項目が抽出され、【65歳以上死亡者数(男)】が減り、【趣味・娯楽平均時間】が増える、という具合。

20170723hinkon15

うーん、なるほどね。

具合の悪い人のために病院を増やすという受け身の対策よりも、病院を減らすことで逆に社会に出ていく人が増えていくという今までになかった逆回転の発想。

それもありだね!

という感じ。

■その一方で、【病院数】が減少すると、【バナナの購入額】が増え、【50m走女子】のタイムがよくなる。なんて、もう、さっぱり分からないものまで出てくる。

しかも、この手の複雑系ではリンク(腕)の多いノード(結節点)、いわゆる「ハブ」がそのネットワークの重要なカギを握るものだけど、それから考えれば、【バナナの購入額】は【65歳以上死亡者数(男)】より影響力を持つらしい(笑)。

この図に相関係数をつけてもらえるといいんだけど、やっぱり複雑すぎて、全貌を正しく理解するためには表現方法を研究する必要がありそうだね。

そこがうまくできないと、【風が吹けば、桶屋が儲かる】的な理解になって、ああ、景気をよくするためには風が吹いたときに砂塵が舞うように舗装道路はやめればいいんだね、みたいな変な話になってしまうわけだ。

■それが強く出てしまったのが

【少子化を食い止めるには結婚よりもクルマを買え】

だと思う。

【少子化】減少―【工業製品付加価値】増―【高額工業製品購買額】増

ってなリンク構成だったかな。

それをもって、クルマという【高額工業製品】を買うと、【少子化】が止まる、というのはおかしいよね。

【結婚数】との相関関係がないのは、経済的余裕がない、ということだろうと想像できて、車が売れれば、経済的余裕も上がって子供を作れるようになる。

という解釈なんだけど、それってアベノミクスの思想と同じで、企業が儲かればお金が消費者に回ってきて消費が回復する、という過去の幻想にとらわれた発想でまったく説得力がない。

■だって、90年代初頭にバブル崩壊の余波が世間に流れ出し、そこから今の長期デフレにつながっているわけだけど、その間にクルマは一気にハイブリッド車が普及して、車種もセダンからミニバン、SUVに切り替わり、クルマ以外でもパソコンはものすごい勢いで普及し、ブラウン管のテレビは消え去り、携帯も一人一台の時代になって、さらにスマホにほぼ買い替えられた。

でも、デフレは変わらない。

何が起きたかと言えば、価格破壊だ。

新しく生活に入り込んできたパソコンにしても、80年代のデスクトップなんて30万円以上したよね。それが今ではかなりの性能のパソコンでも3万円で手に入る。

ハイブリッド車だって、別に500万円で買っているわけではなくて、クルマの値段は高くても200万円台という構図は変わらない。そのなかで高付加価値が進んでいるのだ。

クルマはまだ国産優位だから、シャープみたいな事態には陥らないけれど、これからEV化、自動運転化というなかで多業種や中国なんかもどんどん参加していく構図のなかで、自動車業界でのシャープが現れてきてもおかしくはない。

ようするに、今後、自動車に再び買い替えブームが訪れても、それ以外の、パソコンとかスマホみたいな【新しい何か】が我々の生活に入ってきたとしても、それによって【消費マインド】は変わらないし、【少子化】を食い止めることにもならない。

今回のAIのデータの評価にこの20年間の社会構造の変化が織り込まれている様子は無くて、それを評価分析するのは人間の仕事だ。

AIのはじき出した【構図】の裏を想像しなくてはならなくて、それを怠って、データを鵜呑みにすれば、【風が吹けば、桶屋が儲かる】のわなに容易にはまってしまうのだ。

■では、これを踏まえて、今の日本を少し眺めてみよう。(グラフはクリックして拡大してみてください。)

●まずは、生きていけないほどの極貧について。

最近、貧困化が叫ばれてるから、【餓死者数(死因:食料不足)】と【ホームレス】の推移を調べてみた。

これをみるとバブル崩壊で餓死者は4倍にはね上がり(それでも80人)、2000年くらいを頂点にして2010年にはバブル期くらいにまで低下している。

ホームレスについては、昼間に目視で調べているから実数は考えないとしても、傾向としては2003年から2017年まで5分の1ちかくまで減少している。

どうやら極貧のピークはバブル崩壊直後10年くらいにあって現在はそれが解消に向かっているようだ。

・餓死者数(死因:食料不足)推移

20170723hinkon01

(出展:厚生労働省「人口動態調査」より、こころーたすさん作成)

・ホームレス数推移

20170723hinkon02

(出展:厚生労働省「ホームレスの実態に関する全国調査結果」社会実情データ図録さん)

●次に「苦しさ」について

でも、時代の閉そく感は言われていて年間3万人の自殺者がでていて大変な事態だと言われていたが、そこはどうか。

自殺者については、1978年から1982年まで2万人くらいだったのが、1983年から1988年のバブルの時代に2万5千人近くに増加、その後1991年まで2万人近くまで低下して、1993年から徐々に増加、1998年に一気に3万3千人に跳ね上がる。その後3万人越えの高止まりが続き、2009年から低下し始め、2015年には2万4千人と、1993年あたりの低いレベルに戻った感じだ。

どんな社会でも自殺者はいると考えると、まあ通常の状態に近くなってきたと言えそうだ。

これはちょっと予想外だった。バブル崩壊と直接リンクしているわけではないし、リーマンショック直後から自殺者は安定的に減り続けている。

これって貧困の固定化っていう常識と違うよね。

・自殺者数推移

20170723hinkon03

(出展:警察庁自殺統計データより厚生労働省作成)

●で、「なんで自殺したの?」と調べてみると、どうも構造的な変化が起きているみたい。

ピークの2009年(リーマンショックまっさかり)と低下の真っ最中の2014年を比較してみる。

         2009年     2014年    差  
健康問題  15,802人   12,920人  ▼2、882人
経済問題   8,377人    4,144人  ▼4、233人
家庭問題   4,117人    3,644人  ▼  473人
勤務問題   2,528人    2,227人  ▼  301人
 

ここから見えてくるのは、全体の半数近くを占める健康問題での差は比較的少なく、圧倒的に経済問題を理由とした自殺が減少している。2014年時点でピークの頃の半分以下ということだ。

経済的に追い込まれて、っていう人はまだまだ多くて、つらい格差社会が続いているという印象は、このデータからは受け取れない。

・自殺原因推移

20170723hinkon06

(出展:警察庁自殺統計データより内閣府作成)

●景気について

じゃあ、経済の実態ってどうなのよ。

何しろ食っていけるかどうかの話だから、まずは失業率である。

バブル崩壊直後の2%ちょいから増加し始め、2003年にピークの5%越え、ITバブルで一旦下がるものの、2008年のリーマンショックで5%に戻る。

けれど、それからの回復は順調で現在の失業率は3%くらいで1988年のバブル期と同じレベルになっている。

これって自殺者の推移とピタリとあてはまる。

すごいね。

【自殺者数】と【失業率】の相関関係はかなり強いといえるだろう。

もちろん、失業率に就職活動をしていないニートは含まないけど、食っていければ自殺するほどではない、ということだろう。

・失業率推移

20170723hinkon08

(出展:IMF - World Economic Outlook Databases (2017年4月版)より、世界経済のネタ帳さん)

●で、次に生活保護受給者数を見てみる。

生活保護受給世帯は長らく60万世帯くらいで低かったけれど(ひと世帯の人数が多かったから受給人数は多かった)、景気拡大とともに1985年のバブルのピークで80万世帯くらいに拡大、バブル崩壊で増加すると思いきや、ここでも【自殺者数】、【失業率】と同じく低下に転じ、1995年頃から増加、ここから違うのは一貫して2014年まで急増が続く、というところ。

2014年には受給者の増加は止まったようで、現在は減少に転じているかもしれない。

問題はその内訳で2004年と2014年を比較すると、全体の増加率が1.6倍、高齢化世帯1.6倍、母子家庭1.2倍、障害者世帯1.3倍に対して、その他の世帯≒稼働年齢層、つまり働いている世代の家庭で3倍に膨れ上がっているということだ。

失業率は改善しているのだから、働いてはいるもののかなり収入が少ない、ということだ。

だが、それも増加率はマイナスに転じているから、定収入世帯は安定期から解消に向かいつつあると読める。

2016年の数値を見ると総数は若干増えて最高値だけれど、高齢者の増加(全体の51.3%←2014年、47.2%)が原因で、そのほかの世帯は減少している。

生活保護に関しては、経済格差とか不況の影響というよりも、高齢化による構造的問題というシンプルな構図になったようだ。

・生活保護受給者数

20170723hinkon09

20170723hinkon10

20170723hinkon11_2

20170723hinkon12_2

(出展:社会・援護局 保護課 資料H27年)

●経済指標について

アベノミクスが大好きな、GDP成長率、インフレ率、日経平均についてみてみよう。

GDP成長率は1988年のバブル最盛期に7.15%を記録、その後、0~2.5%が続き、リーマンショックで-5.4%と下げて、反動で+4%を記録したものの(あれだけ下げれば当然だよね)、その後、現在まで1%あたりをふらふらしてる。

インフレ率に関しては、1988年以降、3%を超えることはなく、2014年に瞬間的に3%を記録するが、基本ー1~1%で推移。

日経平均については、バブル崩壊以降、マクロに見れば2万円から1万円のレンジ相場で、アベノミクスで日銀が必死に買いに走ってもどうしても2万円から突き抜けることはない。アメリカのNYダウがリーマンショック後も復活して最高値を更新し続けているのとは対照的だ。

・経済成長率推移(日本、GDPベース)

20170723hinkon13_2

(出展:IMF - World Economic Outlook Databases (2017年4月版)より、世界経済のネタ帳さん)

・インフレ率推移

20170723hinkon16

(出展:IMF - World Economic Outlook Databases (2017年4月版)より、世界経済のネタ帳さん)

・日経平均株価推移(長期)

20170723hinkon07

●これをどう見るかというと、リーマンショック後の2009年から失業率も自殺数もバブル期のレベルまで一定率で回復している一方で、こういったマクロの経済指標にはそことの相関は強くない、というところだろう。

少なくとも働く世代の極めてつらい状況は、リーマンショックを最後に長いトンネルを脱した。

GDPも、デフレも、日経平均も、実は、さほど関係なくて、それなりに何とか生きていく道は開け始めているように見えるのだ。

給料は安くても、仕事さえあれば、このデフレの時代だから贅沢さえしなければ、まあまあ生きていける。

リーマンショックで膿を出し切った日本社会は低賃金、低消費に完全にシフトして安定してる。少なくとも飢え死にしたり、住む家さえないなんてことは無くなりつつある。

アベノミクスが上手くいったとか、失敗だとか、政府や偉そうなエコノミストがぐちゃぐちゃやっているあいだに、日本人はしなやかに、したたかに、時代に沿った生き方を選んびとったのだと言えるだろう。

はっきり言えば、日経平均なんてどうでもいいのだ。

むしろインフレになったら困る、余計なことをしないでくれ、というのが正直なところだろう。

●じゃあ、もともとの【出生率】と【自動車販売台数】についてみてみよう。

1970年代に2を割った【合計特殊出生率】はじりじりと下がり続け、2006年の1.26を最低値として2015年の1.45まで回復してきた。

経済的なものが理由なら最低値はタイムラグも考えれば2009年以降になるだろう。

【自動車国内販売台数】でいえば、その頂点は1990年であり、長い目で見ると今回の番組のAIの見方が、ここ10年、20年の短期的視野である可能性が見えてくる。

経済成長とか、景気ってのは出生率にはあまり関係ないのだろう。

・合計特殊出生率推移

20170723hinkon17

(出展:厚生労働省「人口動態調査」より内閣府作成)

・国内自動車生産台数推移

20170723hinkon22

(出展:日本政策投資銀行資料 2005)

20170723hinkon19

(ガベージニュースさん)

■では出生率2を達成したフランスはどうか。

フランスは1994年を変曲点に上昇に転じている。確かに1994年に経済成長率の回復があるけれど、それ以降の変動に対する相関は見られない。

・合計特殊出生率推移 日本、フランス比較

20170723hinkon24

・フランス経済成長率推移

20170723hinkon25

(出展:IMF - World Economic Outlook Databases (2017年4月版)より、世界経済のネタ帳さん)

■フランスの出生率を上げた理由が子育て世代の女性が働きやすい環境を国家を上げて徹底的に作り上げた、という話らしく、じゃあ、日本はどうなのかと調べてみれば、以下の通り。

・年齢階層別就業率(女性、日本)

20170723hinkon26

(出展:総務省統計局 )

確かに1993年には30歳になると女性の半数は職場を離れていたのだけれど、2013年には70%が働き続けている。

うちも共働きでひとりっ子。このグラフで言う2003年の世代である。

男女雇用均等法は1986年施行、1997年に一部改正して女性の休日出勤、深夜残業の規制がなくなった。

女性が働くのは当たり前であり、なんで女が会社を辞めてキャリアをあきらめなきゃいけないんだ、という意識が浸透した時代なのである。

もちろん、バブル崩壊以降の非正規雇用拡大に伴う旦那の収入減で、女性も働き続けないとやっていけないという構図もあるだろし、それが重なっての30代前半女性就業率70%なのだろう。

■「日本死ね」

じゃないけど、確かにジジババと離れて暮らす共働きでの子育ては日本ではとても難しいのは実感だ。

女房にはかなり無理させました。ごめんなさい。

少子化は、成熟した社会が女性の仕事による自己実現が当たり前になったときに絶対に起きる問題なのだ。それが避けられない社会構造の問題ならば、それを前提としたうえで社会構造の方で変わっていかなければならない。

バリバリの個人主義のフランスは85%の女性就業率なのだそうで、それで出生率2%が維持できてるフランスは本当にすばらしい。

「クルマを買いなさい」

とか、言っている場合ではないのだ。

でも、まあそれはAIのせいではなくて、読み取る側の問題だろう。

あえて突飛なアイデアを選んでみましたというのは分かるし、今回に限っては、そんなに目くじらを立てることでもないかと思う。

■出生率とか、高齢化とか、たぶんかなり重大な問題なんだけど、【今】という断面だけに意識を向けると、実はそんなに悪くない時代なんじゃないかな、と思い始めてきた。

経済ニュースばかり見てるからか、一向に出口の見えない日本経済なんてフレーズが脳みそに定着してしまっていて、今って、最悪の時代とつい思ってしまう。

でも、飢え死にする人はあんまりいないし、自殺者数も通常に戻ってきて(いや、一人でもいたら悲しいけどね)、給料は安いけど仕事はとりあえずあって、食ってはいける。

昔みたいに海外旅行行ったり、新車買ったりは出来ないけど、逆に、クルマも売っぱらって維持費もいらないし、浮いたお金でうまいもの食いに行って、それをFacebookにアップして、それでまあ満足かな。

っていう価値観だったら、別に不幸せでもないだろう。

■今回の番組で後半、集中的に取り上げたのは

【 40代ひとり暮らしが日本を滅ぼす】

という、有働アナにとっても自虐的なテーマ。

でもさ、確かに『孤独』って、ネガティブな部分もあるけど、まあ、それでいいんじゃないのかな、と思っている人に無理にあがけというのも酷な気がするよね。

上に書いたみたいに、「必死になって高い給料もらえる会社に入って、バリバリ働いて偉くなりたい」って価値観が消えてきて、「まあ、ほどほどに生きていければいいんじゃね?」となるならば、少子化や、独居老人の問題も含めて自然と解決に向かうんじゃないだろうか。

フランスみたいな国家が前面に出て引っ張るやり方もあるけど、「空気」を大事にする日本とは少し違うかもしれないし。

田舎で暮らそうとか、

シェアハウスとか、

どうも、そういう「空気」が生まれてきてるよね。

そうしたら自然と今の日本に蔓延している『孤独』も解消されていくんじゃないだろうか。

たぶん、背水の陣の地方からそれを具現化する仕組みが生まれてくるのだと思う。

もう、40代、50代で十分若いからどうぞ来てください、みたいな。

国が頑張るとしたら、そういう地方の努力の邪魔をしないで自由にやらせて、黒子に徹して支援することだと思う。

そういう意味で、この番組が地方自治体を回ってきた姿勢は素晴らしい。

こういうのは中央官庁じゃできないよ。

■あと、マツコがこれからは農業だと思うと鋭いことを言ったのには驚いたけど、ロケで全国いろいろ回って見たり話しをしたりしてるからそういうことが出てくるんだね。

今回はAIの中でのリンクの話だったけど、日本国中で、いろんなアイデアのリンクがつながると、凄いことが生まれそう。

例えば、今回NHKのAIが作ったリンクを掲示板に張って、日本全国のいろんな人が困ってることとか、それに対するアイデアとか、提示された不思議な関係性に対する実体験に基づく考察だとかが、重層的に書き込めるような仕組みが作れれば、それが思いもよらない成長をしそうだね。

なんか、ぐぐぐだと書いてしまってけど、結論としては、超弩級の可能性を秘めたプロジェクトだと思うので、NHKさん、頑張ってください。

■ところで、【ラブホテルの数】と直接の相関が気になる【バナナ購入数】だけど、調べてみたら1989年に「朝バナナダイエット」なるブームがあって、これが原因臭いね。

・バナナ購入数量推移

20170723hinkon21

(出展:総務省 家計調査)

女性が元気になる→ダイエットが気になる→バナナが売れる

ということじゃないのかな。

だから【病院数】とか【ラブホテルの数】と直接の相関が出てくる。

マツコの淫靡な想像は外れ(笑)。

調べてみると、納得のいくデータが見つかるから面白いね。普通じゃ思いつかない。

でも、バナナを売れるようにするのが大事じゃないってのは分かるよね。

結局、女性がいかに元気で楽しく暮らせる社会をつくるか、ってこと。

うーん、おっさんとしてはちょっと微妙な結論だけど、まあ、たぶん正しいんだろうね。

さっそく女房にバナナを買い与えることにしよう。

                 <2017.07.23 記>

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2017年7月21日 (金)

■【社会】上西小百合議員と笹原雄一秘書がTBSのビビット生出演。これって炎上商法に対する便乗商法だよねえ。

っていっても、見ちゃうんだけどね。

もう、

キタワァ*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(n‘∀‘)η゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!  って感じ。

20170721uenishi

■とりあえず、今回はこのツイートで炎上商法みたいだね。

浦和酷い負けかた。親善試合は遊びなのかな。
2017年Jul15日 21:01

サッカーの応援しているだけのくせに、なんかやった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ。
2017年Jul16日 20:02

■ツマンネ。

と思って、この人あんまり気にしてなかったんだけど、朝からテリー伊藤が吠えてたから、つい見ちまった。

途中から、アクシデントっぽく笹原秘書も参加して、台本通りなんだろうけど、もう二人の関係が面白くてチャンネル変えられなくなっちゃった。

TBSの思うつぼ。。。(泣)。・゚・(ノД`)

■でもやっぱ、「アホの子をみんなでいじめるの図」って楽しいよね。

まだ現役議員だから「水に落ちた犬」ではないからね。

僕らの税金で暮らしてるんだし、もともと当選2回とも比例復活だから、だれも直接上西議員を選んだわけでもない。

本来なら比例当選なんだから維新の会を除名された時点で議員辞職すべき人なんだけど、本人はまだまだ政治家気どりだからね、こういう厚顔無恥な人間をイジメるのって、ほんとに楽しい。

それをうまくショウアップしたTBSがうまい。

品性は下劣だけど。

テリー伊藤も、上西議員の品格を云々いってたけど、こんな番組で「いじめゲーム」に参加してるあなたの品性も相当に下劣だよ。それを見てこんなくだらない記事を書いてる僕もそう(笑)。

まあ、上西議員が当選しようが、落選しようが、国政には全く影響がないから、安心してみてられるし、まじめに考える話じゃない。

安心して下品を楽しめる話ではある。

みんなわかっててやってるからなあ、やっぱり日本は平和だよねえ。

 

いや、でもさ、国民ファーストの会なんてのが出来て、来年の総選挙で候補議員をかき集めるとしたら、こういう「アホの子」が山ほど当選するんだろうね。

そっちの方がこわいな。。。((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

                   <2017.07.21 記>

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