2016年12月 8日 (木)

■【絵画】ダリ展・国立新美術館。少年サルバドールの心象風景。

ダリは、どうもわざとらしくて好きになれず、いままで敬遠してたんだけど、まあ、まったく見ずに拒否るのもどうかと思い、いつものごとく展示終了間際に国立新美術館へ足を向けた。

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■やはり、予想通り、ダリは私の思い込みとは異なる人のようだ。

わたしの中の勝手なイメージでは、奇をてらい、中身に乏しく、俗物的な彼の作品をシュルレアリスムなんて呼ぶのは言語道断である、というもの。

『魔術的芸術』を読んだときにでもブルトンに植え付けられたのか、とも思うが、いやいや、そもそも、やわらかい時計とか、足の長い象とか、どうでもいいでしょ的な感覚があって、もともと肌にあわない。そこにブルトンの論だったような気がする。

で、若い頃から晩年までの作品を一挙に並べた今回の展示を体感した感想はというと、なんだ「普通の人」じゃんか、というものだ。

■若い頃は印象派の流れの上で修業を積み、そこから反抗的にピカソの後追いをし、そして独自のダリ世界にたどり着く。

彼の描く情景は確かによくわからない悪夢的世界で、意識の解釈のフィルターを感じさせる「企画力」が、かえって絵画そのものへの没入を妨げるように思われる。わたしの先入観はここでは一旦肯定される。

けれども、それらのなかで時々こころをぐいとつかむ作品があって、そこにはダリのシュルレアリスム手法であるダブルイメージとか偏執狂的批判的活動とかのイメージは描かれているのだけれども、その背景には常にスペイン、カタルーニャの荒野が広がっていて、実はそれこそがダリの本質であり、やわらかい時計も、足の長い象も単なる飾りに過ぎないのではないか、或いは傷つきやすい本質を守るための鎧なのではないか、と、そこに至るのである。

つまり、ダリの心には常に少年時代の重荷として荒野が広がっていて、それを覆い隠すためのシュルレアリスムだったのではないか、ということだ。

1931
<降りてくる夜の影>1931年、ダリ27歳

31936
<オーケストラの皮を持った3人の若いシュルレアリストの女たち>1936年、ダリ32歳

遡れば、美貌であったという妹を描いた若い頃の作品は、本来は誇らしいであろうその美貌を隠して常に後ろ姿なのである。

愛するものを直接描くことを拒否しているのか、そもそも描くことができないのか。

サルバドールという死んだ兄の名を受け継いだ少年の奥底で、いつまでも自分を認めることができないような、この絵からは、そういう荒涼とした心情がただよってくるのである。

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<巻髪の少女>1926年、ダリ22歳

■ダリは1934年に年上の人妻であったガラと結婚し、第二次大戦中にアメリカに渡る。

そして1945年、広島、長崎に原爆が投下され、科学技術が現実を追い越したことに衝撃を受ける。

それはダリにとって、シュルレアリスムの敗北であったのかもしれない。

1945
<ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌>1945年、ダリ41歳

そして、今日の一枚。

《ポルト・リガトの聖母》 1950年

キリスト教に帰依し、ガラとともにスペインに戻ったダリは、精神的支柱であるガラを中心に描いた宗教画に至る。

かつてダリを支配したギミックは影を潜め、安定と不安の精神世界が直接的に描かれている。

1950
<ポルト・リガトの聖母>1950年、ダリ46歳

この大作を、しばらくぼんやりと眺めていた。

マリア的に描かれたガラに抱かれた子供はダリ自身であるのだろう。

そしてガラの胸にも、ダリの胸にも大きく四角い窓が開いている。

これは初期の作品で背後の建物によく描き込まれていた窓と同じものなのではないか。その窓は決してぽかりと空いた穴の虚しさではなく、希望とか永遠性とか、そういう意味合いのなかでの「青空ののぞく窓」なのだ。

そうしてみたとき、ガラのこころとダリのこころは、窓を介して連続し、一体化し、永遠である。

ここにおいてやっと、われわれはダリのやすらぎを見るのだ。

                  <2016.12.8 記>

 

私が独りでいることは決してない。いつだってサルバドール・ダリといるのが習慣なんだ。信じておくれよ、それは永遠のパーティーってことなんだ ―サルバドール・ダリ

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■うれしいことに、『アンダルシアの犬』も上映されていた。

中学3年の時以来かな。

目を剃刀で切り裂くファーストシーンはやはり衝撃的。

笑ったのは、主人公が女性を襲おうとして追い詰めるシーン。彼は獣の死骸を乗せたピアノを引きずっているのだけれど、引きずっているのはそれだけでなく、キリスト教の坊さんが2人、しかも生きたまま!!これは面白い。芸術ではなく、ギャグとしてだけど。

そんな感じで映画としては、やはりいまいちだと思うが、「若さ」、という点で、やはり素晴らしい作品だと思う。

Photo_3
<映画 アンダルシアの犬>1928年 
監督ルイス・ブニュエル 脚本ルイス・ブニュエル、サルバドール・ダリ

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2016年12月 7日 (水)

■【映画評】『マダム・フローレンス! 夢見るふたり 』、魅力的な人間の魅力的な歌声は。

カーネギーホールでのクライマックスシーン。メリル・ストリープ演ずるマダム・フローレンスのあまりに破天荒な歌声に大笑いしながら、なぜか涙が頬をつたっていく。またしても、メリル・ストリープにやられてしまいました。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.91  『マダム・フローレンス! 夢見るふたり 』
           原題: FLORENCE FOSTER JENKINS
          監督:スティーヴン・フリアーズ 公開:2016年12月
       出演: メリル・ストリープ  ヒュー・グラント 他

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■ストーリー■
第二次大戦中、アメリカ、ニューヨーク。音楽を愛する老齢の資産家フローレンスは著名な音楽家のパトロンを務めながらも自らクラブを主催していたが、ある日、自らの歌声をみなさんに聞かせようと思い立ち、ボイストレーニングを始める。だが実は恐ろしいほどの音痴だったのだ。評論家を買収するなどの夫の奔走によってリサイタルは無事に成功。しかし、それに気をよくしたフローレンスはカーネギーホールで歌うと言い出した。

今なおカーネギーホールのアーカイブで人気がある素敵な女性の実話に基づく物語である。

■いやー、歌のレッスンのシーンの破壊力と言ったらない。

本人は音痴なんて思っていなくて気持ちよく歌い上げていて、教師も旦那もピアニストも、本人の前では決してそれを悟られるわけにはいかない。この笑ってはいけない、という状況が笑いを猛烈に強化する。

帰りのエレベータの中でのピアニストの思い出し笑いがまた最高にいい。

けれども、この作品は決して彼女を笑いものにしようとはしない。

なにしろ、老齢であるものの、いやそれ故に、天真爛漫な彼女はとてもキュートで、そんな彼女を守り抜きたいという旦那の気持ちは、彼女のクラブのみなさんも同じであり、大笑いしていたピアニストも、いつしかそのなかに取り込まれていく。

見ているものも、しかり。

素直で純粋なものは、あたたかく見守りたくなるものなのである。

■音痴のばあさんをいかに応援したくなるようにもっていくか。

もちろん、練りに練られたシナリオの効果もあるのだけれども、ことが理屈でなく、こころの動きの問題であるがゆえに、シナリオは大前提としての背景にしかならず、下手を打てばしらけを生んでしまう。

その意味で、メリル・ストリープの演技は神業だ。

彼女の圧倒的な純粋さをみせるだけでなく、その背後にある悲しみと、長い年月を経て、その悲しみが彼女にもたらした覚悟といったようなものがあって、それをちらりと匂わせながらの豪快な演技。

メリル・ストリープでなければ、この映画は撮れなかったかもしれない。

本当にすごい人だ。

■一方のヒュー・グラントも負けずに素晴らしい。

甲斐甲斐しく妻をサポートする献身的な夫の顔と、若い女を囲ってよろしくやっている軽い調子。その矛盾が嫌味なく同居しているこれまたとてつもなく魅力的な人物をやすやすと演じてみせるのである。

それは、少しでも違和感とか反感を覚えてしまうと引いてしまうきわめて危険な役どころであって、落ち着いて考えるとこれはすごいことなのだ。

最近、アニメとかアクションばかり見ていたせいか、こういう役者が見せる映画というものがとても新鮮で、水野晴郎ではないが、映画って本当に素晴らしいものですね。と、あらためて感じ入りました。

ところで実はこの作品、てっきりアメリカ映画かと思っていたけどイギリス映画なんですね。監督は英王室の舞台裏を描いた『クイーン』(2006)を撮ったスティーヴン・フリアーズ。御年75歳。老いてもなお、このような明るく元気な作品が撮れるのって、これまた素晴らしいことです。

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■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■さて、マダム・フローレンスの天真爛漫さの裏にあるものについて、である。

彼女は若いころに社交界で出会った男と結婚するのだけれど、そいつがプレイボーイの梅毒持ちで、それをうつされて彼女も梅毒を発症してしまう。

それからの50年、彼女はいつ死んでもおかしくない状況に置かれた。

いつも大事に持ち歩いている鞄には分厚い遺言書が入っていて、日々、いろいろなことが書き加えられていく。

いつ死んでも後悔はしない、後悔したくない、という決意。

その決意が彼女の天真爛漫さを支えている。

もちろん、彼女はそんなことを表立って主張したりしない。

けれども、人生に対する決意というものは、表ににじみ出てくるものなのだ。

そして、それが人に深みをもたらし、魅力を与えるのだ。

■カーネギーホール、本番。

もう旦那が手を回せるような舞台ではない。

社交界の大物や、彼女が招待した粗野な帰還兵で会場は埋め尽くされている。

マダムが歌いだす。

沸き起こる失笑、嘲笑。

だが、実業家が連れてきた到底芸術とは縁もゆかりもないセクシー姉さんの一喝で会場の雰囲気は一変する。

彼女を応援したい、という気持ちが沸き起こり、カーネギーホールは一体感に包まれる。

■モーツアルト魔笛「夜の女王のアリア」

アアアアアアアアアアアアー♪

心地よく飛び跳ねるソプラノへの期待は裏切られるが、そこにはあたたかさが満ちている。

 

音楽は単なる美しい音の組み合わせではない。

音とともに、喜びや、悲しみといった感情の場がそこにある、それが音楽なのである。

感情の場が人のこころを動かすのである。

芸術というものの形式にとらわれていて、それを理解できないニューヨークタイムズの記者はじつはとても不幸な人なのである。

なぜなら、彼はそこに生を感じ取ることができないからだ。一番大切なものを見失っているからだ。

 

人のこころは理屈じゃない。

人生に!

ブラーボー!!!

                      <2016.12.07 記>

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■STAFF■
監督 スティーヴン・フリアーズ
製作総指揮  キャメロン・マクラッケン 他
脚本 ニコラス・マーティン
音楽 アレクサンドル・デスプラ

■CAST■
フローレンス・フォスター・ジェンキンス - メリル・ストリープ
シンクレア・ベイフィールド - ヒュー・グラント
コズメ・マクムーン - サイモン・ヘルバーグ
キャサリン - レベッカ・ファーガソン
アグネス・スターク - ニナ・アリアンダ

 

 

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2016年12月 5日 (月)

■【書評】『人工知能の経済の未来 2030年雇用大崩壊』、井上智洋。来るべきユートピアの夢。

AIの発達により、近い将来雇用は激減する。その将来像は果たしてディストピアなのか、それとも?

■著者はマクロ経済学者であり、その視点でAIによって将来の世の中がどう変わっていくかを予測する。

昔から、マクロ経済学者なんてものは信用していない。勝手に世の中をモデル化、数式化して算数をもって予測する人たちであり、そんなもんでこの血の通ったわれわれの生活を予測できるはずがあるもんか!なんて思いを抱いていたのである。

実際、最近の日本経済を見ても、デフレターゲットなんてことをぶち上げて、日銀に国債を買い上げさせ金を市場にジャブジャブ投入するのだけれど、微塵もデフレが起きる様子もない。円安誘導も、ゼロ金利も、われわれの財布のひもを緩めることはできない。

なぜかならば、我々の財布のひもを支配しているのは、現在、そしてそこから思い描かれる金欠生活への不安であり、その不安が抜本的に解決されない限り、状況は変わるはずがないからだ。

そんな、われわれの心情をパラメーターとして組み込むことのない経済モデルに基づく計算事で、それがいくら権威的であっても、未来を読み解くことなんてできるはずもなく、やはりマクロ経済学なんてものは信用できない、ということの証左なのである。

■けれど、この著者の井上智洋は、そういった私の決めつけを完全に裏切ってくれる。

もちろんマクロ経済学者として、きわめて予測が困難な複雑系である経済というものを単純化モデル化し、我々が今直面している、AIを含む第4次産業革命が世の中に与える影響をメカニズムとして説明し、それなりの説得力を与えることに成功している。

しかしながら、井上さんの思考は、あくまでもそれをツールとして使っているに過ぎない。本質は、世の中が何で動いているのかという歴史観とでもいうようなものである。

われわれ人類が定住し、農耕を覚えてから、どれだけ文明が発達しようとも一人当たりのGDPは一定であった。それは耕地の面積や面積当たりの収穫が莫大に増えたとしても、豊になるのは一瞬で、それにつられて人口が増加し、一人当たりの食料はまた厳しくなっていく。それがあの『人口論』のマルサスが提示した「マルサスの罠」である。

だが、1800年頃にイギリスで発生した蒸気機関を核とする第一次産業革命は、そのマルサスの罠を超えた。機械への投資による生産性の拡大のスピードが豊かになることで発生する人口の増加を大きく引き離したのである。

これより、我々の文明は有史以来のパラダイムから抜け出し、新たなステージに躍り出た。これが資本主義の本質である。

それから1870年頃の内燃機関、モーターによる第二次産業革命、1995年頃のパソコンとインターネットによる第三次産業革命と続く。

だが、それらは社会変革を引き起こすほどの力はもたず、資本主義を加速させ、先進諸国が成長の限界のなかで低成長を余儀なくされる中で、資本を持つものと持たざる者による富の偏在を拡大させるに至った。

■さて、次なる第四次産業革命は2030年頃と著者は予測する。

これは、汎用AIの実用化に伴うものである。

現在のAIは特化型人工知能(特化型AI)と呼ばれるもので、SIRIにしろ、ペッパーにしろ、それは、目的を人間にインプットされ、その枠組みのなかで思考するAIである。

それに対して、人間の脳の仕組みを解明し、(そのままコピーするのではなく)、モデル化、モジュール化して、再構成することで、自分の頭で考えることのできる人工知能を作り出そうという動きが活発になっており、その目指すものを汎用人工知能(汎用AI)という。

この汎用AIは人間のような肉体を持たないがゆえに、人間とまったく同じように感情をもった存在にはなりえない。

しかしながら、人間と同じようにすべてのことがらを全体像としてとらえ、考えることができる。

特化型AIは、工場の組み立て作業だとか、受付のような単純な労働はできるけれども、いろいろな情報を集めて、まとめ、提案を行うというような、総合力を必要とする頭脳労働には対応できない。

それを可能にするのが汎用AIなのだ。

■2030年頃に汎用AIが実用化し、2045年頃にそれが社会にいきわたるとしたら、我々の社会はいったいどうなってしまうのか。

著者の予想では、現在人口の半分を占める労働人口が約一割に激減する。

いわゆる会社勤めなんてものはAIにとって代わられ、残るのは、作品や商品企画を生み出すようなクリエイティブな仕事、経営者のようなマネジメント、人間の機微に対応する能力が必要なホスピタリティ、しかも、その能力がAIに追いつくことができないようなトップクラスの人材だけとなる。

それはそうだろう。

一度導入すれば、文句も言わず、賃上げも要求せず、福利厚生もいらず、人間が一週間かかる情報分析業務も1分で仕上げ、しかも24時間働き続けることができるのだ。

どう考えても人間は労働市場から締め出される。

その結果、人々の収入は無くなり、市場には投資家と経営者と、生活保護で最低限の暮らししかできない市民が分断されて存在することとなる。

そこに映し出されるのは、今の格差なんてもんじゃない、完全な分断社会、ディストピアなのである。

■そこで著者が提案するのがベーシックインカム(BI)だ。

生活保護とか、そういう何かの基準で資金を分け与えるのではなく、金持ちにも、貧乏人にも、等しく資金を提供する。

それは、保護、というよりも、国民であることに対する「配当」である。

来るべき2045年に向け、インフレをコントロールしながら、徐々にBIの額を増やしていく。

最終的には、国民は別に働かなくても、それなりの生活はできるようになる。

という筋書きだ。

■実にいい、というより確かにBIしかない、という気がする。

これならば、勝ち組である投資家も才能のある高給取りも、高い税金はとられるけれども、その再配分、配当機能によって、市場が維持される。それが、自分の豊かな生活を支える大前提だというコンセンサスを得られれば、受け入れられるものだと思う。

そこに現れるのは、額に汗して働かなくてもいい社会だ。

20世紀初頭のフランスの思想家ジョルジュ・バタイユを引いて著者は言う。

資本主義社会は「有用性」つまり、「役に立つこと」にとりつかれてしまっている。

今、我々が勉強をするのも、労働をするのも、自分のため、というよりも、いつの間にか、「役に立つかどうか」という視点にすり替わってしまっている。

そのために、失われてしまっているものがあるだろう。(ここ20年の大学の変貌ぶりを見よ!!)

「至高性」とバタイユが呼ぶそれは、役に立つとか立たないとか、そういう次元ではなく、そのもの自体に価値があるもの、例えば、夕焼けが美しいとか、子供がかわいいとか、そう感じる瞬間に、そこにあるものである。(私が別のブログ「エロス的人間論」で「エロス」として定義したものに近いかもしれない)

そして、「有用性」を強要する資本主義は、労働力としての人間を手放すことによって、人間をそこから解放する。

それこそが、汎用AIによる第四次産業革命が生み出す社会変革なのだ。

著者の論の核心はここにある。

単なるAIの技術説明でも、経済動向予測でもない、骨太な思想的背景をもったその論が、マクロ経済学なんてもの、と嘲笑っていたわたしの偏見を打ち砕いてくれた。

この井上智洋という人、人間としてとても好きになってしまった。

■さて、問題は、そこから先にある。

中学生の頃に期待して読んだトマス・モアの「ユートピア」の世界。

そこで私の夢を打ち砕いたのは、その「ユートピア」を支えているのが奴隷であったという事実であった。

しかし、井上さんが提示する未来は「汎用AI」によって支えられている。

汎用AIに自我が生まれないという前提にたてば、傷つき、搾取されるもののいない、素晴らしい真のユートピアの実現ということになる。

新しい社会の幕開けである。

その時、人間はいったいどうなってしまうのか?そこに、どんな世界があらわれるのか?

映画『未来惑星ザルドス』でジョン・ブアマンが描いたような、退屈な生活に生きる意欲を失ってしまうような世界なのか、

あるいは、平安時代の貴族のような、源氏物語や枕草子のような、素直で人間くさい、愛すべき世界なのか、

2045年まであと30年弱。わたしは80歳に近い歳になる。

何とかそこまで生き延びて、その世界を、そしてそこにたどり着くまでの物語りに、社会の参加者として、しっかりと感じ、見て、行動していきたい。

そして、何よりもそれが、子供たちがにっこりと心から笑って暮らせる世の中であって欲しいと、切に、こころから願うのである。

                    <2016.12.5 記>

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2016年12月 3日 (土)

■【マンガ評】『この世界の片隅に』。こうの史代。 小さな記憶の欠片たちの物語。

今、読み終えました。

絶対に泣くと思ったのに、、、

しかし、・・・・なんだろう、このすっきりした気分は。

■とてもおおらかで、やさしく、かわいらしい物語がつづく。

天然で、一生懸命な、すず。

おとうさん、おかあさん、おばあちゃん、すみちゃん、鬼いちゃん。

周作さん、お義父さん、お義母さん、お義姉さん、晴美ちゃん。

隣組のみなさん。

リンさん。

哲さん。

■だが、呉への空襲がはじまっても、それでも続けてきた「普通」の生活も、爆撃が残した時限爆弾で晴美ちゃんと、そのやわらかくちいさな手を握っていた右手を失ったとき、すべてが狂い始める。

 
嘘だ。
  

目の前のやさしさも、笑顔も、すべてが歪んだ嘘にまみれたものに見え、でもそれは自分が歪んでいるからだとわかっていて、その宙ぶらりんな中に、すずは落下していく。

それでも、それでも、懸命に生きたのに、終戦の玉音放送ですべてが終わりになってしまう。

道に転がる死体には目をつぶりながら精一杯、普通を守ろうと頑張ってきたのに、今更何を言っているのか。

悔しさに震えながら泣き崩れる、そんなすずのあたまを、やさしい右手がなでてくれる。

それに、すずはふと我にかえるのだが、何が起きたのか、ここではまだ気が付かない。

■終戦のどたばたが少し落ち着きを取り戻し、すずは隣組の刈谷さんと衣服を食料に交換してもらうために遠出をする。

その帰り、行き倒れになった広島の被災者が自分の息子だと気づくことができなかったという、刈谷さんの壮絶なことばに触れたとき、すずは気づくのだ。

 
なんでうちが生き残ったんかわからんし

晴美さんを思うて泣く資格は うちにはない気がします

でもけっきょく うちの居場所は ここなんですよね

生きとろうが 死んどろうが 

もう会えん人が居って

うちしか持っとらん それの記憶がある

うちはその記憶の器として 

この世界に在り続けるしかないんですよね

晴美さんとは一緒に笑うた記憶しかない

じゃけえ 笑うたびに思い出します

たぶんずっと 何十年経っても
 

このシーンのすずの晴れやかな顔。

 
この世界で 普通で まともで居ってくれ

わしを笑うて思い出してくれ

それが出来んようなら忘れてくれ
 

哲が、すずに残していった記憶が、すずをそこに導いてくれる。

そこに差し込むさわやかな光に、震えるシーンだ。

■あのとき、泣き崩れるすずのあたまをやさしくなでたのは、失ってしまった彼女自身の右手だったのだ。

その右手は、これまで生きてきた彼女のたいせつな、ひとつひとつの思い出とともにあった存在なのだ。

軍艦を見に行きたいという晴美ちゃんの手をにぎり、

リンさんにすいかやハッカ飴の絵を描いてあげ、

小学校6年生の波間にはねるうさぎを描いたその右手は、もう、すずの右腕にはないけれど、

ずっと、そこにあり続けていたのだ。

■人は、記憶として生きている。

それは比喩でもなんでもなく、だれかの記憶として生きているものなのだ。

この世界の片隅で、周作にみつけてもらい、その記憶として、すずは立派に生きている。

それはちいさな、切れ切れの愛。

そのちいさな記憶の、ちいさな愛の重ね合わせで、この世界は出来ているのだ。

  

だれでも この世界で そうそう居場所は無うなりやせんよ

 

死んでしまえば記憶は消えるとリンさんは言ったけど、リンさん自身は消えたとしても、幼い頃、おじさんの家で出会った座敷わらしの記憶とごたまぜになりながら、すずに寄り添いながら生きている。

戦争で、いっぱい人が死んだけれど、何万人とか何十万人とか、そういう統計学から離れたところで、その亡くなったひとりひとりが、それぞれに関わり合った人たちの記憶の欠片となって、生き続けているのだ。

生きてる人も、死んでしまった人も、会うことがなってしまった人も、みんな。

                       <2016.12.3 記>

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■【映画評】『この世界の片隅に』、タンポポが、野にささやかに咲くように。

 

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2016年12月 1日 (木)

■【映画評】 『この世界の片隅に』。タンポポが、野にささやかに咲くように。

なんだろう、この、あたたかく、切なく、やりきれなく、そして大切に、いとおしく思えるこの感情は。。。

●●● 名画座 『キネマ電気羊』 ●●●
    
No.80  『この世界の片隅に』         

原作 : こうの史代  監督・脚本 : 片渕須直
公開:2016年11月  出演: のん 他

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■ストーリー■
戦争が始まる前の広島に生まれたすずは、おっとりとした、絵を書くことが好きな娘で、兄妹とともに貧しくともあたたかい家庭で育つ。そのすずも年頃になり、戦争のさなかの昭和19年。彼女を見初めたという海軍さんのもとに嫁いでいく。不器用ながらも優しい夫とその家族とともに苦しい戦時中の状況のなかで、精一杯の明るさをたもちながら暮らしていく。昭和20年になり戦局は悪化、軍港のある呉への爆撃は日増しに激しくなり、そして運命の夏がやってくる。

■こうの史代の作品は、『夕凪の街 桜の国』を読んでいて、もう映画を見る前からすずの表情をネットなどで見るだけで涙腺がつらくなってくる。

『夕凪の街』も、それに続く『桜の国』も、とてもことばにしつくせない感情をにじませる物語で、その象徴は主人公の若い女性の浮かべるやわらかい笑顔であり、『この世界の片隅に』の主人公のすずの表情に、それを見てしまう。だから、もう、見る前から泣けてしまうのだ。

そして本編を見終えたあと、やはり泣きはらした目頭を押さえながら、ああ、やはり、こうの史代の世界なのだな、と思う。

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■幼い頃の兄妹と育った日々、18でお嫁に行き、失敗ばかりで、てへっと笑って過ごす日々。空襲が激化し、それでもやわらかい笑顔で乗り切っていく。

それは野に咲くタンポポのような、高射砲の音にも機銃照射にも関係なく、花から花に渡るモンシロチョウのような、そういう健康な笑顔だ。

戦争がいいとか、悪いとか、そういう次元ではなく。

当たり前の、ごく普通の、絵が好きで、不器用で、そんなかわいくて、いとおしくて仕方ない日常。戦争が激化しようとも、食べるものがなくても、失ってはいけない当たり前のことを忘れないように、いや、失ってしまいそうだからこそ、笑顔を、笑いを絶やさずに、すずも、すずのまわりの人たちも一日いちにちを生きていく。

この映画は、ただただ、それだけを語った映画だと言っていい。

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■126分の物語りは、その前半から中盤にかけてきわめてテンポよく、しかしおだやかに流れていく。その積み重ね。見るものが、すずとその日々をいとおしく思う至福の時間。それが、何よりもかけがえのない、何よりも大切なもののなのだ、などとこの映画は声高に叫ぶことはない。

けれども、いやがおうにも見るものは昭和20年の夏を意識してしまう。

それが分かっているから、あまりにも切ないこの至福の時間がずしりとした重みをもたざるを得ない。そういう構図になっている。

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■戦争の足音は、幼馴染の姿をとって現われる。

とてつもなく明るい水兵さんである青年は、かつての甘酸っぱい想いを漂わせながら、実は死を予期している。

彼は、すずたちがなんとか気づかずにやり過ごそうとしている何かをすでに見てしまっているからだ。

そして、彼が最期にという思いで、すずに会いに来たのだと、実は幼いはるみ以外は、みんな気づいているのである。

夫である周作は、愛するすずをその男に一晩貸すという暴挙に出るのだけれど、それはその男にとって死がもうそこまで迫っているのだということ抜きに考えることはできない。それを口に出すことはなく、ぎりぎりの、薄氷を踏むような緊迫感のなかで生まれてくる、絶望的な戦地に向かう男への思いやりなのだ。

それは死と遠ざかってしまった我々にとって、なかなか理解できない心情なのだけれど、あくまでも表面的に語られるのは相変わらずの日々であって、そこが、こうの史代作品の難しさなのだと思う。

彼女の作品の登場人物は本心を隠す。

うーん、とか、あれ?とか不思議で腑に落ちないところがあって、よくよく読み返してみると、ああ、そうなのか、と、そこに隠された震えるような感情に、あらためて圧倒されるのである。

たぶん、この作品も2回、3回と見ることで、その隠された感情に触れて、ますますいとおしくなっていくのだろうと思う。

そして10年後に再び見たときに、さらに何かを見つけることになるのだろう。

それは、その人が、いったい何を見て、感じて生きてきたかによって決まってくるものだからだ。

この映画を見終わったときの、こころの動きをうまく言葉にできないという、その感覚は、きっとそれによるものなのかもしれない。

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■■■ 以下、ネタバレ注意 ■■■

■昭和20年3月。ついに本格的な空襲が始まる。

たんぽぽのように、とんぼのように、モンシロチョウのように、普通でいることを奪われる。

それを象徴するのが、すずが空襲警報のなか、逃げろ!とシラサギを追いかけ、機銃照射で殺されかけるあのシーンだ。

いままで、気が付かぬふりをして押し通してきた「普通」が、ついに最期の時を迎える。それを暗示するターニングポイントである。

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■B-29から放たれる大量の爆弾が町に降り注ぐ。

そして時限爆弾という人殺しのために計算しつくされた冷徹な暴力は、その握った手のぬくもりとともに、はるみを奪い去る。

いままで過ごしてきた、つつましやかな普通の暮らし、それを奪い取る悪魔的な暴力。

右手を失うとともに、引き裂かれたすずのこころは、アメリカを恨むのではなく、その憎しみは自分に向かう。 

 
わたしは生きていてはいけない存在なのだろうか。
 

理不尽な暴力にさらされたとき、1万メートルの上空にいる顔の見えないアメリカ人から死ね!と思われていると気づいたとき、こうの史代の登場人物は、自分の存在を許してもらえていないのだと、「気づいて」しまうのだ。

B29

■だが、そんな思いを整理する時間すら与えられずに容赦なく焼夷弾が降りそそぐ。生きる、という本能が、なんとか崩壊から守ってくれる。

そして原爆が投下され、8月15日の玉音放送を迎える。

 
なんでやめるんだ。そんなことははじめからわかっていたろうに!わたしはまだ生きとるのに!
 

それは生き残ってしまったことに対する怨嗟だ。

なぜ、無垢な、はるみちゃんが死んでわたしが生きのびているのか。

はるみが死んだ、そのときの悲しみが、いままで生き延びることで精いっぱいで抑え込まれていた感情が、ここで一気にあふれ出る。

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■終戦。町が少し落ち着きを取り戻し、周作もすずのもとに帰ってくる。

そして、やさしくすずを包むのだ。

すずは、やっとそこに「この世界の片隅で」生きていていい場所を、生きていてもいいと許してもらえる場所を見つける。

タンポポが、野の片隅でささやかに咲くように。

けれども、それはとても強い、生きる力だ。

 
人は愛されることによってはじめて地面に根をおろし、そしてはじめて、人を愛することができる。
 

そうしてふたりは、はるみの影をまとった戦災孤児を引き取り、新しい家族をこの世界の片隅で築きはじめるのだ。

 

■今に生きるわたしたちにとって、我々に死ね!と刃を向けてくる相手は、ますますその姿が見えなくなってしまっている。

けれども、それは確実に我々のささやかな生き方を圧迫しているのだ。

この映画はたしかに反戦映画であるのだけれど、もっと普遍的な大切なものについて語っているのではないだろうか。

まだまだコトバにしきれない何かがあって、きっとそれはとても大事なことなのだと思う。

読まずにいた原作を改めて読んでみよう。

そのうえで改めて考えてみたい。

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                      <2016.12.01 記>

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というわけで、原作、読みました↓

■【マンガ評】『この世界の片隅に』。こうの史代。 小さな記憶の欠片たちの物語。

これ、原作読まないと分からないところ多過ぎです。。。。

もう一回見てこようと思います!<2016.12.3記>

■STAFF■
原作 : こうの史代
監督・脚本 : 片渕須直
監督補・画面構成 : 浦谷千恵
キャラクターデザイン・作画監督 : 松原秀典
音楽 : コトリンゴ
企画 : 丸山正雄
プロデューサー: 真木太郎(GENCO)
アニメーション制作 : MAPPA
配給 : 東京テアトル

■CAST■
北條すず - のん
北條周作 - 細谷佳正
黒村晴美 - 稲葉菜月
水原哲 - 小野大輔
浦野すみ - 潘めぐみ
北條円太郎 - 牛山茂
北條サン - 新谷真弓
白木リン - 岩井七世
浦野十郎 - 小山剛志
浦野キセノ - 津田真澄
森田 イト - 京田尚子
小林の伯父 - 佐々木望
小林の伯母 - 塩田朋子
知多さん - 瀬田ひろ美
刈谷さん - たちばなことね
堂本さん - 世弥きくよ
澁谷天外(特別出演)

 

 

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2016年11月27日 (日)

■横浜市福島原発避難者いじめ事件で考える、世の中の理不尽と戦う強さについて。

この事件、子供を持つ親の身として、いろいろ考えてしまった。

毎日新聞 2016年11月24日

原発事故で福島県から横浜市に自主避難した中学1年男子生徒がいじめを受け不登校になった問題で、生徒の40代の両親が23日、報道陣の取材に初めて応じた。事態を1年以上も放置した小学校や市教育委員会の対応に「すべてが遅い。訴えを聞いてもらえず、不信感ばかりが募った」と怒りをぶつけた。

    両親は「子どもは教育を受ける権利を侵害された。友達と楽しい時間を過ごすこともできず悔しい」と訴えた。いじめを受けていた当時の様子について「自殺しても仕方のない内容で、子どもはボロボロになった」と明かした。一方で「『死んだら何も言えない。助けてくれる大人が必ずいる』との子どもの言葉を伝えたい」と子の思いを代弁した。

    同級生から「(原発事故の)賠償金があるだろ」と金銭を要求され始めたのは2014年5月。父親はいじめ防止対策推進法の条文を調べ、約150万円に上る金銭授受は「重大事態」にあたるとして「法律に基づいて対応してほしい」と学校に訴えた。しかし、学校は重大とは受け止めなかった。逆に「生徒が率先して金を払っている」という前提で話をされたこともあるといい、父親は「八方ふさがり。無力感しかなかった」と悔しさをにじませた。

    「いままでなんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだから、つらいけど、ぼくはいきるときめた」。公表された生徒の手記は小学6年だった15年7月、母親の目の前で書いたという。当時すでに不登校となっており、母親は「(ショックで)言葉が出なかった。最悪の事態を考え、常に一緒にいるようにした」と振り返った。机にあったノートをちぎり、気持ちをぶつけたため文字が乱れたという。

    両親によると生徒は原発事故後に性格や考え方に変化が表れた。「親に甘える普通の子だったのに、耐えるようになった。転入後もいろいろなことを言えなかったのだろう」と推し量る。自主避難した子どもたちへの学校の配慮は転入直後こそあったが、4年生以降はなくなったという。母親は「災害に遭った子どもの心理を調べたことがないのか、と担任に尋ねたら『全くしていない』と答えた」と肩を落とす。

    市教委は今もいじめの詳細を公表していない。母親は「被害者、加害者側の子の特定を避ける配慮でなく、問題を隠匿しようとする学校、市教委の自己保身にしか見えない」と言った。生徒は現在フリースクールに通い、休日には「自転車に乗りたい」などと話すようになったという。

    両親は我が子の言葉を紹介した。「自分と同じようにいじめを受けている人たちには、苦しくても生きてほしい、と話している」

    ■死のうと思っていたが、震災で亡くなった人のことを思い、生きようと思う、小学6年生にそんな思いまでさせたこの事件。

    いじめが始まったのは震災直後に移住した小学校3年生からだという。

    普通でない心の傷をかかえた少年が、こんな状況に置かれてどれだけつらかっただろうかと、その気持ちを推し量るとやるせない感情に襲われる。

    しかし、いじめ自体に問題があるのは確かだけれど、何より、事なかれ主義の学校と横浜市教育委員会にきわめて強い怒りを禁じえない。

    子供を学校が守らない。こんな理不尽なことがあるだろうか。

    たぶん、普通にあることなのだろう。

    世の中は理不尽にできている。

    この子の父親は、この理不尽と懸命に戦い、苦しい孤独な戦いをしてきたのだろう。

    それは子供を守り抜こうとする親の想いの強さであり、だから子供も懸命に生きたのだとおもう。

    ■けれども、圧倒的なケースにおいて、その孤独な戦いは出口のない、つらい戦いになることは想像に難くない。

    親子で懸命に理不尽と戦い、力尽きることもあるだろう。

    自分に置き換えて考えたなら、たぶん、その理不尽からさっさと逃げると思う。

    今回の父親の強さは世の中を動かすところにたどり着ようなレベルだけれども、それにはたぶん幸運も味方した部分もあるだろう。

    わたしには、勝つ自信はまったくない。

    勝つ見込みがないのならば、三十六計逃げるに如かず、ともかく逃げることだ。そこから立ち去ることだ。

    何も勝つ必要はない。

    その理不尽は決して許せないのだけれど、それで傷つくのは子供なのだから。

                                 <2016.11.27 記>

    【追記】

    横浜市のその学校への怒りがどうしてもおさえられず、それがどこの小学校で校長と当時の担任がどんな顔をしているのかを知りたくて、ネットを漁ったら、小学校の名前も校長も担任も即座に判明。

    状況からして、たぶん正解なのだろう。

    いつも自分自身で批判しているネット社会の下劣な部分に自分が取り込まれていることに気づき、だが、そこにカタルシスを感じていることにさらに驚いてしまう。

    ここで、その検索結果をさらしたい強い衝動に駆られるが、今その学校に通っている子供たちのことを考えると、さすがにそこは理性がはたらく。

    いや、ネットって本当にこわい。

    あとは「ヤンキー先生」こと義家弘介文科副大臣に任そう。何しろ横浜市教育委員会は彼の古巣なのだから。

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